第三十一章 任せる側の孤独
部長就任の正式発表から一週間が過ぎた頃、真尋の予定表は以前より細かく埋まり始めていた。
午前九時、山岸の管理職研修。十時半、福岡との運用会議。午後一時、本社人事との面談。三時、広島の人員配置確認。五時、新組織の予算説明。
会議と会議の間には、決裁、相談、資料確認、店舗からの問い合わせが入る。
部長になるまでの準備期間で、正式着任はまだ半年先だった。それでも、周囲の接し方はすでに変わっていた。
「水口部長」
そう呼ぶ人が増えた。
「まだです」
最初の数日は訂正していた。だが、そのたびに会話が止まる。
『でも、もう決まりましたよね』
『今から慣れておかないと』
『部長代理より短いので』
理由はそれぞれだった。真尋は訂正することをやめた。
呼ばれ方を変えたくないという気持ちはある。だが肩書きは、本人の感覚だけでは決まらない。
周囲にとって、すでに真尋は次の部長だった。
*
月曜日の朝。執務室へ入ると、机の上に決裁書類が五冊置かれていた。その横に、山岸からの付箋。
『四件は私が確認済みです。一件だけ判断をお願いします』
真尋は上から一冊ずつ手に取った。
店舗研修の日程。
担当変更。
例外商品の登録。
相談窓口の運用。
最後の一件は、福岡の人員配置。中原が休職に入る可能性があるという内容だった。
真尋の手が止まる。
詳しい理由は書かれていない。
『体調上の事情により、来月から一か月以上の休職を検討』
中原は、制度統一に最も強く反対した人だった。その後、運用を支え、若手を育て始めた。最近のオンライン会議でも、疲れた様子は見せていなかった。
真尋はスマートフォンを持ち、中原へ連絡しようとして、止めた。
山岸へ先に確認する。
「山岸さん。中原さんの件、いつ聞きましたか」
「金曜日です」
「誰から?」
「福岡の総務から」
「本人とは?」
「話していません」
「なぜ、すぐに報告しなかったんですか」
言った瞬間、山岸の表情が硬くなった。声が尖っていたことに、自分でも遅れて気づく。
「水口さんは東京へ戻っていました。緊急の基準には入らないと判断しました」
「休職の可能性です」
「来月からです。本人も、すぐに話すことを希望していませんでした」
真尋は言葉を止める。
「本人の希望?」
「はい。総務からは、月曜日に正式に共有するよう言われました。だから、今日です」
山岸は落ち着いて説明する。
判断は間違っていない。緊急ではない。本人の希望もある。
それでも真尋は、金曜日に知りたかったと思った。中原の状態。何が起きていたのか。自分は責任者なのに。
その「なのに」が、どこから出てくるのかを考えると、少し嫌な気分になった。
「わかりました。本人へ連絡します」
「その前に、福岡総務から説明を受けてください。中原さんが、何を共有してよいと言っているか」
「はい」
山岸の言葉が、以前より明確になっている。真尋がすぐ動こうとすることへ、止める言葉を渡している。
「お願いします」
真尋は決裁書類を置いた。
*
午前九時の研修では、山岸が模擬面談を行った。相手役は人事担当。設定は、勤務態度に問題がある社員への指導。
山岸は相手の話を丁寧に聞く。遅刻の理由。家庭の事情。仕事量。本人の認識。
聞く力はある。だが、必要な指導が遅い。人事担当が問題を曖昧にすると、山岸も追及を避けた。
「では、今後気をつけてください」
最後に山岸が言った。
模擬面談が終わる。人事担当が振り返る。
「水口さん、どうでしたか」
真尋は答える前に、山岸を見た。
「山岸さん自身は?」
「話は聞けました。でも、何を改善してほしいかを、明確に伝えられませんでした」
「なぜ?」
「相手の事情を聞くと、強く言えなくなりました。遅刻を続けたことへ責任を求めると、追い詰める気がして」
山岸は自分で気づいている。
「事情を理解することと、行動の改善を求めることは両立します」
「はい」
「家庭の事情があるなら、勤務時間を変える方法を考える。ただし、連絡なく遅刻することは別に扱う」
「はい」
「相手が傷つかないことを目標にすると、必要な話ができません」
山岸が少し顔を曇らせる。
「水口さんは、できますね」
「強く言いすぎることがあります。山岸さんには、逆の傾向があります。どちらも調整が必要です」
人事担当が頷いた。
「もう一度やりますか」
山岸が尋ねる。
「今ですか」
「はい」
「では、十分休憩してから」
「お願いします」
真尋は時計を見た。次の会議まで一時間。
以前なら、研修は一度で終え、後日振り返りをした。山岸は今、やり直したいと言った。
真尋は予定を少し動かした。
*
二回目の模擬面談。山岸は最初より短く質問した。相手の事情を聞き、その後で言った。
「事情があることは理解しました。ただ、連絡のない遅刻が三回続いたことは、チームの仕事へ影響しています」
具体的な言葉が続く。
「今後、遅れる可能性がある時は、始業三十分前までに連絡してください。それが難しい場合は、勤務時間の変更を人事と検討します」
責めるだけではない。
「ただし、連絡なしの遅刻が続く場合は、評価へ反映します」
山岸の声は震えていた。それでも、言い切った。
面談が終わる。
「どうでしたか」
真尋が尋ねる。
「怖かったです。嫌われた気がします」
「模擬です」
「わかっています。でも、本番でも同じだと思います」
「嫌われる可能性はあります。それでも、役割として必要です」
山岸は深く息を吐いた。
「部長も、こういうことを毎日?」
「毎日ではありません」
「でも、決める」
「はい」
「水口さんが一人で決めていた理由も、少しわかります」
真尋は山岸を見る。
「何が?」
「ほかの人へ任せると、相手もこの怖さを持つから。自分で引き受けたほうが早い」
「はい」
「でも、それを続けると、誰も経験できない。今、わかりました」
山岸はノートへ何かを書いた。真尋はその手元を、少しだけ長く見ていた。
*
午前十時半。福岡との運用会議が始まる前に、真尋は福岡総務から中原の件について説明を受けた。
中原は、数か月前から睡眠が浅く、動悸が続いていた。業務上の問題だけではない。家族の介護。通院。仕事との両立。
本人は、制度統一が落ち着くまで休みたくないと考えていた。先週、医師から休養を勧められた。正式な診断書は、まだ提出前。共有できるのは、ここまで。
「本人へ直接連絡してもよいですか」
真尋が尋ねる。
『業務の連絡ではなく、体調確認としてなら。ただ、詳しい事情を聞き出さないでください』
「わかりました」
『中原さんは、自分が抜けることで福岡が回らないと思っています。水口さんから、仕事のことを気にしなくてよいと言っていただけると』
「はい」
電話を切り、真尋はオンライン会議の参加者一覧を見た。
中原の名前はない。代わりに、小田。福岡の若手で、中原が育て始めた社員だった。
*
会議が始まる。小田は緊張していた。
『中原さんの代わりに、今月から運用報告を担当します。不慣れですが』
「わからないことは、わからないと言ってください。すぐ答えられない場合は、確認してからで構いません」
『はい』
真尋は言いながら、葵との最初の旅で、自分が知らないと言えたことを思い出す。
小田へ、何者かになることを急がせない。
*
会議では、福岡の問い合わせ件数が増えていた。中原が休む可能性を知った人たちが、早めに確認しようとしている。
小田へ質問が集中した。
『この分類は、以前中原さんが』
『例外判断の基準が』
『来月の店舗説明は』
小田の表情が次第に硬くなる。画面越しでも、肩が上がっていくのがわかった。
真尋は途中で止めた。
「今日は、決める議題を二つに絞ります」
『でも、来月の』
「残りは、次回へ」
『中原さんが休む前に』
「中原さんへ確認する前提を外します」
画面の何人かが黙る。
「中原さんがいなければ決められない状態を、そのまま続けません」
『では、誰が?』
「小田さんと福岡の責任者、必要なら森田さん」
『小田さんにはまだ』
「本人へ聞きます」
真尋は小田を見た。
「今、何を担当できますか」
小田は戸惑いながら答える。
『例外商品の一次判断。店舗説明資料の修正。最終判断は、まだ』
「誰とならできますか」
『福岡の責任者と』
「森田さんの支援も?」
『はい』
「では、その体制を作ります」
中原が休む前に引き継ぎを完璧にするのではなく、休んでも動ける形を作る。
*
会議後、真尋は中原へ短いメッセージを送った。
『体調について共有を受けました。詳しい事情を聞くための連絡ではありません。仕事のことは、こちらで引き継ぎます。今、返事は不要です』
送る。
返事を求めない。すぐに安心させる言葉をもらおうとしない。
中原がどのように受け取るかは、相手の時間だった。
*
昼休み、真尋は一人で外へ出た。
花屋の前を通る。津田は店先で、小さな札を書いていた。
「今日は買わない顔」
「はい」
「忙しい?」
「少し」
「部長だから?」
「まだ準備です」
「でも顔は部長」
「それは、どういう顔ですか」
「人のこと考えて、自分の昼ご飯忘れそうな顔」
真尋は時計を見た。まだ食事をしていない。
「食べます」
「何を?」
「決めていません」
「近くのパン屋、今日はスープあるよ」
「ありがとうございます」
真尋は歩き出そうとし、足を止めた。
「津田さん。誰かへ仕事を任せた時、寂しくなることはありますか」
津田は考える。
「娘に店を手伝わせた時。最初は何でも言った。花の切り方。並べ方。お客さんへの声のかけ方」
「はい」
「娘が自分のやり方で売った花が、私より売れた日があった。嬉しかったし、腹も立った」
真尋は驚く。
「腹が立つ?」
「私がいなくてもいいみたいで。でも、次の日は別の花が売れなかった。それで、また相談された」
「はい」
「必要か必要じゃないか、毎日変わる。仕事って、そういうものじゃない?」
津田は札へ文字を書き続ける。
「任せると、いらなくなる気がします」
真尋が言う。
「いらなくなるなら、良い仕事したってこともある。でも、本当にいらないかは、本人が決めることじゃない」
「どういう意味ですか」
「周りが必要なら呼ぶ。呼ばれない日は、自分の仕事をする」
「はい」
「呼ばれるために、問題を残さない」
その一言が、真尋の胸へ入った。
「問題を残さない」
「教え切らないとか、わざと自分だけ知ってること作る人いるでしょう。必要とされたいから」
「はい」
「水口さんは、しない顔」
「そうでしょうか」
「する?」
「無意識なら」
「なら、気をつけて」
*
パン屋でスープとサンドイッチを買い、公園のベンチで食べた。
中原。山岸。小田。森田。
自分がいなくても仕事を進める人たち。
真尋は、必要とされなくなることを恐れている。
葵との関係で、必要とされなくても続くことを知った。仕事では、まだうまくできていない。
責任者として必要とされることと、自分だけが必要であることは違う。
*
午後一時、本社人事との面談。議題は、山岸の課長候補としての研修進捗。
『水口さんの評価は?』
「聞く力はあります。必要な指導を明確に伝えることが課題です」
『改善していますか』
「今日、模擬面談をやり直しました」
『一度で終わらず?』
「本人の希望です。最初より良くなりました」
『課長就任へ問題は?』
「現時点ではありません」
『水口さんが大阪を離れるまでに、十分育つと思いますか』
言葉が引っかかる。
「離れる、とは?」
『二年目から二拠点勤務です。月の半分は東京。現地運営は山岸さんが中心。水口さんがいない状態で、どこまで判断できるか』
「試します」
『いつから?』
「三か月後から、月に二日」
『早くありませんか』
「小さい範囲から」
『水口さんの決裁が必要な案件は?』
「後から確認します」
『問題が起きれば?』
「修正します」
人事担当が黙る。
『水口さんは、山岸さんを高く評価していますね』
「はい」
『近すぎる可能性は?』
「あります」
『本人へ厳しい評価をつけられますか』
「必要なら」
『本当に?』
その問いに、真尋はすぐ答えなかった。
山岸は、自分へ反対する。支える。生活のことも少し知っている。葵との関係を尋ねた。
近い。だからこそ、評価へ私情が入る危険はある。
「私一人では評価しません。支社長と人事の意見を入れます」
『それは制度上も必要です。ただ、水口さん自身の評価も必要です』
「わかっています」
『近い相手へ、期待を込めて高くつけないように』
「はい」
任せたい気持ちが、評価を歪める可能性。自分が東京へ戻るために、山岸を早く育てたい。
その焦りを、真尋は認めなければならなかった。
*
午後三時、広島との人員配置確認。
岩瀬は、一人の社員をデータ分析へ異動させる案を出していた。本人の希望も確認済み。ただ、現場の営業担当が一人減る。
『短期的には負担が増えます』
岩瀬が言う。
「対策は?」
『三か月、ほかの担当が一部を分ける』
「本人たちの同意は?」
『二人は同意。一人は、まだ。今日話す予定です』
「決める前に話してください」
『案は、まだ決定ではありません』
「はい」
『本人へ早く話すと、不安を与えませんか』
以前、真尋も似た考えを持っていた。案が固まってから伝えたほうが混乱しない、と。
だが、自分の名前が入った配置案を完成後に見せられるほうが、よほど不安になる。
「不確定であることを伝えて話してください。本人の意見で変わる余地を残す。それがなければ、確認ではなく通知になります」
岩瀬は頷いた。
*
午後五時、予算説明。
財務担当から、二拠点勤務の費用について細かな質問を受けた。新幹線。東京の住居補助。大阪の住居。オンライン設備。山岸の研修費。森田の専門職手当。
『現状より年間で約四百万円増加します。それだけの効果を、どこで測りますか』
「業務時間の削減。離職率。意思決定までの日数。地域別の売上差の縮小」
『水口さんが東京にいること自体の効果は?』
「本社調整の時間削減」
『数値化できますか』
「試験前に基準を取ります」
『はい』
仕事の仕組みとして認められた二拠点。恋人との生活を守りたいという私的な理由だけでは、会社は続けない。結果を示す必要がある。
真尋は、その責任を改めて感じた。
*
会議が終わったのは午後六時半。予定より三十分遅い。
今夜は俊介と八時半から短い電話。葵との連絡はない日。
真尋はすぐに会社を出た。山岸が声をかける。
「決裁、二件残っています」
「明日の朝にします」
「本当に?」
「期限は明日の正午です。帰ります」
山岸は吹き出した。
「部長になって、初めて残業を減らしましたね」
「以前も」
「今日は、です」
*
部屋へ着いたのは午後七時半。食事を作る時間はある。
冷蔵庫を開ける。鶏肉。野菜。卵。
簡単な炒め物と味噌汁を作り、八時十分に食べ終えた。食器を洗い、八時二十五分。
俊介から。
『予定通り話せますか』
『はい』
八時半、電話がかかる。
*
『お疲れさまです。部長の一日は?』
「まだ部長ではありません。長かったです」
『何かありました?』
真尋は中原の休職の可能性を、共有できる範囲で話した。山岸が金曜日に報告しなかったこと。自分がすぐに責めるような言い方をしたこと。本人の希望を確認していた山岸の判断。
『真尋は、金曜日に知りたかったんですね』
「はい」
『なぜ?』
「責任者なので。中原さんは、制度統一の中心でした。何かできたかもしれない」
『金曜日に知っていれば?』
「わかりません。でも、知らないことが嫌でした」
『自分だけ知らない?』
「はい」
『置いていかれたような?』
真尋は考える。
「そうかもしれません。仕事を任せると、情報も自分を通らなくなる。それが、少し怖いです」
俊介が静かに聞いている。
『僕が、真尋の大阪の生活を知らないのが怖いのと似ていますか』
真尋は驚いた。
「少し」
『はい』
「自分がいない間に、関係や仕事が進む。必要とされなくなるように感じる」
『あります』
「俊介も?」
『でも、真尋は大阪で生活を進める。僕も東京で。全部を知れない』
「はい」
『仕事も、同じですね』
「そうですね」
*
『中原さんへ、何と連絡しました?』
「返事は不要。仕事はこちらで引き継ぐと」
『返事は?』
「まだありません」
『待てますか』
「はい」
『本当に?』
「少し気になります。でも、待ちます」
『仕事でも、待つ練習ですね』
「はい」
俊介の口元が緩んだ。
*
「俊介は、今日は何を?」
『北川さんから、転職先を決めたと連絡がありました。来月から、別の会社へ』
「どこですか」
『設計事務所です』
「俊介の会社とは?」
『違います』
「会う回数は減りますか」
『今も多くありません。送別会があります』
「二人?」
『大学の友人たちと』
真尋の胸に、わずかな嫉妬が動いた。
『不安ですか』
「少し」
『言ってください』
「北川さんが、俊介の過去を知っていることへ嫉妬します。転職の相談を受けるほど信頼されていることにも」
『はい』
「でも、会わないでとは言いません」
『ありがとうございます』
「写真は?」
『送ります。真尋も、職場の人との関係を全部話さなくていいです』
「はい」
『でも、中原さんのように大きなことがあれば』
「話せる範囲で」
*
「俊介。私が大阪の人たちに必要とされなくなっても、部長を続けられると思いますか」
俊介は黙る。
『必要とされなくなることは、ないのでは』
「山岸さんが判断できるようになる。森田さんが地域調整をする。小田さんが中原さんの代わりに動く。私がいなくても、仕事が進む」
『それが目標でしょう』
「はい」
『でも、真尋は寂しい』
「はい」
『部長として必要とされたい?』
「たぶん」
『真尋自身としては?』
問いが胸へ入る。答えの形が、なかなか浮かばない。
「わかりません。職場では、役割があります」
『はい』
「何者でもない時間を持ちたいと思っているのに、仕事では必要とされたい」
『矛盾ですか』
「はい」
『僕は、矛盾していてもいいと思います』
「なぜ?」
『仕事で必要とされたいことが、悪いわけではないから。ただ、必要とされるために人を育てないのは、違う』
「はい」
『必要とされない日へ耐えることも、部長の仕事かもしれません』
真尋は、その言葉を口の中で繰り返した。
「必要とされない日へ耐える。俊介は、できますか」
『できない日もあります。真尋が大阪で幸せそうな時、僕はいなくてもいいのかと思う』
「はい」
『でも、次に会った時、僕といる真尋がいる。それで、自分の場所を知り直します』
「はい」
*
電話は予定の三十分で終えた。
もっと話したい気持ちはある。だが明日も仕事で、俊介も同じだった。
『おやすみなさい』
「おやすみなさい」
『好きです』
「私も」
電話を切る。真尋は少し寂しさを残したまま、スマートフォンを置いた。
すべて話し切らなくても、次がある。
*
翌朝、会社へ着くと、中原から返事が届いていた。
『連絡ありがとうございます。仕事のことを考えないようにしたいのですが、今は難しいです。小田さんへ迷惑をかけることが気になっています』
真尋はすぐに返信しようとし、文章を何度か消した。
『迷惑ではありません』
断定できない。小田には負担がある。
『気にしないでください』
気にしている相手へは、届かない。
真尋は短く書いた。
『小田さんには負担が増えています。こちらで支援体制を作ります。中原さんが休むことと、小田さんの負担を減らすことは、別々に考えます。今は、仕事へ戻る時期を決めなくて大丈夫です』
送る。
中原の休養を正当化するために、小田の負担を隠さない。現実を分ける。
*
午前中、山岸から相談を受けた。
「中原さんの件で、福岡から問い合わせが増えています。一時的に、相談窓口を森田さんへ集めたいです」
「森田さんへ確認しましたか」
「これから」
「先に?」
山岸が言葉を止めた。
「私へ案を話す前に、本人へ聞くべきでした。すみません」
「では、確認してから」
山岸は頷き、会議室を出る。
数分後、森田が真尋の席へ来た。
「相談窓口を僕へ集める案、断りました」
「はい」
「理由を聞きますか」
「山岸さんから聞きます」
「そうですか」
「森田さん自身から話したいですか」
「少し」
「聞きます」
*
「全部を集めると、僕が中原さんの代わりになります。それでは、同じことが起きます」
「はい」
「相談を三つに分けます」
森田はメモを出す。
「分類判断は小田さんと福岡責任者。地域間の調整は僕。人員と体調に関する相談は山岸さん」
「はい」
「最終判断が必要なものだけ、水口さん」
真尋は最後の一行を見た。
「私へ来るものは?」
「契約。予算。重大な例外。それ以外は来ません」
胸の奥で、寂しさが小さく動く。
「わかりました」
真尋は答えた。
森田が真尋の顔を見る。
「本当に?」
「はい」
「全部確認したい顔です」
「はい。でも、任せます」
*
午後、山岸が新しい相談体制を三地域へ説明した。
真尋は会議へ参加しなかった。招待は届いていた。だが山岸が説明する場だ。自分が入れば、質問が真尋へ向く。
その時間、真尋は本社との予算資料を作成した。
会議の様子が気になる。何度もメッセージを開きそうになる。開かない。指がスマートフォンの縁を撫でて、離れる。
一時間後、山岸から報告が届いた。
『説明終了。質問八件。三件はその場で回答。五件は金曜日までに回答します。水口さんへ確認が必要なものは一件です』
真尋は返信する。
『了解しました。一件だけ送ってください』
すぐに資料が届いた。重大な例外商品の契約扱い。確かに真尋の判断が必要なものだった。
必要な時に呼ばれる。すべてではない。
*
その日の夜、葵から珍しく電話がかかってきた。連絡の予定はない日だった。
午後九時過ぎ。真尋は風呂から上がったところだった。
画面に葵の名前。緊急かもしれない。出る。
「もしもし」
『真尋』
葵の声が強い。
「どうしました?」
『今、話せる?』
「十五分なら」
『短い』
「明日も仕事です。何がありました?」
葵は黙る。
『商品、全国展開の候補から外れるかもしれない』
真尋は椅子へ座った。
「理由は?」
『二十店舗の数字』
「予想より少し上では?」
『最初は。二週目から落ちた。再購入が少ない』
「はい」
『言葉は評価されてる。でも味が弱いって』
葵の声が震える。
『パッケージで買って、一度で終わる。商品として続かない。私の言葉だけが残って、商品がなくなるかもしれない』
「はい」
『石橋さんから、味を変える案を出せって。でも、製造費が上がる。価格も』
「はい」
『もう、何が正しいかわからない』
葵は一気に話した。
*
「今日、結論を出す必要がありますか」
真尋が尋ねる。
『金曜日まで』
「今日は水曜日です」
『うん』
「明日、話す時間を取りましょう」
『今じゃだめ?』
「十五分では足りません」
『うん』
「今夜、葵は答えがほしいですか」
『わからない』
「聞いてほしい?」
『うん』
「では、十五分聞きます。答えは明日」
葵は息を吐く。
『真尋、前なら今すぐ考えてくれた』
「はい」
『変わった。部長になったから?』
「違います」
『じゃあ』
「今、疲れています。葵も」
『うん』
「この状態で、大きな判断を一緒に考えたくありません。関係を小さくしたいのではありません」
『うん』
「大切だから、時間を取りたいです」
葵はしばらく黙った。息を整える音が、耳のすぐ近くで聞こえる。
『わかった』
「明日の午後九時から、一時間」
『仕事は?』
「八時までに終えます」
『遅れたら?』
「八時半までに連絡します」
『うん』
「今日は、何が一番怖いかだけ話してください」
*
『私の言葉が、売れなかったって言われること。味が原因でも』
「はい」
『商品がなくなったら、私の仕事も失敗になる』
「はい」
『直哉と別れた後に作ったもの。秋田へ持っていった。真尋が食べた』
「はい」
『それがなくなる。私が変わった証拠が消える気がする』
真尋は、木の札や写真を思い出す。
物がなくても関係はある。だが今、それを正しさとして返さない。
「怖いですね」
真尋が言う。
『うん』
「商品がなくなることと、自分の変化がなかったことになるように感じる」
『うん』
「明日、そこから話しましょう。今夜は眠れそうですか」
『わからない』
「美月へ連絡は?」
『まだ』
「したいですか」
『うん』
「では、私との電話後に。一人で抱えないで」
『はい』
*
十五分で電話を終える。
葵は少し不満そうだった。それでも、次の時間を決めた。
終わりではない。待たせ続けない。
*
翌日、真尋は予定通り午後八時前に会社を出た。決裁書類が一件残っていた。期限は翌日。置いて帰る。
部屋へ着き、食事を済ませる。午後九時、葵とのビデオ通話。
葵の顔は、前夜より落ち着いていた。
『美月に話した。泣いた。でも寝た。今日は、資料もある』
葵は売上推移の表を画面へ映す。
「見てもいいですか」
『うん』
真尋は数字を見た。初週。二週目。店舗別。購入時間帯。再購入。アンケート。味の評価。価格。
「言葉への評価は高いですね。味は、悪くはない」
『でも、もう一度買いたいが低い』
「はい」
『石橋さんは、中身を変えるべきって』
「葵は?」
『言葉を残したい』
「味は?」
『変えてもいい』
「価格が上がる?」
『十円から二十円』
「はい」
『会社は嫌がる』
「原価を下げる別案は?」
『量を減らす』
「葵は?」
『それは嫌』
「なぜ?」
『休息のための商品なのに、少なすぎると満たされない』
葵は、自分の基準を持っている。
*
「商品がなくなることと、葵の変化が消えることを分けましょう」
真尋が言う。
葵の顔が硬くなった。
『また正しいこと?』
「昨日は言いませんでした。今日は、話してもいいですか」
『はい』
「この商品がなくなっても、葵が作った時間はなくなりません。でも、それを言って終わりにはしません」
『うん』
「商品は残したいですか」
『残したい』
「なぜ?」
『売れたい。仕事として成功したい。誰かに届いてほしいだけじゃなく、会社に認められたい。売上を作りたい』
「それでいいです」
葵が驚く。
『きれいじゃない?』
「仕事なので。言葉が届けば売れなくてもよい、とは言えません」
『うん』
「では、売れるために何を変えられるか」
『味。価格は、少し上げる。量は残す』
「それが葵の案?」
『うん』
「ほかの人の意見は?」
『開発は、味の変更に賛成。営業は値上げに反対。石橋さんは、最終的に私へ決めろとは言わない。でも意見を出せって』
「では、案を出してください」
『怖い』
「何が?」
『失敗したら、私の味になる。今は、味が弱いのは開発の責任とも言える。変えたら、私の判断』
「はい」
葵が、決める側の怖さを感じている。今朝、山岸が模擬面談の後で見せた顔と、同じ種類の怖さだった。
*
「山岸さんが、今日、判断する研修を受けました」
真尋が言う。
『うん』
「相手の事情を聞くと、強く言えないと。決めれば、嫌われる可能性があります」
『うん』
「葵も、案を出せば責任が増える。でも、出さなければ、今のまま進む」
『うん』
「どちらを選びたいですか」
葵は黙った。画面の中で、指が机の縁を二度、叩く。
『味を変えたい。価格も上げる。量は減らさない』
「はい」
『それで売れなかったら』
「はい」
『怖いけど、自分の仕事として受ける』
葵は言い切った。
*
『真尋。商品がなくなったら、木の札みたいに何か残す?』
真尋は考える。
「残したいですか」
『パッケージを一つ。でも、なくなった証拠にするんじゃなく、作ったことを覚えるため』
「よいと思います」
『真尋も持ってる?』
「試作品を一つ」
『賞味期限ある』
「はい」
『食べて』
「なぜ?」
『商品だから。残すなら、空のパッケージ』
「わかりました」
『食べて終わるものだから』
葵の言葉が、少し変わった。
商品は、残るためだけに作るものではない。食べられ、なくなる。それでも、届いた時間は残る。
*
電話を終える前、葵が言った。
『昨日、すぐ答えてくれなくて嫌だった。でも、今日でよかった』
「はい」
『昨日なら、味を変えないって言ってたと思う。言葉を守るために』
「はい」
『今日は、商品を残すために味を変えるって言えた。待った意味があった』
「はい」
『でも、次も必ず一日待つとは決めないで』
「はい。状況ごとに話します。大切なことは、時間を取ります」
『うん』
「葵を後回しにするためではなく」
『わかった』
*
金曜日、中原から正式に一か月の休職申請が届いた。真尋は承認した。
同時に、小田を一次運用責任者へ。森田を地域調整。山岸を人員と相談窓口。真尋は契約と予算のみ。
新しい体制。中原がいないことを前提にする。
*
午後、中原から電話がかかってきた。真尋は会議室へ移動して出る。
「もしもし」
『水口さん。休職、承認ありがとうございます。迷惑をかけます』
「負担は増えます」
真尋は、軽く否定しなかった。
『はい』
「でも、体制を作りました」
『小田さんが?』
「一次責任者です」
『まだ早いです。私が教え切れていません』
「本人は引き受けました。小田さんは、中原さんと同じ方法でなくても働けます」
電話の向こうが静かになる。
『はい』
「中原さんが戻った時、以前と同じ役割があるとは限りません」
言いにくい。だが隠さない。
『私の場所がなくなる?』
「可能性はあります。その時は、戻った中原さんと、新しい役割を考えます」
『はい』
「今の席を空けたまま待つことはしません。でも、中原さんが戻る場所をなくすためでもありません」
『はい』
中原の声が震える。
『怖いです。戻ったら、誰も私を必要としていないかもしれない』
「はい」
真尋は、間を置いた。ここで責任者の言葉だけを返すこともできる。
「私も、同じことを怖がっています」
『水口さんが?』
「山岸さんや森田さんが判断できるようになると、自分がいらなくなるように感じます」
『部長なのに』
「はい」
『そうですか』
「必要とされるために、人を育てないことはしません。中原さんも、小田さんを育てた」
『途中です』
「続きは、小田さん自身も作ります。休んでください」
『はい』
「戻る時は、以前と同じ場所を求めず、今の仕事を一緒に見ましょう」
秋田で葵と決めた言葉だった。戻った時、前と同じであることを求めない。
仕事にも、その考えを使える。
『わかりました』
中原が答えた。
*
電話を切った後、真尋はしばらく会議室に残った。
中原の恐れ。自分の恐れ。必要とされないこと。戻った時に場所が変わっていること。
葵との約束は、二人だけのものだった。だが、そこで知ったことは仕事にも影響している。
関係は同じではない。それでも、人が変わって戻ることを受け入れる姿勢は共通している。
*
その夜、真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行。
『自分がいなくても進んだ判断を、覆さなかった』
『必要とされなくなる怖さを、隠さなかった』
『休む人の席を、同じ形のまま残すと約束しなかった』
『戻った時に、変わった場所で会うと伝えた』
その下へ。
『任せる側にも、孤独がある』
書く。
任される側は怖い。失敗する。責任を持つ。嫌われる。
だが任せる側も、役割を失うような寂しさを持つ。
その寂しさを理由に、仕事を抱え込まない。
*
翌週、葵から新しい試作品の写真が届いた。パッケージは同じで、中身の色が少し変わっている。
『味、変えた。どうですか』
『前より香りが強い』
『はい』
『値段は十五円上がる』
『営業は?』
『まだ反対。明日、試食会』
『緊張しますか』
『かなり』
『決めたことを、謝らないで』
送ってから、秋田で決めた言葉を思い出す。
自分の人生を選ぶことを謝らない。葵の仕事の判断も。
葵から返事。
『失敗したら謝る。影響には』
『はい』
『でも、案を出したことは謝らない』
『はい』
*
俊介との次の再会は、二週間後の大阪になった。今回は俊介が来る。
商店街。津田。公園。そして、三か月ごとの確認の最初の話し合いをする。
まだ三か月は経っていない。だが部長就任の決定後、二人の生活は変わり始めている。
*
俊介が大阪へ着いた土曜日。真尋は最寄り駅で待った。
改札から俊介が出てくる。手には花ではなく、小さな紙袋。
「お帰りなさい」
「ただいま」
抱きしめる。以前より、互いに少し力を抜いている。
「何ですか」
真尋が紙袋を見る。
「パンです」
「東京から?」
「駅で」
「大阪にもあります」
「はい。でも、一緒に食べたいものを」
「ありがとうございます」
*
部屋へ戻ると、俊介は白い花瓶を見た。
「花、変わりましたね。白い花」
「アネモネです」
「津田さん?」
「はい」
「意味は?」
「聞いていません」
「珍しい」
「花を見なくなる人がいると」
俊介は花へ近づく。
「きれいです」
「はい」
*
昼食後、二人は公園を歩き、ベンチへ座った。
真尋は中原の休職と、仕事を任せることへの寂しさを話した。
「必要とされなくなるのが怖いです」
俊介は言葉を急がない。
「僕も、真尋に必要とされなくなるのが怖いです。でも、必要とされるために、真尋が一人でできない状態を望みたくない」
「はい」
「仕事も同じですね。山岸さんができるようになれば、真尋は別の仕事をする」
「はい」
「部長として。決裁する人ではなく、仕組みを作る人へ」
「はい」
「それでも寂しい?」
「はい」
「寂しいままでよいと思います」
俊介が言う。
「なくす必要は?」
「ありません。寂しいからと、相手の成長を止めなければ」
「はい」
*
「俊介。私が一人で暮らせることは、寂しいですか」
「少し。大阪で、僕がいなくても食事をして、花を買って、仕事をして」
「はい」
「でも、一人で暮らせない真尋を望んでいるわけではありません。僕が必要だから生きられる人ではなく、僕がいなくても生きられるのに、一緒にいたいと言ってくれる人がいいです」
秋田で葵と決めた言葉に重なる。
「私もです」
真尋が答えた。
*
二人は部屋へ戻り、三か月ごとの確認に使うノートを開いた。
最初の項目。
『我慢が増えていないか』
俊介から話す。
「増えています」
「何が?」
「会いたい時に、連絡を控えること。真尋が忙しいと思って。でも、以前より言えるようにもなりました」
「はい」
「今週、二回電話したいと思ったけど、一回だけ言いました」
「なぜ一回は言わなかった?」
「翌日に会議があると知っていたから」
「我慢ですか、配慮ですか」
俊介が尋ねる。真尋は考える。
「言わなかったことで、怒りが残りましたか」
「少し寂しかっただけ。真尋を責めたい気持ちはありませんでした」
「では、配慮に近いと思います」
「はい」
「でも、寂しかったことは今話せた」
「はい」
次に真尋。
「私は、疲れていても電話へ出る時があります。嫌われたくなくて」
「はい」
「最近、一度ありました」
「いつ?」
「先週の火曜日」
「僕が北川さんの転職の話をした日?」
「はい」
「疲れていました?」
「かなり」
「言ってください」
「はい。電話を切った後、少し苛立ちました」
「僕に?」
「自分に。次から、疲れていると伝えます」
「はい」
*
二つ目。
『会うことが義務だけになっていないか』
「今日は?」
俊介が尋ねる。
「会いたかったです」
「僕も」
「ただ、移動は大変です。毎回、俊介が来るのは?」
「続きません」
「私も東京へ戻る。月二回を目安にしていましたが、必ず二回ではなく、忙しい月は一回」
「はい」
「その代わり、次の月に三回へ増やすと決めない。会えなかった分を返済しない」
俊介は思わず笑った。
「返済」
「義務になるので」
「はい」
*
三つ目。
『仕事の選択を相手のせいにしていないか』
俊介は首を振る。
「今は、していません。大阪へ残った真尋へ、寂しいとは思います。でも、真尋のせいで自分が不幸だとは思っていません。自分で続けると選んだので」
「はい」
「真尋は?」
「俊介が東京にいるから二拠点を提案した、とは思っています。でも、その案を出したことを俊介のせいにはしていません。自分が望みました」
「移動が大変になっても?」
「今のところは。大変になった時、俊介のためにと責めないようにします。私自身が選んだと」
「はい」
*
四つ目。
『結婚や子どもへの希望が変わったか』
俊介は緊張した。
「結婚については、以前より現実に考えています。二拠点が始まる前に、結婚する可能性」
「なぜ?」
「同居の形や住居。保険。緊急時。制度上、夫婦のほうが整理しやすい部分もあります」
「はい」
「でも、それだけで結婚したくありません。真尋と家族になりたい気持ちもあります」
「家族」
その言葉を、真尋は口の中でもう一度なぞった。
「私は、まだその言葉が少し怖いです。母の結婚を見てきたので」
「はい」
「でも、以前ほど否定的ではありません。俊介となら、家族になっても自分を失わない方法を話せるかもしれない」
俊介の目が潤む。
「子どもは?」
「まだ、強く望みません。俊介が望む気持ちは?」
「あります。でも、結婚の条件にはしません」
「一年後も、もう一度話します」
「はい」
*
話し合いは二時間近く続いた。
途中で休憩。お茶。パン。同じ部屋で、別々に少し本を読む。また戻る。
結論を急がない。
*
夜、二人は同じベッドへ入った。俊介が真尋の手を握る。
「今日、必要とされなくなる話をしましたね。僕が真尋に必要とされなくなる日もありますか」
「必要の意味によります。生活するために必要ではありません」
「はい」
「でも、会いたい人です。未来を一緒に考えたい人」
「今は」
「今は?」
「関係は変わる可能性があります。でも、今の気持ちを小さくしたくありません」
「はい」
「好きです」
「僕も」
*
翌朝、俊介は東京へ戻った。真尋は改札まで送った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「次の予定は水曜日に。会えなくても、確認する日を」
「はい」
俊介が電車へ乗る。扉が閉まる。真尋は手を振った。
電車が遠ざかる。ホームの空気が、一段静かになる。
*
部屋へ戻る途中、花屋へ寄った。
津田が店先で、娘らしい女性と話している。真尋は初めて見る顔だった。
「娘」
津田が紹介する。
「東京とこっちを行き来してる」
「初めまして」
「初めまして」
娘は明るく笑った。
「母から聞いてます。二拠点の部長さん」
「まだです」
「母も、最初は私のやり方へ口を出して大変でした」
「言わなくていい」
津田が言う。
「でも、今は?」
真尋が尋ねる。
「今も言います。ただ、最後は私に任せるようになりました」
津田が少し不満そうに顔をしかめる。
「間違えるから」
「母も」
娘が笑う。津田は何も言い返さなかった。
「必要とされない日、どうしていますか」
真尋が津田へ尋ねる。津田は考えた。
「別の花を仕入れる。店を掃除する。休む。呼ばれたら行く」
簡単な答えだった。
「寂しい時は?」
「娘に言う」
「はい」
「うるさいって言われる。でも、言う」
津田の娘が笑う。
「かなり言います」
*
真尋は花を買わず、部屋へ戻った。
白いアネモネは、そろそろ終わりに近い。花びらが一枚落ちている。真尋は拾い、ゴミ箱へ入れた。
花が終わることを、失敗だとは思わない。
咲いた。部屋にあった。見た。
それで役割を終える。
*
月曜日。山岸が初めて、真尋の同席なしで人員面談を行った。
真尋は別の会議室で仕事をしている。面談の時間が気になる。予定より十分長い。連絡はない。
真尋は決裁資料へ視線を戻し、同じ行を二度読んだ。
面談が終わった後、山岸から報告があった。
「配置変更へ、本人は同意しませんでした」
「理由は?」
「家庭の事情と、現在の仕事への希望。案を変更します」
「山岸さんは、どう判断しますか」
「別の候補を探します。本人を説得し続けません」
「理由は?」
「本人の希望と配置の目的が合わないから。代わりの候補は、これから」
「わかりました」
真尋は口を出さない。山岸の判断を受ける。
*
午後、小田から初めて直接電話が来た。
『水口さん。例外商品の最終判断をお願いしたいです』
「資料は?」
『送っています』
「見ます」
『中原さんなら、すぐ答えたと思います。私は、二日かかりました。遅いですか』
「期限は?」
『明日』
「間に合っています。中原さんと比べないでください」
『難しいです』
「はい。でも、小田さんは小田さんの方法を作ります。私も、前の部長と同じではありません」
『はい』
「同じでなくても、仕事はできます」
『わかりました』
*
真尋は資料を読み、最終判断をした。
小田の案を一部修正し、理由を書いて返す。すべては直さない。次に自分で判断できるよう、質問を二つ添えた。
*
その夜、葵から新商品の試食会結果が届いた。
『味、採用された』
『おめでとうございます』
『営業も、十五円ならって。量も残る』
『はい』
『でも、全国はまだ。三か月、もう一度テスト』
『はい』
『延びた。少し残念』
『はい』
『でも、続く』
『はい』
『私がいなくても、開発が味を調整してる』
『寂しいですか』
『少し。でも、私だけの商品じゃない』
『はい』
『真尋の仕事と同じ?』
『少し』
『任せる側も寂しい』
『はい』
葵から少しして。
『秋田で決めたこと、仕事にも使ってるね』
真尋は考える。
『関係は違います』
『うん』
『でも、戻った時に同じを求めないことは、仕事でも必要でした』
『はい』
*
真尋は生活ノートを開いた。
『任せる側の孤独』
その下へ書き足す。
『必要とされない日にも、役割はなくならない』
『呼ばれるために問題を残さない』
『戻ってきた人へ、以前と同じ場所を約束しない』
『変わった人と、変わった仕事で会う』
最後に。
『寂しさを理由に、相手の成長を止めない』
*
窓の外に、夜の公園が見える。誰かが犬を連れて歩いている。ベンチには、一人で座る人。遠くで電車の音。
大阪の生活。
真尋は、この場所で部長になる。人へ任せる。失敗を見る。自分と違う判断を受ける。必要とされない日もある。
それでも、組織からいなくなるわけではない。
*
東京には俊介。葵。母。
真尋がいなくても、皆生活している。葵の商品も、俊介の仕事も、母の家も、真尋を待ったまま止まってはいない。
だから帰れる。変わった人へ会うために。
*
真尋は白いアネモネを花瓶から抜いた。
花は終わっている。茎を短く切り、紙へ包み、捨てる。花瓶を洗う。
空になった器を、すぐ別の花で埋めない。空のまま、テーブルへ置く。
何もないことへ耐える。
必要とされない時間。役割のない時間。空いている場所。
それを急いで埋めなくてもよい。
*
真尋は照明を落とした。
明日も、山岸が一つ判断する。森田が一つ断る。小田が一つ迷う。
真尋は全部へ答えない。必要な時だけ呼ばれる。呼ばれない時間には、自分の仕事をする。
部長として。一人の人として。俊介を愛する人として。葵との名前のない場所を持つ人として。
どれか一つだけで、自分を確かめないために。
真尋は寝室へ向かった。
ベッドには枕が一つ。今夜は一人。
そのことを寂しいと思う。同時に、自分の時間へ戻れたと感じる。
どちらも消さず、布団へ入った。
明日の朝、必要とされるかはわからない。それでも、自分はここにいる。
真尋は目を閉じた。




