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友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


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第三十三章 選ばれなかった夜

全国展開に向けた再テストの結果がまとまったのは、三月の終わりだった。

 会議室の窓から見える空は明るく、昼を過ぎても春の光が残っていた。

 葵の前には、店舗別の売上推移、再購入率、時間帯別の購入数、アンケート結果が並んでいる。

 首都圏二十店舗。三か月。

 味を変更した商品は、前回より安定して売れた。初週だけが高いのではない。二週目以降の落ち込みが小さい。

 再購入率は、当初の目標を少し上回った。駅前店舗では夕方以降が強く、住宅地では休日の午後に手に取られている。十五円の値上げによる大きな離反もなかった。

 数字だけを見れば、成功だった。

 ただし、すべての店舗で同じ結果ではない。伸びなかった場所もある。言葉が重いという感想も、少数ながら残っている。味を以前のほうが好きだったという声もある。

 それでも、全国展開を検討する条件は満たした。

「では」

 会議の前方に立つ部長が、資料を閉じた。

「全国展開へ進める方向で、経営会議へ上げます」

 葵は息を止めた。

 隣に座る石橋が、机の下で小さく拳を握る。向かいにいる開発担当者が、葵へ頷いた。営業担当も表情を緩めている。

 まだ決定ではない。経営会議。製造数。物流。全国の店舗枠。広告費。越えなければならないものは残っている。

 それでも、ここまで来た。

 葵は机の上の資料へ目を落とした。正面には青いパッケージの写真。

『迷う日にも、ひと息。』

 自分が直哉との別れの後に書いた言葉。一人で過ごす夜に考えた。

 石橋に削られた。開発と話した。店舗で試した。味が弱いと言われた。価格を上げた。量を守った。営業と衝突した。

 多くの人の手を通り、今の形になった。

 全国へ行く。その可能性が、初めて会社の正式な言葉として示された。

     *

「小野寺さん」

 部長が葵を見る。

「はい」

「ここまでの企画推進、お疲れさまでした」

「ありがとうございます」

「コピーの方向性と、商品コンセプトについては、全国展開でも中心を維持します。店舗別の補助コピーは、地域と売り場に合わせて調整します」

「はい」

「開発は、現在の味を基本に、量産時の品質安定を確認してください」

 開発担当が頷く。

「営業は、全国展開の対象店舗と初回数量を試算」

「はい」

「販促については」

 部長が一枚、別の資料を取り出した。葵は顔を上げる。

「全国展開プロジェクトを新設します」

 画面が切り替わる。

『全国販売推進チーム』

 責任者。販促。営業。開発。デザイン。広報。複数の部署から名前が並んでいる。

 葵は最初に、自分の名前を探した。

 企画担当。小野寺葵。

 確かにある。だが、一番上ではない。

 プロジェクト責任者。営業企画部、南雲由美。

 販促統括。マーケティング部、田辺。

 葵の名前は、商品企画担当として中央に置かれていた。

 中心ではある。責任者ではない。

 資料の紙の端が、指先で少し湿った。

「全国展開のプロジェクト責任者は、南雲さんにお願いします」

 部長が言った。

 会議室の端に座る女性が立ち上がる。四十代半ば。葵も顔は知っている。複数の定番商品を全国展開へ進めた経験がある人だった。

 全国の営業所との調整。物流。広告。製造ライン。大きなプロジェクトをまとめてきた人。

「南雲です」

 落ち着いた声。

「小野寺さんが育ててきた企画を、全国へ広げる役割を引き受けます」

 葵は笑顔を作り、頭を下げた。

「よろしくお願いいたします」

 声は、思ったより自然に出た。

     *

「小野寺さんには」

 部長が続ける。

「商品コンセプトとコピーの監修をお願いします。企画の原点を最も理解している担当者として、全国向けの調整へ参加してください」

「はい」

「ただし、販促全体の最終判断は南雲さんです。全国展開では、商品単体だけでなく、売り場、広告、製造、営業すべてを統合する必要があります」

「はい」

「小野寺さんには、次の商品企画も並行して担当してもらいます」

 葵は一瞬、意味を理解できなかった。

「次の企画ですか」

「はい」

「この商品だけに専任するのではなく?」

「全国展開プロジェクトには参加します。ただ、日常的な進行管理は南雲さんへ。小野寺さんには、今回の経験を次へ生かしてほしい」

 次。

 今の商品が、まだ全国へ出てもいない。その前に、次を求められる。

「わかりました」

 葵は答えた。

 会議は進んだ。経営会議へ出す資料。初回販売時期。製造テスト。冬季限定案。広報向けの説明。

 葵はメモを取り続けた。手は動いている。だが、頭の中には同じ言葉が残っていた。

 責任者は、南雲。

     *

 会議が終わった後、何人もの人から声をかけられた。

「全国、見えてきたね」

「おめでとう」

「小野寺さんの言葉、残ってよかった」

「次の商品も期待してる」

「南雲さんなら安心だよ」

 どれも悪意はない。正しい言葉だった。

 葵は一つずつ笑って返した。ありがとうございます。まだ経営会議がありますから。頑張ります。

 会議室から人が減っていく。石橋は最後まで資料をまとめていた。

 葵は自分のパソコンを閉じる。

「石橋さん。知っていましたか」

 石橋の手が止まる。

「何を」

「南雲さんが責任者になること」

「昨日、聞いた」

「私には?」

「今日の会議で正式に話すと聞いていた」

「どうして言ってくれなかったんですか」

「決定前だったから」

「昨日には決まっていたんでしょう」

「部長判断は出ていた」

「なら」

 葵の声が強くなる。

「先に知りたかったです。驚かないように」

「そうだな」

「私が責任者になる可能性は、最初からなかったんですか」

 石橋はすぐに答えなかった。その沈黙で、葵は少し理解した。

「なかったんですね」

「全国案件を初めて担当する小野寺を、責任者へ置く案は出ていなかった」

「はい」

「商品企画の中心には残る。コピーとコンセプトの監修も。次の商品も任される」

「わかっています」

「わかっています」

 葵は同じ言葉を繰り返した。

 理解している。南雲のほうが経験がある。営業調整も、物流も、大きな予算も。葵にはできないことが多い。

 それでも。

「私の商品なのに」

 小さく言葉が落ちた。

     *

 石橋は椅子へ座り直した。

「そう思うよな」

「はい。私が最初に考えた。言葉も。味を変える判断も。量を残したのも」

「うん」

「全国へ行ける数字まで持ってきた。それなのに、全国へ行く時は別の人が一番上にいる」

 石橋は否定しなかった。

「悔しいです」

「うん」

「能力が足りないと言われたみたいです」

「経験が足りないという判断だ」

「同じじゃないですか」

「少し違う」

「今の私には同じです」

 石橋は頷いた。

「今日は、同じでいい」

 葵は視線を落とす。

「南雲さんが嫌なわけではありません。むしろ、安心です」

「うん」

「だから余計に嫌です」

「自分より適任だとわかるから?」

「はい」

 葵は唇を結んだ。

「私が責任者だったら、失敗するかもしれない。全国の営業から言われたら、全部答えられない。製造のことも、広報も」

「うん」

「南雲さんならできる」

「うん」

「でも、私がやりたかった」

 その言葉を口にした途端、目に涙が浮かんだ。

     *

「小野寺」

 石橋が静かに言う。

「はい」

「今日は、納得しなくていい。ただし、明日からは役割を考えろ」

「はい」

「南雲さんの下へ入るのか。企画担当として何を守るのか。次の商品へ本当に進むのか」

「はい」

「全部嫌なら、そう言ってもいい」

 葵は顔を上げる。

「担当を外れる?」

「そこまで含めて」

「全国へ行くのに?」

「行くからこそ。自分の名前を残したいだけなら、続けるのは苦しい」

「はい」

「全国へ届けたいなら、南雲さんの力が必要になる。でも、何も言わず従う必要はない。原点を守る役割を、どこまで持てるか確認しろ」

 葵は頷いた。

「今日は帰っていい」

「仕事が」

「明日でも間に合う。誰かに話す?」

 石橋の問いに、真尋の顔が浮かんだ。

 話したい。今すぐ。会いたい。声だけではなく、顔を見て。

 自分が選ばれなかったことを話したい。悔しかったと言いたい。頑張ったのにと。

「まだ、わかりません」

 葵は答えた。

     *

 会社を出たのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。

 空はまだ完全には暗くなっていない。春の夕方。駅へ向かう人。店から出てくる人。

 葵は歩きながらスマートフォンを取り出した。真尋とのメッセージ画面。最後のやり取りは二日前。

『全国展開会議は木曜日です』

『はい』

『緊張する』

『終わったら教えてください』

 今日は木曜日。終わった。教えてと言われている。

 葵は文字を打つ。

『全国展開へ進みそうです』

 送る。考え、続ける。

『でも、責任者には選ばれませんでした』

 指が止まる。

 送るか。真尋は今日は何をしているのか。予定表では、木曜日の夜は俊介と電話だったかもしれない。あるいは大阪で会議。

 以前の葵なら、そのことを考えず電話をかけた。今は、考えすぎて何も送れなくなる。

 どちらが正しいのかわからない。

 葵は文章を消した。代わりに短く送る。

『今日、少しつらいことがありました。急ぎではありません。次に話せる時に聞いてください』

 送信。既読はつかない。

     *

 駅のホーム。電車が来る。葵は乗った。

 帰宅時間の車内は混んでいる。吊革を持ち、窓へ映る自分を見る。

 泣いてはいない。顔色も普通。会社の人に見られても、何かあったとはわからないだろう。

 スマートフォンが震えた。真尋。

『今、会議中です。九時過ぎに確認します』

 それだけ。

 電話はない。大丈夫ですか、も。何があったのですか、も。

 九時過ぎ。今は六時半。二時間半。

 葵は少し傷ついた。急ぎではないと自分で書いた。それでも、真尋なら何か言ってくれると思った。会議中でも。

 自分の言葉を優先してほしかったのかもしれない。

 葵はスマートフォンをバッグへ入れた。

     *

 最寄り駅へ着き、改札を出る。自宅までの道。

 夕食を作る気力はない。コンビニへ入る。

 弁当の棚。おにぎり。麺。サラダ。

 いつもなら、食べたいものより簡単なものを選ぶ。今日は何が食べたいのか考えた。温かいもの。少し辛いもの。

 葵はスープと、小さなご飯を選んだ。

 デザートの棚の前で立ち止まる。ケーキ。プリン。シュークリーム。

 全国展開へ進む可能性が決まった日。本来なら、お祝いしてもいい。

 責任者に選ばれなかった日でもある。喜んでいいのか。

 葵は小さなチーズケーキを一つかごへ入れた。

 真尋に祝ってもらう前に、自分で買う。

     *

 部屋へ戻る。

「ただいま」

 返事はない。照明をつけ、バッグを置き、コートを脱ぐ。

 テーブルの上には、新しい味の商品が一袋。

『迷う日にも、ひと息。』

 今日は、この言葉を見たくない。裏返す。

 スープを温める。湯気。一人で食べる。

 味はわかる。空腹だった。少しずつ体が温かくなる。

 食事を終え、チーズケーキを冷蔵庫から出した。小さな皿へ置く。ろうそくはない。

 祝う理由を言葉へする。

「全国展開へ進めそうです」

 自分の部屋で、一人で言った。

「おめでとう」

 続ける。

 恥ずかしい。泣きそうになる。

 それでも、フォークを入れた。

     *

 ケーキを半分食べたところで、スマートフォンが震えた。美月。

『会議どうだった?』

 葵は返信する。

『全国へ進めそう』

 すぐに電話がかかってきた。

「もしもし」

『おめでとう!』

 美月の明るい声。

 葵の目から、突然涙が落ちた。

『葵? 泣いてる?』

「少し」

『嬉しい?』

「嬉しい」

『何かあった?』

 葵は、責任者に南雲が選ばれたことを話した。自分は商品企画担当として残る。コピーとコンセプトの監修。次の商品も任される。

 悪い人事ではない。むしろ期待されている。それでも悔しい。

 美月は途中で慰めなかった。

『責任者、やりたかった?』

「やりたかった」

『できると思ってた?』

「今考えると、できないことが多い」

『それでも?』

「やりたかった」

『そっか』

「南雲さんのほうが向いてる。だから、自分が小さく見える」

『うん』

「私が作ったのに。全国へ行く時には、別の人の名前が一番上」

『うん』

 美月は、正しいことを言わない。葵の悔しさをそのまま聞く。

     *

『真尋さんには?』

 美月が尋ねる。

「メッセージした」

『電話は?』

「会議中。九時過ぎに確認するって」

『今何時?』

「七時半」

『待つ?』

「うん」

『私と話してていいの?』

「美月に話したかった」

 言ってから、葵は自分の言葉に驚いた。

 以前なら、真尋へ話せない代わりに美月へ話す、と思ったかもしれない。今は、美月にも話したい。

 真尋とは違う。長い付き合い。葵の失恋前も知っている。仕事で悔しがる葵を、何度も見てきた。

『真尋さんが一番じゃなくても大丈夫?』

 美月が少しからかうように聞く。

「今日は、その言い方嫌」

『ごめん』

「でも」

『うん』

「真尋に一番に話したかったわけじゃないのかもしれない。会いたかった」

『違う?』

「違う」

『どう違う?』

「顔を見て、今日の私を見てほしかった。選ばれなかったって泣く私も、全国へ行けるって喜ぶ私も」

『うん』

「頑張ったって言ってほしかった」

『言ってほしい?』

「うん」

『じゃあ、私が言っても足りない?』

 葵は考える。

「美月に言ってもらうのも嬉しい。でも、真尋にも」

『それでいいでしょう』

「一人に全部求めてない?」

『何人かに見てほしい日もあるよ。葵が頑張った日は、一人分じゃないから』

 美月の言葉に、葵は笑った。

     *

 電話を切った後、残りのケーキを食べた。真尋からは、まだ連絡がない。

 午後八時。葵はシャワーを浴びる。

 湯気の中で、会議を思い出す。南雲の名前。よろしくお願いしますと言った自分。石橋との会話。

 私は責任者をやりたかった。

 その気持ちは、消さなくていい。経験不足という判断が正しくても、悔しがっていい。

 シャワーを止め、髪を乾かし、部屋着へ着替える。

 明日の資料を確認しようとして、やめた。今日は休んでいい。

 だが、明日は南雲と初めての打ち合わせがある。逃げられない。

     *

 午後九時十二分。真尋からメッセージ。

『会議が終わりました。今から三十分なら話せます』

 葵はすぐに電話をかけようとして、止まる。

 三十分。今夜は俊介と話す予定ではなかったのか。真尋の時間。

 葵は返信する。

『電話でお願いします』

 すぐに着信。

「もしもし」

『お待たせしました』

「うん」

『何がありましたか』

 真尋の顔は画面に映らない。音声だけ。会議室か、移動中なのかもしれない。

「今、どこ?」

『会社を出たところです』

「歩いてる?」

『はい』

「寒い?」

『少し』

「部屋へ帰ってからでも」

『三十分後になります』

「うん」

『今、話したいですか』

 葵は迷う。顔を見たい。でも、これ以上待つのもつらい。

「今、話す」

『はい』

     *

「全国展開へ進めそう」

 葵が言う。

『おめでとうございます』

「ありがとう」

『正式決定は?』

「経営会議の後。でも、条件は満たした。味も、値段も。言葉も残る」

『はい』

「全部、よかった」

『はい』

「でも」

 声が詰まる。

「責任者に選ばれなかった」

 真尋はすぐに何も言わなかった。

「南雲さん。経験のある人。私は企画担当。コピーとコンセプトの監修。次の商品もやる」

『はい』

「期待されてる。わかってる」

『はい』

「でも、悔しい」

『はい』

 真尋は理由を説明しない。南雲のほうが適任だとも。葵の役割が大切だとも。

 ただ聞いている。

     *

「私の商品なのに」

 葵が言う。

『はい』

「全国へ行く時、私は一番じゃない。やりたかった。できないこと多いけど、それでも、選んでほしかった」

『はい』

「真尋」

『何ですか』

「頑張った?」

 真尋の歩く音が、一瞬止まる。

『頑張りました』

「本当に? 結果だけじゃなく?」

『はい』

「味を変えた。営業に反対された。量を残した。店舗の言葉も考えた。自分だけの商品じゃないって、受け入れようとした。全国まで来た」

『はい』

『葵は、よく頑張りました』

 その言葉で、涙が落ちた。

 待っていた。美月にも言ってもらった。自分でも言った。それでも真尋の声で聞くと、別の場所がほどける。

「会いたかった」

 葵は言った。

『はい』

「今日。電話じゃなく。顔を見てほしかった」

『私も、会えればよかったです』

「来てほしいって思った。大阪から。無理なのに」

『はい』

「俊介さんとの予定があっても、仕事があっても、今日だけは、私を選んでほしかった」

 言葉にすると、強い。真尋は黙って聞く。

     *

「でも、言わなかった」

 葵が続ける。

『はい』

「言ってもよかった?」

『会いたいとは、言ってよかったです』

「来てとは?」

『言ってもよかったです』

「来られないのに?」

『私が断ります。希望を言うことと、相手を動かすことは違います』

「うん」

『葵が、私の事情を考えて言葉を消しすぎる必要はありません』

「でも、困らせたくなかった」

『困ると思います』

「はい」

『それでも、聞きます。今日は行けません、と答えます』

「うん」

『葵は傷つく。それでも、関係は終わりません』

「うん」

 秋田で決めたこと。反対されても。会えなくても。大切にされていないと決めつけない。

     *

『今夜は、どう過ごしましたか』

 真尋が尋ねる。

「コンビニでスープ買った。ケーキも」

『お祝い?』

「うん」

『よかったです』

「美月に話した。泣いた。でも、ご飯食べた。シャワー浴びた。明日の準備はしてない」

『はい』

「休んだ。真尋に会えなくても、今日を過ごした」

 葵は自分で言った。言いながら、驚く。

『はい』

「前なら、真尋から連絡来るまで何もできなかったかも。美月にも話さなかった。ケーキも買わなかった」

『はい』

「全国へ進むことまで、嬉しくないって思ったかもしれない」

『はい』

「今日は、悔しいけど、嬉しい。両方ある」

『はい』

     *

『葵』

「何?」

『今日の葵を、私は見られませんでした』

「うん」

『でも、今、聞いています。会社で選ばれなかった時の顔も』

「見てない」

『想像ではなく、言葉で知っています。一人でケーキを買ったことも。美月へ話したことも。私の連絡を待ちながら、生活を止めなかったことも』

「うん」

『見ていなかった時間を、今教えてもらっています』

 葵は涙を拭う。

「それで、足りる?」

『今夜は。次に会った時、最初から聞かせてください』

「会議のこと?」

『はい』

「資料も?」

『見せてください』

「全部?」

『葵が見せたいものを。私が評価するためではなく、葵が歩いた時間を知るために』

 胸に、静かな温かさが広がる。

     *

「次、いつ会える?」

 葵が尋ねる。

『予定を確認します』

「今日決めたい」

 真尋の歩く音が止まる。

『来週の日曜日、東京へ戻ります』

「何時?」

『午後三時まで母と』

「その後」

『俊介との予定を確認していません』

 葵の胸が痛む。

「先に私と決めて」

 言ってから、自分でも強いと思う。真尋はすぐに答えない。

「ごめん」

『取り消しますか』

「取り消さない。今日のこと、会って話したい。でも、俊介さんの予定もある」

『はい』

「来週の日曜日、午後五時から二時間」

『俊介へ確認してからではなく?』

「真尋の予定でしょう。一人で決めていい時間?」

『午後五時以降は、まだ誰とも約束していません』

「なら、私と」

 真尋が息を吐く。

『わかりました』

「いいの?」

『はい』

「俊介さんが会いたいと言ったら?」

『別の日を相談します。ただし、葵が今日つらかったから優先したわけではありません』

「え?」

『来週、葵と会うことを、今選びました。毎回、つらい人を最優先にはしません』

「うん」

『でも、今日は葵との時間を決めたいと思いました』

「ありがとう」

     *

 電話は三十分を少し過ぎた。

 真尋が部屋へ着く。玄関を開ける音。

『ただいま』

 遠くで真尋の声が聞こえる。大阪の部屋。葵とは別の生活。

「お帰り」

 葵が言う。

『はい』

「もう切る?」

『今日は』

「うん」

『次は日曜日。それまでに、南雲さんとの話がありますね』

「明日。怖い」

『はい』

「悔しい顔を出しそう」

『出してもよいのでは』

「仕事なのに?」

『不満をぶつけるのではなく、自分が責任者を望んでいたことは、伝えてよいと思います』

「南雲さんに? 困らせる」

『可能性はあります。でも、葵の希望を知らないまま、役割だけ決めるより。今後の成長にも必要です』

「話す。おやすみ」

『おやすみなさい』

 電話が切れる。

     *

 部屋が静かになる。真尋の声がなくなる。

 それでも、葵はすぐに寂しさへ飲まれなかった。

 来週の日曜日。会う時間が決まった。それまでは、自分の生活。

 明日、南雲と話す。全国展開チームで、自分の役割を確認する。

 責任者に選ばれなかったことを、ただ耐えるのではなく。今の自分に何が足りないのか。何を任せてもらえるのか。何を守るのか。

 聞く。

     *

 翌朝、葵はいつもより早く会社へ着いた。

 会議室の予約を確認する。午前十時、南雲との初回打ち合わせ。

 石橋も参加する予定だったが、葵は南雲と二人で話す時間を先に取りたいと伝えた。石橋は、

『最初の三十分は二人で。後半から入る』

 と返した。

 葵は資料を準備する。商品コンセプト。購入者の声。コピーの原則。変更してよい部分。守りたい部分。

 そして、自分の希望。

 責任者をやりたかった。それを、どう伝えるか。

     *

 午前十時。南雲が会議室へ入ってきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

 二人は向かい合って座る。南雲は資料を机へ置いた。

「全国展開、おめでとうございます」

「まだ経営会議前です」

「ほぼ進むでしょう」

「ありがとうございます」

「最初に、小野寺さんの考えを聞きたいです」

 南雲はすぐに進行を始めた。

「商品コンセプトで、絶対に変えたくないもの。変えてもよいもの。全国展開で懸念していること。私に求めること」

 質問が明確だった。

 葵は資料を開きながら、胸の奥が少しざわつく。

 南雲は慣れている。責任者らしい。自分より。

「その前に、話してもよいですか」

 葵が言う。

「もちろんです」

「私は、全国展開の責任者をやりたかったです」

 南雲の表情は変わらない。

「はい」

「昨日、南雲さんの名前を見て、悔しかったです。南雲さんが適任だと思います。経験も、能力も」

「はい」

「それでも、自分が選ばれたかった」

 葵は言い切った。言い終えてから、膝の上で手を握っていることに気づく。

     *

「話してくださり、ありがとうございます」

 南雲が答える。

「不快ですか」

「いいえ」

「やりにくいと思いませんか」

「少し」

 南雲は正直に言った。

「でも、言わずに納得した顔をされるほうがやりにくいです」

「はい」

「小野寺さんが、この商品を自分の仕事だと思っていることは理解しています。全国展開でも、中心人物です」

「でも、責任者ではない。理由を聞いても?」

「私が決めた人事ではありません。ただ、部長からは、全国案件の経験と、複数部署の調整力を重視したと聞いています」

「はい」

「小野寺さんが劣っているというより、今回の責任範囲が商品企画を越えるためです」

 わかっていた答え。それでも、本人の口から聞く。

「私は、経験を積めば、次は責任者になれますか」

 葵が尋ねる。

「可能性はあります」

「何が必要ですか」

 南雲は考える。

「商品への思いを、ほかの部署が行動できる言葉へ変える力。反対意見へ、正しさだけで返さないこと。予算と納期の中で、何を諦めるか決めること。自分の案が通らない時にも、プロジェクト全体を止めないこと」

「はい」

「そして」

 南雲が葵を見る。

「自分で全部やらないこと」

 その言葉に、真尋の姿が重なった。任せる側の孤独。手を離れた言葉。

「私、手を離すのが苦手です」

「知っています」

「なぜ?」

「昨日までの資料を読みました。量を減らす案へ強く反対し、価格を上げた。味の変更は受け入れた。店舗別コピーも」

「はい」

「何を守り、何を変えるか考えている。苦手でも、できないわけではありません」

     *

「南雲さんは、この商品の言葉をどう思いますか」

 葵が尋ねる。

「最初は、少し重いと思いました。全国向きではないとも」

「はい」

「でも、購入者の声を読みました。答えを出した後にも迷ってよい、という受け取り方に価値があると思いました。だから、正面の言葉は残します」

 葵の肩から、少し力が抜ける。

「営業から変更案が出ても?」

「数字と目的を見ます。残すことが目的ではありません。価値が届くなら残す。別の表現のほうが届く地域では、補助コピーを変える」

「はい」

「小野寺さんと意見が違う時もあると思います。その時は、話します」

「はい」

「最終判断は私です」

 はっきり言われる。胸が痛む。

「わかりました」

「納得できなくても?」

「反対します。でも、決まった後に仕事を止めません」

 南雲が小さく頷いた。

「それを期待しています」

     *

 打ち合わせの後半から石橋が入った。葵と南雲が整理した役割を確認する。

 南雲は、全体進行、予算、営業、製造、広報、そして最終判断。

 葵は、商品コンセプト、コピー監修、購入者の声の分析、開発との味調整、新商品企画。

「小野寺」

 石橋が尋ねる。

「この役割で進められるか」

 葵は資料を見る。一番上ではない。だが、中心から外されたわけでもない。

「進めます。ただ」

「何だ」

「次の全国案件では、責任者候補になれる経験を積みたいです」

 石橋は吹き出した。

「そのための次の商品だ」

「はい」

「南雲さん」

 葵は向かいの女性を見る。

「今回、教えてください」

「必要なことは」

「全部ではなく、責任者が何を見て、何を捨てるのか」

 南雲が頷く。

「わかりました」

     *

 昼休み。葵は会社近くの公園へ出て、ベンチへ座った。

 昨日ほど苦しくない。責任者になれなかった事実は変わらない。悔しい。

 それでも、役割が見えた。次へ進むために、見るものも。

 葵は真尋へメッセージを送った。

『南雲さんに、責任者をやりたかったと話しました』

 すぐに既読はつかない。仕事中。

 葵は続ける。

『悔しいままですが、全国展開チームへ残ります。次は責任者候補になれるよう、経験を積みます』

 送る。返事を待たず、スマートフォンをバッグへ入れた。

 午後の仕事へ戻る。

     *

 真尋から返事が届いたのは、午後五時過ぎだった。

『話せたのですね』

『はい』

『南雲さんは?』

『聞いてくれました。私に足りないものも』

『はい』

『悔しい。でも、頑張る』

 真尋から少しして。

『今日の葵も、見ています』

 短い言葉。葵は画面を見つめた。

 昨日は、見てもらえなかったと思った。今は、離れた場所からでも、伝えれば見てもらえる。

 ただし、真尋がすべての瞬間を見ているわけではない。

 会議室で話したのは、葵。南雲へ悔しさを伝えたのも。役割を受けたのも。

 真尋が背中を押したからだけではない。昨夜、美月と話した。石橋から言われた。自分で眠り、朝起き、会社へ来た。

 多くのものが重なっている。

 葵は返信する。

『次に会った時、最初から話します』

『聞きます』

     *

 全国展開プロジェクトが始まると、葵の日々は急に忙しくなった。

 全国の地域別データ。初回製造数。広告案。ウェブページ。店頭什器。広報向けの商品説明。冬季限定版。海外原料の調達。

 一つの変更が、別の部署へ影響する。会議が増える。

 南雲から質問が届く。

『この言葉の対象は、働く女性に限定しますか』

『いいえ』

『では、男性や高齢者にも届く説明が必要です。介護中の人、進路を決めた学生、退職後の人。具体例を広げてください』

 葵は購入者アンケートを読み直した。

 自分の失恋から生まれた言葉。だが、今は失恋だけではない。仕事。家族。進路。介護。選んだ後の迷い。

 葵は説明資料を書き直した。

     *

 次の週、広告会社から商品紹介の映像案が出された。

 若い女性が残業後のオフィスで商品を食べる。画面に、

『迷う日にも、ひと息。』

 最後に、翌朝元気に出勤する。

 葵は違和感を持った。

「最後の笑顔、必要ですか」

 会議で尋ねる。広告担当が答える。

「商品を食べた後の変化を見せたいので。前向きになった印象」

「この商品は、前向きにするものではありません」

 会議室が静かになる。南雲が葵を見た。

「小野寺さん、説明を」

「はい」

 葵は購入者の声を示す。

 食べても問題は解決しない。決断が正しかったと確信するわけでも。ただ、少し休めた。眠れた。考える時間を持てた。

「翌朝元気になる必要はありません。同じ迷いを持ったままでも、商品を食べた時間が休息になればよい」

 広告担当が首を傾げる。

「映像として、変化が弱くなります。商品効果が伝わりにくい」

「効果を大きく見せる商品ではありません」

「でも、販売のためには」

 意見がぶつかる。

 以前の葵なら、自分の意図が理解されないことへ感情的になったかもしれない。

 今は、南雲が何をするかを見た。南雲は黙って資料を見ている。葵へ助け舟を出さない。

 自分で説明する場なのだとわかる。

     *

「最後の場面を、元気に出勤ではなく」

 葵は考えながら言う。

「目覚ましを止め、少しだけ窓を開ける場面にするのはどうですか」

 広告担当が見る。

「問題は解決していない」

「はい。でも、自分で朝を始める。商品のおかげで人生が変わったのではなく、休んだ後、自分の生活へ戻る」

 南雲が口を開く。

「その案で絵コンテを作れますか」

 広告担当は考える。

「一度、作ります」

「お願いします」

 葵の案がそのまま通ったわけではない。だが、中心は伝えられた。

     *

 会議が終わった後、南雲が言った。

「今の説明は良かったです」

「ありがとうございます」

「最初に『必要ありません』で終わらなかった。代案を出した。責任者に必要な力の一つです」

 葵の胸が熱くなる。

「メモします」

「しなくていいです」

 南雲が笑う。

「次もやってください」

「はい」

     *

 その夜、葵は真尋へ話したくなった。広告会議。自分で代案を出したこと。南雲に褒められたこと。

 すぐに電話をかけたい。だが真尋は、部長就任の準備で忙しい。今夜は俊介との長い電話の日だと聞いている。

 葵はメッセージ画面を開く。

『今日、広告案へ反対しました』

 送る。続ける。

『代案も出せました。南雲さんに、責任者に必要な力の一つだと言われました』

 送信。

 真尋から返事が来ない。既読も。

 葵はスマートフォンを置いた。

 会いたい。見てほしい。今日の自分を。

 だが、今日の自分は、真尋が見なくても存在している。

 葵はノートを開いた。会議で話した内容を書き残す。何が通ったか。何が変わったか。自分が何を怖がったか。次に同じ場面が来た時、どうするか。

 真尋へ見せるためだけではない。自分の仕事の記録。

     *

 午後十一時近く、真尋から返事。

『代案まで出せたのですね』

『はい』

『よく頑張りました』

 葵は画面を見る。

 嬉しい。だが、以前ほど、その言葉だけで一日が完成する感じはしない。

 すでに自分で記録した。会議で話した。南雲からも評価された。真尋の言葉は、その上へ重なる。

 葵は返信する。

『ありがとうございます。会った時、絵コンテも見てください』

『はい』

     *

 約束の日曜日。葵は待ち合わせの三十分前に着いた。

 駅近くのカフェ。窓側の席。

 バッグには資料。全国展開会議。南雲との役割確認。広告案。試作品。ノート。

 見せたいものを入れすぎて、バッグが重い。

 真尋から、

『電車が五分遅れています』

 と連絡が来る。

『はい』

 葵は待つ。以前なら、五分でも不安になった。今日は資料を開き、順番を考える。

 最初に、選ばれなかった会議。次に、南雲との話。広告案。最後に、全国展開の予定。

 真尋へ褒めてもらうためではない。自分がどのように歩いたか、知ってほしい。

     *

 真尋が店へ入ってくる。仕事用ではない服。少し疲れた顔。葵を見つけ、席へ来る。

「お待たせしました」

「五分」

「はい」

「大丈夫」

 二人は向かい合って座り、飲み物を注文した。

 真尋が葵のバッグを見る。

「多いですね」

「見てほしいもの。全部聞いて」

「二時間で?」

「足りない?」

「優先順位を」

 葵の口元が緩んだ。

「仕事の人」

「はい」

     *

 飲み物が届く。葵は最初の資料を出した。

「全国展開が見えた会議。ここに南雲さんの名前。私の名前はここ」

「はい」

「この時、選ばれなかったって思った」

 真尋は資料を見る。すぐに評価しない。

「どう感じましたか」

「悔しい。小さくなった気がした。私の商品なのにって」

「はい」

「でも、南雲さんのほうが適任。それも嫌だった」

「はい」

 葵は石橋との話も伝えた。家でケーキを買ったこと。美月へ電話したこと。真尋を待ったこと。それでも食事をして、風呂へ入ったこと。

「真尋に見てもらえなくても、私はその夜を過ごした。でも、見てほしかった」

「今、見ています」

 真尋が言う。

     *

 葵は南雲との打ち合わせの資料を出す。

「責任者をやりたかったって言った。困らせたと思う。でも、聞いてくれた」

「はい」

「私に足りないもの。責任者が何を捨てるか決める力。自分の案が通らなくても、全体を止めないこと。全部やらないこと」

 真尋は思わず笑った。

「私にも必要です」

「次は、責任者候補になりたいって言った。言えた」

「よく言えましたね」

 葵の目が熱くなる。

「褒めてる?」

「はい」

「仕事として?」

「葵を大切に思う人として」

 その言葉が、静かに届く。

     *

 次に広告の絵コンテを見せる。

 最初の案。残業後に商品を食べ、翌朝元気に出勤。

 変更案。夜、商品を食べる。問題は解決しない。翌朝、目覚ましを止める。窓を少し開ける。外の光。それだけ。

「どう思いますか」

 葵が尋ねる。真尋は絵コンテを何度も見た。

「私は、変更後が好きです」

「うん。理由は?」

「商品が人を変えたように見えないので。自分で朝を始める」

「うん」

「葵らしいです」

「私らしい?」

「はい。前なら、誰かに朝を始めてもらおうとしていた葵が」

 葵は少し顔をしかめる。

「言い方」

「はい。でも」

 真尋は続ける。

「今は、休んだ後に自分で窓を開ける人を描いた。葵自身が変わったから、出せた案だと思います」

 葵は資料へ目を落とす。

「真尋に、そこを見てほしかった。結果じゃなく。私が一人で考えたこと。南雲さんへ話したこと。会議で反対したこと」

「はい」

「見て」

「見ています」

     *

 二時間は、すぐに過ぎた。すべての資料は見られなかった。

 冬季限定案。次の商品企画。全国展開の詳細。残っている。

「時間です」

 真尋が時計を見る。

「もう?」

「はい」

「まだある」

「次に」

「いつ?」

「水曜日に予定を確認します」

「今日決めたい」

 葵は言ってから、真尋の顔を見た。疲れている。母との昼食。移動。この後、俊介と会う可能性もある。

「でも、今日はいい。水曜日」

「はい」

「次に会えるまで、資料は私が持つ。仕事を進める。真尋に見せるためだけじゃなく」

「はい」

「でも、また見てほしい」

「もちろんです」

     *

 店を出て、駅まで歩く。春の風。人が多い。

 葵は真尋の隣を歩く。

 以前なら、別れる時間を延ばす理由を探した。今日は、仕事へ戻るわけではない。自宅へ帰る。明日の準備。全国展開チーム。次の商品企画。

「真尋。会いたい日に会えないの、まだ嫌」

「はい」

「これからも、ある?」

「あります」

「うん」

「葵が忙しくて会えない日も。俊介との予定がある日も。仕事も。私自身が一人でいたい日も」

「うん」

「それでも、会いたいって言っていい?」

「はい」

「来てって言っても?」

「はい」

「断られても?」

「関係は終わりません」

「うん」

     *

 改札前。二人は立ち止まる。

「また会いたくなったら、連絡する」

 葵が言う。

「はい」

「すぐ会えない時もある。次に話せる日を決める。それまでは」

 葵は考える。

「私の生活をする」

 真尋の表情が柔らかくなる。

「はい」

「真尋も」

「私もです」

     *

 葵は電車へ乗った。席には座れない。吊革を持つ。窓に映る自分。

 バッグはまだ重い。見せられなかった資料が入っている。

 だが、全部を一度に見せなくてもいい。次がある。

 真尋に見てもらわなかった部分も、自分の仕事として残っている。

     *

 自宅へ戻る。

「ただいま」

 部屋は静か。葵はバッグを置き、資料を机へ並べた。

 今日、真尋へ見せたもの。まだ見せていないもの。分ける必要はない。すべて自分の仕事。

 葵は新しいノートを開いた。表紙には何も書かれていない。

 一ページ目。

『全国展開までに、自分で決めたこと』

 と書く。その下へ。

『味を変えた』

『価格を上げた』

『量を残した』

『言葉の中心を説明した』

『責任者をやりたかったと伝えた』

『選ばれなくても、プロジェクトへ残った』

『広告案へ反対し、代案を出した』

 最後に。

『真尋が見ていない日にも、仕事をした』

 書いてから、考える。

『見ていなくても進めた』

『あとから、見てほしいと言えた』

     *

 スマートフォンへ、真尋からメッセージが届く。

『今日は、見せてくださりありがとうございました』

 葵は返信する。

『まだ半分』

『はい』

『次も聞いて』

『聞きます』

 その下に、

『今日の葵を見られてよかったです』

 と届く。

 葵は画面を胸へ当てなかった。以前なら、そうしたかもしれない。

 代わりに、ノートの横へスマートフォンを置いた。

 言葉は嬉しい。それでも、今日の自分が存在する証拠は、真尋のメッセージだけではない。

 資料。会議。南雲との約束。自分で書いたノート。明日へ続く仕事。

     *

 葵は夕食を作った。簡単な炒め物。味噌汁。ご飯。一人分。

 食べる。食器を洗う。明日の服を用意する。資料をバッグへ戻す。

 見せるためではなく、使うために。

     *

 眠る前、青いパッケージを一つ手に取った。

『迷う日にも、ひと息。』

 責任者に選ばれなかった。それでもプロジェクトへ残ると決めた。

 正しいかは、まだわからない。後で、責任者を任されなかったことが良かったと思うかもしれない。悔しさが続くかもしれない。途中で担当を外れたいと思う可能性もある。

 決めた後にも迷う。

 自分が作った言葉が、今の自分へ戻ってくる。

 葵は袋を開け、一つ食べた。

 変わった味。最初より香りが強い。自分だけでは作れなかった味。全国へ届けるために、ほかの人の手が入った商品。

 それでも、自分が始めた商品。

     *

 真尋に会いたかった夜。会えなかった。

 それでも食事をした。美月へ話した。眠った。翌朝、会社へ行った。南雲へ悔しさを伝えた。仕事を続けると決めた。

 その姿を、後から真尋に見せた。

 真尋が見ていない時間にも、葵は葵だった。

 それが、少し嬉しかった。

     *

 葵は照明を消した。部屋が暗くなる。

 次に真尋へ会える日は、まだ決まっていない。水曜日に確認する。

 それまでは、仕事をする。休む。美月に会う。家族へ連絡する。一人で食事をする。

 寂しい日は、寂しいと言う。会いたい時は、会いたいと伝える。

 すぐに会えなくても、自分の生活を止めない。

     *

 真尋に見てほしい。

 その気持ちは、消さなくていい。

 誰にも見られなくても頑張れる人になることと、誰かに見てほしいと思わないことは違う。

 葵は、一人で歩ける。それでも、歩いた道を大切な人へ知ってほしい。

 褒められるためだけではなく、自分がどこを通ってきたか、共有するために。

 名前のない場所へ戻った時、以前と同じ葵ではないと伝えるために。

 真尋も、以前と同じではない。だから、また知り直す。

 その日まで、自分の生活を進める。

 葵は目を閉じた。

 明日は、全国展開の広告会議。責任者ではない。だが、自分の言葉で話す役割がある。

 それで十分だとは、まだ思えない。

 それでも、今の場所から始める。

 選ばれなかった夜を、終わりにはしないために。


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