第二十九章 同じ未来を見なくても
秋田から戻った翌日の月曜日、真尋は目覚ましをかけずに眠った。
目を覚ました時、時計は午前八時を少し過ぎていた。
カーテンの隙間から、東京の朝の光が入っている。大阪の部屋よりも高い位置から見える空。遠くの車の音。上の階で水を流す音。
自分が長く暮らしてきた部屋なのに、目覚めた直後には、どこにいるのかわからなかった。
秋田の旅館ではない。大阪でもない。俊介の部屋でもない。東京の自分の部屋。
真尋は布団の中で、ゆっくり息を吐いた。
今日は休みを取っている。誰とも会わない。
俊介からは、
『一人で休む日を守ってください』
と昨夜の電話の後にメッセージが届いていた。葵からも、
『今日は連絡しない。水曜日に』
と来ている。母には、秋田から無事に帰ったことだけ伝えた。
会社用のスマートフォンは、電源を切ったままバッグの中にある。山岸と約束した。火曜日の朝、大阪へ戻るまで仕事を見ない。問題があれば、緊急用の個人電話へ連絡が入る。
今のところ、何もない。
真尋はベッドから起き上がった。
*
洗面所へ行く。三本の歯ブラシ。自分。俊介。葵。
秋田へ行く前と同じ並び。だが、見え方が少し変わっていた。
葵の歯ブラシがあるから、葵との関係が続くわけではない。俊介の歯ブラシがあるから、二人の未来が約束されるわけでもない。
物は、置いてあるだけ。関係を続けるのは、日々の選択。
真尋は自分の歯ブラシだけを取り、顔を洗った。
鏡の中の自分は、少し疲れている。秋田で泣いた。話した。歩いた。東京へ戻り、俊介へ言葉を渡した。
今朝は、何も決めなくていい。
そう思っても、頭の中にはすでに大阪の二拠点案がある。本社の回答。山岸の代理中の判断。俊介との約束。葵との新しい言葉。
真尋は鏡へ向かって言った。
「今日は休みです」
自分へ確認するために。
*
朝食は、東京駅で買っておいたパンと、冷蔵庫に残していたヨーグルト。コーヒーを淹れる。
秋田で買った土産は、まだバッグの中。俊介へ渡すもの。母へ。美月へ。会社へ。葵は自分の分を持って帰った。
真尋はバッグを開け、木の札が入った小さな箱を取り出した。机の引き出しへしまったはずだが、昨夜もう一度見た後、旅行用バッグへ戻していたらしい。
何も書かれていない表。裏には日付。名前のない場所。
見れば、秋田で話したことが戻ってくる。同時に、毎日確認するものではないとも思う。
真尋は箱へ戻し、机の一番下の引き出しへ入れた。鍵はかけない。
大切だから隠すのではなく、必要な時に取り出せる場所へ。
*
朝食後、洗濯機を回した。旅行で着た服。タオル。秋田の匂いが残っているような気がする。
洗剤を入れ、スイッチを押す。窓を開ける。空気が入る。東京の部屋が、再び生活の場所になる。
旅行の終わりは、新幹線を降りた時ではない。荷物を解く。服を洗う。土産を分ける。写真を整理する。日常へ戻す作業が必要になる。
真尋はスマートフォンの写真を開いた。
秋田駅。二つの影。酒蔵。和室。海。青いベンチ。葵と並んだ写真。
どれも削除したくない。だが、すべてを壁へ飾りたいわけでもない。
写真を一つのフォルダへまとめた。
『秋田 二度目』
タイトルを入力し、迷う。『二度目』ではなく、『名前のない場所』に変えようか。
やめた。誰かに画面を見られた時、説明したくない。
それに、旅のすべてが関係の確認だけだったわけではない。食事。景色。一人の時間。海。葵の仕事。秋田という土地。
真尋は、そのまま『秋田 二度目』として保存した。
*
昼前、俊介からメッセージが届いた。
『休めていますか』
真尋は窓辺のコーヒーと、洗濯物の写真を撮る。
『生活へ戻しています』
『はい』
『俊介は仕事ですか』
『昼休みです。秋田の話、昨日より詳しく聞きたい気持ちはあります』
『はい』
『でも今日は聞きません』
『ありがとうございます』
『次に会う日を、水曜日に決めましょう』
『はい』
短いやり取り。
俊介は、秋田で決めたことへ不安がないわけではない。昨夜の声でわかった。それでも、すぐに答えを求めなかった。
真尋も、俊介の不安を早く消そうとして、関係の説明を繰り返さない。時間を置く。言葉が体の中へ入るまで待つ。
*
午後、真尋は近所を歩いた。目的はない。スーパーへ行く必要もない。東京の街を、一人で確かめたかった。
以前通っていた道。閉店した店。新しくできたカフェ。公園。ベンチ。
大阪の商店街とは違う。こちらでは、真尋の顔を覚えている店員はほとんどいない。長く暮らしているのに。
人との距離は、住んだ年数だけでは決まらない。
大阪では、花屋の津田が「お帰り」と言う。東京では、誰にも名前を呼ばれず歩くことができる。
その匿名性も、以前は好きだった。今も嫌いではない。誰にも知られず、どこへでも行ける。
ただ最近は、名前を呼ばれることの温かさも知った。
公園のベンチへ座る。スマートフォンを出す。俊介の展示会の写真。
北川。男性二人。俊介。四人とも自然に笑っている。
真尋は写真を拡大した。北川の顔。俊介との距離。肩は触れていない。
そのようなことを確認している自分に気づく。
嫉妬。不安。相手の生活へ入れない寂しさ。
秋田で葵が俊介へ感じていたものと似ている。勝ちたい。自分の場所を確かめたい。
だが、北川が俊介の友人として大切でも、真尋の場所がなくなるわけではない。
そう思いたい。完全には思えない。
真尋は写真を閉じた。
信頼は、不安がなくなることではない。不安のまま、相手の生活を奪わないこと。
*
夕方、母から電話がかかってきた。
『休んでる?』
「はい」
『本当に?』
「散歩しました」
『仕事は?』
「見ていません」
『珍しい』
「皆さん、同じことを言います」
『秋田はどうだった?』
真尋は公園から部屋へ戻る道を歩きながら答えた。
「大切な話ができました」
『関係に名前をつけた?』
「つけませんでした。名前のない場所へ帰れる人、と」
母はしばらく黙る。
『葵ちゃんが考えたの?』
「はい」
『真尋も納得した?』
「はい」
『どういう意味?』
真尋は、母へ説明した。
互いがいなくても生活する。必要とされなくても続く。大きな選択をする前に話す。離れたい時は、終わりか休むためかを伝える。戻った時、前と同じであることを求めない。
母は途中で口を挟まず聞いた。
『よくそこまで話したわね』
「はい」
『疲れたでしょう』
「かなり」
『でも、よかった?』
「はい」
『俊介さんは?』
「怖いと言いました」
『当然ね。真尋も、俊介さんに同じような人がいたら怖いでしょう』
「はい」
『北川さん?』
真尋は足を止めそうになる。
「なぜ名前を」
『前に聞いた。俊介さんの友人ね。大切な友人なら、真尋が全部わからなくても当然』
「はい」
『でも、隠されると嫌』
「はい」
『葵ちゃんのことも、同じでしょう』
「はい」
*
「お母さん。父の大学時代の友人は、今もお母さんと連絡がありますか」
『年賀状だけ。お父さんが亡くなった後、一度会った』
「何を話しました?」
『大学時代のこと。私の知らないお父さん』
「嫉妬しました?」
母は吹き出した。
『した』
「はい」
『亡くなった人に、今さら。でも、私が知らない時間を、その人は知っていた。お父さんにとって大切な人だった。全部知りたいと思ったけど、全部は話してくれなかった』
「なぜ?」
『二人だけの話もあるから、と。少し腹が立った。でも、今はそれでいいと思う』
「なぜ?」
『お父さんの人生は、私のものではないから』
真尋は歩きながら、母の言葉を聞く。
『夫婦でも、全部共有しなくていい。ただ、共有しない部分があることを隠さなければ。私は、知らない時間があると知っていた。それで十分なこともある』
「わかりました」
*
火曜日の朝、真尋は東京駅から大阪へ向かった。いつもの窓側。仕事用のパソコンは持っている。まだ開かない。
新幹線が発車し、東京の景色が流れ始める。
今回は寂しさより、緊張が強い。
山岸が代理を務めた四日間。問題はなかったのか。何を決めたのか。
自分が戻ったことで、すべてを確認し直したくなる可能性。それをしないと約束した。
理由を聞く。結果を見る。違う判断でも、簡単に覆さない。
真尋はノートを開いた。
『代理中の判断を受け取る時』
一、最初に結果を聞く。
二、何を根拠に決めたか。
三、自分ならどうしたかは、必要な時だけ。
四、失敗があっても、先に修正方法を一緒に考える。
五、「なぜ相談しなかった」と言わない。
書き終え、ノートを閉じた。
*
新大阪駅へ着く。ホームへ降りる。
東京から戻るたび、体の中で何かが切り替わる。会社。商店街。大阪の部屋。津田の花屋。
真尋は改札を出たところで、会社用スマートフォンの電源を入れた。
通知が一気に届く。メール。メッセージ。会議変更。だが、緊急連絡はない。
最初に山岸からのメッセージ。
『予定通り、火曜日に確認してください。大きな問題はありません』
次に森田。
『山岸さん、決めました。詳しくは会社で』
少し気になる書き方。真尋はすぐに電話をかけたくなった。止める。会社へ着いてから。
*
大阪支社へ入る。受付。エレベーター。七階。
執務室へ入ると、山岸が真尋を見つけた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
周囲の何人かも顔を上げる。
「秋田、どうでした?」
坂口が尋ねる。
「良い旅でした」
「仕事の電話、しなかった?」
「していません」
森田が言う。
「本当に」
「はい」
「何か決めました?」
山岸の口元が緩んだ。
「仕事ですか」
「旅行で」
「はい」
「聞いていいこと?」
「名前のない場所を見つけました」
真尋が答えると、周囲が静かになる。
「何ですか、それ」
森田が尋ねる。
「個人的なことです」
「では言わなければいいのに」
「聞かれたので」
皆が笑う。真尋も笑った。
*
自席へ着く。机の付箋は、旅行前より三枚増えている。
『代理中の判断を支持します』
『決定が速くて助かりました』
『水口さんがいない時にも動けたことが安心でした』
名前はない。真尋は一枚ずつ読む。
胸に、嬉しさと小さな寂しさが同時に生まれる。
自分がいなくても動いた。目指していたこと。だが、必要とされなくなるような寂しさ。
葵と同じ。必要とされない時にも、関係はなくならない。仕事でも。
責任者がいなくても組織が動くことは、責任者の価値がなくなることではない。
*
午前十時。山岸、森田、真尋の三人で代理期間の報告を行った。
「最初に、結果から」
真尋が言う。
「はい」
山岸が資料を開く。
「重大な障害なし。問い合わせは二十八件」
「通常より多いですね」
「連休前だったので。そのうち、二十二件は森田さんと坂口さんが対応。残り六件が、私の判断」
山岸は内容を説明する。
福岡の例外商品登録。大阪の店舗からの分類変更。広島の担当者の急な休み。問い合わせ窓口の変更。店舗研修の延期。東京本社からの資料提出依頼。
「一番大きかったのは、店舗研修の延期です」
山岸が言う。
「理由は?」
「講師を担当する坂口さんが体調不良」
「代わりは?」
「森田さんが可能でした。でも、資料が坂口さんの説明を前提に作られていた。森田さんへ急に任せるより、一週間延期しました」
真尋ならどうしたか。頭に浮かぶ。研修を予定通り行うため、森田へ資料を修正させたかもしれない。
だが今は、それを言わない。
「影響は?」
「研修対象の二店舗は、旧資料で一週間運用を継続」
「問題は?」
「問い合わせが一件増えました。売上集計への影響なし」
「わかりました」
山岸が真尋を見る。
「水口さんなら、予定通りやりました?」
「今は、それを聞く必要がありますか」
山岸は驚き、首を振る。
「ありません」
「延期の判断理由は理解しました。私は支持します」
山岸の肩が下がる。
*
「本社資料は?」
真尋が尋ねる。
「期限を二日延ばしました」
「本社が認めた?」
「最初は、今日までと言われました。用途を聞きました」
山岸は思わず笑った。
「水口さんが以前言ったように。来月の会議の参考資料だったので、二日遅れても問題はありませんでした」
「はい」
「延長しました」
「わかりました」
真尋は資料を見る。
自分なら、期限を守るために休日明けの朝から作ったかもしれない。山岸は理由を聞いた。変えられる期限だと判断した。
「良い判断です」
真尋が言う。
「本当に? 後で、今日中に出せと言いません?」
「言いません」
森田が横から言う。
「録音したほうがいいです」
「必要ありません」
三人は声を立てて笑った。
*
最後に、山岸が言いにくそうに資料をめくる。
「一つ、失敗しました。問い合わせ窓口の変更を、広島へ伝え忘れました」
「影響は?」
「二件、旧窓口へ届きました」
「対応は?」
「岩瀬さんが転送」
「相手への遅れは?」
「半日。苦情はありません」
「修正は?」
「全地域へ再通知。窓口一覧を共有フォルダの先頭へ。申し訳ありません」
山岸が頭を下げる。
真尋はすぐに、大丈夫と言いそうになる。止める。
「失敗の内容は理解しました。同じことを防ぐ方法も作っています。今回は、それで進めましょう」
「怒らない?」
「怒る必要がありますか」
「水口さんなら、確認表を作れと言うかと」
「必要だと思いますか」
「今は、再通知で十分です」
「では」
山岸は安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
「次に同じことが起きたら、確認方法を見直します」
「はい」
*
報告後、森田が残った。
「水口さん。山岸さんの判断、全部認めましたね」
「はい」
「自分なら違うと思ったものも?」
「ありました」
「店舗研修?」
「はい」
「なぜ言わない?」
「結果として問題が小さく、判断理由も妥当だったので。私の方法を教えることが、必ずしも必要ではありません」
「成長しましたね」
「森田さんに言われたくありません」
森田は笑う。
「でも、顔は少し寂しそうです」
真尋は否定しようとして、やめる。
「はい」
「自分がいなくても回ったから?」
「少し」
「僕たちは、水口さんがいないほうが楽な部分もありました。でも、戻ってきて安心した部分もあります。両方です」
「わかります」
「恋人や友人も、同じですか」
「最近、仕事と生活を何でもつなげますね」
「水口さんが話すから」
「はい」
真尋は笑った。
*
午後、支社長から呼ばれた。机の上には、本社から届いた資料。
「二拠点案の回答が来ました」
真尋は姿勢を整える。
「正式提案ですか」
「同時に」
支社長が二枚の書類を差し出す。
一枚目。
『西日本営業企画統合室 部長就任案』
二枚目。
『勤務拠点に関する条件回答』
真尋は上から読む。
部長職。大阪常設組織の責任者。正式転勤。着任は半年後。最初の一年間は大阪常駐。
ここまでは、真尋の案に近い。
二年目以降、東京と大阪の二拠点勤務を、六か月間の試験として認める。ただし、月の大阪勤務日数は十二営業日以上。東京勤務期間は、本社との調整業務を行う。移動費は会社負担。二重住居の補助は、上限付きで認める。大阪の住居を主住居とする。
現地運営責任者として山岸を、課長職候補として育成する。森田は地域連携専門職へ。
試験期間後、業務効率、費用、現地評価、本人の健康状態を確認し、継続を判断。
条件が想定より通っている。真尋は何度も読み返す。
「認められました?」
「条件付きで。本社は、東京へ戻るための制度ではなく、組織運営の試験として扱います」
「はい」
「前例になります。失敗した場合、今後同じ制度が認められにくくなる。責任は大きいです」
「わかっています」
*
「返答期限は?」
真尋が尋ねる。
「三週間」
希望した期限。
「はい」
「部長就任と二拠点案は、一体です」
「どういう意味ですか」
「部長を受けず、二拠点勤務だけを選ぶことはできません。東京へ戻る場合は、現在の部長代理として本社の別部署へ」
「今の大阪の仕事は?」
「後任へ引き継ぎ」
「山岸さん?」
「現時点では部長経験が足りません。外部から部長を置き、山岸さんは課長候補」
真尋が部長を断れば、別の人が大阪へ来る。山岸や森田の役割は残る可能性がある。だが、どのような責任者になるかはわからない。
「真尋さん」
支社長が言う。
「大阪の人のために受ける、と考えないでください。山岸さんのためにも。組織は、真尋さんがいなくても続けます」
先ほど机の付箋を見た時と同じ痛み。
自分がいなくても続く。それが正しい。だが寂しい。
「同時に、恋人のためだけに断らないで。前にも言いました。今回は、条件が出ました。自分が、どのように暮らしたいか。三週間で考えてください」
*
支社長室を出た後、真尋はすぐに俊介へ連絡しそうになった。
正式提案が来た。二拠点が認められた。部長。一年大阪。二年目から東京と大阪。
伝えたい。
だが、今日は火曜日。俊介とは水曜日に次の予定を確認することになっている。
大きな選択は、決める前に話す。葵との約束。俊介とは、決める過程へ入れると話した。
今日、連絡してもよい。むしろ早く伝えるべき。
ただ、仕事中。真尋も、条件をまだ十分に理解していない。感情のまま話せば、また大きな話を疲れた時間へ置くことになる。
真尋は短く送った。
『会社から正式な条件が届きました。大切な話なので、明日の予定確認とは別に時間を取りたいです』
俊介から、十分ほど後。
『わかりました。明日の夜、二時間取れます』
『八時から?』
『はい』
『仕事が延びる可能性は?』
『七時以降は予定を入れません』
『私も七時で終えます』
『変更が必要なら、六時半までに連絡しましょう』
『はい』
話す時間を先に決める。
葵へも連絡する。
『正式提案が来ました』
すぐに既読。
『大阪?』
『はい。二拠点も条件付きで認められました』
『いつ話せる?』
水曜日は俊介。
『木曜日の夜』
『遅い』
『大きな話なので、時間を取りたいです』
『俊介さんが先?』
真尋は画面を見る。秋田で話したばかり。勝ちたい気持ちは、なくなっていない。
『はい。生活への影響が大きいので』
少しして。
『わかった』
『葵との関係にも影響します。木曜日に話します』
『はい』
『嫌だけど、わかった』
『ありがとうございます』
*
その夜、真尋は大阪の部屋へ戻った。
「ただいま」
室内は変わっていない。青紫の花は、旅行前に処分した。緑の花も、最後の一本が少し傷んでいる。桃色の造花だけが変わらず残る。
真尋は緑の花の茎を切り、水を替えた。テーブルへ正式提案書を置く。
部長。二拠点。一年常駐。その後、半分ずつ。
望んで作った選択肢。認められた。嬉しいはず。
だが、手放しでは喜べない。認められたことで、決めなければならなくなった。
東京へ戻るという以前の希望。大阪の仕事。俊介との未来。葵との関係。母。体力。お金。責任。
すべてが現実になる。
真尋は食事を作った。ご飯。味噌汁。野菜炒め。一人分。
考えながら作ると、味噌汁へ味噌を入れすぎた。一口飲む。濃い。水を足す。
失敗は、戻せる時もある。戻せない時も。
仕事を受ける。断る。どちらも、後から完全には戻せない可能性がある。だからといって、絶対に後悔しない答えを探しても見つからない。
真尋は食事をしながら、条件を一つずつノートへ書き写した。
*
『部長を受ける場合』
・最初の一年は大阪。
・二年目から二拠点を六か月試験。
・月十二営業日以上大阪。
・東京の住居補助あり。
・山岸、森田との体制。
・現在の仕事を継続。
・責任増加。
・移動負担。
・俊介との同居は、少なくとも一年後。
・東京と大阪の生活を両方持つ。
『断る場合』
・東京へ戻る。
・部長代理。
・配属先未定。
・俊介と同じ街。
・母、葵へ会いやすい。
・大阪の仕事を引き継ぐ。
・山岸たちは別の部長と働く。
・大阪の部屋を離れる。
・津田や商店街とも距離ができる。
並べる。仕事と人が混ざっている。それでいい。生活を決めるのだから。
最後に、自分の希望だけを書く。
『私は、何をしたいか』
真尋はペンを止める。
部長になりたいのか。肩書きより、今の仕事を続けたい。
大阪に残りたいのか。ずっとではない。
俊介と一緒に暮らしたいのか。はい。今すぐではなくても。
東京の部屋を残したいのか。はい。大阪の部屋も。
母の近くにいたいのか。はい。葵と会いたいのか。はい。
すべて。欲張り。だが、すべてを同じ量で持つことはできない。
真尋は書いた。
『大阪の仕事を、自分がいなくても続く形まで育てたい』
『俊介と、同じ街で暮らす未来を諦めたくない』
『東京と大阪のどちらも、生活の場所として持ちたい』
『仕事だけの人にも、恋人だけの人にもなりたくない』
読み返す。
部長を受け、二拠点を試す案が、今の希望へ最も近い。
ただし、俊介が一年の遠距離を続けられない可能性がある。関係が終わるかもしれない。
それでも受けたいのか。
真尋は、その問いへまだ答えを書けなかった。
*
水曜日。真尋は朝から仕事をした。
正式提案のことは、山岸と森田にはまだ話していない。支社長から、本人の返答前に必要以上に広げないよう言われている。だが山岸の役職候補については、人事面談が進んでいるため、ある程度知られている。
「本社から、何か来ました?」
山岸が昼休みに尋ねる。
「来ました」
「二拠点?」
「はい」
「通った?」
「条件付きで」
山岸の顔が明るくなる。
「では、残る?」
「まだ決めていません」
山岸の表情が止まる。
「なぜ?」
「部長就任と一体です。最初の一年は大阪常駐」
「それは案通り」
「はい」
「俊介さん?」
「それだけではありません。責任。移動。生活」
「はい」
山岸は黙る。
「私たちのために残らなくていいです」
「支社長にも言われました」
「はい。でも、残ってほしいです。矛盾しています」
「わかります」
「断ったら、私は課長候補ではなくなる?」
「わかりません。でも、私が受けるかどうかで、山岸さんの希望がなくなるようにはしたくありません」
「会社へ言います?」
「はい」
「ありがとうございます」
山岸は考える。
「私も、水口さんがいなくても課長へ挑戦したいか、考えます。水口さんについていくのではなく、自分の仕事として」
「お願いします」
*
午後六時半。真尋は予定通り会社を出た。山岸が時計を見る。
「今日は早い」
「約束があります」
「俊介さん?」
「はい」
「大切な話?」
「はい」
「待たせないように」
「はい」
真尋は駅へ向かった。部屋へ着いたのは七時二十分。
食事は先に済ませる。簡単なうどん。食器を洗う。資料。ノート。水。
八時。俊介からビデオ通話が入る。
「こんばんは」
『こんばんは』
俊介は東京の自宅にいる。テーブル。白いカップ。真尋のために買ったものが棚に見える。
「今日は、二時間で足りますか」
『足りなければ、次を決めます』
「はい」
『条件を聞かせてください』
真尋は正式提案の内容を説明した。
部長職。最初の一年は大阪常駐。二年目から、月の半分を東京。六か月の試験。住居補助。移動費。山岸。森田。東京へ戻る場合。すべて。
俊介は途中で質問せず聞いた。
*
『真尋は、どう思っていますか』
説明が終わった後、俊介が尋ねる。
「受けたい気持ちがあります」
真尋は隠さず答えた。俊介の顔が硬くなる。
『どのくらい?』
「条件を見た時、最初に嬉しいと思いました。二拠点を認めてもらえた。今の仕事を続けられる。山岸さんたちへ役割を渡せる」
『部長になることも』
「はい」
『嬉しい?』
「はい」
『そうですか』
俊介は視線を落とす。
「でも、すぐ受けたいとは言えません」
『なぜ?』
「俊介とのことがあります。一年、今の遠距離が続く。その後も、半分は大阪。一緒に暮らすとしても、特殊な形になります。俊介が続けられない可能性を言ったことも。怖いです」
*
『真尋。僕は、今も東京へ戻ってほしいです』
「はい」
『一緒に暮らしたい。一年後ではなく、今の赴任が終わる時に。大阪の部長を断ってほしいと思っています』
俊介は、はっきり言った。真尋の胸が痛む。
「はい」
『言ってもいいんですよね』
「もちろんです」
『真尋の仕事を大切にしていないようで、怖かったです。でも、僕の希望です。東京へ戻ってほしい』
「聞きました」
『それでも、受けたい?』
真尋はすぐに答えない。
「はい」
小さく、だが明確に答えた。俊介の目が揺れる。
「私は、大阪の仕事を続けたいです。部長になりたい。今の人たちと、組織を作りたい。一年後に東京と大阪を行き来しながら、俊介との生活も作りたい」
『全部ですね』
「はい」
『僕が、そこへ合わせる?』
「合わせてほしいとは言いません」
『でも、真尋が受けたら、僕は選ぶことになる。遠距離を続けるか。別れるか。真尋の仕事の決定で』
「はい」
俊介の言葉は責めるためではなく、事実だった。
*
「俊介にも、自分で決めてほしいです」
『はい』
「私の仕事を受け入れられないなら」
『別れる?』
言葉が重い。
「その可能性も、話さなければいけません」
俊介の顔が歪む。
『真尋は、それでも受ける?』
「まだ決めていません」
『僕が別れると言ったら?』
「脅すためではなく、本当に続けられないなら、受けるか、もう一度考えます」
『僕のために断る?』
「それも含めて、自分の選択として」
『後で責めませんか』
「わかりません」
『はい』
「責める可能性があるなら、断るべきではないと思います。だから今、簡単に東京へ戻るとは言えません」
俊介は長く黙った。
『僕は』
俊介が話し始める。
『真尋へ、仕事を断らせたいわけではないと思っていました。でも、今は断ってほしい。それを言った自分が、嫌です』
「なぜ?」
『真尋の大切なものを、僕のために手放してほしいから。愛情ではなく、支配に近い気がする』
「違います」
『なぜ?』
「希望を言うことは、支配ではありません」
『でも、真尋が断るかもしれない』
「決めるのは私です。俊介が言わずに我慢し、後で苦しくなるほうが嫌です。東京へ戻ってほしいと言ってください。私は受けたいと言います。違う希望を持ったまま考えます」
『はい』
*
「俊介は、一年の遠距離を続けられませんか」
真尋が尋ねる。
『今すぐ、できないとは言いません。でも、今の数か月でも苦しいです』
「はい」
『会えないことだけではなく』
「何ですか」
『真尋の大阪の生活が、僕の知らないまま増えること。花屋の津田さん。山岸さん。森田さん。部屋。公園。仕事。僕は、時々訪れる人になる。一年後、半分東京に戻っても、大阪へ帰る真尋を見送る。一緒に暮らしても、月の半分はいない。その生活を、僕が望んでいるか。わかりません』
俊介は自分の希望を言葉にしている。
『僕は、毎日一緒でなくてもいいと思っていました。でも、同じ街にいることを望んでいます。会いたい日に、必ずではなくても会える距離。真尋が帰ってくる場所が、僕のいる東京であってほしい』
「大阪も帰る場所であることが、嫌ですか」
『嫌ではありません。でも、僕の場所と同じくらい大切になることが、怖いです』
「はい」
葵が言った言葉と似ている。勝ちたい。場所を失いたくない。
*
「俊介。私は、大阪の仕事を選ぶことで、俊介を大切にしていないわけではありません。でも、俊介が大切だから東京へ戻る、と決めることもできます。どちらを選んでも、失うものがあります」
『はい』
「私は、失わない答えを探していました」
『二拠点』
「はい」
『でも、僕にとっては、全部を失わない答えではない』
「はい。わかっています」
『真尋にとっても、移動や疲れがある。二つの家。二つの仕事の場所。全部を持つために、余白がなくなるかもしれない』
「はい」
真尋はノートへ書いた言葉を思い出す。続けられる生活か。
「試験期間があります。無理なら見直す」
『仕事は?』
「大阪常駐か、東京帰任か」
『その時、また同じ話をする。一年半後に。今より関係が深くなった後で』
「はい」
俊介は遠い未来の不安を見ている。
*
『真尋。三週間のうちに、僕たちは何を決めますか』
「私が仕事を受けるか。俊介が、その選択の中で関係を続けたいか」
『別々に?』
「最後の決定は、それぞれです。でも、途中は一緒に」
『何をします?』
真尋は考える。
「一年の遠距離生活を、具体的に想像します。会う回数。費用。移動。電話。二年目の二拠点。同居するなら、東京のどこで。どのように。俊介の一人の時間。私の大阪の生活。どこが受け入れられないか。できるだけ具体的に」
『はい』
「それから、二週間後、東京で二日間、一緒に過ごせますか」
『はい』
「旅行ではなく」
『生活のように?』
「はい。俊介の部屋で。私が大阪へ戻る前提で。一緒に暮らす未来を、少し試す」
俊介の表情が変わる。
『二日で?』
「答えは出ません。でも、今までより具体的に考えられます」
『僕の部屋へ、真尋の仕事を持ってくる?』
「一日は在宅勤務を。俊介も仕事。同じ部屋で、それぞれ。食事。家事。一人の時間。夜だけ会うのではなく」
『わかりました。秋田で葵さんと一人の時間を作ったように?』
「はい」
『同じ部屋でも、別の時間を。試したいです』
「私も」
『その週末まで、答えを出さない?』
「はい」
『会社の期限は?』
「三週間」
『二週間後に過ごし、残り一週間で』
「はい」
*
俊介は息を吐いた。
『今、別れたくありません』
「私も」
『でも、真尋が大阪を選んだ時、続けられると約束はできません。二週間、考えます』
「はい」
『その間、普通に連絡しますか』
「はい」
『喧嘩の後のように、考えるために距離を置く?』
「必要ですか」
『僕は、毎日少し話したいです』
「私も」
『ただ、同じ質問を何度もしない。東京へ戻るか、大阪へ残るか。考えたことを、ノートへ書く』
「はい」
『会った時に交換する?』
「見せたい範囲で。互いの答えを採点しない」
『はい』
俊介が笑う。
『会議のようです』
「必要なので」
*
時計は午後九時半を過ぎていた。二時間にはまだ少しある。
「秋田の話を、もう少し聞きたいですか」
真尋が尋ねる。
『はい』
「今?」
『大きな仕事の話の後に、聞けるかわかりません。でも、聞きたいです』
真尋は、秋田での話を詳しく伝えた。
葵が必要とされなくても関係はなくならないと話したこと。真尋が、葵がいなくても生きられるが、いない人生を選びたくないと言ったこと。名前のない場所。大きな選択。距離を置く時。木の札。海。青いベンチ。
俊介は静かに聞いた。
『葵さんは、僕との関係をどう考えていますか』
「俊介との関係には、葵とは違う責任と優先があると理解しています。勝たなくても場所がある、と」
『本当に、勝とうとしなくなりますか』
「すぐには。寂しい時は言うと思います。俊介を優先した時、傷つく。でも、その気持ちで私たちを別れさせようとはしない」
『信じます』
「ありがとうございます」
『完全には安心していません。でも、葵さんが自分の場所を言葉にできたことは、僕にとっても、少し安心です』
「なぜ?」
『以前は、何を求めているかわからなかったから。一番になりたいだけに見えた。今は、何を求めて、何を求めないかが少しわかる』
「はい」
*
『真尋。僕たちも、同じように言葉を作る必要がありますね。恋人という名前だけではなく』
「はい」
『仕事の選択を考える前に。次に会った時、話しましょう』
「何を?」
『僕たちが、何を求める関係か。同じ街に住むことは必要か。毎日一緒にいる必要はないのか。結婚を望むのか。子どものこと』
真尋は少し息を止める。
「はい」
『僕は、まだ具体的に話していませんでした。真尋は、子どもを望みますか』
大きな問い。今夜、すぐに答える準備はない。
「次に会った時に話します。今日、答えを急ぎません。俊介も、考えてください」
『はい』
仕事の選択から、二人の将来全体へ話が広がる。
避けてきたこと。同居。結婚。子ども。どのような暮らしを望むのか。
大阪へ残るかは、その中の一つ。
*
「今日は、ここまでにしますか」
真尋が尋ねる。
『はい』
「次に会うまで、何度も結論を求めない。でも、感じたことは話す。今日、言いたいことは?」
俊介は考える。
『東京へ戻ってほしいです。でも、部長になりたい真尋も大切です。どちらかを消さずに考えます』
「ありがとうございます。私は、大阪の仕事を受けたいです。でも、俊介と同じ街で暮らしたいです。どちらかを、まだ消しません」
『はい』
好きです、と二人とも言った。
以前より、その言葉が簡単な答えにならないことを知りながら。
*
木曜日の夜。真尋は葵と電話をした。
『俊介さんと話した?』
「はい」
『何て?』
「東京へ戻ってほしいと」
『私と同じ。真尋は?』
「受けたいと。二週間後、俊介の部屋で二日間過ごします」
『泊まる?』
「はい」
『生活の練習?』
「少し」
『嫌』
葵はすぐに言った。
「はい」
『ごめん』
「言ってください」
『同居へ進みそうで嫌。私の東京の部屋がなくなる話にもつながる。でも、俊介さんと考えるために必要。わかってる。秋田の後すぐに、二人の話が進むのが寂しい』
「はい。秋田で決めた関係があるから、俊介との未来を止めることはしません」
『うん』
「葵も、恋愛や仕事を止めない。それでも、寂しい時は話す」
『今、話した』
「はい」
*
真尋は会社からの条件を説明した。葵は途中で何度も質問した。
東京の部屋。大阪の部屋。会える回数。秋田旅行。商品が全国展開した時。真尋が部長になった時。
『東京の部屋、残せる?』
「補助があります」
『二年目から?』
「はい」
『最初の一年も?』
「大阪を主住居にしますが、東京の部屋は自費で維持できます」
『高いでしょう』
「はい」
『手放す可能性は?』
「あります」
葵が黙る。
「葵。東京の部屋を手放す場合は、決める前に話します」
『秋田の約束』
「はい」
『反対しても?』
「聞きます」
『でも真尋が決める』
「はい」
『私、かなり反対する。あの部屋がなくなるのは嫌』
「わかっています」
『でも、家賃を払うのは真尋。私のために残せとは言えない』
「言ってもいいです」
『言う。でも決めるのは真尋』
「はい」
*
『真尋は、大阪に残りたいんだね』
葵が言う。
「はい」
『以前より、はっきりした。俊介さんと別れるかもしれないのに?』
「それが一番怖いです」
『なら、戻れば』
「はい」
『ごめん。また』
「はい」
『私、直哉と別れた時、仕事を理由に戻らなかったわけじゃない。真尋は、仕事を選んで恋人を失うかもしれない。後悔しない?』
「します」
『どちらでも?』
「はい」
『俊介さんを選んでも、仕事を思い出す。仕事を選んでも、俊介さんを思い出す。正しい答え、ないね』
「はい」
葵はしばらく黙った。
『私が言えるのは、東京へ戻ってほしい。でも、大阪へ残っても、名前のない場所はなくさない。怒る。泣く。会う回数は減る。それでも、いない人生を選ばない』
秋田で決めた言葉。
「ありがとうございます」
*
「葵の商品は?」
真尋が尋ねる。
『発売一週間の数字が出た。予想より少し上。でも、店舗差が大きい。駅の近くは強い。住宅地は弱い』
「理由は?」
『買う時間帯かも。仕事帰りの人が多い場所。迷う日にも、ひと息、が合う。住宅地だと、少し重いと言われた。会社から、売り場によって言葉を変える案が出た』
「どう思いますか」
『最初は嫌だった。言葉が薄くなると思った。でも、全部同じにする必要はないかも。裏面は同じ。正面の小さな言葉を変える。住宅地では、今日の終わりに、ひと息』
「良いと思います」
『本当に? 私の言葉を守ってない?』
「核は残っています。葵も、変えたくないものと、変えられるものを分けています」
『真尋みたい?』
「少し」
葵も、自分の仕事で選択をしている。
*
金曜日、本社から追加の条件確認が届いた。
健康管理。月四回の移動を上限とする。移動日は勤務扱い。東京と大阪で異なる会議を詰め込みすぎない。産業医との面談を半年ごと。
真尋は、以前なら煩わしいと感じたかもしれない。今は必要だと思う。
生活を守るための仕組み。二拠点を成立させることだけではなく、続けられること。
その日の午後、山岸から相談があった。
「課長候補の話、正式に受けたいです。水口さんが部長を受けるかに関係なく」
「本当に? 別の部長でも?」
「怖いです。でも、今の仕事を続けたい。事務局だけではなく、判断する側へ。水口さんが大阪を離れても」
山岸ははっきり言った。真尋の胸に、嬉しさと痛みが広がる。
「ありがとうございます」
「お礼ではありません。私の仕事なので」
秋田で葵が言ったことに似ている。自分の人生を選ぶことを謝らない。
山岸は、真尋のためではなく自分の役割を選んだ。
森田も、専門職の正式条件を受けると伝えた。
「水口さんが残っても、帰っても、僕は、この仕事をします。ただ、別の部長が相談窓口を軽く見るなら、戦います」
「お願いします」
「水口さんが残るなら?」
「私とも戦ってください」
「今までも」
二人は顔を見合わせた。
真尋が部長を断っても、二人の仕事は進む。自分の選択で、全員の未来を背負う必要はない。
その事実が、少し真尋を自由にした。
*
週末、真尋は一人で大阪の街を歩いた。公園。商店街。花屋。
津田は店先で花を整えていた。
「今日は、元気な顔」
「はい」
「花買う?」
「見ます」
真尋は店内へ入った。白。黄色。青。薄い紫。どれを選ぶか迷う。
「誰かに?」
津田が尋ねる。
「自分に」
「なら、今一番目に入るの」
真尋は淡い橙色の花を選んだ。
「名前は?」
「ラナンキュラス」
「はい」
「迷ってる?」
津田が茎を整えながら尋ねる。
「仕事と生活を」
「どちらかやめる?」
「その可能性もあります」
「両方やる?」
「その方法も」
「自分が二人必要ね」
「はい」
津田は花を紙で包む。
「二つの場所で暮らす人、知ってるよ」
「本当ですか」
「娘。東京とこっち」
「仕事で?」
「夫婦で別々。最初は大変そうだった」
「今は?」
「慣れたって言う。でも、慣れたから幸せかは知らない」
津田は真尋を見る。
「本人に聞かないと。人の例は、答えにならないね。ただ、できる人はいる。できない人もいる。水口さんは、やってみたい?」
真尋は花を見る。
「はい」
答えは自然に出た。
「なら、やってみる方法を考えたら。嫌になったら、変える」
「簡単ではありません」
「簡単なことなら迷わない」
津田は花を渡した。
*
真尋は部屋へ戻り、橙色の花を白い花瓶へ入れた。桃色の造花と一緒に。色は少し合わない。それでも、明るい。
真尋は花を見ながら、俊介と過ごす二日間のためのメモを作った。
実験のようにしたくはない。だが、ただ楽しく過ごすだけでも、生活を想像できない。
一日目。真尋は俊介の部屋で在宅勤務。俊介は出勤。夜、食事。
二日目。二人とも休み。それぞれ一人で過ごす時間を二時間。家事。買い物。将来の話。子どものこと。住居。お金。仕事。結婚。
項目が多い。重い週末になる。それでも、避けられない。
*
二週間は、早く過ぎた。
その間、真尋と俊介は毎日短い連絡を続けた。仕事の結論は話さない。
今日食べたもの。天気。山岸の研修。北川の転職活動。葵の商品。母の庭。生活の話。
時々、
『東京へ戻ってほしいです』
『大阪の仕事を受けたいです』
と互いに言った。
結論を変えるためではなく、希望がそこにあると確認するために。
*
金曜日の夜、真尋は東京へ戻った。俊介の部屋へ直接向かう。呼び鈴。扉が開く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
二人は玄関で抱きしめ合った。
会えた嬉しさ。同時に、この二日間で何かが決まるかもしれない緊張。
「先に、食事にしますか」
俊介が尋ねる。
「はい」
「話は明日?」
「今日は、生活だけ」
「はい」
大切な話を急がない。
夕食は、俊介が作ったスープとパン。真尋はサラダを作る。二人でキッチンへ立つ。自然に役割が分かれる。
食べる。片づける。風呂。寝室。口づけ。抱きしめる。近づく。
それでも、離れていた寂しさを全部埋めようとしない。明日もいる。朝も。
*
翌朝、俊介は先に起き、出勤の準備をした。真尋は俊介の部屋で在宅勤務。
「僕がいない間、自由に使ってください。冷蔵庫も」
「はい」
「昼食は?」
「自分で」
「何か作りますか」
「仕事の合間に」
「はい」
「俊介。行ってらっしゃい」
俊介は吹き出した。
「行ってきます」
扉が閉まる。真尋は一人になる。俊介の部屋で。
仕事用のパソコンをテーブルへ置く。白いカップにコーヒー。縁の紺色。画面を開く。
大阪の山岸とオンライン会議。
「背景、違いますね」
山岸が言う。
「東京です」
「俊介さんの家?」
「はい」
「在宅勤務の試験?」
「個人的な」
「はい」
山岸はそれ以上聞かない。会議が始まる。仕事をする。
俊介の本棚。模型。生活音のない部屋。自分の家ではない。だが、落ち着く。
昼食は、冷蔵庫にある卵と野菜で簡単に作った。使った物を元の位置へ戻す。どこまで使ってよいか、迷う。俊介が帰ったら聞こうと思う。
*
午後三時、仕事を終える。俊介が戻るまで二時間。
真尋は部屋を掃除しようとして、止めた。頼まれていない。
客として気を使うのか。一緒に暮らす人として家事をするのか。まだ決まっていない。
テーブルだけ拭く。自分が使った食器を洗う。それ以上はしない。
ソファへ座り、本を読む。俊介の部屋で一人の時間を過ごす。
思っていたより苦しくない。自分の部屋とは違う。それでも、ここへ自分の生活を少し置く想像ができる。
午後五時半。俊介が帰ってくる。
「ただいま」
「お帰りなさい」
言葉が自然に出る。
「どうでした?」
「仕事はできました」
「部屋は?」
「少し緊張しました。でも、一人で過ごせました。冷蔵庫を使いました」
「どうぞ」
「勝手に掃除はしませんでした」
「してもいいです」
「役割を決めてから」
「はい」
二人は同時に吹き出した。
*
夕食後、話す時間を始めた。テーブル。ノート。飲み物。
秋田で葵と話した時に似ている。だが、内容は違う。
「最初に」
俊介が言う。
「僕たちが、どのような関係を望んでいるか。僕から話します」
「お願いします」
「僕は、真尋と恋人でいたいです。将来、結婚したい。同じ家で暮らしたい。毎日ずっと一緒ではなくていいです。別々の時間も必要です。でも、同じ街。同じ家へ帰る生活を望んでいます」
「はい」
「真尋が大阪で仕事をすることを否定したいわけではありません。ただ、月の半分いない生活を、何年も続けたいとは今は思えません。一年間の遠距離も、続けられるか不安です。それでも、今すぐ別れたいとは思いません。真尋の仕事を受け入れる努力をしたい。でも、努力すれば必ずできるとは約束しません」
「はい」
「子どもについては」
俊介は言葉を止める。
「僕は、欲しい気持ちがあります」
真尋は静かに聞く。
「絶対ではありません。授からない可能性も。真尋が望まないなら、無理にとは思いません。でも、考えたことを隠したくない」
「はい」
*
「真尋は?」
俊介が尋ねる。真尋は自分の言葉を探す。
「私は、俊介と恋人でいたいです。将来、結婚する可能性を考えています。以前より、はっきり」
俊介の目が潤む。
「一緒に暮らすことも。ただ、毎日同じ家へ帰る生活だけが、唯一の形だとは思っていません。二拠点でも、夫婦になれると思っています。俊介が望む形とは違います」
「はい」
「子どもは」
真尋は一度息を吸う。
「私は、今すぐ欲しいとは思っていません。将来も、強く望むかはわかりません。年齢や仕事もあります。子どもを持つために結婚するつもりはありません。俊介が子どもを望むことを、否定しません。でも、その希望を叶える約束はできません」
俊介は黙って頷いた。
*
「同じ未来ではありませんね」
俊介が言う。
「完全には。でも、重なる部分があります」
「恋人でいたい」
「はい」
「結婚を考える。一緒に暮らしたい。形は違っても」
「はい」
真尋は続ける。
「私は、大阪の部長職を受けたいです」
俊介の表情が固くなる。
「今日一日、この部屋で過ごして、俊介と暮らす未来を、少し想像できました。それでも、受けたいです。私は、一年大阪で仕事を続けたい。二年目から二拠点を試したい。その後、無理なら見直します。俊介と結婚する可能性を、諦めるつもりはありません。でも、今、東京へ戻ることも選びません」
真尋は言い切った。
*
俊介は長く黙った。窓の外の音。冷蔵庫。時計。
「わかりました」
俊介が言う。
「はい」
「真尋の答えですね。僕は、今すぐ続けられると答えられません。明日まで、考えてもいいですか」
「もちろんです」
「同じ部屋で?」
「一人の時間を作りましょう」
「はい」
「今夜は?」
俊介が尋ねる。
「別々に眠りますか」
真尋の胸が痛む。だが、無理に同じベッドで安心を確認することはしたくない。
「俊介が望むなら」
「今夜は、一人で考えたいです。真尋は寝室を使ってください」
「俊介は?」
「リビングで」
「逆に」
「僕の部屋です」
「はい」
真尋は受け入れた。
*
その夜、二人は同じ部屋にいながら別々に眠った。扉は閉めない。互いの気配が少し聞こえる。
真尋はベッドへ横になり、天井を見る。
大阪の部長を受けたい。言った。俊介を失う可能性が、現実になる。
怖い。
今すぐ寝室を出て、東京へ戻ると言えば、俊介は安心するかもしれない。だが、それは自分の本当の希望ではない。
秋田で葵と決めた。自分の人生を選ぶことを謝らない。ただし、傷つけたことへは向き合う。
真尋は目を閉じた。
リビングから、俊介が寝返りを打つ音がした。
*
翌朝、真尋が起きると、キッチンから音がした。俊介がコーヒーを淹れている。
「おはようございます」
「おはようございます」
目が赤い。眠れていないのだろう。
二人は向かい合って朝食を食べた。言葉は少ない。
食後、俊介がカップを置いた。
「答えを話します」
「はい」
「僕は、真尋と続けたいです」
俊介は言った。真尋の胸に、息が戻る。
「はい」
「一年の遠距離を、試します。二年目の二拠点も、始める前にもう一度話します。今、結婚の約束はしません。別れない約束も。でも、続けることを選びます」
真尋の目に涙が浮かぶ。
「ありがとうございます」
「ただ、条件があります」
「聞きます」
「三か月ごとに、二人の生活を確認する。我慢が増えていないか。会うことが義務だけになっていないか。仕事の選択を相手のせいにしていないか。どちらかが続けられないと感じた時、すぐ別れるのではなく、まず話す。でも、続けることを強制しない。子どものことは、一年以内にもう一度話す。結婚は、二拠点が始まる前までに、するかしないかではなく、何を望むかを確認する」
「はい」
*
「真尋からも、条件は?」
俊介が尋ねる。
「はい。俊介が待つことを、愛情の証明にしない。会えない週末に、自分の予定を作る。私も、俊介へ会うためだけに東京へ戻らない」
俊介が少し痛そうな顔をする。
「どういう意味ですか」
「母や葵。一人の時間。仕事。東京の生活全体へ戻ります。俊介も、その一部ではなく、大切な関係です。でも、全部にしません。私も、俊介の全部になりません」
「はい」
「北川さんや友人との時間を、隠さないでください。私が嫉妬しても。大阪の仕事で余裕がない時、連絡を減らすことがあります。その時、次に話す日を決めます」
「わかりました」
二人はノートへ書いた。
『同じ未来を見なくても、重なる未来を探す』
俊介が書いた言葉。
「少しきれいすぎませんか」
真尋が言う。
「嫌ですか」
「いいえ」
「では」
その下へ、三か月ごとの確認。待つこと。会うこと。仕事。結婚。子ども。別々の時間。続けられない時の話。
葵との約束とは違う。恋人としての責任。将来を一緒に考えること。生活への具体的な影響。
*
「真尋。部長、おめでとうと言っていいですか」
「まだ返事をしていません」
「受けるんでしょう」
「はい」
「なら」
俊介は寂しそうに、それでも笑った。
「おめでとうございます」
真尋の涙が落ちる。
「ありがとうございます」
「嬉しいですか」
「はい」
「僕は、まだ少し悔しいです。でも、真尋が選んだことを祝いたい」
「ありがとうございます」
真尋は俊介へ手を伸ばした。俊介も。抱きしめ合う。
昨夜の距離。今朝の決定。何も解決したわけではない。一年の遠距離。二拠点。別れる可能性。
それでも、今は続ける。
「好きです」
真尋が言う。
「僕も好きです」
「同じ未来ではなくても」
「はい」
「一緒に考えます」
「はい」
*
午後、真尋は東京の自分の部屋へ戻った。俊介とは駅で別れた。今日の夜、大阪へ戻る。
その前に、母と葵へ連絡する。まず母。
『受けるのね』
「はい」
『俊介さんは?』
「続けると」
『よかった』
「はい」
『でも、大変ね。おめでとう』
「ありがとうございます」
『お父さんがいたら、喜んだと思う。私も喜んでる。寂しいけど』
「はい」
『大阪へ残る真尋も、私の娘だから』
「はい」
葵へ電話する。
『決めた?』
「はい」
『大阪?』
「はい」
葵が息を吸う音。
『俊介さんは?』
「続けます」
『よかった』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも、よかった。部長、おめでとう』
「ありがとうございます」
『東京の部屋は?』
「少なくとも一年は残します」
『本当に? その後は?』
「決める前に話します」
『約束』
「はい」
『秋田も、また行ける?』
「仕事と日程を調整します」
『行くって言って』
「行きます」
『うん』
「葵。大阪へ残っても、名前のない場所へ戻ります。会う回数は減るかもしれません。葵の仕事も忙しくなる。それでも」
『いない人生を、自分から選ばない』
「はい」
*
大阪へ戻る新幹線の中で、真尋は会社へ正式な返答を書いた。
『西日本営業企画統合室の部長就任および、提示された二拠点勤務条件を受諾します』
文章は短い。だが、その一文の後ろに多くの人との話がある。
俊介。葵。母。山岸。森田。支社長。津田。自分。
真尋は送信ボタンを押した。
*
新大阪駅へ着いた。ホーム。改札。電車。最寄り駅。商店街。
花屋はまだ開いている。津田が真尋を見つけた。
「決めた顔」
「わかります?」
「少し」
「大阪へ残ります。部長になります」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「東京も?」
「一年後から、半分ずつ」
「大変ね」
「はい」
「やってみる?」
「はい」
津田は橙色の花がまだ元気か尋ねた。
「咲いています」
「なら、今日は買わなくていいね」
「はい」
「お帰り」
「ただいま」
*
部屋へ入る。
「ただいま」
橙色の花。桃色の造花。写真。大阪の生活。
真尋はバッグを置き、窓を開けた。夜の空気。公園。電車。
この部屋で、あと一年以上暮らす。その後も半分。
東京へ戻る日。大阪へ帰る日。俊介を見送る日。葵と会う日。母の家。仕事。移動。
忙しくなる。疲れる。迷う。選択を疑う日も来る。
それでも、今は自分で選んだ。
真尋は生活ノートを開いた。
『大阪で初めてしたこと』
最後の行の下へ書く。
『部長になることを選んだ』
『俊介と、違う未来を持ったまま続けることを選んだ』
『葵へ、決める前に話した』
『母へ、寂しいと言ってもらった』
『誰かの希望を聞いても、自分の希望を消さなかった』
考え、最後に書く。
『選んだ後も、迷う』
葵の商品と同じ。
『迷う日にも、ひと息。』
選んだことで迷いが消えるのではない。むしろ、選んだ後に始まる迷いもある。
真尋はパッケージを一つ取り出した。まだ残していた試作品。開ける。一つ食べる。
味は、秋田で食べた時と同じ。東京でも。大阪でも。場所によって、感じ方は変わる。
*
真尋は窓辺へ立った。
俊介と同じ未来を完全には見ていない。俊介は同じ街、同じ家を望む。真尋は二つの場所を持とうとしている。
葵とも、同じ道を歩いていない。母とも。山岸とも。
誰とも、すべての未来は一致しない。
それでも、重なる場所を探せる。会える時間。話す日。戻る場所。約束。
違いを消さずに、関係を続ける。簡単ではない。
だが、真尋は今、その難しさを引き受けたいと思った。
スマートフォンが震える。俊介。
『大阪へ着きましたか』
『はい』
『部屋へ?』
『戻りました』
『会社へ返事は?』
『送りました』
少しして。
『改めて、おめでとうございます。部長』
真尋は画面を見つめる。
『ありがとうございます』
『寂しいです』
『私も』
『でも、続けます』
『はい』
『今日は、電話しますか』
真尋は時計を見る。午後九時半。疲れている。声を聞きたい。
『十分だけ』
『はい』
すぐに電話がかかる。
*
「もしもし」
『お帰りなさい』
「ただいま」
『大阪へ』
「はい」
『僕のところへも、また帰ってきてください。約束ではなく』
「はい」
『選んで』
「わかりました」
真尋は窓の外を見る。
「俊介も、来てください。待つだけではなく」
『はい』
「選んで」
『わかりました』
二人は短く、その日の食事と移動の話をした。
仕事の大きな決定をした日。それでも最後に話すのは、生活のこと。
新幹線で何を食べたか。津田に何と言われたか。橙色の花。俊介の部屋に残した部屋着。
*
電話を切った後、真尋は照明を落とした。
明日、会社で正式な受諾を伝える。山岸と森田へ。大阪の人たちへ。東京本社へ。
新しい役職。新しい責任。
だが今夜は、一人の部屋。
真尋は花瓶の水を替えた。橙色の花。桃色の造花。
二つは同じ花ではない。同じ時間を生きてもいない。それでも、同じ器に入っている。
いつか生花は枯れる。造花は残る。
残るものが強いとは限らない。変わるものが弱いわけでもない。それぞれの形。
*
真尋は寝室へ向かった。ベッドには枕が一つ。今夜は一人。
次に俊介が来る日も決まっていない。葵と会う日も、水曜日に確認する。
未来は、すべて予定表へ入っているわけではない。それでも、何もないわけではない。
真尋は布団へ入った。目を閉じる。
東京。大阪。秋田。俊介の部屋。母の家。葵の部屋。名前のない場所。
同じ未来を見なくても。同じ場所へ住まなくても。違う希望を持っていても。
その時々で、重なる場所を選び直すことはできる。
真尋は、今日選んだ道を思った。
正しいとは言い切れない。後悔しないとも。
ただ、自分の希望を消さずに選んだ。誰かの希望も、聞いた。その上で決めた。
今は、それで十分だった。
真尋は暗い部屋の中で、小さく言った。
「行ってきます」
まだ朝ではない。どこかへ出る時間でもない。それでも、新しい生活へ向かう言葉として。
部屋は静かだった。
真尋は目を閉じた。
明日の朝、この場所から部長として仕事へ行く。
東京へ帰る未来を持ちながら。大阪へ残ることを選んだ人として。俊介を愛しながら。葵との名前のない場所を持ちながら。
誰か一人のためだけではなく。仕事だけのためでもなく。
自分の生活を、自分で作るために。




