第三十二章 手を離れた言葉
葵から届いた新しい試作品は、以前のものより少し香りが強かった。
封を開けた瞬間、甘さの前に柑橘の匂いが立つ。口へ入れると、最初に軽い酸味があり、その後からやわらかな甘さが広がった。
量は変わっていない。価格は十五円上がる。正面の言葉も、そのまま残っている。
『迷う日にも、ひと息。』
真尋は大阪の部屋で、一つ目をゆっくり食べた。
以前の味より輪郭がある。もう一度食べたいと思うかと聞かれれば、今のほうが答えやすい。
ただ、葵が最初に作った商品の印象とは少し違う。
前の味は、目立たなかった。甘さも香りも控えめで、言葉の横へ静かに置かれていた。
今の味は、商品自身が前へ出てくる。言葉を読まなくても、味だけで記憶へ残ろうとしている。
それが、良い変化なのだと思う。
同時に、少し寂しくもある。
真尋は二つ目へ手を伸ばさず、袋を閉じた。
葵へ感想を送る前に、言葉を考える。
『前より味がはっきりしました』
仕事の評価に見える。消す。
『おいしくなりました』
以前がおいしくなかったように聞こえる。消す。
考え、送った。
『言葉だけでなく、味でももう一度手に取りたくなる商品になったと思います』
数分後、葵から返事が来た。
『それ、褒めてる?』
『はい』
『前のは、言葉だけ?』
真尋は画面を見る。
葵が最も気にしている部分を、正確に刺激してしまった。指が一度、止まる。
『前の商品は、言葉が入口になっていました』
『今は?』
『味から入る人も増えると思います』
『言葉が弱くなった?』
『違います』
『でも、味が強くなった』
『はい』
『私の商品じゃなくなってきた気がする』
真尋はすぐに返さなかった。
今夜、電話の予定はない。だが、短い言葉では終わらない内容だとわかる。
『今日、話しますか』
『真尋は仕事?』
『七時半には帰ります』
『九時から』
『はい』
話す時間を決める。
*
その日の午前、真尋は山岸が作成した人員評価の資料を確認していた。
課長候補としての研修が始まってから、山岸は以前より多くの判断を任されている。相談窓口の運用。研修日程。人員配置案。軽微な決裁。
失敗もある。だが、真尋が修正しなくても、自分で気づく場面が増えていた。
今回の資料には、福岡の小田についての評価が書かれている。
『一次判断を担えるようになった。説明資料の作成にも改善が見られる。一方、判断へ時間がかかり、周囲への確認が多い』
真尋は最後の一文へ印をつけた。
「山岸さん。小田さんの確認が多いことを、課題へ入れた理由は?」
「判断が遅れるからです。以前、中原さんなら一日で終わった案件に、二日かかっています」
「でも、期限には間に合っています」
「はい」
「確認の相手は?」
「福岡責任者と森田さん」
「不要な確認ですか」
山岸は資料を見る。
「すべてではありません。自分で決められる内容も聞いています」
「本人へ確認しましたか」
「まだ」
「なぜ確認が多いのか」
「自信がないからだと思いました」
「思った?」
真尋の問いに、山岸が少し口を閉じる。
「本人へ聞きます。評価を書く前に」
山岸は資料を引き寄せた。
「水口さんなら、以前はどうしました?」
「確認が多いことを課題へ入れました。理由も、自信不足と決めたと思います」
「同じですね」
「はい」
「今は、聞く?」
「本人にしかわからないので」
山岸は考え、頷いた。
「今日、話します」
*
午後、小田とのオンライン面談へ山岸が入った。
真尋は参加しない。評価する相手との話は、山岸自身が行う。
一時間後、山岸が戻ってくる。
「確認が多い理由、違いました」
「何でした?」
「自信がない部分もあります。でも、福岡責任者と森田さんの判断基準が違うので、両方へ確認していました。どちらへ従えばよいかわからなかった」
「体制の問題ですね。小田さん個人の課題だけではありません」
山岸は評価資料を開き直す。
「書き換えます」
「どう変えますか」
「小田さんの判断速度ではなく、判断経路の整理が必要。本人には、一次判断の範囲を明確に伝える。森田さんと福岡責任者の役割も分けます」
「お願いします」
山岸は自分で修正を始めた。真尋が文章を直す必要はない。
*
昼休み、真尋は久しぶりに一人で商店街を歩いた。
花屋の前には、色の濃い花が並んでいる。津田は客と話していた。真尋を見ると、軽く手を上げる。今日は立ち止まらず、頭だけ下げた。
パン屋へ入り、スープと小さなサンドイッチを買って席へ座る。
葵の新しい試作品を、もう一つバッグから取り出した。
仕事中に食べるために持ってきたわけではない。朝、一つだけでは感想が偏ると思い、無意識に入れた。
商品評価。葵の仕事。友人としての感情。
どこまで分ければよいのか。
真尋はパッケージを見る。青い色。
『迷う日にも、ひと息。』
言葉は変わっていない。それでも、中身が変わることで、受け取る印象は違う。
関係も同じだろうか。約束の言葉が同じでも、互いの生活が変われば意味は変わる。
名前のない場所。
秋田で決めた時には、二人が関係を失わないための言葉だった。今は、葵の仕事が広がり、真尋が部長になる中で、互いの変化を受け取るための言葉になっている。
言葉を守ることは、形を変えないことではない。だが、変えすぎれば中心が消える。
どこまでが中心なのか。
スープが冷めかけていることに、真尋は遅れて気づいた。
*
午後一時、真尋は本社の商品企画部との合同会議へ参加した。
西日本の売上データを、新商品の展開計画へ生かすための会議。議題の一つに、葵が担当する商品が含まれていた。
会議資料へ商品名が表示される。真尋は一瞬、姿勢を整えた。
葵の会社と真尋の会社は直接の関係があるわけではない。ただ、販売データの分析対象として、同じ業界の事例が紹介されている。
『首都圏限定での再テスト予定』
『感情訴求型コピーによる初回購入率は高い』
『再購入率の改善を目的に味と価格を変更』
客観的な文章だった。
葵の迷いも。石橋との会話も。夜の電話も。秋田へ持っていったパッケージも。
何も書かれていない。当然だ。商品は、一人の人生を説明するために売られるものではない。
「水口さん」
名前を呼ばれ、真尋は画面へ意識を戻す。
『西日本の店舗では、感情訴求型のコピーはどう見ますか』
「対象となる地域や店舗で差が大きいと思います」
『たとえば?』
「駅前やオフィス街では、仕事帰りの時間帯と相性があります。住宅地では、悩みや迷いを直接前へ出すと、重く受け取られる可能性があります」
『この商品も、住宅地では別コピーを使用しています』
「はい」
『水口さん、詳しいですね』
一瞬、言葉が止まる。
葵から聞いている。だが、個人的な関係を会議へ持ち込む必要はない。
「資料に記載があります」
真尋は答えた。
嘘ではない。会議資料にも書かれている。私的な知識を、仕事の優位として使わない。
*
会議後、東京本社の部長から個別に連絡が入った。
『先ほどの商品、知人が担当しているのですか』
真尋は驚く。
「なぜ?」
『以前、同じパッケージを水口さんの机で見ました』
「はい」
『東京の友人?』
「はい」
『会議で発言を控えましたか』
「個人的に知っている情報は使いませんでした。公開資料の範囲で話しました」
『適切です。ただ、反対に、知っているからと発言を避けすぎる必要もありません』
「はい」
『利害関係がある場合は申告してください』
「友人です」
『金銭的な関係は?』
「ありません」
『なら、通常通り』
「わかりました」
電話を切る。
葵との関係が、仕事の場へわずかに触れた。隠す必要はない。だが、特別扱いもしない。
*
午後三時、山岸から修正した評価資料が届いた。
『小田さんの確認回数を個人の課題とせず、判断経路の不明確さを組織課題として追記しました』
真尋は読む。文章は整っている。本人の課題も消していない。
『一次判断の範囲を越えた確認が一部あるため、経験を増やす必要がある』
組織だけの責任にしない。本人だけの責任にも。
「良いと思います」
真尋が言う。山岸は驚いた。
「修正は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「誤字は?」
「一つあります」
「どこですか」
真尋は該当箇所を示した。二人は笑った。
*
午後五時、森田から呼び止められた。
「水口さん。来月の地域会議、僕が進行していいですか」
「山岸さんではなく?」
「山岸さんは人員と運用。僕は地域間の課題です。今までは水口さんが進行していました。正式に僕へ」
真尋は一瞬、答えるのが遅れた。
地域会議。大阪へ来てから、何度も進行した。中原と衝突した。岩瀬の意見を聞いた。制度を延期した。
組織の中心だった時間。
「お願いします」
真尋は答えた。
「条件は?」
森田が尋ねる。
「ありません」
「本当に?」
「議題と目的は共有してください。進め方は任せます」
「水口さんは参加?」
「最初の一回は」
「口を出します?」
「必要なら」
「必要の基準が違います」
「では、事前に決めましょう」
二人は顔を見合わせた。
*
仕事を終え、真尋は予定通り七時半に会社を出た。葵との電話は九時。
帰宅後、豆腐と野菜の鍋を作る。一人分。多く作りすぎない。
八時半までに食べ終え、食器を洗い、白いカップへお茶を入れた。
九時ちょうど、葵から電話がかかった。
*
『食べた?』
「はい」
『何?』
「鍋です」
『一人で?』
「はい」
『私はコンビニ』
「忙しかった?」
『試食会の準備』
「はい」
『真尋、感想ありがとう』
「言い方がよくありませんでした。すみません」
『でも、嘘じゃないでしょう』
「はい」
『前は言葉が入口だった。今は味からも』
「はい」
『それが嫌なの、変かな』
葵の顔は、前夜より落ち着いている。だが目元に疲れがある。
「何が嫌ですか」
『言葉がいらなくなること。おいしければ売れる。コピーは、何でもいいって言われるかもしれない。私が作った理由がなくなる』
「誰かに、そう言われましたか」
『営業の人に』
「何と?」
『味が良くなれば、コピーはもう少し明るくてもいいって。全国を考えるなら、迷いを前に出しすぎないほうがいいって』
「はい」
『候補も出された』
「どのような?」
葵は資料を手に取る。
『がんばった日の、ごほうびに』
『今日に、ちいさな甘さを』
『明日へつなぐ、ひと休み』
「はい」
『全部、悪くない。むしろ売れそう』
「はい」
『でも、私じゃなくても作れる』
葵は最後の言葉を小さく言った。
*
「今の言葉は、葵にしか作れませんか」
真尋が尋ねる。
『最初に作ったのは私。でも、似た言葉は誰でも』
「はい」
『真尋、今日は厳しい』
「質問しています」
『うん』
「葵は、誰にも作れない言葉を残したいですか」
『わからない。私が作ったってわかるもの』
「商品には、葵の名前が出ますか」
『出ない。社内では担当として残る』
「消費者は、誰が作ったか知りません」
『うん』
「最初から?」
『うん』
葵が視線を落とす。
「では、葵が残したいのは、名前ではなく」
『何?』
「考え方ですか」
葵はすぐには答えなかった。カップを持ち上げ、飲まずに置く。
*
『迷ってる人に、答えを出せって言わないこと』
やがて葵が言った。
「はい」
『がんばれとも。前向きになれとも。ただ、休んでいいって。決めた後も迷うことがあるって』
「はい」
『それを、商品へ入れたかった。味が変わっても、そこは残したい』
「はい」
『でも営業案は、ごほうびとか明日とか。前へ進む感じがする。悪くないけど、違う』
葵は、自分の中心を言葉にし始めている。
「では、守りたいのは『迷う』という単語ですか」
『それも。でも、単語だけ残して意味が変わるなら嫌』
「たとえば?」
『迷いを乗り越える甘さ、とか。それは違う。迷いを消す商品じゃない』
「はい」
「では、その考え方を営業へ伝えましたか」
『まだ』
「なぜ?」
『感情の話だと思われそう』
「仕事として説明できます」
『どうやって?』
「購入者の声。現在のコピーを評価した人が、何に反応したか。迷うことを否定されなかった、と答えた人がいるでしょう」
『いる』
「その価値を、ブランドの中心として説明する。葵個人の経験ではなく、購入者が受け取った価値として」
葵は資料を見始めた。
『アンケート、出せる。戻らない選択を疑っていた人。転職後に不安になった人。子どもの進路を決めた後も迷っていた人』
「共通しているのは?」
『答えを急かされなかったこと。商品を食べて前向きになった、ではない。少し休めた』
「それが中心です」
*
『でも、売れなかったら』
葵が言う。
「はい」
『中心を守っても、商品がなくなる』
「可能性はあります」
『なら、明るい言葉へ変えるべき?』
「葵が決めることではありません」
『担当なのに?』
「意見を出すことはできます。最終的には、会社の判断です」
『うん』
「それが嫌ですか」
『嫌』
葵はすぐに答えた。
『私の商品なのに。私が作ったのに』
「今も、葵だけの商品ですか」
葵の表情が強張る。
『また、それ』
「開発。営業。石橋さん。店舗。買った人」
『うん』
「関わる人が増えました。葵の手を離れ始めています」
『嫌』
「はい」
『でも、離さないと全国へ行かない。わかってる』
*
葵は両手で顔を覆った。泣いてはいない。ただ、息を整えている。
真尋は待った。
『真尋も、仕事を山岸さんたちへ渡してる。嫌?』
「寂しいです。私が進行していた会議を、森田さんへ任せます」
『嫌だった?』
「少し」
『でも任せた。どうして?』
「私がいなくても続く組織にしたいからです。私が作った方法だけでは、続きません。森田さんの進め方へ変わります」
『真尋の仕事じゃなくなる?』
「私だけの仕事ではなくなります。それでも、私が始めたことは消えません」
『うん』
「失敗したことも。延期したことも。山岸さんたちへ渡したことも、私の仕事の一部です」
葵は顔から手を下ろす。
『手を離すことも?』
「はい」
『商品も?』
「はい。中心を伝える。守りたい理由を説明する」
『うん』
「それでも会社が変えるなら、葵が何を受け入れ、何を受け入れないかを決める」
『辞めることも?』
「可能性としては」
『そこまで?』
「葵が、中心を失った商品へ自分の名前を社内で残したくないなら、担当を外れる選択もあります」
葵の顔に驚きが浮かぶ。
『せっかくここまで。全国になるかもしれないのに』
「だから、簡単には選ばないでください。ただ、絶対に残らなければならないわけでもありません」
『うん』
*
『真尋は、部長を辞めること考える?』
葵が尋ねる。
「今は考えていません」
『中心が変わったら?』
「何が?」
『話を聞く組織じゃなくなる。本社から、数字だけにしろって言われる。山岸さんや森田さんの役割がなくなる』
「反対します」
『それでも変わらなかったら?』
「部長として続ける意味を考えます」
『辞める?』
「すぐには」
『うん』
「中から変えられるか。残ることで守れるものがあるか。自分の肩書きを守るためだけになっていないか。それを考えます」
『同じだね』
「はい」
*
「明日の試食会で、何を伝えますか」
真尋が尋ねる。葵は資料をめくる。
『味の変更には賛成。価格十五円増も。量は残す』
「はい」
『コピーは、今の言葉を中心にする。店舗別の補助コピーは変えていい。でも、迷いを乗り越えるとか、前向きになる言葉にはしない』
「はい」
『理由は、購入者が休息を受け取っているから。アンケートを出す』
「はい」
『全国展開で明るいコピーが必要なら』
葵は考える。
『新しい案を自分でも出す。ただし、中心は変えない』
「どのような言葉なら?」
『まだわからない。明日までに考える』
「一人で?」
『石橋さんにも相談する。開発にも』
「葵だけの商品ではないので」
『まだ、その言い方は寂しい』
「はい」
『でも、言って』
「はい」
*
電話を終える前、葵が言った。
『真尋。私、商品が売れたら、自分が変わった証拠になると思ってた』
「はい」
『全国に行けば、直哉と別れたことも、苦しかったことも、無駄じゃなかったって』
「はい」
『でも、それだと売れなかったら、全部無駄になる。違うね』
「はい」
『商品は商品。私の人生の証明にしない』
「はい」
『でも、仕事として成功させたい。それは言う』
「言ってください」
『きれいな話だけにしない』
「はい」
*
翌朝、真尋は葵から送られてきた三つのコピー案を見た。
『迷う日にも、ひと息。』
『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』
『答えを急がない時間へ。』
どれも、前向きになることを求めていない。
最初の言葉が最も直接的。二つ目は広い。三つ目は静かだが、商品としては硬い印象もある。
『どれがいい?』
真尋はすぐに選ばなかった。
『葵は?』
『一つ目。でも全国なら二つ目かも。真尋なら?』
『購入者では一つ目』
『仕事では?』
『店舗と時間帯によって二つ目も使います』
『また複数』
『一つにしなければいけませんか』
返事が遅れる。
『営業も同じこと言った。正面を二種類にすると、製造費上がる。補助札なら変えられる』
『はい』
『なら正面は一つ目。売り場の札で二つ目』
『良いと思います』
『真尋の案じゃなく、私の案』
『はい』
葵が自分で決めた。
*
その日の午後、地域会議が開かれた。進行は森田。真尋は参加者の一人として席に座る。
画面には福岡、広島。山岸は議事録ではなく、人員と運用の報告担当。
森田が冒頭で言う。
「本日の目的は、三地域の課題を一つへまとめることではありません」
真尋が以前、何度も使った言葉に似ている。
「違いを確認し、共有できる部分だけを決めます」
同じではない。森田の言葉になっている。
会議が進む。福岡の小田から、問い合わせ経路の不明確さ。広島の岩瀬から、店舗説明の時間帯。大阪の坂口から、研修資料の量。
森田は意見を整理する。すぐに結論へ行かない。だが、話が広がりすぎる前に切る。
「今は、資料の量だけ決めます」
真尋なら、三つの議題を同時に整理したかもしれない。森田は一つずつ進める。
遅い。だが、参加者が置いていかれない。
*
途中、小田が真尋へ直接尋ねた。
『水口さんは、どう思いますか』
真尋は答える前に森田を見る。
森田が言う。
「最終判断が必要な内容ではありません。まず、福岡と広島の案を比べましょう」
真尋へ質問が流れないよう、森田が止めた。
以前なら、自分が答えないことへ少し不安を感じた。今も感じる。手元のペンを置き、真尋は黙る。
*
会議は予定より十分延びた。決まったことは二つ。決まらなかったことが一つ。
森田は最後に言う。
「決まらなかった議題は、次回までに各地域で一度試してください」
会議終了。真尋はノートを閉じる。
「どうでした?」
森田が近づく。
「何が?」
「進行」
「私から言う必要がありますか」
「初回なので」
真尋は考える。
「参加者の発言は、以前より多かったです。一つずつ進めたことで、置いていかれる人が少なかった」
「はい」
「時間は延びました。次回は、決める議題を二つまでに」
「僕も思いました。水口さんなら、もっと早かった?」
「たぶん。でも、同じである必要はありません」
森田の口元が緩んだ。
「それを聞きたかったです」
*
午後五時頃、葵から短いメッセージが届いた。
『提案、通った』
真尋は会議の合間に読む。
『どこまで?』
『味変更。十五円値上げ。量そのまま』
『はい』
『正面は、迷う日にも、ひと息。住宅地の売り場札は、立ち止まる今日に、小さな甘さを。全国展開は、三か月後の数字で』
『おめでとうございます』
少しして。
『でも、私の案だけじゃない。開発が味を作った。営業が売り場札を。石橋さんがアンケートをまとめた』
『はい』
『私だけの商品じゃない』
真尋は画面を見つめる。
『寂しいですか』
『かなり』
『はい』
『でも、少し嬉しい。私がいなくても作業進んだ』
『はい』
『昨日の真尋と同じ』
『そうですね』
*
仕事を終えた後、真尋は花屋へ寄った。
津田は、娘と一緒に店先の配置を変えている。以前は入口の右側にあった花が、左側へ移されていた。
「変えましたね」
真尋が言う。津田が少し不満そうに答える。
「娘が」
「こっちのほうが夕方の人に見えるから」
娘が言う。
「売れました?」
「昨日は」
津田が答える。
「でも私は前のほうが好き」
「なぜ?」
「朝の光が入るから」
「夕方の客が多い」
娘が言う。二人は意見が違う。それでも店は続いている。
「水口さんは、どちら?」
「夕方に来るので、今のほうが見えます」
津田が顔をしかめる。
「一票取られた」
「でも、朝の光も見たいです」
「どっち」
「時間で変えては?」
二人が同時に真尋を見た。
「毎日動かすの大変」
津田が言う。
「週末だけ?」
娘が考える。真尋は笑った。
「仕事にしてしまいました」
「部長だから」
「関係ありません」
*
真尋は小さな黄色い花を一本買った。名前は、クラスペディア。丸い形。細い茎。
部屋へ戻り、空だった白い花瓶へ入れる。一本だけでも、存在感がある。
桃色の造花とは別の器。同じテーブル。
*
夜、葵からビデオ通話がかかってきた。予定していた時間。葵の後ろには、会議資料と試作品。
『今日、石橋さんに言われた』
「何を?」
『手を離したくないなら、一人で作れる範囲の商品にしろって。全国へ行きたいなら、ほかの人の手が入る。それで中心が変わるなら、止めろ』
「はい」
『でも、全部自分のままにしたいは通らないって。厳しい』
「はい」
『真尋も、同じこと言うでしょう』
「少し」
『少し?』
「石橋さんのほうが明確です」
『うん』
「葵は、どう答えました?」
『全国へ行きたい。でも、中心は守りたい。だから、関わる人へ説明する。言葉の理由を』
「はい」
『私の失恋の話じゃなく、買った人が、何を受け取ったか』
「はい」
『それで変わるなら、変わった理由を聞く。私の案が通らなくても、すぐに私の商品じゃないって言わない』
「はい」
『でも、本当に違うものになったら、担当を外れることも考える』
「はい」
葵は、自分の境界を少しずつ作っている。
*
『真尋は、森田さんの会議どうだった?』
「終わりました」
『口出した?』
「しませんでした」
『本当に?』
「一度も」
『偉い』
「最後に感想は言いました」
『仕事だから』
「はい」
『寂しかった?』
「はい」
『何が?』
「私より、参加者が話しやすそうでした」
葵が驚き、それから笑う。
『それ、かなり寂しい』
「はい」
『でも、いいこと?』
「はい」
『真尋が怖かった?』
「可能性はあります」
『森田さんは、怖くない?』
「違う怖さはあると思います。立場と進め方が違うので」
『真尋が作った会議なのに』
「今は、皆の会議です」
『商品と同じ』
「はい」
*
二人はしばらく、手を離れる仕事について話した。
作った人がいなくても続くもの。変わるもの。残るもの。自分の名前が表へ出ない仕事。誰かの判断で形が変わること。
『真尋。私、商品が全国になって、誰かが違うコピーを見て買ったら、その人にとっては、私の最初の言葉なんて関係ない』
「はい」
『少し嫌』
「はい」
『でも、その人が休めたら、それでもいいと思えるようになりたい。今は、まだ半分』
「十分では?」
『真尋は?』
「森田さんの会議がうまくいっても、私の方法が忘れられるのは、少し寂しいです」
『うん』
「でも、皆が話せる会議なら、私の名前が残らなくてもよいと思いたいです」
『まだ?』
「まだ半分です」
二人は笑った。
*
翌週、再テストが始まった。首都圏二十店舗。味を変えた商品。十五円高い価格。
正面には、
『迷う日にも、ひと息。』
住宅地の一部店舗では、売り場札に、
『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』
葵は初日の朝、売り場へ行った。以前のように数字を何度も確認しないと決めていた。
それでも昼前に一度。夕方に一度。夜に一度。真尋へ送られてくるメッセージの時間でわかる。
『初回、前より売れてる』
『はい』
『価格上がったのに』
『はい』
『でも、まだ一日。わかってる』
翌日。
『住宅地も少し上がった。札、効果あるかも』
『はい』
三日目。
『駅前、再購入らしい人がいた』
『わかるんですか』
『店員さんが、前も買ったって』
『はい』
葵は喜んでいる。同時に、数字へ戻り始めている。
真尋は止めない。仕事として見る必要がある。
*
一週間後、初週の数字が出た。
前回より売上は高い。再購入率も、わずかに改善。だが店舗差は残る。全国展開を判断するには、まだ早い。
葵から電話。
『良かった。でも、もっと上だと思った』
「はい」
『欲張り?』
「仕事なので」
『石橋さんも同じこと言った。喜んでから、次を見ろって』
「はい」
『今日は喜ぶ。明日から分析』
「はい」
*
その夜、真尋は自分の仕事の数字を確認していた。
森田が進行した地域会議後、参加者の発言数は増えた。決定までの時間は少し長くなった。問い合わせは減っている。
自分へ直接届く相談は、以前の半分。山岸へ。森田へ。地域責任者へ。分散している。
目標通りだった。
だが、自分の受信箱が静かだ。真尋は何度も更新した。新しいメールはない。
必要とされていないような感覚が、指先から上がってくる。
真尋は椅子から立ち、窓を開けた。
夜の公園。電車。自分の部屋。
仕事が進んでいる。だから静か。問題がないから呼ばれない。
呼ばれるために、何かを探す必要はない。
*
真尋は生活ノートを開いた。
『手を離れた言葉』
その下へ書く。
『中心を伝えることと、形を固定することは違う』
『誰かの手が入ることで、届く場所が増える』
『変わる理由を聞く』
『自分の名前が残らなくても、始めたことは消えない』
『寂しさを、支配へ変えない』
最後の一文を書いた時、葵の顔が浮かんだ。
商品を自分の人生の証明にしようとした葵。今は、商品を仕事として成功させたいと言う。
その変化。
真尋も、組織を自分の価値の証明にしない。部長として必要とされることは嬉しい。だが、自分だけが必要な組織にはしない。
*
数日後、山岸が初めて単独で人員配置案を支社長へ提出した。真尋は事前に内容を見ていない。
支社長との面談後、山岸が真尋の席へ来る。
「一か所、戻されました」
「どこですか」
「配置理由が弱いと。本人の希望は書いたけど、組織側の必要性が不足していました。修正します」
「手伝いは?」
「必要なら頼みます」
「はい」
山岸は自分の席へ戻る。真尋は追いかけない。
夕方、修正版が通ったと報告が来た。
『承認されました』
『おめでとうございます』
『ありがとうございます』
それだけ。真尋は内容を見せてほしいと言わなかった。
*
葵の商品も、少しずつ葵の手を離れていた。
開発チームが香りの微調整をする。営業が店舗ごとの札を作る。デザイン部が全国展開時の色違い案を出す。石橋が会議をまとめる。
葵はすべてへ参加できない。
ある日、デザイン部が葵へ相談せず、季節限定の色案を作った。葵から電話が来た。
『聞いてない。勝手に冬用の白いパッケージ。雪みたいなデザイン。言葉は、迷う冬にも、ひと息』
「はい」
『悪くない。だから余計に腹が立つ』
「自分がいなくても良い案が出たから?」
『うん。でも、相談はしてほしかった』
「それは伝えてよいです」
『口を出したいだけと思われる?』
「役割を確認してください。葵が最終承認するのか。意見を求められる担当なのか。共有だけなのか」
『うん』
「境界が曖昧だから、腹が立つ部分もあります」
『明日、石橋さんに聞く』
「はい」
*
翌日、葵から返事。
『私の承認は必要だった。デザイン部の担当が、スケジュール急いで先に作った。謝られた』
『はい』
『でも案は残す。私も良いと思うから。勝手に作ったから却下、にはしなかった』
『良い判断だと思います』
『でも、次から先に共有。役割、確認できた』
葵が、感情と仕事を分けている。腹が立った。だが案の価値は別に見た。
*
その週末、真尋は東京へ戻った。
土曜日は俊介。日曜日の夕方、葵。母とは昼食。予定が詰まっている。
それでも、一人の時間を土曜の午前に残した。
東京の部屋へ戻り、窓を開ける。机の上に、秋田の木の札。引き出しへしまったはずだが、前回見た後、箱を机の端へ置いていた。
真尋は箱を開けない。そのままにする。
*
土曜日の午後、俊介の部屋へ行った。
白いカップ。歯ブラシ。部屋着。少しずつ増えた真尋の物。
夕食を作りながら、俊介が尋ねる。
「最近、仕事で寂しいですか」
「なぜ?」
「電話で、相談が減ったと言っていたので」
「はい」
「今は?」
「少し慣れました。でも、受信箱を何度も見ます」
「呼ばれたい?」
「少し」
俊介は野菜を切りながら言う。
「僕も、真尋からの連絡を何度も確認します。必要とされたいから」
「はい」
「でも、連絡がない日は、真尋が生活できている日でもある。仕事も同じですね」
「はい」
「問題がないから静か。それでも寂しい」
「はい」
「寂しいまま、料理をします」
二人は笑った。
*
夕食後、俊介は北川の送別会の写真を見せた。大学時代の友人たち。笑う俊介。花束を持つ北川。
「楽しそうです」
真尋が言う。
「はい」
「寂しいですか」
「北川さんが遠くへ行くわけではありません。でも、関係が少し変わると思います」
「なぜ?」
「仕事の相談が終わる。会う理由が一つ減る」
「友人なら、理由がなくても会えるのでは」
「そうですが」
俊介は考える。
「理由があったほうが連絡しやすいこともあります。真尋と葵さんは?」
「理由がなくても連絡します。でも、予定を決める理由を作る時もあります」
「はい」
「関係は、自然に続くだけではないので」
「選ぶ?」
「はい」
*
翌日、母の家で昼食を取った。真尋の部長就任祝いとして、母が赤飯を炊いていた。
「大げさです」
「いいでしょう」
「まだ着任前です」
「決まった時に祝うの」
焼き魚。煮物。赤飯。食卓へ並ぶ。
「俊介さんとは?」
母が尋ねる。
「続いています」
「それは知ってる。結婚は?」
「急がないでください」
「聞いただけ」
「三か月ごとに話します」
「会議みたい」
「必要なので」
母は思わず笑った。
「葵ちゃんの商品、味が変わったんでしょう」
「なぜ知っています?」
「葵ちゃんから、送ってもらった」
「いつ?」
「先週」
真尋は驚いた。
「直接連絡しているんですか」
「たまに」
「聞いていません」
「全部言う必要ある?」
母の言葉に、真尋は黙る。
「ありません」
「でしょう」
「はい」
母と葵の関係。真尋がすべて知る必要はない。頭ではわかる。それでも、指先が少しだけ冷たくなった。
*
「食べた?」
真尋が尋ねる。
「新しい味?」
「はい」
「おいしかった」
「以前と比べて?」
「前のは、少し忘れた。でも、言葉は覚えてる」
「どちら?」
「迷う日にも、ひと息」
「はい」
「私、あの言葉好き」
「なぜ?」
「決めた後に迷うこと、たくさんあったから」
「父との結婚?」
「それも。仕事を辞めたこと。パートを始めたこと。お父さんと離れて暮らしたこと」
「はい」
「全部、決めた後に迷った」
「はい」
「でも、商品を作った人が誰かは知らない人も多いでしょう。それでも言葉は残る」
「はい」
「葵ちゃんは、寂しいでしょうね。自分の名前が出ない」
「はい」
「でも、それが商品なのかもね」
母は赤飯をよそいながら言う。
「誰かの生活へ入ったら、作った人から離れる。料理も同じ」
「どういう意味ですか」
「私が作った赤飯を、真尋が食べる。真尋の中では、今日の記憶になる。私が何を考えて炊いたか、全部は残らない」
「はい」
「でも、それでいい」
真尋は赤飯を見た。
母が部長就任を祝うために作った。だが、数年後には味だけを覚えているかもしれない。何を話したか。どの器だったか。忘れる。
それでも、今日食べたことはなくならない。
*
日曜日の午後五時。葵と待ち合わせたのは、以前の商品テスト店舗の近くのカフェだった。
葵は先に着いていた。テーブルの上に、新旧二つのパッケージ。
「比較するんですか」
真尋が座る。
「記念。古いほう、中身は入ってない」
「食べた?」
「うん」
「はい」
「真尋も、残してた試作品食べた?」
「まだ一つ」
「食べて」
「はい」
「賞味期限」
「確認します」
*
二人は飲み物を注文した。葵は紅茶。真尋はコーヒー。
「売上、どうですか」
真尋が尋ねる。
「初週は前より良い。二週目も、落ち方が小さい。再購入も少し増えた」
「はい」
「でも、全国決定にはまだ足りない。三か月見る」
「はい」
葵は落ち着いて数字を話す。以前のように、数字一つで表情が大きく変わらない。
「冬用パッケージは?」
「進める。白い色。正面は同じ。売り場札は、答えを急がない冬へ」
真尋は考える。
「少し硬いです」
「やっぱり?」
「はい」
「営業にも言われた」
「別案は?」
「寒い日に、ひと息」
「広すぎます」
「難しい」
二人は声を立てて笑った。
*
「真尋」
葵が新しいパッケージへ触れる。
「これ、私の商品に見える?」
「何をもって?」
「言葉」
「はい」
「味」
「開発の方々も」
「デザイン」
「デザイン部」
「じゃあ、私の部分は?」
真尋は考える。
「最初に、迷う人へ答えを求めない商品を作りたいと考えたこと。その中心を、ほかの人へ説明したこと」
「うん」
「味を変える判断を出したこと。価格を上げても量を残したこと。店舗ごとの言葉を受け入れたこと」
「うん」
「勝手に作られた案へ腹を立てても、良い案として残したこと」
「うん」
「手を離したことも、葵の仕事です」
葵はしばらく黙った。
「手を離したところも?」
「はい」
「見えない」
「仕事には、見えない部分があります」
「真尋が森田さんへ会議を渡したことも、誰も知らない?」
「一部は」
「でも、参加者は森田さんの会議だと思う。真尋が作った仕組みだって忘れる」
「はい」
「平気?」
「完全には」
「うん」
「でも、忘れられるほど続けば、良い仕事だったと思いたいです」
「私も、そう思えるようになる?」
「葵次第です」
「はい」
*
葵は古いパッケージを真尋へ差し出した。
「持ってて」
「なぜ?」
「私は新しいほう持つ。古いの、捨てられない。でも二つとも持つと、ずっと比べる」
「はい」
「真尋に預けたい」
真尋は受け取らず、考えた。
「私が持つ理由は?」
「最初の味を知ってるから。秋田へ持っていったから。私が迷った時、真尋が食べてくれたから」
「はい」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「では」
「ただ、葵が手放すために、私を保管場所にしないでください」
葵の手が止まる。
「どういう意味?」
「葵が見たくないものを、私へ預ける。それでは、葵が手放したことになりません」
葵は少し傷ついた顔をした。
「持ってほしかっただけ。大切なものを共有したい」
「それなら、受け取ります」
「うん」
「捨てられないからではなく?」
葵は考える。
「両方。でも、真尋にも持っていてほしい」
「わかりました」
真尋はパッケージを受け取った。
空。中身はない。言葉と色だけが残っている。
*
「秋田の木の札みたい?」
葵が尋ねる。
「違います」
「何が?」
「木の札は、二人で持つために買いました。これは、葵の仕事の記録です」
「うん」
「私は、預かる人」
「持つ人」
「はい」
「戻してって言うかも」
「その時は返します」
「捨てないで」
「はい。でも、関係の証明にはしない」
「はい」
二人は確認する。物へ関係を背負わせすぎない。
*
カフェを出た後、二人は少し歩いた。
以前、商品を買う女性を遠くから見た店舗。今は新しい味が並んでいる。
売り場の札。
『迷う日にも、ひと息。』
棚の横には、
『立ち止まる今日に、小さな甘さを。』
二つの言葉が同時にある。
一人の女性が商品を手に取る。裏面を見る。かごへ入れる。
葵が小さく息を吸った。
「声かけたい?」
真尋が尋ねる。
「少し」
「やめてください」
「わかってる」
二人は笑う。
女性が何を受け取ったかはわからない。言葉。味。色。価格。偶然。
葵の意図のすべては届かない。それでも商品は、その人の生活へ入る。
*
「真尋。商品が全国になって、私が担当を外れても、私の商品だったって言っていい?」
「もちろんです」
「今の商品でも?」
「はい」
「私だけのものじゃなくても?」
「はい」
「矛盾しない?」
「しません」
「どうして?」
「自分が作ったことと、自分だけが所有することは違うからです」
葵は考える。
「名前のない場所も?」
「何が?」
「私たちが作った。でも、私だけのものじゃない」
「二人のものです」
「俊介さんや仕事に影響されて変わる。でも、私たちの場所」
「はい」
「少し似てる」
「関係と商品は違います」
「わかってる」
葵は笑う。
「でも、中心を二人で決めて、生活で変わる。変わっても、作ったことは消えない」
「はい」
*
別れる駅で、葵が言った。
「次に会う日、決める?」
「来月の予定を確認します」
「水曜日?」
「はい」
「今日決めたい」
「なぜ?」
「商品が忙しくなりそう。先に場所を取りたい」
「私の予定にも、俊介と母があります。水曜日に全体を確認します」
「また待つ」
「はい」
「嫌」
「はい」
「でも待つ」
「ありがとうございます」
葵は少し不満そうにしながらも頷いた。
「名前のない場所でも、予約が必要」
「生活なので」
二人は顔を見合わせた。
*
東京の部屋へ戻った真尋は、葵から受け取った古いパッケージを机へ置いた。
空。賞味期限の印字。少し折れた端。秋田へ持っていったものと同じデザイン。
どこへ置くか考える。木の札と同じ箱へは入れない。
仕事の記録。別の引き出し。
真尋は、旅の写真やチケットを入れている薄いファイルへ挟んだ。
葵との関係の証明ではない。葵が作った最初の商品の記録。
*
大阪へ戻る新幹線で、真尋は森田が進行した会議の議事録を読んだ。
表現が、以前の真尋のものと違う。
『決定事項』
だけでなく、
『各地域で異なった点』
『今回は決めなかった理由』
が書かれている。
真尋の議事録より長い。だが、後から見た人が、なぜ一つへまとめなかったか理解できる。
良い。自分なら、もっと短くした。それでも良い。
真尋は承認の印をつけた。
*
大阪の部屋へ戻る。
「ただいま」
白い花瓶には、黄色いクラスペディア。少し乾いているが、形は変わらない。桃色の造花は、別の器。
真尋は水を替えた。
バッグから新しい試作品を一つ取り出す。東京で葵から渡された。
古いパッケージは東京に置いた。新しい商品は大阪へ。
過去を一か所へ固定せず、今のものを、今の生活へ持ってくる。
*
夜、真尋は新しい商品を食べた。
以前より香りが強い。酸味。甘さ。二度目でも、もう一つ食べたいと思う。
再購入率が上がる理由が少しわかる。
言葉だけではない。味だけでもない。二つが重なる。さらに、売り場。時間。人の気分。
多くの要素。
商品は、葵の人生から始まった。だが、今は多くの人の仕事と、知らない人の生活へつながっている。
*
真尋は生活ノートを開いた。
『手を離れたもの』
と書く。
『森田へ渡した会議』
『山岸へ渡した人員配置』
『小田へ渡った中原の仕事』
『葵から開発と営業へ渡った商品』
『母が作り、私が食べた赤飯』
その下へ。
『手を離れることは、失うことではない』
書いてから、考える。
失う場合もある。担当を外れる。名前が忘れられる。中心が変わる。関係が終わる。
だから、言い切りすぎない。
真尋は修正した。
『手を離れることは、必ずしも失うことではない』
『変わる前に、守りたい中心を伝える』
『変わった理由を聞く』
『自分のものではなくなっても、自分が関わった事実は消えない』
*
最後に、秋田での約束を思う。
戻った時、前と同じであることを求めない。
葵の商品も。真尋の組織も。葵と真尋自身も。
次に会う時、今と同じではない。葵はさらに仕事を広げる。新しい人と出会う。真尋は部長になる。俊介との関係を進める。
互いに変わる。それでも戻る時には、知り直す。
*
スマートフォンへ、葵からメッセージが届いた。
『試作品、食べた?』
『はい』
『二つ目、欲しくなった?』
『はい』
『本当に?』
『今、もう一つ食べるか迷っています』
『食べて』
『夜なので』
『商品としては食べてほしい』
『生活としては明日にします』
葵から笑う顔。
『そういう人に売る商品』
『はい』
『明日、また食べたいと思ってくれたら成功』
『はい』
真尋は袋を閉じ、棚へ置いた。明日のために残す。
*
照明を落とす。
部屋には、空の白い花瓶ではなく、黄色い花が一本。一つだけでも、場所を持っている。
真尋は寝室へ向かった。
明日、森田が次の会議案を出す。山岸が評価資料を完成させる。小田が判断する。葵の商品が、知らない人へ買われる。
真尋が直接触れなくても、物事は進む。葵が見ていなくても、商品は食べられる。
それぞれの手を離れた場所で。
*
真尋は布団へ入った。
自分が関わったものが、自分の知らない形へ変わっていく。
寂しい。嬉しい。怖い。誇らしい。
一つへまとめる必要はない。
手を離したからこそ届く場所がある。手を離さないから守れる中心もある。
その境界を、一度で決めることはできない。変わるたびに話す。仕事でも、関係でも。
真尋は目を閉じた。
明日、葵の商品をもう一つ食べる。今日と同じ味でも、受け取り方は少し違うだろう。
それでよかった。




