↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/46

第三十二章 手を離れた言葉

葵から届いた新しい試作品は、以前のものより少し香りが強かった。

 封を開けた瞬間、甘さの前に柑橘の匂いが立つ。口へ入れると、最初に軽い酸味があり、その後からやわらかな甘さが広がった。

 量は変わっていない。価格は十五円上がる。正面の言葉も、そのまま残っている。

『迷う日にも、ひと息。』

 真尋は大阪の部屋で、一つ目をゆっくり食べた。

 以前の味より輪郭がある。もう一度食べたいと思うかと聞かれれば、今のほうが答えやすい。

 ただ、葵が最初に作った商品の印象とは少し違う。

 前の味は、目立たなかった。甘さも香りも控えめで、言葉の横へ静かに置かれていた。

 今の味は、商品自身が前へ出てくる。言葉を読まなくても、味だけで記憶へ残ろうとしている。

 それが、良い変化なのだと思う。

 同時に、少し寂しくもある。

 真尋は二つ目へ手を伸ばさず、袋を閉じた。

 葵へ感想を送る前に、言葉を考える。

『前より味がはっきりしました』

 仕事の評価に見える。消す。

『おいしくなりました』

 以前がおいしくなかったように聞こえる。消す。

 考え、送った。

『言葉だけでなく、味でももう一度手に取りたくなる商品になったと思います』

 数分後、葵から返事が来た。

『それ、褒めてる?』

『はい』

『前のは、言葉だけ?』

 真尋は画面を見る。

 葵が最も気にしている部分を、正確に刺激してしまった。指が一度、止まる。

『前の商品は、言葉が入口になっていました』

『今は?』

『味から入る人も増えると思います』

『言葉が弱くなった?』

『違います』

『でも、味が強くなった』

『はい』

『私の商品じゃなくなってきた気がする』

 真尋はすぐに返さなかった。

 今夜、電話の予定はない。だが、短い言葉では終わらない内容だとわかる。

『今日、話しますか』

『真尋は仕事?』

『七時半には帰ります』

『九時から』

『はい』

 話す時間を決める。

     *

 その日の午前、真尋は山岸が作成した人員評価の資料を確認していた。

 課長候補としての研修が始まってから、山岸は以前より多くの判断を任されている。相談窓口の運用。研修日程。人員配置案。軽微な決裁。

 失敗もある。だが、真尋が修正しなくても、自分で気づく場面が増えていた。

 今回の資料には、福岡の小田についての評価が書かれている。

『一次判断を担えるようになった。説明資料の作成にも改善が見られる。一方、判断へ時間がかかり、周囲への確認が多い』

 真尋は最後の一文へ印をつけた。

「山岸さん。小田さんの確認が多いことを、課題へ入れた理由は?」

「判断が遅れるからです。以前、中原さんなら一日で終わった案件に、二日かかっています」

「でも、期限には間に合っています」

「はい」

「確認の相手は?」

「福岡責任者と森田さん」

「不要な確認ですか」

 山岸は資料を見る。

「すべてではありません。自分で決められる内容も聞いています」

「本人へ確認しましたか」

「まだ」

「なぜ確認が多いのか」

「自信がないからだと思いました」

「思った?」

 真尋の問いに、山岸が少し口を閉じる。

「本人へ聞きます。評価を書く前に」

 山岸は資料を引き寄せた。

「水口さんなら、以前はどうしました?」

「確認が多いことを課題へ入れました。理由も、自信不足と決めたと思います」

「同じですね」

「はい」

「今は、聞く?」

「本人にしかわからないので」

 山岸は考え、頷いた。

「今日、話します」

     *

 午後、小田とのオンライン面談へ山岸が入った。

 真尋は参加しない。評価する相手との話は、山岸自身が行う。

 一時間後、山岸が戻ってくる。

「確認が多い理由、違いました」

「何でした?」

「自信がない部分もあります。でも、福岡責任者と森田さんの判断基準が違うので、両方へ確認していました。どちらへ従えばよいかわからなかった」

「体制の問題ですね。小田さん個人の課題だけではありません」

 山岸は評価資料を開き直す。

「書き換えます」

「どう変えますか」

「小田さんの判断速度ではなく、判断経路の整理が必要。本人には、一次判断の範囲を明確に伝える。森田さんと福岡責任者の役割も分けます」

「お願いします」

 山岸は自分で修正を始めた。真尋が文章を直す必要はない。

     *

 昼休み、真尋は久しぶりに一人で商店街を歩いた。

 花屋の前には、色の濃い花が並んでいる。津田は客と話していた。真尋を見ると、軽く手を上げる。今日は立ち止まらず、頭だけ下げた。

 パン屋へ入り、スープと小さなサンドイッチを買って席へ座る。

 葵の新しい試作品を、もう一つバッグから取り出した。

 仕事中に食べるために持ってきたわけではない。朝、一つだけでは感想が偏ると思い、無意識に入れた。

 商品評価。葵の仕事。友人としての感情。

 どこまで分ければよいのか。

 真尋はパッケージを見る。青い色。

『迷う日にも、ひと息。』

 言葉は変わっていない。それでも、中身が変わることで、受け取る印象は違う。

 関係も同じだろうか。約束の言葉が同じでも、互いの生活が変われば意味は変わる。

 名前のない場所。

 秋田で決めた時には、二人が関係を失わないための言葉だった。今は、葵の仕事が広がり、真尋が部長になる中で、互いの変化を受け取るための言葉になっている。

 言葉を守ることは、形を変えないことではない。だが、変えすぎれば中心が消える。

 どこまでが中心なのか。

 スープが冷めかけていることに、真尋は遅れて気づいた。

     *

 午後一時、真尋は本社の商品企画部との合同会議へ参加した。

 西日本の売上データを、新商品の展開計画へ生かすための会議。議題の一つに、葵が担当する商品が含まれていた。

 会議資料へ商品名が表示される。真尋は一瞬、姿勢を整えた。

 葵の会社と真尋の会社は直接の関係があるわけではない。ただ、販売データの分析対象として、同じ業界の事例が紹介されている。

『首都圏限定での再テスト予定』

『感情訴求型コピーによる初回購入率は高い』

『再購入率の改善を目的に味と価格を変更』

 客観的な文章だった。

 葵の迷いも。石橋との会話も。夜の電話も。秋田へ持っていったパッケージも。

 何も書かれていない。当然だ。商品は、一人の人生を説明するために売られるものではない。

「水口さん」

 名前を呼ばれ、真尋は画面へ意識を戻す。

『西日本の店舗では、感情訴求型のコピーはどう見ますか』

「対象となる地域や店舗で差が大きいと思います」

『たとえば?』

「駅前やオフィス街では、仕事帰りの時間帯と相性があります。住宅地では、悩みや迷いを直接前へ出すと、重く受け取られる可能性があります」

『この商品も、住宅地では別コピーを使用しています』

「はい」

『水口さん、詳しいですね』

 一瞬、言葉が止まる。

 葵から聞いている。だが、個人的な関係を会議へ持ち込む必要はない。

「資料に記載があります」

 真尋は答えた。

 嘘ではない。会議資料にも書かれている。私的な知識を、仕事の優位として使わない。

     *

 会議後、東京本社の部長から個別に連絡が入った。

『先ほどの商品、知人が担当しているのですか』

 真尋は驚く。

「なぜ?」

『以前、同じパッケージを水口さんの机で見ました』

「はい」

『東京の友人?』

「はい」

『会議で発言を控えましたか』

「個人的に知っている情報は使いませんでした。公開資料の範囲で話しました」

『適切です。ただ、反対に、知っているからと発言を避けすぎる必要もありません』

「はい」

『利害関係がある場合は申告してください』

「友人です」

『金銭的な関係は?』

「ありません」

『なら、通常通り』

「わかりました」

 電話を切る。

 葵との関係が、仕事の場へわずかに触れた。隠す必要はない。だが、特別扱いもしない。

     *

 午後三時、山岸から修正した評価資料が届いた。

『小田さんの確認回数を個人の課題とせず、判断経路の不明確さを組織課題として追記しました』

 真尋は読む。文章は整っている。本人の課題も消していない。

『一次判断の範囲を越えた確認が一部あるため、経験を増やす必要がある』

 組織だけの責任にしない。本人だけの責任にも。

「良いと思います」

 真尋が言う。山岸は驚いた。

「修正は?」

「ありません」

「本当に?」

「はい」

「誤字は?」

「一つあります」

「どこですか」

 真尋は該当箇所を示した。二人は笑った。

     *

 午後五時、森田から呼び止められた。

「水口さん。来月の地域会議、僕が進行していいですか」

「山岸さんではなく?」

「山岸さんは人員と運用。僕は地域間の課題です。今までは水口さんが進行していました。正式に僕へ」

 真尋は一瞬、答えるのが遅れた。

 地域会議。大阪へ来てから、何度も進行した。中原と衝突した。岩瀬の意見を聞いた。制度を延期した。

 組織の中心だった時間。

「お願いします」

 真尋は答えた。

「条件は?」

 森田が尋ねる。

「ありません」

「本当に?」

「議題と目的は共有してください。進め方は任せます」

「水口さんは参加?」

「最初の一回は」

「口を出します?」

「必要なら」

「必要の基準が違います」

「では、事前に決めましょう」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 仕事を終え、真尋は予定通り七時半に会社を出た。葵との電話は九時。

 帰宅後、豆腐と野菜の鍋を作る。一人分。多く作りすぎない。

 八時半までに食べ終え、食器を洗い、白いカップへお茶を入れた。

 九時ちょうど、葵から電話がかかった。

     *

『食べた?』

「はい」

『何?』

「鍋です」

『一人で?』

「はい」

『私はコンビニ』

「忙しかった?」

『試食会の準備』

「はい」

『真尋、感想ありがとう』

「言い方がよくありませんでした。すみません」

『でも、嘘じゃないでしょう』

「はい」

『前は言葉が入口だった。今は味からも』

「はい」

『それが嫌なの、変かな』

 葵の顔は、前夜より落ち着いている。だが目元に疲れがある。

「何が嫌ですか」

『言葉がいらなくなること。おいしければ売れる。コピーは、何でもいいって言われるかもしれない。私が作った理由がなくなる』

「誰かに、そう言われましたか」

『営業の人に』

「何と?」

『味が良くなれば、コピーはもう少し明るくてもいいって。全国を考えるなら、迷いを前に出しすぎないほうがいいって』

「はい」

『候補も出された』

「どのような?」

 葵は資料を手に取る。

『がんばった日の、ごほうびに』

『今日に、ちいさな甘さを』

『明日へつなぐ、ひと休み』

「はい」

『全部、悪くない。むしろ売れそう』

「はい」

『でも、私じゃなくても作れる』

 葵は最後の言葉を小さく言った。

     *

「今の言葉は、葵にしか作れませんか」

 真尋が尋ねる。

『最初に作ったのは私。でも、似た言葉は誰でも』

「はい」

『真尋、今日は厳しい』

「質問しています」

『うん』

「葵は、誰にも作れない言葉を残したいですか」

『わからない。私が作ったってわかるもの』

「商品には、葵の名前が出ますか」

『出ない。社内では担当として残る』

「消費者は、誰が作ったか知りません」

『うん』

「最初から?」

『うん』

 葵が視線を落とす。

「では、葵が残したいのは、名前ではなく」

『何?』

「考え方ですか」

 葵はすぐには答えなかった。カップを持ち上げ、飲まずに置く。

     *

『迷ってる人に、答えを出せって言わないこと』

 やがて葵が言った。

「はい」

『がんばれとも。前向きになれとも。ただ、休んでいいって。決めた後も迷うことがあるって』

「はい」

『それを、商品へ入れたかった。味が変わっても、そこは残したい』

「はい」

『でも営業案は、ごほうびとか明日とか。前へ進む感じがする。悪くないけど、違う』

 葵は、自分の中心を言葉にし始めている。

「では、守りたいのは『迷う』という単語ですか」

『それも。でも、単語だけ残して意味が変わるなら嫌』

「たとえば?」

『迷いを乗り越える甘さ、とか。それは違う。迷いを消す商品じゃない』

「はい」

「では、その考え方を営業へ伝えましたか」

『まだ』

「なぜ?」

『感情の話だと思われそう』

「仕事として説明できます」

『どうやって?』

「購入者の声。現在のコピーを評価した人が、何に反応したか。迷うことを否定されなかった、と答えた人がいるでしょう」

『いる』

「その価値を、ブランドの中心として説明する。葵個人の経験ではなく、購入者が受け取った価値として」

 葵は資料を見始めた。

『アンケート、出せる。戻らない選択を疑っていた人。転職後に不安になった人。子どもの進路を決めた後も迷っていた人』

「共通しているのは?」

『答えを急かされなかったこと。商品を食べて前向きになった、ではない。少し休めた』

「それが中心です」

     *

『でも、売れなかったら』

 葵が言う。

「はい」

『中心を守っても、商品がなくなる』

「可能性はあります」

『なら、明るい言葉へ変えるべき?』

「葵が決めることではありません」

『担当なのに?』

「意見を出すことはできます。最終的には、会社の判断です」

『うん』

「それが嫌ですか」

『嫌』

 葵はすぐに答えた。

『私の商品なのに。私が作ったのに』

「今も、葵だけの商品ですか」

 葵の表情が強張る。

『また、それ』

「開発。営業。石橋さん。店舗。買った人」

『うん』

「関わる人が増えました。葵の手を離れ始めています」

『嫌』

「はい」

『でも、離さないと全国へ行かない。わかってる』

     *

 葵は両手で顔を覆った。泣いてはいない。ただ、息を整えている。

 真尋は待った。

『真尋も、仕事を山岸さんたちへ渡してる。嫌?』

「寂しいです。私が進行していた会議を、森田さんへ任せます」

『嫌だった?』

「少し」

『でも任せた。どうして?』

「私がいなくても続く組織にしたいからです。私が作った方法だけでは、続きません。森田さんの進め方へ変わります」

『真尋の仕事じゃなくなる?』

「私だけの仕事ではなくなります。それでも、私が始めたことは消えません」

『うん』

「失敗したことも。延期したことも。山岸さんたちへ渡したことも、私の仕事の一部です」

 葵は顔から手を下ろす。

『手を離すことも?』

「はい」

『商品も?』

「はい。中心を伝える。守りたい理由を説明する」

『うん』

「それでも会社が変えるなら、葵が何を受け入れ、何を受け入れないかを決める」

『辞めることも?』

「可能性としては」

『そこまで?』

「葵が、中心を失った商品へ自分の名前を社内で残したくないなら、担当を外れる選択もあります」

 葵の顔に驚きが浮かぶ。

『せっかくここまで。全国になるかもしれないのに』

「だから、簡単には選ばないでください。ただ、絶対に残らなければならないわけでもありません」

『うん』

     *

『真尋は、部長を辞めること考える?』

 葵が尋ねる。

「今は考えていません」

『中心が変わったら?』

「何が?」

『話を聞く組織じゃなくなる。本社から、数字だけにしろって言われる。山岸さんや森田さんの役割がなくなる』

「反対します」

『それでも変わらなかったら?』

「部長として続ける意味を考えます」

『辞める?』

「すぐには」

『うん』

「中から変えられるか。残ることで守れるものがあるか。自分の肩書きを守るためだけになっていないか。それを考えます」

『同じだね』

「はい」

     *

「明日の試食会で、何を伝えますか」

 真尋が尋ねる。葵は資料をめくる。

『味の変更には賛成。価格十五円増も。量は残す』

「はい」

『コピーは、今の言葉を中心にする。店舗別の補助コピーは変えていい。でも、迷いを乗り越えるとか、前向きになる言葉にはしない』

「はい」

『理由は、購入者が休息を受け取っているから。アンケートを出す』

「はい」

『全国展開で明るいコピーが必要なら』

 葵は考える。

『新しい案を自分でも出す。ただし、中心は変えない』

「どのような言葉なら?」

『まだわからない。明日までに考える』

「一人で?」

『石橋さんにも相談する。開発にも』

「葵だけの商品ではないので」

『まだ、その言い方は寂しい』

「はい」

『でも、言って』

「はい」

     *

 電話を終える前、葵が言った。

『真尋。私、商品が売れたら、自分が変わった証拠になると思ってた』

「はい」

『全国に行けば、直哉と別れたことも、苦しかったことも、無駄じゃなかったって』

「はい」

『でも、それだと売れなかったら、全部無駄になる。違うね』

「はい」

『商品は商品。私の人生の証明にしない』

「はい」

『でも、仕事として成功させたい。それは言う』

「言ってください」

『きれいな話だけにしない』

「はい」

     *

 翌朝、真尋は葵から送られてきた三つのコピー案を見た。

『迷う日にも、ひと息。』

『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』

『答えを急がない時間へ。』

 どれも、前向きになることを求めていない。

 最初の言葉が最も直接的。二つ目は広い。三つ目は静かだが、商品としては硬い印象もある。

『どれがいい?』

 真尋はすぐに選ばなかった。

『葵は?』

『一つ目。でも全国なら二つ目かも。真尋なら?』

『購入者では一つ目』

『仕事では?』

『店舗と時間帯によって二つ目も使います』

『また複数』

『一つにしなければいけませんか』

 返事が遅れる。

『営業も同じこと言った。正面を二種類にすると、製造費上がる。補助札なら変えられる』

『はい』

『なら正面は一つ目。売り場の札で二つ目』

『良いと思います』

『真尋の案じゃなく、私の案』

『はい』

 葵が自分で決めた。

     *

 その日の午後、地域会議が開かれた。進行は森田。真尋は参加者の一人として席に座る。

 画面には福岡、広島。山岸は議事録ではなく、人員と運用の報告担当。

 森田が冒頭で言う。

「本日の目的は、三地域の課題を一つへまとめることではありません」

 真尋が以前、何度も使った言葉に似ている。

「違いを確認し、共有できる部分だけを決めます」

 同じではない。森田の言葉になっている。

 会議が進む。福岡の小田から、問い合わせ経路の不明確さ。広島の岩瀬から、店舗説明の時間帯。大阪の坂口から、研修資料の量。

 森田は意見を整理する。すぐに結論へ行かない。だが、話が広がりすぎる前に切る。

「今は、資料の量だけ決めます」

 真尋なら、三つの議題を同時に整理したかもしれない。森田は一つずつ進める。

 遅い。だが、参加者が置いていかれない。

     *

 途中、小田が真尋へ直接尋ねた。

『水口さんは、どう思いますか』

 真尋は答える前に森田を見る。

 森田が言う。

「最終判断が必要な内容ではありません。まず、福岡と広島の案を比べましょう」

 真尋へ質問が流れないよう、森田が止めた。

 以前なら、自分が答えないことへ少し不安を感じた。今も感じる。手元のペンを置き、真尋は黙る。

     *

 会議は予定より十分延びた。決まったことは二つ。決まらなかったことが一つ。

 森田は最後に言う。

「決まらなかった議題は、次回までに各地域で一度試してください」

 会議終了。真尋はノートを閉じる。

「どうでした?」

 森田が近づく。

「何が?」

「進行」

「私から言う必要がありますか」

「初回なので」

 真尋は考える。

「参加者の発言は、以前より多かったです。一つずつ進めたことで、置いていかれる人が少なかった」

「はい」

「時間は延びました。次回は、決める議題を二つまでに」

「僕も思いました。水口さんなら、もっと早かった?」

「たぶん。でも、同じである必要はありません」

 森田の口元が緩んだ。

「それを聞きたかったです」

     *

 午後五時頃、葵から短いメッセージが届いた。

『提案、通った』

 真尋は会議の合間に読む。

『どこまで?』

『味変更。十五円値上げ。量そのまま』

『はい』

『正面は、迷う日にも、ひと息。住宅地の売り場札は、立ち止まる今日に、小さな甘さを。全国展開は、三か月後の数字で』

『おめでとうございます』

 少しして。

『でも、私の案だけじゃない。開発が味を作った。営業が売り場札を。石橋さんがアンケートをまとめた』

『はい』

『私だけの商品じゃない』

 真尋は画面を見つめる。

『寂しいですか』

『かなり』

『はい』

『でも、少し嬉しい。私がいなくても作業進んだ』

『はい』

『昨日の真尋と同じ』

『そうですね』

     *

 仕事を終えた後、真尋は花屋へ寄った。

 津田は、娘と一緒に店先の配置を変えている。以前は入口の右側にあった花が、左側へ移されていた。

「変えましたね」

 真尋が言う。津田が少し不満そうに答える。

「娘が」

「こっちのほうが夕方の人に見えるから」

 娘が言う。

「売れました?」

「昨日は」

 津田が答える。

「でも私は前のほうが好き」

「なぜ?」

「朝の光が入るから」

「夕方の客が多い」

 娘が言う。二人は意見が違う。それでも店は続いている。

「水口さんは、どちら?」

「夕方に来るので、今のほうが見えます」

 津田が顔をしかめる。

「一票取られた」

「でも、朝の光も見たいです」

「どっち」

「時間で変えては?」

 二人が同時に真尋を見た。

「毎日動かすの大変」

 津田が言う。

「週末だけ?」

 娘が考える。真尋は笑った。

「仕事にしてしまいました」

「部長だから」

「関係ありません」

     *

 真尋は小さな黄色い花を一本買った。名前は、クラスペディア。丸い形。細い茎。

 部屋へ戻り、空だった白い花瓶へ入れる。一本だけでも、存在感がある。

 桃色の造花とは別の器。同じテーブル。

     *

 夜、葵からビデオ通話がかかってきた。予定していた時間。葵の後ろには、会議資料と試作品。

『今日、石橋さんに言われた』

「何を?」

『手を離したくないなら、一人で作れる範囲の商品にしろって。全国へ行きたいなら、ほかの人の手が入る。それで中心が変わるなら、止めろ』

「はい」

『でも、全部自分のままにしたいは通らないって。厳しい』

「はい」

『真尋も、同じこと言うでしょう』

「少し」

『少し?』

「石橋さんのほうが明確です」

『うん』

「葵は、どう答えました?」

『全国へ行きたい。でも、中心は守りたい。だから、関わる人へ説明する。言葉の理由を』

「はい」

『私の失恋の話じゃなく、買った人が、何を受け取ったか』

「はい」

『それで変わるなら、変わった理由を聞く。私の案が通らなくても、すぐに私の商品じゃないって言わない』

「はい」

『でも、本当に違うものになったら、担当を外れることも考える』

「はい」

 葵は、自分の境界を少しずつ作っている。

     *

『真尋は、森田さんの会議どうだった?』

「終わりました」

『口出した?』

「しませんでした」

『本当に?』

「一度も」

『偉い』

「最後に感想は言いました」

『仕事だから』

「はい」

『寂しかった?』

「はい」

『何が?』

「私より、参加者が話しやすそうでした」

 葵が驚き、それから笑う。

『それ、かなり寂しい』

「はい」

『でも、いいこと?』

「はい」

『真尋が怖かった?』

「可能性はあります」

『森田さんは、怖くない?』

「違う怖さはあると思います。立場と進め方が違うので」

『真尋が作った会議なのに』

「今は、皆の会議です」

『商品と同じ』

「はい」

     *

 二人はしばらく、手を離れる仕事について話した。

 作った人がいなくても続くもの。変わるもの。残るもの。自分の名前が表へ出ない仕事。誰かの判断で形が変わること。

『真尋。私、商品が全国になって、誰かが違うコピーを見て買ったら、その人にとっては、私の最初の言葉なんて関係ない』

「はい」

『少し嫌』

「はい」

『でも、その人が休めたら、それでもいいと思えるようになりたい。今は、まだ半分』

「十分では?」

『真尋は?』

「森田さんの会議がうまくいっても、私の方法が忘れられるのは、少し寂しいです」

『うん』

「でも、皆が話せる会議なら、私の名前が残らなくてもよいと思いたいです」

『まだ?』

「まだ半分です」

 二人は笑った。

     *

 翌週、再テストが始まった。首都圏二十店舗。味を変えた商品。十五円高い価格。

 正面には、

『迷う日にも、ひと息。』

 住宅地の一部店舗では、売り場札に、

『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』

 葵は初日の朝、売り場へ行った。以前のように数字を何度も確認しないと決めていた。

 それでも昼前に一度。夕方に一度。夜に一度。真尋へ送られてくるメッセージの時間でわかる。

『初回、前より売れてる』

『はい』

『価格上がったのに』

『はい』

『でも、まだ一日。わかってる』

 翌日。

『住宅地も少し上がった。札、効果あるかも』

『はい』

 三日目。

『駅前、再購入らしい人がいた』

『わかるんですか』

『店員さんが、前も買ったって』

『はい』

 葵は喜んでいる。同時に、数字へ戻り始めている。

 真尋は止めない。仕事として見る必要がある。

     *

 一週間後、初週の数字が出た。

 前回より売上は高い。再購入率も、わずかに改善。だが店舗差は残る。全国展開を判断するには、まだ早い。

 葵から電話。

『良かった。でも、もっと上だと思った』

「はい」

『欲張り?』

「仕事なので」

『石橋さんも同じこと言った。喜んでから、次を見ろって』

「はい」

『今日は喜ぶ。明日から分析』

「はい」

     *

 その夜、真尋は自分の仕事の数字を確認していた。

 森田が進行した地域会議後、参加者の発言数は増えた。決定までの時間は少し長くなった。問い合わせは減っている。

 自分へ直接届く相談は、以前の半分。山岸へ。森田へ。地域責任者へ。分散している。

 目標通りだった。

 だが、自分の受信箱が静かだ。真尋は何度も更新した。新しいメールはない。

 必要とされていないような感覚が、指先から上がってくる。

 真尋は椅子から立ち、窓を開けた。

 夜の公園。電車。自分の部屋。

 仕事が進んでいる。だから静か。問題がないから呼ばれない。

 呼ばれるために、何かを探す必要はない。

     *

 真尋は生活ノートを開いた。

『手を離れた言葉』

 その下へ書く。

『中心を伝えることと、形を固定することは違う』

『誰かの手が入ることで、届く場所が増える』

『変わる理由を聞く』

『自分の名前が残らなくても、始めたことは消えない』

『寂しさを、支配へ変えない』

 最後の一文を書いた時、葵の顔が浮かんだ。

 商品を自分の人生の証明にしようとした葵。今は、商品を仕事として成功させたいと言う。

 その変化。

 真尋も、組織を自分の価値の証明にしない。部長として必要とされることは嬉しい。だが、自分だけが必要な組織にはしない。

     *

 数日後、山岸が初めて単独で人員配置案を支社長へ提出した。真尋は事前に内容を見ていない。

 支社長との面談後、山岸が真尋の席へ来る。

「一か所、戻されました」

「どこですか」

「配置理由が弱いと。本人の希望は書いたけど、組織側の必要性が不足していました。修正します」

「手伝いは?」

「必要なら頼みます」

「はい」

 山岸は自分の席へ戻る。真尋は追いかけない。

 夕方、修正版が通ったと報告が来た。

『承認されました』

『おめでとうございます』

『ありがとうございます』

 それだけ。真尋は内容を見せてほしいと言わなかった。

     *

 葵の商品も、少しずつ葵の手を離れていた。

 開発チームが香りの微調整をする。営業が店舗ごとの札を作る。デザイン部が全国展開時の色違い案を出す。石橋が会議をまとめる。

 葵はすべてへ参加できない。

 ある日、デザイン部が葵へ相談せず、季節限定の色案を作った。葵から電話が来た。

『聞いてない。勝手に冬用の白いパッケージ。雪みたいなデザイン。言葉は、迷う冬にも、ひと息』

「はい」

『悪くない。だから余計に腹が立つ』

「自分がいなくても良い案が出たから?」

『うん。でも、相談はしてほしかった』

「それは伝えてよいです」

『口を出したいだけと思われる?』

「役割を確認してください。葵が最終承認するのか。意見を求められる担当なのか。共有だけなのか」

『うん』

「境界が曖昧だから、腹が立つ部分もあります」

『明日、石橋さんに聞く』

「はい」

     *

 翌日、葵から返事。

『私の承認は必要だった。デザイン部の担当が、スケジュール急いで先に作った。謝られた』

『はい』

『でも案は残す。私も良いと思うから。勝手に作ったから却下、にはしなかった』

『良い判断だと思います』

『でも、次から先に共有。役割、確認できた』

 葵が、感情と仕事を分けている。腹が立った。だが案の価値は別に見た。

     *

 その週末、真尋は東京へ戻った。

 土曜日は俊介。日曜日の夕方、葵。母とは昼食。予定が詰まっている。

 それでも、一人の時間を土曜の午前に残した。

 東京の部屋へ戻り、窓を開ける。机の上に、秋田の木の札。引き出しへしまったはずだが、前回見た後、箱を机の端へ置いていた。

 真尋は箱を開けない。そのままにする。

     *

 土曜日の午後、俊介の部屋へ行った。

 白いカップ。歯ブラシ。部屋着。少しずつ増えた真尋の物。

 夕食を作りながら、俊介が尋ねる。

「最近、仕事で寂しいですか」

「なぜ?」

「電話で、相談が減ったと言っていたので」

「はい」

「今は?」

「少し慣れました。でも、受信箱を何度も見ます」

「呼ばれたい?」

「少し」

 俊介は野菜を切りながら言う。

「僕も、真尋からの連絡を何度も確認します。必要とされたいから」

「はい」

「でも、連絡がない日は、真尋が生活できている日でもある。仕事も同じですね」

「はい」

「問題がないから静か。それでも寂しい」

「はい」

「寂しいまま、料理をします」

 二人は笑った。

     *

 夕食後、俊介は北川の送別会の写真を見せた。大学時代の友人たち。笑う俊介。花束を持つ北川。

「楽しそうです」

 真尋が言う。

「はい」

「寂しいですか」

「北川さんが遠くへ行くわけではありません。でも、関係が少し変わると思います」

「なぜ?」

「仕事の相談が終わる。会う理由が一つ減る」

「友人なら、理由がなくても会えるのでは」

「そうですが」

 俊介は考える。

「理由があったほうが連絡しやすいこともあります。真尋と葵さんは?」

「理由がなくても連絡します。でも、予定を決める理由を作る時もあります」

「はい」

「関係は、自然に続くだけではないので」

「選ぶ?」

「はい」

     *

 翌日、母の家で昼食を取った。真尋の部長就任祝いとして、母が赤飯を炊いていた。

「大げさです」

「いいでしょう」

「まだ着任前です」

「決まった時に祝うの」

 焼き魚。煮物。赤飯。食卓へ並ぶ。

「俊介さんとは?」

 母が尋ねる。

「続いています」

「それは知ってる。結婚は?」

「急がないでください」

「聞いただけ」

「三か月ごとに話します」

「会議みたい」

「必要なので」

 母は思わず笑った。

「葵ちゃんの商品、味が変わったんでしょう」

「なぜ知っています?」

「葵ちゃんから、送ってもらった」

「いつ?」

「先週」

 真尋は驚いた。

「直接連絡しているんですか」

「たまに」

「聞いていません」

「全部言う必要ある?」

 母の言葉に、真尋は黙る。

「ありません」

「でしょう」

「はい」

 母と葵の関係。真尋がすべて知る必要はない。頭ではわかる。それでも、指先が少しだけ冷たくなった。

     *

「食べた?」

 真尋が尋ねる。

「新しい味?」

「はい」

「おいしかった」

「以前と比べて?」

「前のは、少し忘れた。でも、言葉は覚えてる」

「どちら?」

「迷う日にも、ひと息」

「はい」

「私、あの言葉好き」

「なぜ?」

「決めた後に迷うこと、たくさんあったから」

「父との結婚?」

「それも。仕事を辞めたこと。パートを始めたこと。お父さんと離れて暮らしたこと」

「はい」

「全部、決めた後に迷った」

「はい」

「でも、商品を作った人が誰かは知らない人も多いでしょう。それでも言葉は残る」

「はい」

「葵ちゃんは、寂しいでしょうね。自分の名前が出ない」

「はい」

「でも、それが商品なのかもね」

 母は赤飯をよそいながら言う。

「誰かの生活へ入ったら、作った人から離れる。料理も同じ」

「どういう意味ですか」

「私が作った赤飯を、真尋が食べる。真尋の中では、今日の記憶になる。私が何を考えて炊いたか、全部は残らない」

「はい」

「でも、それでいい」

 真尋は赤飯を見た。

 母が部長就任を祝うために作った。だが、数年後には味だけを覚えているかもしれない。何を話したか。どの器だったか。忘れる。

 それでも、今日食べたことはなくならない。

     *

 日曜日の午後五時。葵と待ち合わせたのは、以前の商品テスト店舗の近くのカフェだった。

 葵は先に着いていた。テーブルの上に、新旧二つのパッケージ。

「比較するんですか」

 真尋が座る。

「記念。古いほう、中身は入ってない」

「食べた?」

「うん」

「はい」

「真尋も、残してた試作品食べた?」

「まだ一つ」

「食べて」

「はい」

「賞味期限」

「確認します」

     *

 二人は飲み物を注文した。葵は紅茶。真尋はコーヒー。

「売上、どうですか」

 真尋が尋ねる。

「初週は前より良い。二週目も、落ち方が小さい。再購入も少し増えた」

「はい」

「でも、全国決定にはまだ足りない。三か月見る」

「はい」

 葵は落ち着いて数字を話す。以前のように、数字一つで表情が大きく変わらない。

「冬用パッケージは?」

「進める。白い色。正面は同じ。売り場札は、答えを急がない冬へ」

 真尋は考える。

「少し硬いです」

「やっぱり?」

「はい」

「営業にも言われた」

「別案は?」

「寒い日に、ひと息」

「広すぎます」

「難しい」

 二人は声を立てて笑った。

     *

「真尋」

 葵が新しいパッケージへ触れる。

「これ、私の商品に見える?」

「何をもって?」

「言葉」

「はい」

「味」

「開発の方々も」

「デザイン」

「デザイン部」

「じゃあ、私の部分は?」

 真尋は考える。

「最初に、迷う人へ答えを求めない商品を作りたいと考えたこと。その中心を、ほかの人へ説明したこと」

「うん」

「味を変える判断を出したこと。価格を上げても量を残したこと。店舗ごとの言葉を受け入れたこと」

「うん」

「勝手に作られた案へ腹を立てても、良い案として残したこと」

「うん」

「手を離したことも、葵の仕事です」

 葵はしばらく黙った。

「手を離したところも?」

「はい」

「見えない」

「仕事には、見えない部分があります」

「真尋が森田さんへ会議を渡したことも、誰も知らない?」

「一部は」

「でも、参加者は森田さんの会議だと思う。真尋が作った仕組みだって忘れる」

「はい」

「平気?」

「完全には」

「うん」

「でも、忘れられるほど続けば、良い仕事だったと思いたいです」

「私も、そう思えるようになる?」

「葵次第です」

「はい」

     *

 葵は古いパッケージを真尋へ差し出した。

「持ってて」

「なぜ?」

「私は新しいほう持つ。古いの、捨てられない。でも二つとも持つと、ずっと比べる」

「はい」

「真尋に預けたい」

 真尋は受け取らず、考えた。

「私が持つ理由は?」

「最初の味を知ってるから。秋田へ持っていったから。私が迷った時、真尋が食べてくれたから」

「はい」

「嫌?」

「嫌ではありません」

「では」

「ただ、葵が手放すために、私を保管場所にしないでください」

 葵の手が止まる。

「どういう意味?」

「葵が見たくないものを、私へ預ける。それでは、葵が手放したことになりません」

 葵は少し傷ついた顔をした。

「持ってほしかっただけ。大切なものを共有したい」

「それなら、受け取ります」

「うん」

「捨てられないからではなく?」

 葵は考える。

「両方。でも、真尋にも持っていてほしい」

「わかりました」

 真尋はパッケージを受け取った。

 空。中身はない。言葉と色だけが残っている。

     *

「秋田の木の札みたい?」

 葵が尋ねる。

「違います」

「何が?」

「木の札は、二人で持つために買いました。これは、葵の仕事の記録です」

「うん」

「私は、預かる人」

「持つ人」

「はい」

「戻してって言うかも」

「その時は返します」

「捨てないで」

「はい。でも、関係の証明にはしない」

「はい」

 二人は確認する。物へ関係を背負わせすぎない。

     *

 カフェを出た後、二人は少し歩いた。

 以前、商品を買う女性を遠くから見た店舗。今は新しい味が並んでいる。

 売り場の札。

『迷う日にも、ひと息。』

 棚の横には、

『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』

 二つの言葉が同時にある。

 一人の女性が商品を手に取る。裏面を見る。かごへ入れる。

 葵が小さく息を吸った。

「声かけたい?」

 真尋が尋ねる。

「少し」

「やめてください」

「わかってる」

 二人は笑う。

 女性が何を受け取ったかはわからない。言葉。味。色。価格。偶然。

 葵の意図のすべては届かない。それでも商品は、その人の生活へ入る。

     *

「真尋。商品が全国になって、私が担当を外れても、私の商品だったって言っていい?」

「もちろんです」

「今の商品でも?」

「はい」

「私だけのものじゃなくても?」

「はい」

「矛盾しない?」

「しません」

「どうして?」

「自分が作ったことと、自分だけが所有することは違うからです」

 葵は考える。

「名前のない場所も?」

「何が?」

「私たちが作った。でも、私だけのものじゃない」

「二人のものです」

「俊介さんや仕事に影響されて変わる。でも、私たちの場所」

「はい」

「少し似てる」

「関係と商品は違います」

「わかってる」

 葵は笑う。

「でも、中心を二人で決めて、生活で変わる。変わっても、作ったことは消えない」

「はい」

     *

 別れる駅で、葵が言った。

「次に会う日、決める?」

「来月の予定を確認します」

「水曜日?」

「はい」

「今日決めたい」

「なぜ?」

「商品が忙しくなりそう。先に場所を取りたい」

「私の予定にも、俊介と母があります。水曜日に全体を確認します」

「また待つ」

「はい」

「嫌」

「はい」

「でも待つ」

「ありがとうございます」

 葵は少し不満そうにしながらも頷いた。

「名前のない場所でも、予約が必要」

「生活なので」

 二人は顔を見合わせた。

     *

 東京の部屋へ戻った真尋は、葵から受け取った古いパッケージを机へ置いた。

 空。賞味期限の印字。少し折れた端。秋田へ持っていったものと同じデザイン。

 どこへ置くか考える。木の札と同じ箱へは入れない。

 仕事の記録。別の引き出し。

 真尋は、旅の写真やチケットを入れている薄いファイルへ挟んだ。

 葵との関係の証明ではない。葵が作った最初の商品の記録。

     *

 大阪へ戻る新幹線で、真尋は森田が進行した会議の議事録を読んだ。

 表現が、以前の真尋のものと違う。

『決定事項』

 だけでなく、

『各地域で異なった点』

『今回は決めなかった理由』

 が書かれている。

 真尋の議事録より長い。だが、後から見た人が、なぜ一つへまとめなかったか理解できる。

 良い。自分なら、もっと短くした。それでも良い。

 真尋は承認の印をつけた。

     *

 大阪の部屋へ戻る。

「ただいま」

 白い花瓶には、黄色いクラスペディア。少し乾いているが、形は変わらない。桃色の造花は、別の器。

 真尋は水を替えた。

 バッグから新しい試作品を一つ取り出す。東京で葵から渡された。

 古いパッケージは東京に置いた。新しい商品は大阪へ。

 過去を一か所へ固定せず、今のものを、今の生活へ持ってくる。

     *

 夜、真尋は新しい商品を食べた。

 以前より香りが強い。酸味。甘さ。二度目でも、もう一つ食べたいと思う。

 再購入率が上がる理由が少しわかる。

 言葉だけではない。味だけでもない。二つが重なる。さらに、売り場。時間。人の気分。

 多くの要素。

 商品は、葵の人生から始まった。だが、今は多くの人の仕事と、知らない人の生活へつながっている。

     *

 真尋は生活ノートを開いた。

『手を離れたもの』

 と書く。

『森田へ渡した会議』

『山岸へ渡した人員配置』

『小田へ渡った中原の仕事』

『葵から開発と営業へ渡った商品』

『母が作り、私が食べた赤飯』

 その下へ。

『手を離れることは、失うことではない』

 書いてから、考える。

 失う場合もある。担当を外れる。名前が忘れられる。中心が変わる。関係が終わる。

 だから、言い切りすぎない。

 真尋は修正した。

『手を離れることは、必ずしも失うことではない』

『変わる前に、守りたい中心を伝える』

『変わった理由を聞く』

『自分のものではなくなっても、自分が関わった事実は消えない』

     *

 最後に、秋田での約束を思う。

 戻った時、前と同じであることを求めない。

 葵の商品も。真尋の組織も。葵と真尋自身も。

 次に会う時、今と同じではない。葵はさらに仕事を広げる。新しい人と出会う。真尋は部長になる。俊介との関係を進める。

 互いに変わる。それでも戻る時には、知り直す。

     *

 スマートフォンへ、葵からメッセージが届いた。

『試作品、食べた?』

『はい』

『二つ目、欲しくなった?』

『はい』

『本当に?』

『今、もう一つ食べるか迷っています』

『食べて』

『夜なので』

『商品としては食べてほしい』

『生活としては明日にします』

 葵から笑う顔。

『そういう人に売る商品』

『はい』

『明日、また食べたいと思ってくれたら成功』

『はい』

 真尋は袋を閉じ、棚へ置いた。明日のために残す。

     *

 照明を落とす。

 部屋には、空の白い花瓶ではなく、黄色い花が一本。一つだけでも、場所を持っている。

 真尋は寝室へ向かった。

 明日、森田が次の会議案を出す。山岸が評価資料を完成させる。小田が判断する。葵の商品が、知らない人へ買われる。

 真尋が直接触れなくても、物事は進む。葵が見ていなくても、商品は食べられる。

 それぞれの手を離れた場所で。

     *

 真尋は布団へ入った。

 自分が関わったものが、自分の知らない形へ変わっていく。

 寂しい。嬉しい。怖い。誇らしい。

 一つへまとめる必要はない。

 手を離したからこそ届く場所がある。手を離さないから守れる中心もある。

 その境界を、一度で決めることはできない。変わるたびに話す。仕事でも、関係でも。

 真尋は目を閉じた。

 明日、葵の商品をもう一つ食べる。今日と同じ味でも、受け取り方は少し違うだろう。

 それでよかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。