↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/46

第三十一章 任せる側の孤独

部長就任の正式発表から一週間が過ぎた頃、真尋の予定表は以前より細かく埋まり始めていた。

 午前九時、山岸の管理職研修。十時半、福岡との運用会議。午後一時、本社人事との面談。三時、広島の人員配置確認。五時、新組織の予算説明。

 会議と会議の間には、決裁、相談、資料確認、店舗からの問い合わせが入る。

 部長になるまでの準備期間で、正式着任はまだ半年先だった。それでも、周囲の接し方はすでに変わっていた。

「水口部長」

 そう呼ぶ人が増えた。

「まだです」

 最初の数日は訂正していた。だが、そのたびに会話が止まる。

『でも、もう決まりましたよね』

『今から慣れておかないと』

『部長代理より短いので』

 理由はそれぞれだった。真尋は訂正することをやめた。

 呼ばれ方を変えたくないという気持ちはある。だが肩書きは、本人の感覚だけでは決まらない。

 周囲にとって、すでに真尋は次の部長だった。

     *

 月曜日の朝。執務室へ入ると、机の上に決裁書類が五冊置かれていた。その横に、山岸からの付箋。

『四件は私が確認済みです。一件だけ判断をお願いします』

 真尋は上から一冊ずつ手に取った。

 店舗研修の日程。

 担当変更。

 例外商品の登録。

 相談窓口の運用。

 最後の一件は、福岡の人員配置。中原が休職に入る可能性があるという内容だった。

 真尋の手が止まる。

 詳しい理由は書かれていない。

『体調上の事情により、来月から一か月以上の休職を検討』

 中原は、制度統一に最も強く反対した人だった。その後、運用を支え、若手を育て始めた。最近のオンライン会議でも、疲れた様子は見せていなかった。

 真尋はスマートフォンを持ち、中原へ連絡しようとして、止めた。

 山岸へ先に確認する。

「山岸さん。中原さんの件、いつ聞きましたか」

「金曜日です」

「誰から?」

「福岡の総務から」

「本人とは?」

「話していません」

「なぜ、すぐに報告しなかったんですか」

 言った瞬間、山岸の表情が硬くなった。声が尖っていたことに、自分でも遅れて気づく。

「水口さんは東京へ戻っていました。緊急の基準には入らないと判断しました」

「休職の可能性です」

「来月からです。本人も、すぐに話すことを希望していませんでした」

 真尋は言葉を止める。

「本人の希望?」

「はい。総務からは、月曜日に正式に共有するよう言われました。だから、今日です」

 山岸は落ち着いて説明する。

 判断は間違っていない。緊急ではない。本人の希望もある。

 それでも真尋は、金曜日に知りたかったと思った。中原の状態。何が起きていたのか。自分は責任者なのに。

 その「なのに」が、どこから出てくるのかを考えると、少し嫌な気分になった。

「わかりました。本人へ連絡します」

「その前に、福岡総務から説明を受けてください。中原さんが、何を共有してよいと言っているか」

「はい」

 山岸の言葉が、以前より明確になっている。真尋がすぐ動こうとすることへ、止める言葉を渡している。

「お願いします」

 真尋は決裁書類を置いた。

     *

 午前九時の研修では、山岸が模擬面談を行った。相手役は人事担当。設定は、勤務態度に問題がある社員への指導。

 山岸は相手の話を丁寧に聞く。遅刻の理由。家庭の事情。仕事量。本人の認識。

 聞く力はある。だが、必要な指導が遅い。人事担当が問題を曖昧にすると、山岸も追及を避けた。

「では、今後気をつけてください」

 最後に山岸が言った。

 模擬面談が終わる。人事担当が振り返る。

「水口さん、どうでしたか」

 真尋は答える前に、山岸を見た。

「山岸さん自身は?」

「話は聞けました。でも、何を改善してほしいかを、明確に伝えられませんでした」

「なぜ?」

「相手の事情を聞くと、強く言えなくなりました。遅刻を続けたことへ責任を求めると、追い詰める気がして」

 山岸は自分で気づいている。

「事情を理解することと、行動の改善を求めることは両立します」

「はい」

「家庭の事情があるなら、勤務時間を変える方法を考える。ただし、連絡なく遅刻することは別に扱う」

「はい」

「相手が傷つかないことを目標にすると、必要な話ができません」

 山岸が少し顔を曇らせる。

「水口さんは、できますね」

「強く言いすぎることがあります。山岸さんには、逆の傾向があります。どちらも調整が必要です」

 人事担当が頷いた。

「もう一度やりますか」

 山岸が尋ねる。

「今ですか」

「はい」

「では、十分休憩してから」

「お願いします」

 真尋は時計を見た。次の会議まで一時間。

 以前なら、研修は一度で終え、後日振り返りをした。山岸は今、やり直したいと言った。

 真尋は予定を少し動かした。

     *

 二回目の模擬面談。山岸は最初より短く質問した。相手の事情を聞き、その後で言った。

「事情があることは理解しました。ただ、連絡のない遅刻が三回続いたことは、チームの仕事へ影響しています」

 具体的な言葉が続く。

「今後、遅れる可能性がある時は、始業三十分前までに連絡してください。それが難しい場合は、勤務時間の変更を人事と検討します」

 責めるだけではない。

「ただし、連絡なしの遅刻が続く場合は、評価へ反映します」

 山岸の声は震えていた。それでも、言い切った。

 面談が終わる。

「どうでしたか」

 真尋が尋ねる。

「怖かったです。嫌われた気がします」

「模擬です」

「わかっています。でも、本番でも同じだと思います」

「嫌われる可能性はあります。それでも、役割として必要です」

 山岸は深く息を吐いた。

「部長も、こういうことを毎日?」

「毎日ではありません」

「でも、決める」

「はい」

「水口さんが一人で決めていた理由も、少しわかります」

 真尋は山岸を見る。

「何が?」

「ほかの人へ任せると、相手もこの怖さを持つから。自分で引き受けたほうが早い」

「はい」

「でも、それを続けると、誰も経験できない。今、わかりました」

 山岸はノートへ何かを書いた。真尋はその手元を、少しだけ長く見ていた。

     *

 午前十時半。福岡との運用会議が始まる前に、真尋は福岡総務から中原の件について説明を受けた。

 中原は、数か月前から睡眠が浅く、動悸が続いていた。業務上の問題だけではない。家族の介護。通院。仕事との両立。

 本人は、制度統一が落ち着くまで休みたくないと考えていた。先週、医師から休養を勧められた。正式な診断書は、まだ提出前。共有できるのは、ここまで。

「本人へ直接連絡してもよいですか」

 真尋が尋ねる。

『業務の連絡ではなく、体調確認としてなら。ただ、詳しい事情を聞き出さないでください』

「わかりました」

『中原さんは、自分が抜けることで福岡が回らないと思っています。水口さんから、仕事のことを気にしなくてよいと言っていただけると』

「はい」

 電話を切り、真尋はオンライン会議の参加者一覧を見た。

 中原の名前はない。代わりに、小田。福岡の若手で、中原が育て始めた社員だった。

     *

 会議が始まる。小田は緊張していた。

『中原さんの代わりに、今月から運用報告を担当します。不慣れですが』

「わからないことは、わからないと言ってください。すぐ答えられない場合は、確認してからで構いません」

『はい』

 真尋は言いながら、葵との最初の旅で、自分が知らないと言えたことを思い出す。

 小田へ、何者かになることを急がせない。

     *

 会議では、福岡の問い合わせ件数が増えていた。中原が休む可能性を知った人たちが、早めに確認しようとしている。

 小田へ質問が集中した。

『この分類は、以前中原さんが』

『例外判断の基準が』

『来月の店舗説明は』

 小田の表情が次第に硬くなる。画面越しでも、肩が上がっていくのがわかった。

 真尋は途中で止めた。

「今日は、決める議題を二つに絞ります」

『でも、来月の』

「残りは、次回へ」

『中原さんが休む前に』

「中原さんへ確認する前提を外します」

 画面の何人かが黙る。

「中原さんがいなければ決められない状態を、そのまま続けません」

『では、誰が?』

「小田さんと福岡の責任者、必要なら森田さん」

『小田さんにはまだ』

「本人へ聞きます」

 真尋は小田を見た。

「今、何を担当できますか」

 小田は戸惑いながら答える。

『例外商品の一次判断。店舗説明資料の修正。最終判断は、まだ』

「誰とならできますか」

『福岡の責任者と』

「森田さんの支援も?」

『はい』

「では、その体制を作ります」

 中原が休む前に引き継ぎを完璧にするのではなく、休んでも動ける形を作る。

     *

 会議後、真尋は中原へ短いメッセージを送った。

『体調について共有を受けました。詳しい事情を聞くための連絡ではありません。仕事のことは、こちらで引き継ぎます。今、返事は不要です』

 送る。

 返事を求めない。すぐに安心させる言葉をもらおうとしない。

 中原がどのように受け取るかは、相手の時間だった。

     *

 昼休み、真尋は一人で外へ出た。

 花屋の前を通る。津田は店先で、小さな札を書いていた。

「今日は買わない顔」

「はい」

「忙しい?」

「少し」

「部長だから?」

「まだ準備です」

「でも顔は部長」

「それは、どういう顔ですか」

「人のこと考えて、自分の昼ご飯忘れそうな顔」

 真尋は時計を見た。まだ食事をしていない。

「食べます」

「何を?」

「決めていません」

「近くのパン屋、今日はスープあるよ」

「ありがとうございます」

 真尋は歩き出そうとし、足を止めた。

「津田さん。誰かへ仕事を任せた時、寂しくなることはありますか」

 津田は考える。

「娘に店を手伝わせた時。最初は何でも言った。花の切り方。並べ方。お客さんへの声のかけ方」

「はい」

「娘が自分のやり方で売った花が、私より売れた日があった。嬉しかったし、腹も立った」

 真尋は驚く。

「腹が立つ?」

「私がいなくてもいいみたいで。でも、次の日は別の花が売れなかった。それで、また相談された」

「はい」

「必要か必要じゃないか、毎日変わる。仕事って、そういうものじゃない?」

 津田は札へ文字を書き続ける。

「任せると、いらなくなる気がします」

 真尋が言う。

「いらなくなるなら、良い仕事したってこともある。でも、本当にいらないかは、本人が決めることじゃない」

「どういう意味ですか」

「周りが必要なら呼ぶ。呼ばれない日は、自分の仕事をする」

「はい」

「呼ばれるために、問題を残さない」

 その一言が、真尋の胸へ入った。

「問題を残さない」

「教え切らないとか、わざと自分だけ知ってること作る人いるでしょう。必要とされたいから」

「はい」

「水口さんは、しない顔」

「そうでしょうか」

「する?」

「無意識なら」

「なら、気をつけて」

     *

 パン屋でスープとサンドイッチを買い、公園のベンチで食べた。

 中原。山岸。小田。森田。

 自分がいなくても仕事を進める人たち。

 真尋は、必要とされなくなることを恐れている。

 葵との関係で、必要とされなくても続くことを知った。仕事では、まだうまくできていない。

 責任者として必要とされることと、自分だけが必要であることは違う。

     *

 午後一時、本社人事との面談。議題は、山岸の課長候補としての研修進捗。

『水口さんの評価は?』

「聞く力はあります。必要な指導を明確に伝えることが課題です」

『改善していますか』

「今日、模擬面談をやり直しました」

『一度で終わらず?』

「本人の希望です。最初より良くなりました」

『課長就任へ問題は?』

「現時点ではありません」

『水口さんが大阪を離れるまでに、十分育つと思いますか』

 言葉が引っかかる。

「離れる、とは?」

『二年目から二拠点勤務です。月の半分は東京。現地運営は山岸さんが中心。水口さんがいない状態で、どこまで判断できるか』

「試します」

『いつから?』

「三か月後から、月に二日」

『早くありませんか』

「小さい範囲から」

『水口さんの決裁が必要な案件は?』

「後から確認します」

『問題が起きれば?』

「修正します」

 人事担当が黙る。

『水口さんは、山岸さんを高く評価していますね』

「はい」

『近すぎる可能性は?』

「あります」

『本人へ厳しい評価をつけられますか』

「必要なら」

『本当に?』

 その問いに、真尋はすぐ答えなかった。

 山岸は、自分へ反対する。支える。生活のことも少し知っている。葵との関係を尋ねた。

 近い。だからこそ、評価へ私情が入る危険はある。

「私一人では評価しません。支社長と人事の意見を入れます」

『それは制度上も必要です。ただ、水口さん自身の評価も必要です』

「わかっています」

『近い相手へ、期待を込めて高くつけないように』

「はい」

 任せたい気持ちが、評価を歪める可能性。自分が東京へ戻るために、山岸を早く育てたい。

 その焦りを、真尋は認めなければならなかった。

     *

 午後三時、広島との人員配置確認。

 岩瀬は、一人の社員をデータ分析へ異動させる案を出していた。本人の希望も確認済み。ただ、現場の営業担当が一人減る。

『短期的には負担が増えます』

 岩瀬が言う。

「対策は?」

『三か月、ほかの担当が一部を分ける』

「本人たちの同意は?」

『二人は同意。一人は、まだ。今日話す予定です』

「決める前に話してください」

『案は、まだ決定ではありません』

「はい」

『本人へ早く話すと、不安を与えませんか』

 以前、真尋も似た考えを持っていた。案が固まってから伝えたほうが混乱しない、と。

 だが、自分の名前が入った配置案を完成後に見せられるほうが、よほど不安になる。

「不確定であることを伝えて話してください。本人の意見で変わる余地を残す。それがなければ、確認ではなく通知になります」

 岩瀬は頷いた。

     *

 午後五時、予算説明。

 財務担当から、二拠点勤務の費用について細かな質問を受けた。新幹線。東京の住居補助。大阪の住居。オンライン設備。山岸の研修費。森田の専門職手当。

『現状より年間で約四百万円増加します。それだけの効果を、どこで測りますか』

「業務時間の削減。離職率。意思決定までの日数。地域別の売上差の縮小」

『水口さんが東京にいること自体の効果は?』

「本社調整の時間削減」

『数値化できますか』

「試験前に基準を取ります」

『はい』

 仕事の仕組みとして認められた二拠点。恋人との生活を守りたいという私的な理由だけでは、会社は続けない。結果を示す必要がある。

 真尋は、その責任を改めて感じた。

     *

 会議が終わったのは午後六時半。予定より三十分遅い。

 今夜は俊介と八時半から短い電話。葵との連絡はない日。

 真尋はすぐに会社を出た。山岸が声をかける。

「決裁、二件残っています」

「明日の朝にします」

「本当に?」

「期限は明日の正午です。帰ります」

 山岸は吹き出した。

「部長になって、初めて残業を減らしましたね」

「以前も」

「今日は、です」

     *

 部屋へ着いたのは午後七時半。食事を作る時間はある。

 冷蔵庫を開ける。鶏肉。野菜。卵。

 簡単な炒め物と味噌汁を作り、八時十分に食べ終えた。食器を洗い、八時二十五分。

 俊介から。

『予定通り話せますか』

『はい』

 八時半、電話がかかる。

     *

『お疲れさまです。部長の一日は?』

「まだ部長ではありません。長かったです」

『何かありました?』

 真尋は中原の休職の可能性を、共有できる範囲で話した。山岸が金曜日に報告しなかったこと。自分がすぐに責めるような言い方をしたこと。本人の希望を確認していた山岸の判断。

『真尋は、金曜日に知りたかったんですね』

「はい」

『なぜ?』

「責任者なので。中原さんは、制度統一の中心でした。何かできたかもしれない」

『金曜日に知っていれば?』

「わかりません。でも、知らないことが嫌でした」

『自分だけ知らない?』

「はい」

『置いていかれたような?』

 真尋は考える。

「そうかもしれません。仕事を任せると、情報も自分を通らなくなる。それが、少し怖いです」

 俊介が静かに聞いている。

『僕が、真尋の大阪の生活を知らないのが怖いのと似ていますか』

 真尋は驚いた。

「少し」

『はい』

「自分がいない間に、関係や仕事が進む。必要とされなくなるように感じる」

『あります』

「俊介も?」

『でも、真尋は大阪で生活を進める。僕も東京で。全部を知れない』

「はい」

『仕事も、同じですね』

「そうですね」

     *

『中原さんへ、何と連絡しました?』

「返事は不要。仕事はこちらで引き継ぐと」

『返事は?』

「まだありません」

『待てますか』

「はい」

『本当に?』

「少し気になります。でも、待ちます」

『仕事でも、待つ練習ですね』

「はい」

 俊介の口元が緩んだ。

     *

「俊介は、今日は何を?」

『北川さんから、転職先を決めたと連絡がありました。来月から、別の会社へ』

「どこですか」

『設計事務所です』

「俊介の会社とは?」

『違います』

「会う回数は減りますか」

『今も多くありません。送別会があります』

「二人?」

『大学の友人たちと』

 真尋の胸に、わずかな嫉妬が動いた。

『不安ですか』

「少し」

『言ってください』

「北川さんが、俊介の過去を知っていることへ嫉妬します。転職の相談を受けるほど信頼されていることにも」

『はい』

「でも、会わないでとは言いません」

『ありがとうございます』

「写真は?」

『送ります。真尋も、職場の人との関係を全部話さなくていいです』

「はい」

『でも、中原さんのように大きなことがあれば』

「話せる範囲で」

     *

「俊介。私が大阪の人たちに必要とされなくなっても、部長を続けられると思いますか」

 俊介は黙る。

『必要とされなくなることは、ないのでは』

「山岸さんが判断できるようになる。森田さんが地域調整をする。小田さんが中原さんの代わりに動く。私がいなくても、仕事が進む」

『それが目標でしょう』

「はい」

『でも、真尋は寂しい』

「はい」

『部長として必要とされたい?』

「たぶん」

『真尋自身としては?』

 問いが胸へ入る。答えの形が、なかなか浮かばない。

「わかりません。職場では、役割があります」

『はい』

「何者でもない時間を持ちたいと思っているのに、仕事では必要とされたい」

『矛盾ですか』

「はい」

『僕は、矛盾していてもいいと思います』

「なぜ?」

『仕事で必要とされたいことが、悪いわけではないから。ただ、必要とされるために人を育てないのは、違う』

「はい」

『必要とされない日へ耐えることも、部長の仕事かもしれません』

 真尋は、その言葉を口の中で繰り返した。

「必要とされない日へ耐える。俊介は、できますか」

『できない日もあります。真尋が大阪で幸せそうな時、僕はいなくてもいいのかと思う』

「はい」

『でも、次に会った時、僕といる真尋がいる。それで、自分の場所を知り直します』

「はい」

     *

 電話は予定の三十分で終えた。

 もっと話したい気持ちはある。だが明日も仕事で、俊介も同じだった。

『おやすみなさい』

「おやすみなさい」

『好きです』

「私も」

 電話を切る。真尋は少し寂しさを残したまま、スマートフォンを置いた。

 すべて話し切らなくても、次がある。

     *

 翌朝、会社へ着くと、中原から返事が届いていた。

『連絡ありがとうございます。仕事のことを考えないようにしたいのですが、今は難しいです。小田さんへ迷惑をかけることが気になっています』

 真尋はすぐに返信しようとし、文章を何度か消した。

『迷惑ではありません』

 断定できない。小田には負担がある。

『気にしないでください』

 気にしている相手へは、届かない。

 真尋は短く書いた。

『小田さんには負担が増えています。こちらで支援体制を作ります。中原さんが休むことと、小田さんの負担を減らすことは、別々に考えます。今は、仕事へ戻る時期を決めなくて大丈夫です』

 送る。

 中原の休養を正当化するために、小田の負担を隠さない。現実を分ける。

     *

 午前中、山岸から相談を受けた。

「中原さんの件で、福岡から問い合わせが増えています。一時的に、相談窓口を森田さんへ集めたいです」

「森田さんへ確認しましたか」

「これから」

「先に?」

 山岸が言葉を止めた。

「私へ案を話す前に、本人へ聞くべきでした。すみません」

「では、確認してから」

 山岸は頷き、会議室を出る。

 数分後、森田が真尋の席へ来た。

「相談窓口を僕へ集める案、断りました」

「はい」

「理由を聞きますか」

「山岸さんから聞きます」

「そうですか」

「森田さん自身から話したいですか」

「少し」

「聞きます」

     *

「全部を集めると、僕が中原さんの代わりになります。それでは、同じことが起きます」

「はい」

「相談を三つに分けます」

 森田はメモを出す。

「分類判断は小田さんと福岡責任者。地域間の調整は僕。人員と体調に関する相談は山岸さん」

「はい」

「最終判断が必要なものだけ、水口さん」

 真尋は最後の一行を見た。

「私へ来るものは?」

「契約。予算。重大な例外。それ以外は来ません」

 胸の奥で、寂しさが小さく動く。

「わかりました」

 真尋は答えた。

 森田が真尋の顔を見る。

「本当に?」

「はい」

「全部確認したい顔です」

「はい。でも、任せます」

     *

 午後、山岸が新しい相談体制を三地域へ説明した。

 真尋は会議へ参加しなかった。招待は届いていた。だが山岸が説明する場だ。自分が入れば、質問が真尋へ向く。

 その時間、真尋は本社との予算資料を作成した。

 会議の様子が気になる。何度もメッセージを開きそうになる。開かない。指がスマートフォンの縁を撫でて、離れる。

 一時間後、山岸から報告が届いた。

『説明終了。質問八件。三件はその場で回答。五件は金曜日までに回答します。水口さんへ確認が必要なものは一件です』

 真尋は返信する。

『了解しました。一件だけ送ってください』

 すぐに資料が届いた。重大な例外商品の契約扱い。確かに真尋の判断が必要なものだった。

 必要な時に呼ばれる。すべてではない。

     *

 その日の夜、葵から珍しく電話がかかってきた。連絡の予定はない日だった。

 午後九時過ぎ。真尋は風呂から上がったところだった。

 画面に葵の名前。緊急かもしれない。出る。

「もしもし」

『真尋』

 葵の声が強い。

「どうしました?」

『今、話せる?』

「十五分なら」

『短い』

「明日も仕事です。何がありました?」

 葵は黙る。

『商品、全国展開の候補から外れるかもしれない』

 真尋は椅子へ座った。

「理由は?」

『二十店舗の数字』

「予想より少し上では?」

『最初は。二週目から落ちた。再購入が少ない』

「はい」

『言葉は評価されてる。でも味が弱いって』

 葵の声が震える。

『パッケージで買って、一度で終わる。商品として続かない。私の言葉だけが残って、商品がなくなるかもしれない』

「はい」

『石橋さんから、味を変える案を出せって。でも、製造費が上がる。価格も』

「はい」

『もう、何が正しいかわからない』

 葵は一気に話した。

     *

「今日、結論を出す必要がありますか」

 真尋が尋ねる。

『金曜日まで』

「今日は水曜日です」

『うん』

「明日、話す時間を取りましょう」

『今じゃだめ?』

「十五分では足りません」

『うん』

「今夜、葵は答えがほしいですか」

『わからない』

「聞いてほしい?」

『うん』

「では、十五分聞きます。答えは明日」

 葵は息を吐く。

『真尋、前なら今すぐ考えてくれた』

「はい」

『変わった。部長になったから?』

「違います」

『じゃあ』

「今、疲れています。葵も」

『うん』

「この状態で、大きな判断を一緒に考えたくありません。関係を小さくしたいのではありません」

『うん』

「大切だから、時間を取りたいです」

 葵はしばらく黙った。息を整える音が、耳のすぐ近くで聞こえる。

『わかった』

「明日の午後九時から、一時間」

『仕事は?』

「八時までに終えます」

『遅れたら?』

「八時半までに連絡します」

『うん』

「今日は、何が一番怖いかだけ話してください」

     *

『私の言葉が、売れなかったって言われること。味が原因でも』

「はい」

『商品がなくなったら、私の仕事も失敗になる』

「はい」

『直哉と別れた後に作ったもの。秋田へ持っていった。真尋が食べた』

「はい」

『それがなくなる。私が変わった証拠が消える気がする』

 真尋は、木の札や写真を思い出す。

 物がなくても関係はある。だが今、それを正しさとして返さない。

「怖いですね」

 真尋が言う。

『うん』

「商品がなくなることと、自分の変化がなかったことになるように感じる」

『うん』

「明日、そこから話しましょう。今夜は眠れそうですか」

『わからない』

「美月へ連絡は?」

『まだ』

「したいですか」

『うん』

「では、私との電話後に。一人で抱えないで」

『はい』

     *

 十五分で電話を終える。

 葵は少し不満そうだった。それでも、次の時間を決めた。

 終わりではない。待たせ続けない。

     *

 翌日、真尋は予定通り午後八時前に会社を出た。決裁書類が一件残っていた。期限は翌日。置いて帰る。

 部屋へ着き、食事を済ませる。午後九時、葵とのビデオ通話。

 葵の顔は、前夜より落ち着いていた。

『美月に話した。泣いた。でも寝た。今日は、資料もある』

 葵は売上推移の表を画面へ映す。

「見てもいいですか」

『うん』

 真尋は数字を見た。初週。二週目。店舗別。購入時間帯。再購入。アンケート。味の評価。価格。

「言葉への評価は高いですね。味は、悪くはない」

『でも、もう一度買いたいが低い』

「はい」

『石橋さんは、中身を変えるべきって』

「葵は?」

『言葉を残したい』

「味は?」

『変えてもいい』

「価格が上がる?」

『十円から二十円』

「はい」

『会社は嫌がる』

「原価を下げる別案は?」

『量を減らす』

「葵は?」

『それは嫌』

「なぜ?」

『休息のための商品なのに、少なすぎると満たされない』

 葵は、自分の基準を持っている。

     *

「商品がなくなることと、葵の変化が消えることを分けましょう」

 真尋が言う。

 葵の顔が硬くなった。

『また正しいこと?』

「昨日は言いませんでした。今日は、話してもいいですか」

『はい』

「この商品がなくなっても、葵が作った時間はなくなりません。でも、それを言って終わりにはしません」

『うん』

「商品は残したいですか」

『残したい』

「なぜ?」

『売れたい。仕事として成功したい。誰かに届いてほしいだけじゃなく、会社に認められたい。売上を作りたい』

「それでいいです」

 葵が驚く。

『きれいじゃない?』

「仕事なので。言葉が届けば売れなくてもよい、とは言えません」

『うん』

「では、売れるために何を変えられるか」

『味。価格は、少し上げる。量は残す』

「それが葵の案?」

『うん』

「ほかの人の意見は?」

『開発は、味の変更に賛成。営業は値上げに反対。石橋さんは、最終的に私へ決めろとは言わない。でも意見を出せって』

「では、案を出してください」

『怖い』

「何が?」

『失敗したら、私の味になる。今は、味が弱いのは開発の責任とも言える。変えたら、私の判断』

「はい」

 葵が、決める側の怖さを感じている。今朝、山岸が模擬面談の後で見せた顔と、同じ種類の怖さだった。

     *

「山岸さんが、今日、判断する研修を受けました」

 真尋が言う。

『うん』

「相手の事情を聞くと、強く言えないと。決めれば、嫌われる可能性があります」

『うん』

「葵も、案を出せば責任が増える。でも、出さなければ、今のまま進む」

『うん』

「どちらを選びたいですか」

 葵は黙った。画面の中で、指が机の縁を二度、叩く。

『味を変えたい。価格も上げる。量は減らさない』

「はい」

『それで売れなかったら』

「はい」

『怖いけど、自分の仕事として受ける』

 葵は言い切った。

     *

『真尋。商品がなくなったら、木の札みたいに何か残す?』

 真尋は考える。

「残したいですか」

『パッケージを一つ。でも、なくなった証拠にするんじゃなく、作ったことを覚えるため』

「よいと思います」

『真尋も持ってる?』

「試作品を一つ」

『賞味期限ある』

「はい」

『食べて』

「なぜ?」

『商品だから。残すなら、空のパッケージ』

「わかりました」

『食べて終わるものだから』

 葵の言葉が、少し変わった。

 商品は、残るためだけに作るものではない。食べられ、なくなる。それでも、届いた時間は残る。

     *

 電話を終える前、葵が言った。

『昨日、すぐ答えてくれなくて嫌だった。でも、今日でよかった』

「はい」

『昨日なら、味を変えないって言ってたと思う。言葉を守るために』

「はい」

『今日は、商品を残すために味を変えるって言えた。待った意味があった』

「はい」

『でも、次も必ず一日待つとは決めないで』

「はい。状況ごとに話します。大切なことは、時間を取ります」

『うん』

「葵を後回しにするためではなく」

『わかった』

     *

 金曜日、中原から正式に一か月の休職申請が届いた。真尋は承認した。

 同時に、小田を一次運用責任者へ。森田を地域調整。山岸を人員と相談窓口。真尋は契約と予算のみ。

 新しい体制。中原がいないことを前提にする。

     *

 午後、中原から電話がかかってきた。真尋は会議室へ移動して出る。

「もしもし」

『水口さん。休職、承認ありがとうございます。迷惑をかけます』

「負担は増えます」

 真尋は、軽く否定しなかった。

『はい』

「でも、体制を作りました」

『小田さんが?』

「一次責任者です」

『まだ早いです。私が教え切れていません』

「本人は引き受けました。小田さんは、中原さんと同じ方法でなくても働けます」

 電話の向こうが静かになる。

『はい』

「中原さんが戻った時、以前と同じ役割があるとは限りません」

 言いにくい。だが隠さない。

『私の場所がなくなる?』

「可能性はあります。その時は、戻った中原さんと、新しい役割を考えます」

『はい』

「今の席を空けたまま待つことはしません。でも、中原さんが戻る場所をなくすためでもありません」

『はい』

 中原の声が震える。

『怖いです。戻ったら、誰も私を必要としていないかもしれない』

「はい」

 真尋は、間を置いた。ここで責任者の言葉だけを返すこともできる。

「私も、同じことを怖がっています」

『水口さんが?』

「山岸さんや森田さんが判断できるようになると、自分がいらなくなるように感じます」

『部長なのに』

「はい」

『そうですか』

「必要とされるために、人を育てないことはしません。中原さんも、小田さんを育てた」

『途中です』

「続きは、小田さん自身も作ります。休んでください」

『はい』

「戻る時は、以前と同じ場所を求めず、今の仕事を一緒に見ましょう」

 秋田で葵と決めた言葉だった。戻った時、前と同じであることを求めない。

 仕事にも、その考えを使える。

『わかりました』

 中原が答えた。

     *

 電話を切った後、真尋はしばらく会議室に残った。

 中原の恐れ。自分の恐れ。必要とされないこと。戻った時に場所が変わっていること。

 葵との約束は、二人だけのものだった。だが、そこで知ったことは仕事にも影響している。

 関係は同じではない。それでも、人が変わって戻ることを受け入れる姿勢は共通している。

     *

 その夜、真尋は生活ノートを開いた。

『大阪で初めてしたこと』

 新しい行。

『自分がいなくても進んだ判断を、覆さなかった』

『必要とされなくなる怖さを、隠さなかった』

『休む人の席を、同じ形のまま残すと約束しなかった』

『戻った時に、変わった場所で会うと伝えた』

 その下へ。

『任せる側にも、孤独がある』

 書く。

 任される側は怖い。失敗する。責任を持つ。嫌われる。

 だが任せる側も、役割を失うような寂しさを持つ。

 その寂しさを理由に、仕事を抱え込まない。

     *

 翌週、葵から新しい試作品の写真が届いた。パッケージは同じで、中身の色が少し変わっている。

『味、変えた。どうですか』

『前より香りが強い』

『はい』

『値段は十五円上がる』

『営業は?』

『まだ反対。明日、試食会』

『緊張しますか』

『かなり』

『決めたことを、謝らないで』

 送ってから、秋田で決めた言葉を思い出す。

 自分の人生を選ぶことを謝らない。葵の仕事の判断も。

 葵から返事。

『失敗したら謝る。影響には』

『はい』

『でも、案を出したことは謝らない』

『はい』

     *

 俊介との次の再会は、二週間後の大阪になった。今回は俊介が来る。

 商店街。津田。公園。そして、三か月ごとの確認の最初の話し合いをする。

 まだ三か月は経っていない。だが部長就任の決定後、二人の生活は変わり始めている。

     *

 俊介が大阪へ着いた土曜日。真尋は最寄り駅で待った。

 改札から俊介が出てくる。手には花ではなく、小さな紙袋。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 抱きしめる。以前より、互いに少し力を抜いている。

「何ですか」

 真尋が紙袋を見る。

「パンです」

「東京から?」

「駅で」

「大阪にもあります」

「はい。でも、一緒に食べたいものを」

「ありがとうございます」

     *

 部屋へ戻ると、俊介は白い花瓶を見た。

「花、変わりましたね。白い花」

「アネモネです」

「津田さん?」

「はい」

「意味は?」

「聞いていません」

「珍しい」

「花を見なくなる人がいると」

 俊介は花へ近づく。

「きれいです」

「はい」

     *

 昼食後、二人は公園を歩き、ベンチへ座った。

 真尋は中原の休職と、仕事を任せることへの寂しさを話した。

「必要とされなくなるのが怖いです」

 俊介は言葉を急がない。

「僕も、真尋に必要とされなくなるのが怖いです。でも、必要とされるために、真尋が一人でできない状態を望みたくない」

「はい」

「仕事も同じですね。山岸さんができるようになれば、真尋は別の仕事をする」

「はい」

「部長として。決裁する人ではなく、仕組みを作る人へ」

「はい」

「それでも寂しい?」

「はい」

「寂しいままでよいと思います」

 俊介が言う。

「なくす必要は?」

「ありません。寂しいからと、相手の成長を止めなければ」

「はい」

     *

「俊介。私が一人で暮らせることは、寂しいですか」

「少し。大阪で、僕がいなくても食事をして、花を買って、仕事をして」

「はい」

「でも、一人で暮らせない真尋を望んでいるわけではありません。僕が必要だから生きられる人ではなく、僕がいなくても生きられるのに、一緒にいたいと言ってくれる人がいいです」

 秋田で葵と決めた言葉に重なる。

「私もです」

 真尋が答えた。

     *

 二人は部屋へ戻り、三か月ごとの確認に使うノートを開いた。

 最初の項目。

『我慢が増えていないか』

 俊介から話す。

「増えています」

「何が?」

「会いたい時に、連絡を控えること。真尋が忙しいと思って。でも、以前より言えるようにもなりました」

「はい」

「今週、二回電話したいと思ったけど、一回だけ言いました」

「なぜ一回は言わなかった?」

「翌日に会議があると知っていたから」

「我慢ですか、配慮ですか」

 俊介が尋ねる。真尋は考える。

「言わなかったことで、怒りが残りましたか」

「少し寂しかっただけ。真尋を責めたい気持ちはありませんでした」

「では、配慮に近いと思います」

「はい」

「でも、寂しかったことは今話せた」

「はい」

 次に真尋。

「私は、疲れていても電話へ出る時があります。嫌われたくなくて」

「はい」

「最近、一度ありました」

「いつ?」

「先週の火曜日」

「僕が北川さんの転職の話をした日?」

「はい」

「疲れていました?」

「かなり」

「言ってください」

「はい。電話を切った後、少し苛立ちました」

「僕に?」

「自分に。次から、疲れていると伝えます」

「はい」

     *

 二つ目。

『会うことが義務だけになっていないか』

「今日は?」

 俊介が尋ねる。

「会いたかったです」

「僕も」

「ただ、移動は大変です。毎回、俊介が来るのは?」

「続きません」

「私も東京へ戻る。月二回を目安にしていましたが、必ず二回ではなく、忙しい月は一回」

「はい」

「その代わり、次の月に三回へ増やすと決めない。会えなかった分を返済しない」

 俊介は思わず笑った。

「返済」

「義務になるので」

「はい」

     *

 三つ目。

『仕事の選択を相手のせいにしていないか』

 俊介は首を振る。

「今は、していません。大阪へ残った真尋へ、寂しいとは思います。でも、真尋のせいで自分が不幸だとは思っていません。自分で続けると選んだので」

「はい」

「真尋は?」

「俊介が東京にいるから二拠点を提案した、とは思っています。でも、その案を出したことを俊介のせいにはしていません。自分が望みました」

「移動が大変になっても?」

「今のところは。大変になった時、俊介のためにと責めないようにします。私自身が選んだと」

「はい」

     *

 四つ目。

『結婚や子どもへの希望が変わったか』

 俊介は緊張した。

「結婚については、以前より現実に考えています。二拠点が始まる前に、結婚する可能性」

「なぜ?」

「同居の形や住居。保険。緊急時。制度上、夫婦のほうが整理しやすい部分もあります」

「はい」

「でも、それだけで結婚したくありません。真尋と家族になりたい気持ちもあります」

「家族」

 その言葉を、真尋は口の中でもう一度なぞった。

「私は、まだその言葉が少し怖いです。母の結婚を見てきたので」

「はい」

「でも、以前ほど否定的ではありません。俊介となら、家族になっても自分を失わない方法を話せるかもしれない」

 俊介の目が潤む。

「子どもは?」

「まだ、強く望みません。俊介が望む気持ちは?」

「あります。でも、結婚の条件にはしません」

「一年後も、もう一度話します」

「はい」

     *

 話し合いは二時間近く続いた。

 途中で休憩。お茶。パン。同じ部屋で、別々に少し本を読む。また戻る。

 結論を急がない。

     *

 夜、二人は同じベッドへ入った。俊介が真尋の手を握る。

「今日、必要とされなくなる話をしましたね。僕が真尋に必要とされなくなる日もありますか」

「必要の意味によります。生活するために必要ではありません」

「はい」

「でも、会いたい人です。未来を一緒に考えたい人」

「今は」

「今は?」

「関係は変わる可能性があります。でも、今の気持ちを小さくしたくありません」

「はい」

「好きです」

「僕も」

     *

 翌朝、俊介は東京へ戻った。真尋は改札まで送った。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

「次の予定は水曜日に。会えなくても、確認する日を」

「はい」

 俊介が電車へ乗る。扉が閉まる。真尋は手を振った。

 電車が遠ざかる。ホームの空気が、一段静かになる。

     *

 部屋へ戻る途中、花屋へ寄った。

 津田が店先で、娘らしい女性と話している。真尋は初めて見る顔だった。

「娘」

 津田が紹介する。

「東京とこっちを行き来してる」

「初めまして」

「初めまして」

 娘は明るく笑った。

「母から聞いてます。二拠点の部長さん」

「まだです」

「母も、最初は私のやり方へ口を出して大変でした」

「言わなくていい」

 津田が言う。

「でも、今は?」

 真尋が尋ねる。

「今も言います。ただ、最後は私に任せるようになりました」

 津田が少し不満そうに顔をしかめる。

「間違えるから」

「母も」

 娘が笑う。津田は何も言い返さなかった。

「必要とされない日、どうしていますか」

 真尋が津田へ尋ねる。津田は考えた。

「別の花を仕入れる。店を掃除する。休む。呼ばれたら行く」

 簡単な答えだった。

「寂しい時は?」

「娘に言う」

「はい」

「うるさいって言われる。でも、言う」

 津田の娘が笑う。

「かなり言います」

     *

 真尋は花を買わず、部屋へ戻った。

 白いアネモネは、そろそろ終わりに近い。花びらが一枚落ちている。真尋は拾い、ゴミ箱へ入れた。

 花が終わることを、失敗だとは思わない。

 咲いた。部屋にあった。見た。

 それで役割を終える。

     *

 月曜日。山岸が初めて、真尋の同席なしで人員面談を行った。

 真尋は別の会議室で仕事をしている。面談の時間が気になる。予定より十分長い。連絡はない。

 真尋は決裁資料へ視線を戻し、同じ行を二度読んだ。

 面談が終わった後、山岸から報告があった。

「配置変更へ、本人は同意しませんでした」

「理由は?」

「家庭の事情と、現在の仕事への希望。案を変更します」

「山岸さんは、どう判断しますか」

「別の候補を探します。本人を説得し続けません」

「理由は?」

「本人の希望と配置の目的が合わないから。代わりの候補は、これから」

「わかりました」

 真尋は口を出さない。山岸の判断を受ける。

     *

 午後、小田から初めて直接電話が来た。

『水口さん。例外商品の最終判断をお願いしたいです』

「資料は?」

『送っています』

「見ます」

『中原さんなら、すぐ答えたと思います。私は、二日かかりました。遅いですか』

「期限は?」

『明日』

「間に合っています。中原さんと比べないでください」

『難しいです』

「はい。でも、小田さんは小田さんの方法を作ります。私も、前の部長と同じではありません」

『はい』

「同じでなくても、仕事はできます」

『わかりました』

     *

 真尋は資料を読み、最終判断をした。

 小田の案を一部修正し、理由を書いて返す。すべては直さない。次に自分で判断できるよう、質問を二つ添えた。

     *

 その夜、葵から新商品の試食会結果が届いた。

『味、採用された』

『おめでとうございます』

『営業も、十五円ならって。量も残る』

『はい』

『でも、全国はまだ。三か月、もう一度テスト』

『はい』

『延びた。少し残念』

『はい』

『でも、続く』

『はい』

『私がいなくても、開発が味を調整してる』

『寂しいですか』

『少し。でも、私だけの商品じゃない』

『はい』

『真尋の仕事と同じ?』

『少し』

『任せる側も寂しい』

『はい』

 葵から少しして。

『秋田で決めたこと、仕事にも使ってるね』

 真尋は考える。

『関係は違います』

『うん』

『でも、戻った時に同じを求めないことは、仕事でも必要でした』

『はい』

     *

 真尋は生活ノートを開いた。

『任せる側の孤独』

 その下へ書き足す。

『必要とされない日にも、役割はなくならない』

『呼ばれるために問題を残さない』

『戻ってきた人へ、以前と同じ場所を約束しない』

『変わった人と、変わった仕事で会う』

 最後に。

『寂しさを理由に、相手の成長を止めない』

     *

 窓の外に、夜の公園が見える。誰かが犬を連れて歩いている。ベンチには、一人で座る人。遠くで電車の音。

 大阪の生活。

 真尋は、この場所で部長になる。人へ任せる。失敗を見る。自分と違う判断を受ける。必要とされない日もある。

 それでも、組織からいなくなるわけではない。

     *

 東京には俊介。葵。母。

 真尋がいなくても、皆生活している。葵の商品も、俊介の仕事も、母の家も、真尋を待ったまま止まってはいない。

 だから帰れる。変わった人へ会うために。

     *

 真尋は白いアネモネを花瓶から抜いた。

 花は終わっている。茎を短く切り、紙へ包み、捨てる。花瓶を洗う。

 空になった器を、すぐ別の花で埋めない。空のまま、テーブルへ置く。

 何もないことへ耐える。

 必要とされない時間。役割のない時間。空いている場所。

 それを急いで埋めなくてもよい。

     *

 真尋は照明を落とした。

 明日も、山岸が一つ判断する。森田が一つ断る。小田が一つ迷う。

 真尋は全部へ答えない。必要な時だけ呼ばれる。呼ばれない時間には、自分の仕事をする。

 部長として。一人の人として。俊介を愛する人として。葵との名前のない場所を持つ人として。

 どれか一つだけで、自分を確かめないために。

 真尋は寝室へ向かった。

 ベッドには枕が一つ。今夜は一人。

 そのことを寂しいと思う。同時に、自分の時間へ戻れたと感じる。

 どちらも消さず、布団へ入った。

 明日の朝、必要とされるかはわからない。それでも、自分はここにいる。

 真尋は目を閉じた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。