↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
友情と呼ぶには、足りなくて  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/46

第二十八章 名前のない場所へ帰る

秋田駅のホームへ降りた瞬間、葵は立ち止まった。

 新幹線から降りる人たちが、二人の横を通り過ぎていく。大きな旅行鞄を引く家族。迎えに来た人へ手を振る女性。仕事用のバッグを肩へ掛け、足早に改札へ向かう男性。

 それぞれの目的地へ向かう流れの中で、葵だけが動かなかった。

「どうしましたか」

 真尋が尋ねる。葵はホームの駅名表示を見上げた。

「本当に戻ってきたんだと思って。前に来た時のこと、急に全部思い出した」

「はい」

「何を話したかより」

 葵は自分の手元を見る。

「寒かったこと。真尋が歩くの速かったこと。私が何度も写真を撮ったこと。酒蔵で飲めないのに試飲しようとしたこと」

「少しだけでした」

「顔、赤くなってた」

「葵もです」

 二人は顔を見合わせた。

 前回の旅は、互いの生活へ踏み込むことを恐れながら、それでも離れたくないと思い始めた頃だった。

 葵は直哉との別れを、自分の人生が空になったように感じていた。真尋は誰かへ必要とされることに安心しながら、必要とされすぎれば逃げたくなった。

 二人とも、自分が何を求めているかをうまく言えなかった。

 今は違う。

 直哉への気持ちは残っていても、葵は戻らないと選んだ。真尋には俊介がいる。大阪の仕事がある。

 二人だけが、互いの生活のすべてではない。だからこそ、今日ここで確かめることには意味がある。

「行きましょう」

 真尋が言った。

「うん」

 葵は一度だけホームを振り返り、歩き始めた。

     *

 改札を出る。前に来た時と同じ広い通路。天井から下がる案内。土産物店。観光案内所。

 大きく変わった場所はない。それでも、二人が知っている駅とは少し違って見えた。

「先に昼食にしますか」

 真尋が尋ねる。

「お腹は空いてる。でも、最初に少し歩きたい」

「どこへ?」

「駅の外」

 二人は荷物を持ったまま、正面の出口へ向かった。

 自動扉が開く。東京より冷たい風が頬へ触れた。大阪とも違う。空が広い。雲の隙間から光が落ちている。

 葵は一度、深く息を吸った。

「匂いが違う」

「何の?」

「わからない。でも、秋田の匂い」

「前回も言っていました」

「覚えてる?」

「はい」

「何て答えた?」

「駅前なので、車の匂いではないかと」

「真尋らしい」

 葵は笑いながら、スマートフォンで空を撮った。すぐに画面を確認し、考えてからポケットへ戻す。

「誰へ送りますか」

 真尋が尋ねる。

「今は誰にも」

「俊介へは?」

「真尋が送るでしょう」

「夜に」

「私は美月とお母さんへ、後で。今は、私たちだけで見たい」

「わかりました」

 二人は駅前の広場へ並んで立った。

 隣にいる。ただそれだけで、何かを取り戻したような気持ちになる。

 だが、前の二人へ戻ったわけではない。戻りたいとも思わない。

 今の生活を持ったまま、同じ場所へ立っている。

     *

 昼食は、駅近くの店へ入った。前回とは違う店。葵は稲庭うどん。真尋は焼き魚の定食。

「前と同じ店にしなくてよかった?」

 葵が尋ねる。

「はい」

「少し行きたかった」

「では、明日のお昼に」

「明日は海の近くでしょう」

「予定を変えても」

「うん」

 葵はメニューを閉じる。

「同じ場所へ行くことと、同じことをするのは違うね。前の旅を大切にするなら、同じ順番をなぞるべきだと思ってた」

「なぜ?」

「戻ってきたって感じがするから。でも、それだと前と比べ続ける。前より楽しいか。前より近いか。前と同じ気持ちか」

「はい」

「今日は今日でいいね」

「そのために、宿も変えました」

 料理が運ばれてくる。温かい湯気。葵は箸を持つ前に、うどんを写真に撮った。

「仕事用ですか」

「自分用。商品企画の人になってから、食べ物を見ると仕事に使えるか考えちゃう」

「今日は?」

「少し考えた。でも、使わない写真も撮りたい。誰にも見せないもの」

「大切ですね」

 葵は一口食べる。

「おいしい。真尋も食べて」

「自分のものを」

「一口」

「後で」

「今」

 真尋は迷い、葵の器から一本だけ取った。

「どう?」

「おいしいです」

「それだけ?」

「出汁が優しいです」

「仕事の人みたい」

「葵が聞いたので」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

 食後、駅へ戻り、予約していた列車へ乗った。

 最初の目的地は、以前訪れた酒蔵のある町。前回と同じ路線。だが座席は違う。季節も。

 窓の外に広がる田畑は、以前より色が濃い。山にはまだ少し雪が残っている。

「真尋。今日、関係の話をするのはいつ?」

「決めますか」

「決めないと、私ずっと緊張する」

「では、夕食の後」

「宿で?」

「はい」

「お酒を飲んでから?」

「少しなら」

「酔ったまま決めるのは嫌」

「では、飲む前に」

「夕食の前?」

「到着して、部屋へ入ってから」

 葵は考える。

「町を歩いた後がいい。酒蔵へ行って、前の場所を見て、それから、宿で」

「わかりました」

「時間を決める?」

「午後五時半」

「会議みたい」

「葵が決めたいと言ったので」

「うん」

 葵は笑った。時間を決めたことで、少し肩の力が抜けたようだった。

     *

 列車を降り、町を歩く。

 古い建物。細い道。軒先へ並ぶ鉢植え。遠くから聞こえる生活音。

 前回撮った写真を、葵が画面へ表示する。

「この場所」

 写真の中には、古い壁と二人の影がある。今日の光は、少し角度が違う。

 二人は同じ場所を探した。

「ここですか」

 真尋が足元を見る。

「たぶん」

「壁の色が違います」

「塗り直した?」

「少し」

 二人は壁の前へ並ぶ。地面へ影が伸びる。前回より短い。

 葵は写真を撮ろうとして、手を止めた。

「どうしました?」

「同じ写真を撮るか迷ってる」

「撮ってもよいのでは」

「比べるためじゃなく?」

「今日の影として」

 葵は頷き、シャッターを押した。

 画面には、二つの影。前回より離れている。真尋は肩からバッグを掛けている。葵は片手を腰へ当てている。

「離れてる」

 葵が言う。

「はい」

「前はもっと近かった。でも、今日も二つ」

「はい」

 葵は写真を保存した。

「これ、好き」

「はい」

「距離があるのに、同じ方向を向いてる。私たちみたい?」

「すぐに意味をつけますね」

「だめ?」

「いいえ」

 真尋は影を見た。

 二人は同じ方向へ歩いているわけではない。仕事。恋愛。暮らす場所。違うものが増えた。

 それでも今は、同じ壁の前にいる。

     *

 酒蔵では、前回と同じ銘柄を見つけた。淡い桃色の花が描かれたラベル。葵が最初に足を止めた酒。

「これ。まだある」

「定番商品でしょう」

「夢がない」

「安心です」

 葵は瓶を手に取る。

「買う?」

「宿で飲める量ではありません」

「小さいのもある」

 棚の下段に、小瓶が並んでいる。二人は一本ずつ買わず、一つを共有することにした。

「一本を二人で。前なら、私が全部飲むと言ってた」

「真尋は少ししか飲まないから」

「今もです」

「うん」

「無理はしません」

「はい」

 売り場の奥で、試飲を勧められた。葵は一杯。真尋はごく少量。

 口に含む。以前より甘く感じる。

「味、変わった?」

 葵が尋ねる。

「私たちが変わったのでは」

「本当に言うようになったね」

「何を?」

「こういうこと」

「はい」

 葵は嬉しそうに笑った。

     *

 酒蔵を出た後、二人は川沿いの道を歩いた。宿のチェックインまでは、まだ時間がある。

 急がずに歩く。葵は何度か立ち止まり、写真を撮った。真尋は先に進まず待つ。

 以前は、歩く速さが違った。真尋が気づかず先へ行き、葵が追いつく。

 今は、同じ速さに揃えるのではなく、離れたら待つ。

「真尋。大阪で、誰かと旅行したいと思った?」

「まだ」

「俊介さんとは?」

「行きたいです」

「どこへ?」

「決めていません」

「海?」

「俊介は建物を見たいと思います」

「ずっと説明されそう」

「止めます」

「うん」

 葵は黙り、川を見る。

「俊介さんと旅行するの、嫌じゃない。少し寂しいけど。でも、私と同じ場所じゃなくていい」

「はい」

「秋田は私との場所?」

 真尋はすぐに答えなかった。

 秋田という土地を、葵だけのものにすることはできない。俊介と来る可能性もある。母と。一人で。

 だが、この旅には二人だけの意味がある。

「秋田すべてではありません。この旅は、葵とのものです。今、歩いている道も」

 葵の顔が明るくなる。

「それでいい」

「はい」

     *

 宿は、古い民家を改装した小さな旅館だった。

 玄関で靴を脱ぐ。木の床。低い天井。中庭。客室は二階。二つの布団を並べられる和室。窓から山の稜線が見えた。

「いいね」

 葵が窓へ近づく。

「はい」

「前のホテルより、静か。仕事の電話、鳴らない?」

「会社用はバッグの奥です」

「本当に見てない?」

「はい」

「俊介さんは?」

「夜に短く連絡します」

「私の前で?」

「嫌ですか」

「少し」

「では、入浴中に」

「隠れてるみたい」

「では、夕食後に一度」

 葵は考える。

「うん」

「葵も美月や家族へ連絡してよいです」

「はい」

 互いの別の関係を、旅の外へ追い出さない。だが、旅のすべてを連絡に使わない。

     *

 荷物を置き、部屋を確認する。時計は午後四時四十分。関係について話す時間は五時半。まだ五十分ある。

「一人の時間、今にする?」

 葵が尋ねる。

「三十分?」

「うん」

「では、五時二十分に部屋へ戻ります」

「十分は?」

「お茶を淹れます」

「はい」

 葵は売店を見ると言った。真尋は宿の外を少し歩くことにした。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

「五時二十分」

「はい」

 二人は別れた。

     *

 真尋は一人で宿を出た。夕方の風。知らない道。

 葵がいない。少し寂しい。同時に、安心する。

 自分の歩く速さ。立ち止まる場所。誰にも合わせない時間。

 真尋は細い道を歩いた。山の影。遠くの家。畑。誰かが洗濯物を取り込んでいる。

 旅先にも日常がある。

 自分たちは特別な時間を過ごしに来た。だが、この町で暮らす人にとっては、いつもの夕方。

 関係へ名前をつける。人生の中では大きい。それでも明日になれば、食事をし、仕事をし、連絡を返す。

 名前を決めたから、何もかもが変わるわけではない。それでよい。

 真尋はベンチを見つけ、少し座った。俊介からもらった手紙をバッグから出す。もう一度読む。

『葵さんとの旅を、僕への遠慮で小さくしないでください』

 真尋は紙を閉じる。

 俊介は寂しいと言った。嫌だとも。それでも行ってきてと。葵との関係を尊重しようとしている。

 真尋も、俊介との関係を葵へ遠慮して小さくしない。

 どちらかを守るために、もう一方を隠さない。それが今の自分にできることだった。

     *

 五時十八分。真尋は宿へ戻った。部屋の前に葵はまだいない。真尋は鍵を開け、お茶を用意する。

 五時二十一分。葵が戻る。

「一分遅れました」

「はい」

「怒ってる?」

「一分なので」

「待った?」

「三分」

「早く戻ったんだ」

「はい」

 葵は小さな紙袋を持っている。

「何を買いました?」

「まだ内緒」

「はい」

「お茶、ありがとう」

 二人は向かい合って座った。窓の外が少しずつ暗くなる。時計は五時二十八分。

「あと二分」

 葵が言う。

「始めてもいいです」

「時間を決めたから」

「はい」

 二人は黙ってお茶を飲む。

 午後五時三十分。葵がカップを置いた。

「話そう」

「はい」

     *

 最初に何を言えばよいのか、二人ともわからなかった。

 新幹線では、三つ決めると話した。自分たちは何者か。大きな選択をする時、どうするか。離れたくなった時、どう戻るか。

 項目は明確。だが、最初の言葉は出てこない。

「会議みたいに、私から話しますか」

 真尋が尋ねる。

「真尋は、会議だと強いから嫌」

「では、葵から」

「私も嫌」

「はい」

 二人は笑った。緊張がわずかに和らぐ。

「まず」

 葵が言った。

「私が、真尋をどう思っているか話す。真尋は、途中で答えないで。最後まで聞いて」

「わかりました」

 葵は膝の上へ手を置く。指先に少し力が入っている。

     *

「私は、真尋に会う前、誰かに選ばれることが、私の価値だと思ってた」

 葵はゆっくり話し始めた。

「直哉に愛される。会社で必要とされる。家族に心配される。誰かが私を必要としてくれたら、自分がここにいていいと思えた。だから、直哉と別れた時、私の中身がなくなったように感じた」

「はい」

「真尋に出会って、最初は同じことをしようとした」

 真尋は黙って聞く。

「私を一番にしてほしい。いつも連絡してほしい。困ったら最初に私へ言ってほしい。真尋が俊介さんと付き合った時、取られたと思った。大阪へ行く時も、私を置いていくと思った。今も、そう思う時がある」

「はい」

「でも、少しずつわかった」

 葵は顔を上げる。

「真尋が私を必要としていない時にも、私たちの関係はなくならない。俊介さんを好きでも。大阪で仕事をしても。山岸さんや森田さんと関係を作っても。私の場所は、誰かと比べて勝ち取るものじゃない」

 葵の目に涙が浮かぶ。

「だから、真尋を私だけの人にしたいとは言わない。でも、何でもない人にもなりたくない」

「はい」

「友達と言えば、間違いではない。親友でもいい。でも、それだけだと、私が真尋に感じていることの一部しか入らない。恋愛ではない。触れたいとか、一緒に暮らしたいとか、そういう気持ちではない。家族でもない」

「はい」

「でも、私の人生からいなくなったら、世界の形が変わる人」

 真尋の胸が締めつけられる。

「毎日会わなくても。何か月会えなくても。真尋が別の場所で幸せでも。戻ってきた時に、私が私として会いたい人」

 葵は涙を拭わず、続ける。

「私が間違った時、正しい答えを出してほしい人ではない。私の代わりに決めてほしい人でもない。でも、決める前に、私の言葉を聞いてほしい人。決めた後に失敗しても、恥ずかしくて隠したくない人。離れたくなっても、終わりにしたくない人」

 葵は息を吸う。

「真尋は、私にとって、戻ってこられる人です」

 真尋の目にも涙が浮かんだ。

「ただ戻るだけじゃなく、戻った時に、前と同じでなくても会える人。私は、真尋と、そういう関係でいたい」

 葵は話し終えた。

「以上」

「はい」

「まだ答えないで。一分だけ待って」

 葵は目元を拭き、水を飲んだ。真尋は、自分の言葉を急がなかった。

     *

「次、真尋」

 葵が言う。

「はい」

「私も途中で答えない」

「わかりました」

 真尋は一度、窓の外を見た。山の輪郭が暗くなっている。

 自分が葵へ何を感じているか。長い間、言葉を避けてきた。

 友人と呼べば楽だった。それ以上を認めれば、期待へ応えなければならないと思った。

 今は、期待と関係を分けて考えられる。

「私は」

 真尋は話し始めた。

「以前、誰かへ必要とされると安心しました。でも、必要とされ続けると、逃げたくなりました。相手が何を求めているかを先に考え、自分の希望を後にしたからです」

「はい」

「葵に対しても、そうでした。葵が不安なら、すぐ連絡する。葵が寂しいなら、会う。そのこと自体が嫌だったのではありません。でも、自分で選んだのか、葵を不安にさせないためだけなのか、わからなくなる時がありました。だから、距離を取りたくなった」

「うん」

「それでも、葵を失いたいとは思いませんでした。矛盾していました」

「うん」

「今は、少し違います」

 真尋は葵を見る。

「私は、葵が一人で暮らせることを知っています。直哉がいなくても。私が大阪にいても。仕事で失敗しても。寂しくても。葵は、自分の生活へ戻れる」

 葵の涙がまた落ちる。

「だから私は、葵を支え続けなければならない人だとは思っていません。支えたい時には支えます。できない時には、できないと言います」

「はい」

「葵も、私を救う人ではありません。俊介と喧嘩した時も。仕事で間違えた時も。葵へ答えを求めるのではなく、聞いてほしいと思いました」

「はい」

「葵は、私がどのような選択をしても賛成する人ではありません。東京へ戻ってほしいと言う。俊介を大切にしろと言う。私へ腹を立てる。それでも、私の選択を奪わない」

 真尋は一度、息を整える。

「葵がいることで、私は自分の人生を変える必要はありません。葵の人生も、私のために変えてほしくありません。それでも、大きな選択をする時には、葵の顔が浮かびます」

「はい」

「葵なら何と言うかではなく、葵へ何を話したいか。葵へ隠したくないか。それを考えます」

 真尋の声も震える。

「私は、葵がいなくても生活できます」

 葵の顔が一瞬、痛そうに歪む。

「葵も、私がいなくても生活できます。でも」

 真尋は続ける。

「いない人生を、選びたいとは思いません」

 葵は唇を結ぶ。

「私は、葵と、戻ってこられる関係でいたいです。戻ることを義務にせず。戻る時期を相手へ決めさせず。変わったことを責めず。それでも、会いたいと言える関係」

「はい」

「私は、葵を、人生の帰る場所の一つだと思っています」

 言葉にした瞬間、真尋の頬へ涙が伝った。葵が息を呑む。

「建物ではなく。私を待ったまま止まる人でもなく。葵自身が生活しながら、会う時に戻れる場所。私は、そういう人でいたいです」

 真尋は話し終えた。

     *

 二人とも、すぐには何も言わなかった。

 部屋の中に、遠くの風の音が聞こえる。廊下を歩く人の足音。食事の準備を知らせる小さな物音。日常は続いている。

 葵がティッシュを取り、真尋へ渡した。

「真尋も泣いてる」

「はい」

「私だけだと思った」

「はい」

 二人は涙を拭った。

「帰る場所の一つ」

 葵が言う。

「はい」

「一つでいいの?」

「一つがよいですか」

 葵は考え、首を振る。

「違う。俊介さんも?」

「はい」

「お母さんも?」

「はい」

「大阪の部屋も? 東京も?」

「はい」

「多いね。でも、私もその中にいる」

「はい」

 葵は思わず笑った。

「最優先じゃなくても?」

「はい」

「必要とされてない日も?」

「はい」

「帰る場所」

「はい」

「嬉しい」

     *

「名前は?」

 葵が尋ねる。

「今の言葉で足りませんか」

「長い。紹介する時、何て言う?」

「友人」

「やっぱり?」

「社会的には」

「うん」

「親友でも」

「うん。でも、二人の間では」

 真尋は考える。

「帰る人」

「帰る人?」

「不自然ですね」

「少し」

「戻れる人」

「うん」

「帰路?」

「仕事みたい」

 葵は声を立てて笑った。

「居場所」

「人に使いますか」

「私の居場所」

「所有のように聞こえます」

「真尋は私のものじゃない」

「はい」

 二人は、いくつかの言葉を口にした。

 親友。伴走者。同行者。人生の証人。選んだ家族。心の家族。

 どれも一部は合う。どれも少し違う。

「選んだ家族は?」

 葵が尋ねる。

「家族ではないと話しました。家族だから許されることも、私たちにはありません」

「たとえば?」

「生活への介入。金銭。介護。責任を当然のように求めること」

「うん」

「家族のように感じる日はあります。でも、家族と呼ぶことで、持っていない責任まで含めたくありません」

「うん。伴走者は?」

「同じ道を進む感じがします」

「私たちは違う道?」

「はい。時々、並ぶ」

「人生の証人」

「少し重いです。全部見ていません」

「確かに」

 葵は笑う。

     *

 言葉を探しているうちに、二人の緊張は少しずつ柔らかくなった。

「名前、なくてもいいのかな」

 葵が言う。

「はい」

「でも、何者か決めるって言った」

「決めました」

「何て?」

「友人という言葉に収まらない、帰る場所の一つ」

「長い。紹介できない」

「紹介する必要はありません」

「俊介さんには?」

「そのまま話します」

「うん」

「母にも聞かれれば。ほかの人へは、友人で」

「うん」

 葵は考え、頷いた。

「二人だけの名前は、なし?」

「名前がないことを、名前にしますか」

「名前のない関係」

「よくある表現です」

「真尋」

「はい」

「今日は仕事の人やめて」

「はい」

「名前のない場所」

 葵が言う。

「場所?」

「うん。私たちの間にある場所。友達とか家族とか恋人とか、どこにも入らない。でも、帰れる」

「はい」

「名前のない場所へ帰る」

 真尋は、その言葉を心の中で繰り返した。

 名前のない関係ではなく。名前のない場所。

 人を固定しない。役割を決めすぎない。二人の間にある場所。必要な時、戻る。離れても消えない。

 ただし、いつでも開いているとは限らない。互いが生活し、変わる。

「私は好きです」

 真尋が言った。

「本当?」

「はい」

「名前のない場所」

「はい」

「私たちは、その場所へ帰れる人」

「はい」

 葵の顔に、静かな笑みが広がる。

「じゃあ、一つ目はそれ。私たちは、何者か」

「名前のない場所へ帰れる人」

「うん」

     *

「次」

 葵が言う。

「大きな選択をする時。どこまで話す?」

 真尋はノートを出そうとした。

「書く?」

「忘れないように」

「会議みたいだけど、今日はいい」

 真尋は旅行用の小さなノートを開いた。一行目へ書く。

『名前のない場所へ帰れる人』

 葵が覗き込む。

「きれいに書いたね」

「はい」

「次」

 真尋は二行目を空ける。

「大きな選択の定義は?」

 葵が尋ねる。

「生活へ影響すること」

「広い。たとえば」

 葵は指を折る。

「遠くへ引っ越す。仕事を辞める。結婚。同居。大きな病気。家族のこと。直哉と復縁」

 葵は言ってから、自分で首を振った。

「しないけど」

「今後、別の恋人との大きな変化」

「うん。商品で転勤」

「はい」

「東京の部屋を手放す」

「はい」

 真尋は項目を書く。

「決める前に話す」

 葵が言う。

「はい」

「許可は求めない。反対してもいい。相手の反対を理由に、選択を変えなくてもいい。でも、影響がある部分は一緒に考える」

「たとえば東京の部屋なら」

「私の歯ブラシの場所」

「それだけ?」

「冗談」

「会う場所が変わる。秋田の日程も」

「はい」

「関係へ影響することは、決める前に話す。話したからといって、同意したことにはしない」

「はい」

「相手が傷ついた時は?」

「傷ついたと言う」

「はい」

「決めた側は、正当化だけで返さない」

「はい」

「でも、選択を謝る必要は?」

 真尋は考える。

「相手を傷つけたことへは謝る。自分の人生を選んだことそのものへは、謝らなくていい」

 葵は頷いた。

「それ、書いて」

 真尋は書く。

『大きな選択は、決める前に話す。許可は求めない。反対しても、決定を奪わない。傷つけたことには向き合うが、自分の人生を選ぶことを謝らない』

「長い」

「必要です」

「うん」

     *

「三つ目」

 葵の声が小さくなる。

「離れたくなった時、どう戻るか。離れたいと思う前提なんだね」

「あります」

「うん」

「今までも」

「はい」

 葵は窓の外を見る。

「私が真尋を求めすぎた時、真尋が急に遠くなった。私は、捨てられると思って追いかけた。真尋は、さらに逃げたくなった。また起きる?」

「可能性はあります」

 真尋は正直に答える。

「俊介との関係で忙しい時。大阪の仕事。葵の仕事や恋愛。互いに余裕がない時。価値観が大きく違う時。腹が立つ時。連絡を取りたくない時もある」

「うん」

 葵の目に少し不安が浮かぶ。

「その時、何日なら?」

「日数を決めますか」

「無期限は怖い。でも、三日で戻れない時も」

「はい。まず、離れたいと伝える。理由を全部説明できなくても、関係を終わらせたいわけではないと伝える」

「本当に終わらせたい時は?」

 葵が尋ねる。

「その時は、曖昧にしません」

「うん」

「距離を置きたい場合は、次に連絡する日を決める」

「俊介さんとの約束みたい。一週間後」

「必要なら」

「一か月?」

「長くても」

「一か月連絡なかったら、私無理かも」

「では、二週間以内」

「決める?」

「原則として」

「うん」

「二週間でも話せない場合は、短い連絡を」

「まだ戻れないって」

「はい。相手を待たせ続けない。待つ側も、自分の生活を止めない。確認の連絡を何度も送らない」

 葵は少し顔をしかめる。

「努力する。緊急の時は?」

「連絡します」

「どこまで緊急?」

「命や健康。家族の大きな問題。一人で抱えられない時。相手が受け取れる状態でなくても、まず連絡はする」

「はい」

     *

 真尋はノートへ書く。

『離れたい時は、関係を終えるためか、休むためかを伝える。休む時は、次に連絡する日を決める。原則二週間以内。待つ側も生活を止めない。戻った時、前と同じであることを求めない』

 葵が最後の一文を指さす。

「これ、大事」

「はい」

「戻ってきた時、前より距離があるかもしれない。別の人が大切になってるかもしれない。仕事が変わってる。それでも、また知り直す。前の場所を返してって言わない」

「はい」

 葵は小さく息を吐く。

「怖い。戻ったのに、前と同じじゃない。でも、同じを求めたら、戻れなくなるね」

「はい」

「変わった人同士で会う」

「はい」

「東京へ戻った真尋みたいに」

「はい」

 二人は頷いた。

     *

「三つ、決まった。これで終わり?」

「何かありますか」

「一つ聞きたい」

「はい」

 葵は真尋をまっすぐ見る。

「私たちの関係は、俊介さんとの関係より弱い?」

 真尋はすぐには答えなかった。

 強い。弱い。比較するものではないと、何度も言ってきた。だが葵は、抽象的な答えでは安心できないのかもしれない。

「同じ責任はありません。俊介とは、恋人として将来の生活を一緒に考えています。同居。結婚。住む場所。身体的な親密さもあります。葵とは、その責任も関係もありません。だから、俊介との関係でしか持たない優先があります」

 葵の顔が痛そうになる。真尋は続ける。

「たとえば、一緒に暮らす場所を決める時。俊介の希望は、葵より直接影響します。恋人として約束した時間も、葵より優先することがあります」

「うん」

 葵は視線を落とす。

「でも」

 真尋は言う。

「葵との関係が弱いという意味ではありません」

「どう違う?」

「支える場所が違います。俊介としか話せないことがあります。葵としか話せないこともあります。俊介との関係が終われば、同じ形では残らない可能性があります。葵との関係も、絶対ではありません。でも、恋人という形を持たないからこそ、恋愛の変化とは別に続けられる部分があります。強さではなく、違う関係です」

 葵はしばらく黙る。

「私、俊介さんに勝ちたいと思ってた。今も少し。でも、勝ったら何が欲しいのかわからない。真尋と一緒に住みたいわけじゃない。毎日連絡したいわけでもない。恋人の時間を奪いたいわけでもない。ただ、負けたくなかった。場所がなくなると思ったから」

 葵は顔を上げる。

「今日、少しわかった。場所が違うなら、勝たなくていい。でも、寂しい時は寂しいって言う。真尋が俊介さんを優先した時、言ってください。責めることもある。その時、私を面倒だと思う?」

「思う時はあると思います」

 葵が驚き、笑う。

「正直」

「はい。でも、面倒だと思うことと、大切ではないことは同じではありません。葵も、私を面倒だと思う時があるでしょう」

「ある」

「はい」

「すぐ仕事の話にする時。正しいことを言って、気持ちを後にする時。でも大切」

「はい」

 二人の間に短い笑いが起きた。

     *

「真尋も、私に聞きたいことある?」

 葵が尋ねる。

「はい。葵に恋人ができた時、私との関係を、相手へどのように話しますか」

 葵は考える。

「友人。でも、大切な友人と。旅行へ二人で行くことも話す」

「相手が嫌だと言ったら?」

「今日みたいな旅行は、話し合う。相手を不安にさせても、絶対行くとは言わない。でも、私たちの関係を隠すことはしない。真尋と会うのを全部やめろと言われたら」

 葵は顔を上げる。

「その人との関係を考える」

「私を選ぶ?」

「そういう意味じゃなく。私の大切な人を否定しない人と付き合いたい。でも、相手の不安も聞く。二人きりで泊まることが嫌なら、日帰りにすることも考える。真尋としかできないことなのか、考える」

「はい」

「私は、直哉との時、友達との予定を減らした。頼まれてないのに。恋人を安心させるために。それをもう一度はしたくない。でも、恋人の気持ちを無視するのも違う。真尋が俊介さんにしてるように、話す」

「わかりました」

     *

「俊介さんへ、私たちの三つの約束を話す?」

 葵が尋ねる。

「はい」

「嫌だと言われたら?」

「話を聞きます」

「変える?」

「葵との約束なので、二人で再検討します。俊介だけの意見で変えません。でも、俊介との関係へ大きな負担がある場合は、無視しません」

「うん。私も、全部受け入れてほしいとは言わない」

「はい」

 葵は安心したように頷いた。

 話し始めてから、一時間以上が過ぎていた。夕食の時間が近づいている。部屋の外から、宿の人が廊下を歩く音がする。

 葵はノートを見る。

「これ、写真撮っていい?」

「はい」

「二人で持つ?」

「はい」

 葵はページを撮影し、自分のスマートフォンへ保存した。

「誰にも送らない。俊介さんへは、真尋の言葉で」

「はい」

「美月には?」

「葵が話したい範囲で」

「うん。母には、名前のない場所だけ話すかも」

「はい」

     *

「最後に、確認したい」

「何ですか」

「私たちは、友達?」

「はい」

「親友?」

「そう呼んでもよいです」

「それ以上?」

 真尋は考える。

「それ以上というより、それだけでは説明しきれない。名前のない場所へ帰れる人。それが、二人の答えです」

 葵の目に再び涙が浮かぶ。

「真尋。抱きしめてもいい?」

「はい」

 二人は立ち上がった。

 恋人の抱擁ではない。家族の抱擁でもない。

 長い間、互いを失うことを恐れ、近づきすぎて苦しくなり、離れれば不安になった二人が、今の距離を確かめるための抱擁。

 葵の腕が真尋の背中へ回る。真尋も抱きしめる。

「ありがとう」

 葵が言う。

「こちらこそ」

「いなくても生きられるって言われた時、少し痛かった。でも、その後が嬉しかった。いない人生を選びたくない」

「はい」

「私も」

 葵は泣きながら言う。

「真尋がいなくても、生きる。でも、いない人生を、自分から選びたくない」

「はい」

「約束です」

「はい」

 二人は少しずつ腕を緩め、離れた。

     *

 夕食は、個室に用意されていた。山菜。魚。きりたんぽ鍋。地元の野菜。

 酒蔵で買った小瓶は、食事の後に部屋で飲むことにした。

「さっきの話の後だと、何でも特別に見える」

 葵が言う。

「食事は食事です」

「わかってる」

「冷めます」

「はい」

 二人は箸を持った。

「いただきます」

 きりたんぽ鍋の湯気が上がる。葵が一口食べる。

「おいしい。真尋。戻ってきた感じする。でも、前の旅とは違う。よかった」

「私もです」

 食事中、二人は関係の話を続けなかった。

 料理。明日の天気。海までの移動。宿の建物。

 真尋は俊介が見たら喜びそうな柱を写真に撮った。

「送る?」

 葵が尋ねる。

「後で」

「今でもいいよ」

「食事中なので」

 葵は美月へ、料理の写真を一枚送った。母へも。関係の話は送らない。

 今はまだ、二人の間へ置いておく。

     *

 部屋へ戻り、酒蔵で買った小瓶を開けた。小さな器を二つ。真尋は少量。葵も飲みすぎない。

「乾杯する?」

 葵が尋ねる。

「何に?」

「商品定番化」

「はい」

「二拠点案」

「まだ承認前です」

「出したことに。名前のない場所」

「はい」

 二人は器を軽く合わせた。

「乾杯」

「乾杯」

 酒は、試飲の時より少し甘く感じた。

「酔ってない時に決めてよかった」

 葵が言う。

「はい」

「酔ってたら、もっと大きな約束してたかも」

「永遠など」

「うん」

「しなくてよかったです。今日決めたことも、変わる可能性があります」

「はい」

「変える時は、二人で」

「うん」

     *

 午後九時。真尋は俊介へ短いメッセージを送った。

『宿へ着き、夕食を終えました。葵と大切な話をしました。帰ってから話します』

 俊介から。

『はい。楽しめていますか』

『はい』

『よかったです』

『俊介は?』

『母と食事をしました。明日は展示会です』

『はい』

『今夜は、葵さんとの時間を』

『ありがとうございます』

『おやすみなさい』

『おやすみなさい』

 好きです、とは送らなかった。

 言わなくてもよいからではない。今夜は、葵との旅の時間。俊介も、それを理解している。

 葵も、美月へ電話をした。真尋は離れ、窓辺で外を見る。

 葵の声が聞こえる。

『決まった』

『名前はない』

『でも、戻れる場所』

 詳しい説明は聞こえない。真尋は耳を傾けすぎない。葵と美月の関係も、真尋がすべて知る必要はない。

 電話を終えた葵が戻る。

「美月、泣いた」

「なぜ?」

「よかったねって。それから、面倒な二人だって」

「はい」

「否定できない」

「はい」

 二人は同時に吹き出した。

「真尋。今日、同じ布団で寝る?」

「布団は二つです」

「近くへ寄せる?」

「今のままで」

「はい」

 葵は寂しそうにしながらも、すぐに頷いた。

 抱きしめた。言葉も決めた。それ以上、距離を縮めて証明する必要はない。

     *

 風呂は別々に入った。葵が先。真尋はノートを読み返す。

『名前のない場所へ帰れる人』

『大きな選択は、決める前に話す』

『離れたい時は、戻る日を決める』

 契約書ではない。守れない日もある。それでも、二人が何を大切にしたいかを言葉にした。

 真尋はページの下へ、小さく書き足す。

『互いがいなくても生きる。いない人生を、自分から選ばない』

 葵へ見せるか迷う。今は自分の言葉として残す。

 葵が風呂から戻る。

「何書いてる?」

「少し」

「見せて」

 真尋はノートを渡した。葵が最後の一行を読む。目が潤む。

「これも、二人の約束にしていい?」

「はい」

「写真、もう一回」

「どうぞ」

 葵は撮影した。

「明日、海で読み返す?」

「はい」

「変わってないか」

「一晩で?」

「変わるかも」

「その時は話します」

     *

 真尋が風呂から戻ると、葵は布団へ入り、本を読んでいた。

「寝ませんか」

「まだ十時半」

「明日は早いです」

「少しだけ」

 真尋も自分の布団へ入る。二人の間には、手を伸ばしても届かない程度の距離。照明を少し暗くする。

「真尋。今日、抱きしめた時、前より近い感じがした。でも、布団は離れてる。不思議」

「関係は、物理的な距離だけではありません。逆に、近く寝ても、遠い時があります」

「直哉と?」

「葵がそう感じたなら」

「最後の頃は。同じベッドでも、遠かった。今日は、離れてても近い。こういうの、覚えていたい」

「はい」

     *

 照明を消す。暗い部屋。窓の外には、町の小さな灯り。葵の呼吸。

 真尋は目を閉じる。

 大切なことを話した後の安心と、少しの怖さがある。

 名前のない場所。言葉にしたことで、失う時の形も見えた。絶対ではない。だから大切にする。

 真尋は眠りへ入りかけた時、葵の声を聞いた。

「真尋。起きてる?」

「はい」

「一つだけ。私たち、今日から変わる?」

 真尋は考える。

「明日から、連絡回数が増えるわけではありません。急に何でも話すわけでも。でも、大きな選択を一人で決める前に、思い出します。離れたくなった時、終わりだと思わず話します。それが変化です」

「うん」

「葵は?」

「私は、真尋の一番になろうとする回数が減ると思う」

「なくなりませんか」

「たぶん、なくならない。でも、勝たなくても場所があるって思い出す。それが変わること」

「はい」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

     *

 翌朝、真尋は鳥の声で目を覚ました。午前六時前。葵はまだ眠っている。布団の間の距離は、昨夜と同じ。

 真尋は起き上がり、窓のカーテンを少し開けた。山の向こうから朝の光が差している。町が静かに明るくなる。

 葵が寝返りを打つ。

「朝?」

「はい」

「何時?」

「六時前」

「早い」

「もう少し眠りますか」

「真尋は?」

「外を見ます」

「一人で行く?」

「宿の庭だけ」

 葵が目を開ける。

「私も」

「眠いでしょう」

「置いていかれる気がした」

 葵は言った後、自分で笑う。

「今の、前の私みたい。行ってきていいよ」

「はい」

「七時に朝食で会う」

「はい」

「戻る時間、決めた」

「はい」

 真尋は部屋を出た。

     *

 宿の庭へ降りる。朝の空気。濡れた石。小さな花。木々の間から光が落ちる。

 一人。だが、置いてきた感覚はない。七時に戻る。葵もそれを知っている。

 真尋は庭の端にある椅子へ座った。昨日の言葉を思い返す。

 自分たちは、変わったのか。すぐにわかる変化ではない。

 今日、海へ行く。写真を撮る。食事をする。東京へ戻る。真尋は俊介へ旅の話をする。葵は仕事へ戻る。生活は続く。

 その中で、少しずつ現れるのだろう。決める前に話せた時。離れたいと伝えられた時。一番でなくても、不安へ飲み込まれなかった時。

 約束は、今日を特別にするためだけではない。何でもない日へ持ち帰るもの。

     *

 午前七時前、真尋が部屋へ戻ると、葵はすでに着替えていた。

「お帰り」

「ただいま」

 自然に言葉が交わされる。

「一人で大丈夫だった?」

「はい」

「私も」

「何をしていました?」

「ノートを読んだ。変えたいところ、一つある」

 真尋は緊張する。

「何ですか」

「離れる時、二週間以内って。二週間より長く必要な時もある。一か月でもいい。でも、二週間ごとに連絡する」

「なるほど」

「まだ戻れない。でも終わらせたいわけじゃないって。それなら、待つ側も期限が見える」

「はい」

「変えていい?」

「もちろんです」

 真尋はノートを開き、修正した。

『原則として二週間以内に連絡する。まだ距離が必要な場合も、二週間ごとに意思を伝える』

「これで」

「うん」

「一晩で変わりましたね」

「約束は、変えていいんでしょう」

「はい」

 二人は声を立てて笑った。

     *

 朝食後、宿を出る。海へ向かう列車。昨日より雲が少ない。

 葵は真尋の隣で、昨日のノートの写真を見ている。

「何度も見ますね」

「嬉しいから。俊介さんへ話す時、どこまで言う?」

「全部」

「私が一番になろうとする話も?」

「それは、葵自身の気持ちなので、必要な範囲で」

「うん」

「約束の三つは話します。名前のない場所も」

「嫌だと言われるかな」

「可能性はあります」

「関係をやめてと言われたら?」

「すぐには答えません。俊介が何を怖がっているか聞きます。葵にも話します。二人だけで決めたから絶対に変えない、とはしません。でも、俊介の不安をなくすためだけに、葵との関係を小さくもしません」

 葵は頷いた。

「ありがとう」

     *

 海へ着いた。駅から歩く。風が強い。波の音。潮の匂い。

 前回とは別の海岸。同じ秋田でも、知らない場所。

 二人は言葉を少なくし、海へ向かった。砂浜。遠くまで続く水面。白い波。

 葵は立ち止まる。

「大きい」

「はい」

「当たり前だけど。私たちの話、昨日は世界で一番大きいことみたいだった。今見ると、小さい。でも、大事」

「はい」

 海の大きさに比べれば、二人の関係は小さい。

 それでも、二人の人生の中では大切。大切だからと、世界のすべてにする必要はない。

 二人は海沿いを歩いた。三十分後、それぞれ一人になる約束。戻る場所は、砂浜の端にある青いベンチ。

「十一時二十分」

 真尋が時計を見る。

「はい」

「十二時に、ベンチ」

「四十分?」

「はい」

「昨日より長い」

「海なので」

「迷子にならないで」

「葵も」

 二人は別の方向へ歩いた。真尋は右。葵は左。振り返らない。

     *

 真尋は一人で波打ち際へ近づいた。靴が濡れない距離。

 波が寄せ、引く。一定ではない。同じ場所へ戻るように見えて、少しずつ形が違う。

 真尋は、自分と葵の関係を海へ重ねるような言葉を考えかけ、やめた。今日は、ただ海を見る。

 俊介のことを思う。大阪の仕事。母。葵。すべてが同時に浮かぶ。

 どれか一つへ集中しなければならない時間もある。だが人生全体では、複数の大切なものを持っていていい。

 真尋はスマートフォンを取り出し、海の写真を一枚撮った。俊介へは、帰ってから。今は送らない。

     *

 四十分後。青いベンチへ戻る。葵はまだいない。真尋は座って待つ。

 時計を見る。十二時一分。十二時三分。

 以前なら、不安になった葵から何度も連絡が来ただろう。今は来ない。

 十二時五分。少し心配になる。真尋は一度だけメッセージを送る。

『ベンチへ戻りました。大丈夫ですか』

 すぐに既読。

『ごめん。写真撮ってた。五分で戻る』

『はい』

 十二時九分。葵が小走りで戻ってくる。

「ごめん」

「はい」

「時間見てなかった。怒ってる?」

「少し心配しました」

「連絡ありがとう。待たせた」

「はい」

「次は、時間の五分前に通知を入れる」

「はい」

 大きな約束を決めた翌日にも、小さな失敗はある。

 謝る。方法を変える。関係全体の問題にしない。

     *

 二人はベンチへ並んで座った。

「一人で何を考えた?」

 葵が尋ねる。

「海を見ました」

「それだけ?」

「俊介と仕事と葵も」

「全部」

「はい」

「私は、直哉のこと考えた。一緒に海へ行ったこと。戻りたいとは思わなかった。でも、楽しかった。昨日の話と同じ。過去を大切にしても、戻る必要はない」

「はい」

 葵は海を見る。

「直哉も、私の帰る場所だったのかな」

「当時は」

「うん。今は?」

 葵は考える。

「戻らない場所。でも、なくしたい場所ではない。思い出の中にある。名前のない場所とは違う」

「はい」

「真尋は、今も生きて変わる人。直哉との時間は、過去の形で残る。それでいい」

「はい」

     *

 葵が紙袋を取り出した。昨日、売店で買ったもの。

「内緒って言ってたもの」

「はい」

 中には、小さな木製の札が二つ入っていた。同じ形。表面には何も書かれていない。

「何ですか」

「本当は、名前を書いてもらう札。旅館の売店で、鞄につけるものとして売ってた。何も書かないで買った」

「なぜ二つ?」

「一つずつ」

 葵は真尋へ一枚渡す。

「名前のない場所だから、何も書かない」

「なくしませんか」

「裏に小さく日付だけ書く」

「今日の日付?」

「昨日。話した日」

「うん」

 葵はペンを取り出し、裏側へ日付を書く。真尋も。

 名前はない。言葉もない。ただ、同じ日付。

「お守りではありません」

 真尋が言う。

「わかってる」

「関係を保証しません」

「はい」

「持っていなくても」

「関係はある」

「はい」

「でも、持ちたい」

「私もです」

 真尋は札を旅行用バッグの内ポケットへ入れた。

     *

 二人は通りかかった旅行者へ頼み、海を背に写真を撮ってもらった。

 肩を密着させず、少しだけ間を空けて立つ。それでも二人とも笑っている。

 葵は写真を確認する。

「俊介さんへ送る?」

「帰ってから」

「うん。美月には?」

「送る」

「はい」

 葵は美月へ写真を送る。

『決まりました』

 美月からすぐに返信。

『二人とも、いい顔』

 それだけ。関係の説明を求めない。

     *

 帰りの列車で、葵は眠った。窓へ頭を寄せ、規則的な呼吸をしている。

 真尋は隣で紀行本を開く。文字を追いながら、時々葵を見る。

 眠っているからと、守らなければならないとは思わない。ただ、降りる駅が近づけば起こす。それでいい。

 真尋は自分のバッグの内側へ触れた。木の札。何も書かれていない。

 名前がないことを、不足ではなく選択として持つ。

     *

 秋田駅へ戻り、夕方の新幹線へ乗った。帰りの座席も、行きと同じ並び。

 発車してしばらくすると、葵が言った。

「東京へ戻ったら、変わるかな」

「何が?」

「私たち」

「何も変わらない部分もあります。連絡頻度。会う回数。でも、次に大きなことがあった時、話します。離れたくなった時も」

「うん」

「名前がないから不安になる時は?」

「今日の言葉を思い出します」

「木の札は?」

「見てもよいです。でも、証拠にしない」

「はい」

 真尋は会社用のスマートフォンを取り出さなかった。山岸から緊急連絡はない。葵も仕事の数字を見ない。

 旅の終わりまで、旅を続ける。

 盛岡を過ぎた頃、二人は駅弁を開いた。

「今夜、俊介さんへ話す?」

 葵が尋ねる。

「東京へ着いて、部屋へ戻ってから」

「疲れてない?」

「短く伝えます」

「全部は?」

「明日以降。俊介も、展示会の話があります」

「北川さん」

「はい」

「嫉妬する?」

「少し」

「私との旅へ嫉妬した俊介さんと同じ」

「はい」

「変な三人」

「はい」

 二人は笑った。

     *

 東京駅へ着いたのは、夜だった。

 ホームへ降りる。秋田の冷たい空気から、東京の人混みへ戻る。

 葵は少し立ち止まる。

「終わった」

「はい」

「寂しい。でも、帰る」

「はい」

 改札を出た後、二人は同じ方向の電車へ乗る。途中で別れる。

 以前なら、葵が真尋の部屋へ泊まりたいと言ったかもしれない。今日は言わなかった。

「今夜、一人で大丈夫ですか」

 真尋が尋ねる。

「はい」

「本当に?」

「少し寂しいけど、自分の部屋へ帰りたい。商品もある。明日は休み。手紙の返事も、もう出した。一人で眠る」

 葵は言った。

「真尋は?」

「東京の部屋へ」

「俊介さんに会わない?」

「今日は。月曜日は一人で休みます。電話はします」

「はい」

     *

 別れる駅。二人はホームへ降りた。次の電車を待つ人たちの中で向かい合う。

「真尋。ありがとう」

「こちらこそ」

「名前のない場所」

「はい」

「忘れないで」

「忘れません」

「でも、忘れる日があっても」

 葵は考え直す。

「思い出せばいい」

「はい」

「次に会う日、決める?」

「今日は決めません」

「不安」

「水曜日に予定を確認しましょう」

「俊介さんと同じ」

「はい」

「わかった」

 葵は頷く。

「水曜日。会う日が決まらなくても、次に確認する日を」

「はい」

 電車が入ってくる。葵の乗る方向。

「行ってらっしゃい」

 真尋が言う。

「ただいま帰るのに?」

「自分の生活へ」

 葵は笑った。

「行ってきます」

 電車へ乗る。扉の前に立ち、手を振る。真尋も。

 扉が閉まる。電車が動く。葵の姿が遠ざかる。

 真尋は一人で、次の電車を待った。

     *

 東京の部屋へ戻る。

「ただいま」

 玄関。静かなリビング。大阪の部屋とは違う匂い。洗面所には、葵と俊介の歯ブラシ。壁には二つの影の写真。

 真尋は旅行用バッグから木の札を取り出した。

 どこへ置くか迷う。写真の横。引き出し。持ち歩く。

 真尋は財布の中へ入れず、机の小さな箱へしまった。

 日常的に見せるものではない。必要な時に取り出せる場所。

     *

 午後十時過ぎ。俊介へ電話をかける。

『お帰りなさい』

「ただいま」

『疲れていますか』

「少し」

『楽しかった?』

「はい」

『葵さんとの話は?』

「できました」

『聞いてもいいですか』

「短くなら」

『はい』

 真尋は話した。

 自分たちは、名前のない場所へ帰れる人だと決めたこと。大きな選択をする前に話すこと。離れたい時には、終わりか休息かを伝え、次の連絡日を決めること。

 互いがいなくても生きる。いない人生を、自分からは選ばない。

 俊介は、途中で言葉を挟まず聞いた。

『名前のない場所』

 俊介が繰り返す。

「はい」

『恋人や家族ではなく、でも、帰る場所』

「はい」

 俊介は黙る。

『正直に言ってもいいですか』

「はい」

『怖いです』

「はい」

『僕と別れても、葵さんは残るように聞こえます』

「可能性はあります」

『僕との関係より、失いにくい』

「形が違うので」

『少し、嫉妬します』

「はい」

『でも』

 俊介は息を吐く。

『真尋が、大切な人と大切な話をできたことは嬉しいです』

「ありがとうございます」

『僕のことも話しました?』

「はい」

『どのように?』

「俊介との関係には、葵とは違う責任と優先があると。一緒に暮らす場所。将来。恋人としての時間」

『はい』

「葵も理解しました」

『本当に?』

「勝たなくても場所があると」

 俊介が笑う。

『葵さんらしいです』

「はい」

     *

「俊介の展示会は?」

『楽しかったです』

「北川さんも?」

『はい』

「はい」

『嫉妬しています?』

「少し」

『写真を送ります』

「今?」

『明日でも』

「今、見たいです」

 俊介から写真が届く。

 四人。男性二人。北川。俊介。展示物の前で笑っている。

 真尋は少し胸がざわつく。だが、隠されていない。

「楽しそうです」

『はい』

「北川さん、きれいですね」

『はい』

「そこは否定しないんですね」

『嘘をつく必要はないので』

「はい」

「私たちの海の写真も送ります」

 葵と並んだ写真を送る。

『二人とも、良い顔です』

「はい」

『少し寂しいです』

「私も、展示会の写真を見て」

『はい』

「互いに、自分の時間を過ごしました」

『はい』

     *

『真尋。僕たちも、何を大切にするか話したいです』

「はい」

『秋田で葵さんと決めたように。同じ内容ではなく、恋人として、続ける時の約束』

「はい。いつ話しますか」

『次に会う時』

「水曜日に予定を確認します」

『はい』

「今夜は?」

『休んでください』

「はい」

『好きです』

「私も好きです」

『おやすみなさい』

「おやすみなさい」

     *

 電話を切った後、真尋は窓を開けた。東京の夜。車の音。明るい街。秋田の静けさとは違う。

 明日は一人で過ごす。火曜日には大阪へ戻る。水曜日には葵と次に会う日を確認し、俊介とも予定を決める。仕事では、山岸が代理で行った判断を受け取る。

 名前のない場所を見つけても、生活は複雑なまま。むしろ、大切なものを言葉にしたことで、それぞれの境界をさらに丁寧に扱う必要がある。

 真尋は生活ノートを開いた。東京の部屋へ置いている別のノート。新しいページへ書く。

『秋田で、葵と名前のない場所を見つけた』

 その下へ。

『必要とされなくても続く』

『いなくても生きる』

『いない人生を、自分から選ばない』

『戻った時、前と同じであることを求めない』

 書き終え、ペンを置く。

 永遠の約束ではない。関係を守る呪文でもない。迷った時に戻るための言葉。

     *

 真尋は寝室へ向かった。ベッドには枕が一つ。

 秋田では、隣に葵の布団があった。昨夜の呼吸。朝の庭。海。木の札。

 今夜は一人。そのことを寂しいと感じる。同時に、安心もする。

 自分の部屋。自分の時間。誰かと深く話した後に、一人へ戻れる。それが今の真尋には必要だった。

 照明を消す前、真尋は机の箱をもう一度開けた。

 何も書かれていない木の札。裏側の日付。手に取る。短い時間、指で形を確かめる。それから箱へ戻した。

 見える場所に置かなくてもいい。持ち続けていることを、毎日確認しなくてもいい。忘れた日にも、関係はなくならない。必要な時に開ける。

 箱を閉じる。

     *

 真尋はベッドへ横になった。目を閉じる。

 秋田駅のホーム。葵の「ただいま」。二つの影。向かい合って話した和室。海。別々に歩き、青いベンチへ戻ったこと。

 すべてが、静かに浮かぶ。

 真尋は考える。

 帰る場所は、一つではない。同じ人でも、いつでも同じ場所で待っているわけではない。扉が閉じる日もある。戻れない日も。

 それでも、終わりだと決める前に言葉を渡す。互いの生活を止めず。必要とされることで、関係を確かめず。相手が変わることを受け入れる。

 それが、二人の選んだ場所だった。

 名前はない。誰かへ簡単に説明することもできない。

 それでも真尋には、はっきりわかっていた。

 葵は、人生の途中で出会った、大切な人だった。恋人ではない。家族でもない。友人という言葉だけでは足りない。

 互いが一人で立てるからこそ、戻ることを選べる人。

 真尋は、暗い部屋の中で小さく息を吐いた。

 明日からも、二人は別々の生活をする。

 葵は東京で仕事をする。商品を育てる。新しい人へ会う。いつか、別の誰かを好きになるかもしれない。

 真尋は大阪へ戻る。仕事をする。俊介との未来を考える。山岸へ役割を渡す。東京と大阪の間で、暮らし方を選ぶ。

 その道は、同じではない。それでいい。

 同じ道を歩くことではなく。離れた場所からでも、戻る道を失わないこと。

 真尋は目を閉じたまま、心の中で言った。

 また、帰ります。

 返事は聞こえなかった。

 それでも、名前のない場所は、静かにそこにあった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。