第三十章 何者でもなかった私を
部長就任の正式発表は、真尋が受諾の返事を送った翌週の月曜日に行われた。
大阪支社の大会議室。前方のスクリーンには、新しく常設される西日本営業企画統合室の組織図が映されている。
部長、水口真尋。
課長候補、山岸。
地域連携専門職、森田。
その下に広島と福岡の担当者名が並び、右端へ東京本社の支援部署が置かれていた。
画面の一番上にある自分の名前を、真尋は離れた場所から見た。
部長。
半年後から正式着任。
それまでは準備期間として、現在の部長代理と新組織の立ち上げ責任者を兼務する。
決めた時には実感があった。俊介と話し、葵へ伝え、母から祝われ、本社へ受諾の返事を送った。
それでも、会社のスクリーンへ文字として映ると、自分とは別の人の名前のように見えた。
「では、水口さんからお願いします」
支社長に促され、真尋は前へ出た。
大阪、広島、福岡から、合わせて三十人ほどが参加している。壁際の画面には、中原と岩瀬、それに東京の部長が並んでいた。
以前の真尋なら、話す内容を一言一句準備していた。今日は要点だけを小さな紙へ書いている。
組織の目的。
権限を一人へ集めない。
現場の判断を尊重する。
間違いを隠さない。
そして、自分がいない時にも動く組織を作る。
「この組織は、私一人の判断で動くものにはしません」
真尋は言った。
「大阪、広島、福岡には、それぞれ異なる顧客と売り方があります。統一することが目的ではなく、違いを理解した上で、共有できる仕事を増やすことが目的です」
中原が画面越しに聞いている。
「私は以前、期限を守ることを優先し、福岡の現場確認が終わる前に制度を決めようとしました」
会議室の空気が少し変わった。
正式発表の場で、失敗を話す必要はないと思う人もいるだろう。紙を持つ指先が湿っているのがわかる。
それでも真尋は続けた。
「あの時、止めてくれた人がいました。反対を続けてくれた人がいました。判断を変えた後、一緒に作り直してくれた人もいました」
山岸。中原。岩瀬。森田。名前は挙げなかったが、視線だけがそれぞれの方向へ動いた。
「部長になることで、私へ意見を言いにくくなる人が増えると思います」
何人かが顔を上げる。
「それは避けられない部分もあります。立場が変われば、同じ言葉でも重さが変わります」
真尋は一度、山岸を見た。
「だから、意見を聞きますと言うだけではなく、私を通さなくても異議を出せる仕組みを作ります」
組織図の横には、異議申立てと相談経路が表示されている。山岸が管理する意見窓口。森田の地域連携相談。支社長と人事へ直接話せる経路。真尋の評価だけで決まらない人事。
「私が正しいから部長になるのではありません」
自分で言いながら、喉が少し狭くなった。
「決めなければならない時に決め、間違った時には戻る責任を持つために、この役割を受けました」
会議室は静かだった。
「よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
最初に拍手をしたのは森田だった。続いて山岸。画面の中で、中原も手を叩いた。やがて会議室全体へ広がる。
真尋は顔を上げながら、自分の心臓がまだ速いことに気づいた。
*
発表後、何人もの社員から声をかけられた。
「おめでとうございます」
「大阪へ残ってくださるんですね」
「二拠点、本当にやるんですか」
「体、大丈夫ですか」
「山岸さんが課長になるんですか」
真尋は一つずつ答えた。
ありがとうございます。
最初の一年は大阪です。
二年目から試します。
体調は確認しながら。
山岸の正式就任は研修と審査の後。
すべてを説明し終える頃には、午前中が終わっていた。声を使いすぎた喉が、少し乾いている。
昼休みに入っても、山岸は会議室の片づけを続けていた。
「食事へ行きませんか」
真尋が声をかける。
「水口さんと?」
「嫌ですか」
「部長と二人で昼食を取ると、近い人だと思われます」
山岸は真顔で答えた。
真尋は言葉を止める。まだ着任もしていないのに、と思いかけて、それが自分の都合であることに気づいた。
「今日からですか」
「今日からです」
「では、森田さんも」
「それなら」
森田を呼び、三人で外へ出た。
*
昼食の店へ向かう途中、森田が言った。
「水口さん、発表で失敗の話をするとは思いませんでした」
「不要でしたか」
「僕は良かったと思います。ただ、本社の部長は少し難しい顔でした」
「見ました」
「後で言われますね」
真尋は頷いた。覚悟はしている。
山岸が横から言う。
「私は、少し安心しました」
「何に?」
「部長になったから、急に立派な人のように話さなかったことに」
「立派ではありません」
「知っています」
「山岸さん」
森田は吹き出した。
「もう部長へ強く言える」
「まだ正式着任前です」
「今のうちに慣れます」
三人は定食屋へ入った。真尋は焼き魚、山岸は親子丼、森田は日替わり定食。
注文を終えた後、山岸が尋ねる。
「東京の方々は、発表を見ていたんですか」
「本社の部長だけです」
「ご家族や恋人は?」
「会社の発表なので」
「葵さんにも、今日だと伝えました?」
「はい」
「俊介さんにも?」
「はい」
「どちらから先に?」
森田が聞く。
「また比較しますか」
「少し気になって」
「同じ日に伝えました」
「同じ文章?」
「違います」
「どう違う?」
「個人的なことです」
真尋は答えを切った。山岸と森田が顔を見合わせ、笑う。
*
料理が届き、しばらく三人は食事をした。
その途中、山岸が箸を止めた。
「水口さん、以前から聞きたかったことがあります」
「はい」
「葵さんとは、どうしてそこまで大切な関係になったんですか」
真尋の手が止まる。森田も顔を上げた。
「突然ですね」
「発表を見ながら思いました」
「何を?」
「水口さんが大阪へ残ることを決める時、恋人やお母様と話すのはわかります。でも、葵さんにも決める前に話した。秋田へ一緒に行った」
「はい」
「旅先で偶然出会った友人だと聞きました。年齢も、かなり違うんですよね」
「はい」
「どうして、その人が人生の大きな選択へ関わるほど大切になったのか」
山岸の問いに、悪意はない。純粋な疑問だった。
それでも、読まれたくない場所へ土足で入られたような感覚が、胸の奥で小さく立ち上がった。
「山岸さんには関係のないことです」
真尋は答えた。
言葉が、思ったより冷たく出た。
山岸の顔が強張る。
「すみません。聞きすぎました」
「いえ」
森田が何か言おうとし、やめた。
食事の空気が変わる。真尋は焼き魚へ箸を戻したが、味がわからなくなっていた。
答えたくない。職場で説明する必要はない。葵との関係を、理解してもらう義務もない。
それは正しい。
だが、胸の中には別の引っかかりが残った。
山岸へ答えたくないのではなく、自分でも、短く答えられなかった。
*
会社へ戻る途中、山岸が真尋から離れて歩いている。
真尋は気づいた。先ほどの言い方が強かった。
境界を守ることと、相手を傷つけることは同じではない。
「山岸さん」
呼ぶと、山岸が振り返る。
「先ほどは、強い言い方をしました」
「私が個人的なことを聞いたので」
「答えたくない質問でした。でも、冷たく返す必要はありませんでした。すみません」
「わかりました」
山岸はそれ以上求めなかった。
「ただ」
真尋は続ける。
「私も、まだ簡単には説明できません。だから、答えられませんでした」
山岸の表情が少しだけ緩む。
「いつか、話したくなったら。その時に」
「はい」
*
午後の仕事中も、山岸の問いが頭に残った。
どうして葵なのか。
旅先で偶然出会った。
年齢が離れている。
仕事も違う。
住む場所も。
共通の友人も、最初はいなかった。
学校でも職場でも家族でもなく、長年の付き合いがあるわけでもない。二人をつなぐ明確な理由はない。
最初の旅が終わった後、連絡を取らなければ、そこで終わっていた。実際、そのほうが自然だったのかもしれない。
真尋はパソコンの画面へ視線を戻す。人員配置の資料。山岸の研修計画。森田の専門職としての評価項目。
集中しなければならない。
だが、葵の顔が浮かぶ。最初に会った時の、まだ互いの名字も仕事も知らなかった頃の顔が。
*
終業後、真尋は部屋へ戻る前に花屋へ寄った。
津田が水の入ったバケツを移動している。
「今日は部長の顔」
「何ですか、それ」
「偉くなった?」
「正式に発表されました」
「おめでとう。花、買う?」
「今日は見ます」
「また難しい顔してる」
津田はバケツを置いた。
「仕事?」
「人のことです」
「恋人?」
「友人」
「秋田の?」
真尋は驚く。
「話しましたか」
「前に写真の人って。何を悩んでるの」
「なぜ大切なのか、聞かれました。職場の人に」
「答えられなかった?」
「はい」
津田は花の茎を一本ずつ確認しながら言う。
「大切だから、理由が必要?」
「説明を求められれば」
「説明しなくてもいいでしょう」
「はい」
「でも、自分では知りたい?」
真尋は黙る。バケツの水面が揺れて、天井の照明を細かく割っていた。
「はい」
津田は頷く。
「なら、本人に聞けば」
「葵に? 私はどうして大切ですかと?」
「そう」
「それは、相手へ答えを求めることになります」
「では、自分で考える」
「はい」
「花を見ながら?」
「なぜ花になるんですか」
「ここ花屋だから」
津田の口元が緩んだ。
*
真尋は白い花を一本買った。以前、俊介が大阪へ初めて来た時に選んだ花とは違う種類。名前は聞いた。白いアネモネ。
「花言葉は聞かない?」
「聞きません」
「よかった」
「なぜ?」
「意味で選ぶと、花を見なくなる人がいるから」
「はい」
「今日は、何で選んだ?」
「目に入ったので」
「それでいい」
*
部屋へ戻る。
「ただいま」
白い花瓶には、桃色の造花と、少し開きすぎた橙色のラナンキュラス。真尋は白いアネモネを別の細い瓶へ入れた。
一つにまとめない。テーブルへ二つの器を並べる。
部屋着に着替え、食事を作る前に、俊介から電話がかかってきた。今夜、短く話す予定だった。
*
『発表、どうでした?』
「終わりました」
『緊張しました?』
「はい」
『何を話しました?』
真尋は発表の内容を説明した。自分の失敗。異議を出せる仕組み。間違えた時に戻る責任。
『真尋らしいですね』
「本社の部長は、少し不満だったと思います」
『後で何か言われました?』
「まだ。山岸さんたちは、安心したと言っていました」
『よかった』
「その後、質問をされました」
『何を?』
真尋は迷う。
「葵を、なぜそこまで大切にしているのか」
電話の向こうが静かになる。
『山岸さんが?』
「はい」
『何と答えました?』
「関係ないと。冷たく言いました。後で謝りました」
俊介は間を置いた。
『僕も、聞きたいです』
真尋はスマートフォンを持つ手に力を入れた。
「以前も聞きましたね。秋田の後にも話しました。まだ足りませんか」
『説明が足りないというより』
俊介は言葉を探す。
『真尋自身が、どうして葵さんなのかを、まだ全部話していないように感じます』
「全部話す必要がありますか」
『ありません。僕へ説明する義務もない』
「はい」
『でも、僕は知りたいです』
「なぜ?」
『嫉妬もあります。それだけではなく』
俊介の声が柔らかくなる。
『真尋が、葵さんと出会って何が変わったのかを知りたい』
真尋は返事をしなかった。
*
『葵さんは、真尋に助けられたと話すことが多いでしょう。直哉さんと別れた時。仕事。自分の生活』
「はい」
『でも真尋は、葵さんから何を受け取ったんですか。守りたいだけですか』
「違います」
答えはすぐに出た。それだけは、考えるまでもなかった。
『では、何ですか』
「今は、うまく話せません。少し考えたいです」
『わかりました』
「俊介。知ったら、安心しますか」
『わかりません。むしろ、さらに大切な関係だとわかって怖くなるかもしれません』
「はい」
『それでも、知らないまま想像するより、聞きたいです。話せる時に』
「わかりました」
*
電話を切った後、真尋は夕食を作った。野菜と鶏肉を炒め、味噌汁とご飯を並べ、一人で食べる。
山岸と俊介。二人から同じ問いを受けた。
葵を守りたいだけではない。年下だからでもない。
失恋した葵が危うく見えたから、最初に気にかけた部分はある。だが、それだけなら、葵が自分で立てるようになった時に関係は薄くなっていたはずだ。
今の葵は、真尋が守らなければ生きられない人ではない。
仕事を持ち、商品を作り、直哉へ自分の言葉で別れを伝え、美月や家族との関係を持っている。
真尋が大阪へ残ることへ反対しながらも、その選択を奪わなかった。
自立した一人の女性。
それでも真尋は、葵を大切に思う。むしろ、葵が一人で立てるようになった今のほうが、対等に会える。
*
食事を終え、真尋は東京の部屋にある写真を思い出した。二つの影。大阪の壁にも同じ写真がある。秋田で撮り直した写真は、まだ飾っていない。
スマートフォンを開き、最初の秋田旅行の写真を探す。
古いフォルダ。
駅。食事。酒蔵。海。
葵の横顔。
真尋自身の写真は少ない。ほとんど葵が撮っている。
その中に、一枚だけ、宿の窓辺で笑っている真尋が写っていた。何を話していた時か、すぐには思い出せない。
髪が少し乱れている。化粧も薄い。仕事用の服ではない。カメラを意識する前に撮られたらしく、姿勢も整っていない。
真尋は写真を拡大した。
こんな顔をしていたのか。
自分が知らない自分だった。
*
葵と初めて会った日。真尋は仕事から離れるため、一人で旅へ出ていた。
会社では、判断を求められる立場だった。質問されれば答える。困っている人がいれば方法を考える。締切を守り、失敗を避け、誰かが迷えば選択肢を整理する。
そうしているうちに、仕事以外でも同じように振る舞うようになった。
母へ心配をかけない。
友人の相談へ答える。
自分の疲れは説明しない。
寂しいと言わない。
誰かへ会いたいと伝える前に、相手の予定を考える。
必要とされることは心地よかった。役に立てば、そこにいてよい理由ができる。
だが、何もできない自分を、どう扱えばよいかわからなかった。
旅先で葵と出会った時、葵は真尋の会社も役職も知らなかった。
判断力も。
仕事の評価も。
何人の部下がいるかも。
何を成し遂げたかも。
ただ、同じ列車に乗り、同じ景色を見て、真尋の言葉が少ないことを不機嫌と決めつけず、それでも遠慮なく話しかけた。
*
葵は、最初から真尋を頼れる年上の女性として見ていたわけではない。年齢を知った後には、少し甘えるような態度もあった。だが出会った瞬間には、何も知らない。
真尋が切符を落としかけた時、葵が拾った。道を間違えた時、葵が先に地図を見つけた。酒蔵では、真尋より葵のほうが店員と自然に話した。
写真を撮る時には、
『もっとこっちへ』
『笑って』
と、真尋へ指示をした。
真尋はいつも答える側だった。
葵の前では、知らないと言えた。わからない。どちらでもいい。疲れた。少し休みたい。そんな短い言葉を、初めて自然に口にした。
葵が許可したわけではない。葵は、自分の疲れへ正直だっただけだ。
『私、もう歩けない』
『お腹空いた』
『さっきの言い方、少し嫌だった』
『でも一人になるのも寂しい』
整っていない感情を、そのまま渡してきた。
真尋は最初、それを面倒だと思った。
同時に、羨ましかった。
*
葵は、正しい言葉を選ばなかった。相手を傷つけない形へ整えてから話すこともしなかった。
寂しい時には寂しいと言い、真尋が距離を取れば、捨てられたように感じたと怒った。俊介と付き合えば取られたと言い、大阪へ行けば行ってほしくないと泣いた。
その感情は、真尋を苦しませた。逃げたくなった時もある。実際、距離を取った。葵の要求をすべて受け入れることはできなかった。
だが葵は、真尋に嫌われないためだけに感情を消さなかった。
真尋には、それができなかった。誰かに嫌われる前に、求められる役割を演じる。できない時には、相手ごと遠ざける。
葵は不器用だった。重い時もあった。それでも、関係の中に自分を残していた。
*
真尋は生活ノートを開いた。新しいページへ、問いを書く。
『なぜ、葵なのか』
その下へ、最初の言葉。
『私が何者かを知らずに出会ったから』
書いてから、少し違うと思う。
知らなかったことだけではない。知らないままでも、一緒に時間を過ごした。真尋が仕事のできる人だからではなく、役に立つからでも、葵の問題を解決したからでもない。ただ、隣にいた。
『何者でもない私と、同じ景色を見たから』
書き加える。ペン先が紙へ触れる音だけが、部屋に残った。
*
次に、年齢差。
葵は真尋より若い。年齢差があることで、最初は保護者のような気持ちを持った。
直哉との別れで混乱する葵。生活の細かなことを忘れる葵。感情のまま連絡してくる葵。放っておけないと思った。
だが、それだけではない。
同世代の友人といる時、真尋は無意識に比較していた。
結婚。昇進。住居。親のこと。老後。
誰が先に何を得て、誰が何を失ったか。
口に出さなくても、同じ年代というだけで、同じ物差しへ並ぶ感覚があった。
葵とは、最初から生きている地点が違う。比べる必要がなかった。
葵の若さを羨むことも、全くなかったわけではない。まだ選び直せる時間が多いように見えた。
だが葵も、年齢とは関係なく傷つき、選択を恐れていた。若いから簡単にやり直せるわけではない。
真尋は葵の迷いを見ることで、自分が年齢を理由に諦めていた感情へ気づいた。会いたい。恋人がほしい。誰かと暮らす可能性を考えたい。仕事以外にも人生を持ちたい。
葵の未熟さを見て、真尋が教えたのではない。葵が迷う姿を隠さなかったから、真尋も自分の迷いを認められた。
『年齢が違ったから、同じ物差しで比べなくて済んだ』
『葵の迷いの中に、自分が置き去りにした気持ちを見つけた』
ノートへ書く。
*
さらに。
葵は真尋へ反対した。真尋が大阪へ行く時。部長職を受ける時。東京の部屋を手放す可能性。俊介との関係。
葵は、真尋が選ぶことへ何でも賛成しなかった。最初は、自分の寂しさから反対した部分もある。それでも最後には、真尋の決定を奪わなかった。
東京へ戻ってほしい。大阪は嫌。でも、残っても関係を終わらせない。その矛盾を、そのまま渡した。
真尋の周囲には、真尋の決定を信頼する人が多かった。
『水口さんが決めたなら』
『真尋なら大丈夫』
『あなたが選んだことだから』
信頼はありがたい。だが時に、誰からも反対されないことが寂しかった。正しい答えを出す人として扱われる。
葵は、真尋が間違える可能性を恐れずに意見を言った。
腹を立て、寂しさをぶつけ、俊介の味方をする時さえある。
真尋には、その反対が必要だった。自分の選択を奪わず、それでも違うと言う人。
『葵は、私の決定へ賛成する人ではない』
『反対されても、関係が終わらないことを教えた』
書く。
*
葵にも救われた。
その言葉を、真尋は長く認めたくなかった。
救う側と救われる側へ分けたくなかったから。
葵を弱い人として固定したくなかった。
自分も、葵がいなければ立てなかったと思いたくなかった。
だが、救われたという言葉は、依存と同じではない。誰かに人生を引き受けてもらうことでも、何もできない自分を助けてもらうことでもない。
葵と出会ったことで、自分の中にあったものへ気づいた。それも救いと呼べるのかもしれない。
真尋は俊介と出会う前、恋愛を避けていた。誰かへ近づけば、生活を奪われると思っていた。
母の結婚生活を見て。
仕事を辞めた母。
相談なく転勤を決めた父。
離れて暮らした時間。
真尋は、誰かと生きることを、自分を失うことと結びつけていた。
葵との関係でも、最初は同じだった。
近づけば求められる。
求められれば応えなければならない。
応えられなくなれば逃げる。
だが葵は、真尋が距離を取った後も、自分の生活へ戻った。
壊れながらでも。
泣きながらでも。
仕事へ行き、美月へ会い、商品を作り、真尋がいない時間を生きた。
そして、また会った。
相手へ近づいても、自分を失わない関係がある。離れても、必ず終わるわけではない。
葵との関係があったから、真尋は俊介へ近づく勇気を持てた。
自分の希望を言うこと。
一人になりたいと伝えること。
そばにいてほしいと頼むこと。
同じ家に住む可能性を考えること。
葵との失敗とやり直しを通して、少しずつ学んだ。
『葵がいたから、私は誰かへ近づいても、自分を失わない方法を探せた』
『俊介を好きになる前に、人を必要とすることを怖がらなくなった』
書く。
*
真尋はペンを置いた。時計は午後十時を過ぎている。夕食後、二時間近く考えていた。
葵へ連絡したくなる。あなたは私にとって何なのか。なぜ大切なのか。今なら少し話せる。
だが、葵から答えをもらいたいわけではない。今日は、自分で考える。
それに、葵との次の連絡は水曜日。今夜は月曜日で、緊急ではない。
真尋はノートを閉じた。表紙へ手を置いたまま、しばらく動かなかった。
*
翌朝、会社へ着くと、山岸が距離を取って挨拶をした。
「おはようございます」
「おはようございます」
昨日の質問を気にしているのだろう。
真尋はすぐに話すか迷う。職場で、個人的なことのすべてを説明する必要はない。だが、自分の中で少し答えが見えたことは伝えてもよいと思った。
「山岸さん、昨日の質問について」
「忘れてください」
「いえ」
山岸が緊張した顔をする。
「詳しく話すつもりはありません。ただ、考えるきっかけになりました。ありがとうございます」
山岸は戸惑った。
「私は、聞いてよかったんですか」
「聞き方には驚きました」
「すみません」
「でも、自分でも考えていなかったことでした。答えは、まだ整理中です。いつか話せる範囲で」
「わかりました」
山岸はそれ以上尋ねなかった。
*
その日の午後、本社の部長から電話があった。
『正式発表で、過去の失敗へ触れたそうですね』
「はい」
『必要でしたか』
「必要だと判断しました」
『部長は、組織へ安心を与える立場です。失敗を強調すれば、不安を与えます』
「可能性はあります」
『では、なぜ』
「皆が知っている失敗だからです。触れずに理想だけ話せば、失敗をなかったことにしたように見えます」
『はい』
「私は、間違えない責任者として安心を与えることはできません」
『では?』
「間違えた時に修正する責任者として、信頼を作ります」
電話の向こうで、部長が黙る。
『水口さん。部長になれば、個人的な弱さをすべて見せればよいわけではありません』
「わかっています」
『境界は必要です』
「はい」
『ただ』
部長は少し声を緩める。
『現場の反応は悪くなかったと聞いています。今回は、結果を見ます』
「ありがとうございます」
電話を切る。
個人的な弱さ。境界。
昨日の山岸との会話にも通じる言葉だった。すべてを見せる必要はない。だが、見せないことと、自分でも認めないことは違う。
*
水曜日の夜。葵との予定確認の日。
午後八時半、ビデオ通話が始まる。葵は自宅のテーブルに座っていた。背後には、青い線のカップと商品の試作品、それから小さな植物。
『部長さん』
「やめてください」
『発表、どうだった? 泣いた?』
「泣いていません」
『誰か泣いた?』
「いません」
『お祝いは?』
「昼食を。山岸さんと森田さんと」
『私もお祝いしたい』
「次に会う日を決めましょう」
二人は予定表を開いた。
今月は互いに忙しい。葵の商品は二十店舗での販売が始まり、週末にも売り場確認がある。真尋は組織立ち上げと、山岸の研修。
「来月の最初の日曜日」
葵が言う。
「東京へ戻る予定です」
『土曜日は俊介さん?』
「まだ確認していません」
『また』
「はい」
『日曜日の午後は?』
「母と昼食の可能性があります」
『私は夕方でも』
「午後五時から、二時間」
『短い』
「翌朝、大阪へ戻ります」
『泊まらない?』
「はい」
葵の肩が下がった。
『わかった』
「次に確認する日は?」
『その日に、次も決めたい』
「はい」
*
予定が決まった後、真尋は言った。
「葵に話したいことがあります。昨日、山岸さんから尋ねられました」
『何を?』
「なぜ、年齢も離れた葵を、そこまで大切にするのか」
葵の表情が変わる。
『山岸さんが? 何て答えた?』
「関係ないと」
『ひどい』
「職場なので。その後、謝りました」
『うん』
「でも、自分でも答えられないことに気づきました」
葵が不安そうに真尋を見る。
『答え、ない?』
「考えました」
『うん』
「聞きますか」
葵はすぐに頷いた。
『聞きたい』
*
「最初は、年下で、危うく見えたから気にかけました。守りたいと思った部分もあります」
『うん』
「直哉と別れた後の葵は、自分を見失っていました。放っておけないと思いました」
『うん』
「でも、それだけではありません」
葵は黙って聞いている。画面の中で、指がカップの縁をなぞっていた。
「私たちが最初に出会った時、葵は私の仕事も、役職も知りませんでした。私が何をできる人かも」
『うん』
「何かをしてあげたから、一緒にいたわけではない。同じ列車に乗って、同じ景色を見た」
『うん』
「私は、葵の前で、何者かでいなくてもよかった」
葵の目が潤む。
「仕事のできる人でも、判断する人でも、誰かを助ける人でもなく。ただ、疲れたと言って、知らないと言って、一緒に歩けました」
『うん』
「私は、それまで、役に立たない自分を誰かの前へ置くことができませんでした」
『うん』
「葵は、私にそれを許したわけではありません」
『違うの?』
「葵が、自分の気持ちをそのまま話したからです。疲れた。寂しい。嫌だった。お腹が空いた」
葵が笑う。
『そんなこと?』
「私には、難しいことでした。葵を見て、自分も言ってよいと思いました」
*
「年齢が違うことも、大切でした。同世代の人とは、比べていました」
『何を?』
「仕事。結婚。住む場所。家族。誰が進んでいるか。誰が遅れているか」
『真尋も、そんなこと考えるんだ』
「はい」
「葵とは、最初から同じ尺度で比べなくて済みました」
『若いから?』
「年齢だけではありません。生きてきた道が違った」
『うん』
「葵の迷いを見ていると、未熟だと思う時もありました」
『ひどい』
「はい」
二人は少しだけ笑った。
「でも、その迷いの中に、私が自分で見ないようにしていた気持ちがありました」
『何?』
「誰かに会いたい。寂しい」
『うん』
「一人で決めたくない。恋人がほしい。仕事以外の人生も持ちたい」
葵の涙が頬へ落ちる。真尋は画面越しに、それを拭いてやれないことを知っている。
「葵が迷うことを隠さなかったから、私は自分の迷いを認められました」
『うん』
*
「私は、葵を助けたと思っていました」
『助けてもらった』
「はい。でも、私も葵に助けられました」
『何をした?』
「答えをくれたわけではありません。私が誰かへ近づいても、自分を失わなくてよいと知りました」
『うん』
「私たちは、近づきすぎて苦しくなりました。距離を置いた。それでも、関係は終わりませんでした」
『うん』
「葵は、私がいない間も生活した。私も、葵がいなくても生活した。それから、また会いました」
『うん』
「その経験があったから、私は俊介と関係を作れたと思います」
葵が驚く。
『私がいたから? 俊介さんを好きになれた?』
「好きになることを、怖いままでも受け入れられました。一人になりたいと言っても、関係が終わらない可能性を知っていたから。そばにいてほしいと言っても、自分を失うわけではないと」
『うん』
「葵との関係で、何度も失敗したからです」
『失敗』
「はい」
『たくさんしたね』
「はい」
二人は泣きながら笑った。
*
「それから」
真尋は続ける。
「葵は、私へ反対します。大阪へ行く時も、部長になる時も、東京の部屋のことも」
『うん』
「俊介とのことでは、俊介の味方をすることもあります」
『うん』
「私の周りには、私の決定を信じてくれる人が多いです。でも、信じてくれることが、時々寂しかった」
『どうして?』
「正しい答えを出す人だと思われるからです」
『うん』
「葵は、私が間違うと思って意見を言う。私に嫌われる可能性があっても」
『怖いけど』
「はい。反対されても、関係が終わらないと知ることが必要でした」
『うん』
「葵は、何でも賛成してくれる人ではありません。だから、大切です」
葵は画面の向こうで、両手で顔を覆った。
「葵」
『待って。泣いてる』
「はい」
『真尋が、そんなこと考えてたと思わなかった』
「私も、昨日まで整理できていませんでした」
*
葵はしばらく泣いた。真尋は急かさず待った。画面の向こうで肩が上下するのを、ただ見ていた。
やがて葵が顔を上げる。
『私、真尋に助けてもらったと思ってた。年上で、しっかりしてて、私が迷惑をかけて』
「はい」
『いつか、私が自立したら、真尋は必要じゃなくなると思ってた』
「逆ではありません」
『逆?』
「葵が自分で立てるようになったから、今は対等に会えます。守らなければならない人として大切なのではありません」
『うん』
「意見を聞きたい人です。私へ反対してほしい人です。私が何者でもない時の顔を知っている人です」
『うん』
「変わっていく途中を見てきた人です。私も、葵の変化を見てきました。だから、大切です」
葵はまた涙を拭う。
『年下だからじゃない?』
「最初のきっかけには含まれています。でも、今は違います」
『うん』
「葵は、自分の仕事と生活を持つ一人の女性です。私が守らなくても生きられる。それでも、私は葵と関係を続けたい」
『うん』
*
『真尋。私も話していい?』
「はい」
『私は、真尋が何者でもないと思ったことはない』
真尋は驚く。
『仕事知らなかったけど。役職も。でも、最初から、真尋は真尋だった』
「はい」
『歩くの速い。知らないことを知らないって言う。疲れてるのに、私の荷物を持とうとする。お酒弱い』
真尋は口元が緩むのを感じた。
『写真撮られる時、すぐ姿勢を良くする。笑ってって言うと、困る』
「はい」
『私は、それを見てた』
胸の奥が、静かに温かくなる。
『何もできない真尋じゃなくて、仕事がなくても、役に立たなくても、真尋だった。私は、そういう真尋と会った』
「はい」
『だから、仕事の人になっても、部長になっても、私の知ってる真尋が消えない』
「はい」
『大阪で別の人みたいになっても』
「別の人ではありません」
『うん。変わっても、最初に会った真尋だけを返してって言わない。でも、知ってるって思っていたい』
「はい」
*
二人はしばらく黙った。画面を通して、互いの顔を見る。
秋田で向かい合った時とは違う。大阪と東京。別々の部屋。
それでも、言葉は届く。
「葵。昨日、俊介からも同じことを聞かれました」
『なぜ大切か?』
「はい」
『話す?』
「話したいです。葵が嫌でなければ」
『いいよ。私も、俊介さんに知ってほしい』
「なぜ?」
『私が真尋を取ろうとしてるだけじゃないって』
「はい」
『でも、私が俊介さんに勝ちたいと思う時があることも隠さないで』
「必要な範囲で。私の言葉として話します」
『うん』
*
通話を終える前、葵が言った。
『今日、名前のない場所が少し広くなった気がする』
「どういう意味ですか」
『秋田で約束を決めた時は、これからどうするかだった。今日は、どうしてここまで来たかがわかった』
「はい」
『始まりと、これから。両方ある場所になった』
「そうですね」
『木の札、見た?』
「秋田から戻った日に」
『私は昨日見た』
「なぜ?」
『仕事で少し嫌なことがあった』
「話しますか」
『今日はいい。次に会った時。大きな選択ではないから』
「はい」
『でも、聞いてほしい』
「わかりました」
*
翌日の夜、真尋は俊介へ電話をした。予定は一時間。真尋から話したいと伝えていた。
『考えられましたか』
「はい」
『聞いても?』
「はい」
真尋は、山岸へ聞かれたことから話し始めた。
葵と最初に出会った時。仕事も役職も知られていなかったこと。
何者かでなくても一緒にいられたこと。
年齢差。比べなくて済んだこと。
葵の迷いの中に、自分が置き去りにした感情を見たこと。
葵が遠慮せず感情を渡したこと。
近づきすぎ、距離を置き、戻った経験。
その経験が、俊介との関係を作る助けになったこと。
反対されても関係が終わらないと知ったこと。
すべてを、ゆっくり話した。
*
俊介は最後まで聞いた。
『葵さんは、真尋が恋愛を受け入れる前の練習相手だった?』
「練習相手という言葉は違います」
『はい』
「葵との関係は、俊介とのためにあったのではありません。ただ、その関係で学んだことが、俊介との関係にも影響しました。俊介との関係で学んだことも、葵との関係へ影響しています」
『たとえば?』
「待つことを我慢にしない約束。大きな選択を決める前に話すこと。一人の時間を持つこと」
『はい』
「関係は別ですが、学んだことは行き来しています」
『はい』
*
『真尋が、葵さんに救われたと言うのを、初めて聞きました』
「はい」
『少し安心しました』
「なぜ?」
『守りたいだけなら、葵さんが弱るたびに真尋が必要になる関係だから。それは、終わりがないと思っていました』
「はい」
『でも、葵さんが自立した今のほうが大切だと言われると、対等な関係だと、少し理解できます』
「ありがとうございます」
『同時に、前より嫉妬します』
「はい」
『真尋を変えた人だから。僕が出会う前の真尋を知っている。僕には入れない時間がある』
「俊介にも、私が入れない時間があります。大学時代。北川さんたち。母とのこと。仕事」
『はい』
「すべて知ることはできません。でも、今の俊介を知りたいです」
『僕も、今の真尋を』
*
「俊介。葵がいたから、俊介を好きになれたと言うと、嫌ですか」
俊介は考える。
『少し』
「はい」
『僕との関係が、葵さんから続くもののように感じるから』
「はい」
『でも、人は過去の関係から学んで、次の人へ会うのでしょう。僕も、以前の恋愛や友人から影響を受けています。だから、否定はしません』
「ありがとうございます」
『ただ、僕を好きになった理由は、僕自身にもありますか』
真尋は思わず笑った。
「もちろんです」
『聞いてもいいですか』
「今日は葵の話では?」
『一つだけ』
「俊介は、私の境界を尋ねてくれました。入ってよいか。泊まってよいか。触れてよいか。私が言葉にするまで待った」
『はい』
「でも、待つだけではなく、自分の希望も言いました。それが嬉しかったです」
俊介の表情が柔らかくなる。
『ありがとうございます』
*
電話の後、真尋はノートを開いた。
『なぜ、葵なのか』
昨日書いた言葉の下へ、新しい一文を加える。
『偶然出会ったから大切になったのではない』
『偶然の後、何度も互いを選び直したから大切になった』
旅先で会っただけなら、思い出の人だった。一度助けただけなら、感謝される人で終わった。年下だから守っただけなら、葵が自立した時に役割はなくなった。
だが二人は、何度も選んだ。
連絡する。
会う。
反対する。
離れる。
戻る。
謝る。
約束を作る。
変わった相手を知り直す。
偶然は、始まりにすぎない。関係を作ったのは、その後の選択だった。
*
数日後、真尋は山岸と研修計画について話していた。会議が終わり、山岸が資料を閉じる。
「以上です。次回は、人事評価の模擬面談」
「はい」
「水口さんが部下役?」
「人事の方です」
「安心しました」
「なぜ?」
「水口さんを評価する練習は、怖いので」
二人が立ち上がろうとした時、真尋が言った。
「山岸さん。以前の質問へ、少しだけ答えてもいいですか」
山岸が座り直す。
「無理に話さなくても」
「今は話したいです」
*
「葵は、私が仕事で何をしているか知らない時に出会った人です」
「はい」
「私は長く、役に立つことで人との場所を作っていました。葵の前では、何も決めなくても、一緒にいられました」
「はい」
「年齢が違うことで、比べなくて済んだ部分もあります。最初は守りたいと思いました。でも今は、守らなくても生きられる人です」
「はい」
「むしろ、私へ反対し、私が見たくないことを言う人です。私も、葵から影響を受けました」
「どのように?」
「自分の感情を言うこと。人へ近づいても、自分を失わなくてよいこと。離れても、戻れる関係があること」
山岸は静かに聞いている。
「旅先で偶然出会ったことに、特別な意味があったわけではありません。その後、何度も関係を選び直したことが大切でした。それが、答えです」
山岸は考え、頷いた。
「話してくださり、ありがとうございます。私、少し誤解していました」
「何を?」
「水口さんが、葵さんを放っておけないだけだと思っていました。年下で、不安定な人を助けているのだと」
「最初は、その部分もありました」
「でも、今は対等なんですね。それなら、名前のない場所という言葉も、少しわかります」
「理解してもらう必要はありません」
「ただ、聞いたので」
*
山岸は声を立てて笑った。
「水口さんにも、何者でもない時があるんですね」
「あります」
「部長でも? 会社を出れば?」
「はい」
「会社の中でも?」
真尋は考える。
「役割があるので、完全には。でも、役割だけではありません」
「はい」
「私も、部長になっても、何者でもない時間を持ちたいです」
「大阪で?」
「東京でも。俊介や葵といる時だけでなく、一人の時にも」
山岸は頷いた。
「それなら、休暇を取ってください」
「話が変わりました」
「部長の予定表が埋まり始めています」
「確認します」
*
その日の帰り、真尋は花屋へ寄った。
白いアネモネは、まだ部屋で咲いている。買う必要はない。津田へ、答えが見つかったことだけ伝えた。
「本人に聞いた?」
「いいえ。自分で考えました。その後、本人にも話しました」
「答え合わせ?」
「違います」
「なら?」
「伝えたかったので」
津田は花の水を替えながら言う。
「大切な理由を本人に言うの、いいね。言わなくても大切だけど、言われると、少し長持ちする」
「花の話ですか」
「人の話」
津田は笑った。
*
部屋へ戻る。
白いアネモネの花びらが、少し開いている。桃色の造花。橙色のラナンキュラスは、もう終わりに近い。
真尋は傷んだ花を取り除き、白い花の水を替えた。
その後、秋田で買った木の札を取り出した。表には何もない。裏に日付だけがある。
真尋は、表へ言葉を書きたいとは思わなかった。
名前のない場所。書かないことを選んだ札。
だが、ノートには言葉が増えた。
何者でもなかった私を知る人。
感情を取り戻すきっかけになった人。
反対されても、戻れると教えた人。
守る対象ではなく、意見を聞きたい人。
*
真尋は札を箱へ戻し、生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
新しい行へ書く。
『葵から受け取ったものを、自分の言葉で認めた』
『守ることと、大切にすることを分けた』
『偶然の後に、選び続けた関係だと知った』
最後に、迷って書く。
『私は、葵にも救われた』
その言葉を見つめる。重く感じない。
救われたから、葵へ一生応え続けなければならないわけではない。救ったから、葵の人生へ責任を持つわけでもない。
互いに影響を受けた。それぞれ、自分で立っている。その上で、関係を続けることを選ぶ。
*
スマートフォンへ、葵から写真が届いた。売り場。青いパッケージ。
『迷う日にも、ひと息。』
棚の前には、小さな新しい札。
『今日の終わりに、ひと息。』
住宅地の店舗用に変更した言葉だった。
『どう?』
『良いと思います』
『本当? 元の言葉、薄くなってない?』
『裏面に残っています』
『うん。売り場に合わせて、渡し方を変えた』
『はい』
『真尋たちみたい?』
真尋は笑う。
『何がですか』
『人によって、大切にする形が違う。でも、中心は変えない』
『そうですね』
葵から続く。
『昨日の話、今日も嬉しかった。私も、真尋に救われた。でも、それだけじゃない』
『はい』
『次に会った時、私から見た真尋も、もっと話す』
『聞きます』
*
俊介からも連絡が届いた。
『今日は北川さんの転職祝いに行きます』
『二人ですか』
『大学の友人四人です』
『はい』
『写真を送ります』
『楽しんでください』
送信してから、胸の端が少し痛む。それでも、言葉は送れた。
俊介には、真尋が入れない過去と関係がある。葵にも。母にも。山岸にも。
誰かを大切にすることは、その人の人生すべてを自分のものにすることではない。
*
夜。真尋は一人で食事をした。テレビはつけない。窓の外には、公園の灯り。
部長になることが正式に発表された週。
仕事は増えた。
祝福された。
不安もある。
それでも今夜、考えているのは、旅先で偶然出会った一人の女性のことだった。
それを不自然だとは思わない。
人生を変える出会いが、長年の付き合いから生まれるとは限らない。
家族だから大切になるとも限らない。
同じ年だから理解し合えるわけでもない。
出会い方は偶然。続け方は選択。
真尋と葵は、何度も選んだ。
選び方を間違えた日も、相手へ求めすぎた日も、逃げた日もあった。
それでも戻った。
*
真尋は寝室へ向かう前に、東京と大阪の予定表を確認した。
次に俊介と会う日。
葵と会う日。
母との食事。
山岸の研修。
部長着任へ向けた会議。
一つずつ、別の色で入っている。
誰か一人が、すべての予定を占めてはいない。
それでいい。
葵は、真尋の人生のすべてではない。俊介も。仕事も。
だが、すべてではないことは、大切ではないという意味ではない。
*
真尋はベッドへ横になり、照明を消した。
暗い部屋で、秋田で葵と並んだ布団を思い出す。最初の旅の窓辺。何も知らない二人。
真尋は、あの時の葵へ戻りたいとは思わない。自分も戻りたくない。
今の葵がいい。
仕事を持ち、真尋へ反対し、俊介との関係を尊重しようとし、寂しさを消さず、一人で帰れる葵。
今の自分も。
部長になり、大阪へ残り、俊介を愛し、一人の時間を選ぶ。
葵を守る対象ではなく、対等な人として大切にできる自分。
*
真尋は目を閉じた。
何者でもなかった自分。正確には、何者でもなかったわけではない。仕事や肩書きを知られなくても、真尋は真尋だった。
葵はそれを最初から見ていた。
歩く速さ。
疲れた顔。
お酒に弱いこと。
写真へ慣れていないこと。
知らないことを知らないと言うこと。
役に立つかどうかとは関係のない自分。
真尋自身が見失っていた姿を、葵は覚えていた。
だから真尋も、葵を覚えていたいと思う。失恋した年下の女性としてではなく、助けてあげた人でもなく、自分の感情を隠さず、何度も人生を選び直してきた一人の女性として。
明日も、二人は別々に暮らす。
葵は東京、真尋は大阪。
連絡をしない日もある。
互いに別の人と笑い、仕事へ夢中になり、寂しさを忘れる時間もある。
それでも、必要な時には名前のない場所へ帰る。偶然に任せるのではなく、自分たちで選んで。
真尋は静かに息を吐いた。
答えを見つけたことで、関係が強くなったわけではない。壊れなくなったわけでもない。
ただ、自分が何を大切にしているのかを、以前より知ることができた。
今夜は、それで十分だった。




