第二十八章 名前のない場所へ帰る
秋田駅のホームへ降りた瞬間、葵は立ち止まった。
新幹線から降りる人たちが、二人の横を通り過ぎていく。大きな旅行鞄を引く家族。迎えに来た人へ手を振る女性。仕事用のバッグを肩へ掛け、足早に改札へ向かう男性。
それぞれの目的地へ向かう流れの中で、葵だけが動かなかった。
「どうしましたか」
真尋が尋ねる。葵はホームの駅名表示を見上げた。
「本当に戻ってきたんだと思って。前に来た時のこと、急に全部思い出した」
「はい」
「何を話したかより」
葵は自分の手元を見る。
「寒かったこと。真尋が歩くの速かったこと。私が何度も写真を撮ったこと。酒蔵で飲めないのに試飲しようとしたこと」
「少しだけでした」
「顔、赤くなってた」
「葵もです」
二人は顔を見合わせた。
前回の旅は、互いの生活へ踏み込むことを恐れながら、それでも離れたくないと思い始めた頃だった。
葵は直哉との別れを、自分の人生が空になったように感じていた。真尋は誰かへ必要とされることに安心しながら、必要とされすぎれば逃げたくなった。
二人とも、自分が何を求めているかをうまく言えなかった。
今は違う。
直哉への気持ちは残っていても、葵は戻らないと選んだ。真尋には俊介がいる。大阪の仕事がある。
二人だけが、互いの生活のすべてではない。だからこそ、今日ここで確かめることには意味がある。
「行きましょう」
真尋が言った。
「うん」
葵は一度だけホームを振り返り、歩き始めた。
*
改札を出る。前に来た時と同じ広い通路。天井から下がる案内。土産物店。観光案内所。
大きく変わった場所はない。それでも、二人が知っている駅とは少し違って見えた。
「先に昼食にしますか」
真尋が尋ねる。
「お腹は空いてる。でも、最初に少し歩きたい」
「どこへ?」
「駅の外」
二人は荷物を持ったまま、正面の出口へ向かった。
自動扉が開く。東京より冷たい風が頬へ触れた。大阪とも違う。空が広い。雲の隙間から光が落ちている。
葵は一度、深く息を吸った。
「匂いが違う」
「何の?」
「わからない。でも、秋田の匂い」
「前回も言っていました」
「覚えてる?」
「はい」
「何て答えた?」
「駅前なので、車の匂いではないかと」
「真尋らしい」
葵は笑いながら、スマートフォンで空を撮った。すぐに画面を確認し、考えてからポケットへ戻す。
「誰へ送りますか」
真尋が尋ねる。
「今は誰にも」
「俊介へは?」
「真尋が送るでしょう」
「夜に」
「私は美月とお母さんへ、後で。今は、私たちだけで見たい」
「わかりました」
二人は駅前の広場へ並んで立った。
隣にいる。ただそれだけで、何かを取り戻したような気持ちになる。
だが、前の二人へ戻ったわけではない。戻りたいとも思わない。
今の生活を持ったまま、同じ場所へ立っている。
*
昼食は、駅近くの店へ入った。前回とは違う店。葵は稲庭うどん。真尋は焼き魚の定食。
「前と同じ店にしなくてよかった?」
葵が尋ねる。
「はい」
「少し行きたかった」
「では、明日のお昼に」
「明日は海の近くでしょう」
「予定を変えても」
「うん」
葵はメニューを閉じる。
「同じ場所へ行くことと、同じことをするのは違うね。前の旅を大切にするなら、同じ順番をなぞるべきだと思ってた」
「なぜ?」
「戻ってきたって感じがするから。でも、それだと前と比べ続ける。前より楽しいか。前より近いか。前と同じ気持ちか」
「はい」
「今日は今日でいいね」
「そのために、宿も変えました」
料理が運ばれてくる。温かい湯気。葵は箸を持つ前に、うどんを写真に撮った。
「仕事用ですか」
「自分用。商品企画の人になってから、食べ物を見ると仕事に使えるか考えちゃう」
「今日は?」
「少し考えた。でも、使わない写真も撮りたい。誰にも見せないもの」
「大切ですね」
葵は一口食べる。
「おいしい。真尋も食べて」
「自分のものを」
「一口」
「後で」
「今」
真尋は迷い、葵の器から一本だけ取った。
「どう?」
「おいしいです」
「それだけ?」
「出汁が優しいです」
「仕事の人みたい」
「葵が聞いたので」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
食後、駅へ戻り、予約していた列車へ乗った。
最初の目的地は、以前訪れた酒蔵のある町。前回と同じ路線。だが座席は違う。季節も。
窓の外に広がる田畑は、以前より色が濃い。山にはまだ少し雪が残っている。
「真尋。今日、関係の話をするのはいつ?」
「決めますか」
「決めないと、私ずっと緊張する」
「では、夕食の後」
「宿で?」
「はい」
「お酒を飲んでから?」
「少しなら」
「酔ったまま決めるのは嫌」
「では、飲む前に」
「夕食の前?」
「到着して、部屋へ入ってから」
葵は考える。
「町を歩いた後がいい。酒蔵へ行って、前の場所を見て、それから、宿で」
「わかりました」
「時間を決める?」
「午後五時半」
「会議みたい」
「葵が決めたいと言ったので」
「うん」
葵は笑った。時間を決めたことで、少し肩の力が抜けたようだった。
*
列車を降り、町を歩く。
古い建物。細い道。軒先へ並ぶ鉢植え。遠くから聞こえる生活音。
前回撮った写真を、葵が画面へ表示する。
「この場所」
写真の中には、古い壁と二人の影がある。今日の光は、少し角度が違う。
二人は同じ場所を探した。
「ここですか」
真尋が足元を見る。
「たぶん」
「壁の色が違います」
「塗り直した?」
「少し」
二人は壁の前へ並ぶ。地面へ影が伸びる。前回より短い。
葵は写真を撮ろうとして、手を止めた。
「どうしました?」
「同じ写真を撮るか迷ってる」
「撮ってもよいのでは」
「比べるためじゃなく?」
「今日の影として」
葵は頷き、シャッターを押した。
画面には、二つの影。前回より離れている。真尋は肩からバッグを掛けている。葵は片手を腰へ当てている。
「離れてる」
葵が言う。
「はい」
「前はもっと近かった。でも、今日も二つ」
「はい」
葵は写真を保存した。
「これ、好き」
「はい」
「距離があるのに、同じ方向を向いてる。私たちみたい?」
「すぐに意味をつけますね」
「だめ?」
「いいえ」
真尋は影を見た。
二人は同じ方向へ歩いているわけではない。仕事。恋愛。暮らす場所。違うものが増えた。
それでも今は、同じ壁の前にいる。
*
酒蔵では、前回と同じ銘柄を見つけた。淡い桃色の花が描かれたラベル。葵が最初に足を止めた酒。
「これ。まだある」
「定番商品でしょう」
「夢がない」
「安心です」
葵は瓶を手に取る。
「買う?」
「宿で飲める量ではありません」
「小さいのもある」
棚の下段に、小瓶が並んでいる。二人は一本ずつ買わず、一つを共有することにした。
「一本を二人で。前なら、私が全部飲むと言ってた」
「真尋は少ししか飲まないから」
「今もです」
「うん」
「無理はしません」
「はい」
売り場の奥で、試飲を勧められた。葵は一杯。真尋はごく少量。
口に含む。以前より甘く感じる。
「味、変わった?」
葵が尋ねる。
「私たちが変わったのでは」
「本当に言うようになったね」
「何を?」
「こういうこと」
「はい」
葵は嬉しそうに笑った。
*
酒蔵を出た後、二人は川沿いの道を歩いた。宿のチェックインまでは、まだ時間がある。
急がずに歩く。葵は何度か立ち止まり、写真を撮った。真尋は先に進まず待つ。
以前は、歩く速さが違った。真尋が気づかず先へ行き、葵が追いつく。
今は、同じ速さに揃えるのではなく、離れたら待つ。
「真尋。大阪で、誰かと旅行したいと思った?」
「まだ」
「俊介さんとは?」
「行きたいです」
「どこへ?」
「決めていません」
「海?」
「俊介は建物を見たいと思います」
「ずっと説明されそう」
「止めます」
「うん」
葵は黙り、川を見る。
「俊介さんと旅行するの、嫌じゃない。少し寂しいけど。でも、私と同じ場所じゃなくていい」
「はい」
「秋田は私との場所?」
真尋はすぐに答えなかった。
秋田という土地を、葵だけのものにすることはできない。俊介と来る可能性もある。母と。一人で。
だが、この旅には二人だけの意味がある。
「秋田すべてではありません。この旅は、葵とのものです。今、歩いている道も」
葵の顔が明るくなる。
「それでいい」
「はい」
*
宿は、古い民家を改装した小さな旅館だった。
玄関で靴を脱ぐ。木の床。低い天井。中庭。客室は二階。二つの布団を並べられる和室。窓から山の稜線が見えた。
「いいね」
葵が窓へ近づく。
「はい」
「前のホテルより、静か。仕事の電話、鳴らない?」
「会社用はバッグの奥です」
「本当に見てない?」
「はい」
「俊介さんは?」
「夜に短く連絡します」
「私の前で?」
「嫌ですか」
「少し」
「では、入浴中に」
「隠れてるみたい」
「では、夕食後に一度」
葵は考える。
「うん」
「葵も美月や家族へ連絡してよいです」
「はい」
互いの別の関係を、旅の外へ追い出さない。だが、旅のすべてを連絡に使わない。
*
荷物を置き、部屋を確認する。時計は午後四時四十分。関係について話す時間は五時半。まだ五十分ある。
「一人の時間、今にする?」
葵が尋ねる。
「三十分?」
「うん」
「では、五時二十分に部屋へ戻ります」
「十分は?」
「お茶を淹れます」
「はい」
葵は売店を見ると言った。真尋は宿の外を少し歩くことにした。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「五時二十分」
「はい」
二人は別れた。
*
真尋は一人で宿を出た。夕方の風。知らない道。
葵がいない。少し寂しい。同時に、安心する。
自分の歩く速さ。立ち止まる場所。誰にも合わせない時間。
真尋は細い道を歩いた。山の影。遠くの家。畑。誰かが洗濯物を取り込んでいる。
旅先にも日常がある。
自分たちは特別な時間を過ごしに来た。だが、この町で暮らす人にとっては、いつもの夕方。
関係へ名前をつける。人生の中では大きい。それでも明日になれば、食事をし、仕事をし、連絡を返す。
名前を決めたから、何もかもが変わるわけではない。それでよい。
真尋はベンチを見つけ、少し座った。俊介からもらった手紙をバッグから出す。もう一度読む。
『葵さんとの旅を、僕への遠慮で小さくしないでください』
真尋は紙を閉じる。
俊介は寂しいと言った。嫌だとも。それでも行ってきてと。葵との関係を尊重しようとしている。
真尋も、俊介との関係を葵へ遠慮して小さくしない。
どちらかを守るために、もう一方を隠さない。それが今の自分にできることだった。
*
五時十八分。真尋は宿へ戻った。部屋の前に葵はまだいない。真尋は鍵を開け、お茶を用意する。
五時二十一分。葵が戻る。
「一分遅れました」
「はい」
「怒ってる?」
「一分なので」
「待った?」
「三分」
「早く戻ったんだ」
「はい」
葵は小さな紙袋を持っている。
「何を買いました?」
「まだ内緒」
「はい」
「お茶、ありがとう」
二人は向かい合って座った。窓の外が少しずつ暗くなる。時計は五時二十八分。
「あと二分」
葵が言う。
「始めてもいいです」
「時間を決めたから」
「はい」
二人は黙ってお茶を飲む。
午後五時三十分。葵がカップを置いた。
「話そう」
「はい」
*
最初に何を言えばよいのか、二人ともわからなかった。
新幹線では、三つ決めると話した。自分たちは何者か。大きな選択をする時、どうするか。離れたくなった時、どう戻るか。
項目は明確。だが、最初の言葉は出てこない。
「会議みたいに、私から話しますか」
真尋が尋ねる。
「真尋は、会議だと強いから嫌」
「では、葵から」
「私も嫌」
「はい」
二人は笑った。緊張がわずかに和らぐ。
「まず」
葵が言った。
「私が、真尋をどう思っているか話す。真尋は、途中で答えないで。最後まで聞いて」
「わかりました」
葵は膝の上へ手を置く。指先に少し力が入っている。
*
「私は、真尋に会う前、誰かに選ばれることが、私の価値だと思ってた」
葵はゆっくり話し始めた。
「直哉に愛される。会社で必要とされる。家族に心配される。誰かが私を必要としてくれたら、自分がここにいていいと思えた。だから、直哉と別れた時、私の中身がなくなったように感じた」
「はい」
「真尋に出会って、最初は同じことをしようとした」
真尋は黙って聞く。
「私を一番にしてほしい。いつも連絡してほしい。困ったら最初に私へ言ってほしい。真尋が俊介さんと付き合った時、取られたと思った。大阪へ行く時も、私を置いていくと思った。今も、そう思う時がある」
「はい」
「でも、少しずつわかった」
葵は顔を上げる。
「真尋が私を必要としていない時にも、私たちの関係はなくならない。俊介さんを好きでも。大阪で仕事をしても。山岸さんや森田さんと関係を作っても。私の場所は、誰かと比べて勝ち取るものじゃない」
葵の目に涙が浮かぶ。
「だから、真尋を私だけの人にしたいとは言わない。でも、何でもない人にもなりたくない」
「はい」
「友達と言えば、間違いではない。親友でもいい。でも、それだけだと、私が真尋に感じていることの一部しか入らない。恋愛ではない。触れたいとか、一緒に暮らしたいとか、そういう気持ちではない。家族でもない」
「はい」
「でも、私の人生からいなくなったら、世界の形が変わる人」
真尋の胸が締めつけられる。
「毎日会わなくても。何か月会えなくても。真尋が別の場所で幸せでも。戻ってきた時に、私が私として会いたい人」
葵は涙を拭わず、続ける。
「私が間違った時、正しい答えを出してほしい人ではない。私の代わりに決めてほしい人でもない。でも、決める前に、私の言葉を聞いてほしい人。決めた後に失敗しても、恥ずかしくて隠したくない人。離れたくなっても、終わりにしたくない人」
葵は息を吸う。
「真尋は、私にとって、戻ってこられる人です」
真尋の目にも涙が浮かんだ。
「ただ戻るだけじゃなく、戻った時に、前と同じでなくても会える人。私は、真尋と、そういう関係でいたい」
葵は話し終えた。
「以上」
「はい」
「まだ答えないで。一分だけ待って」
葵は目元を拭き、水を飲んだ。真尋は、自分の言葉を急がなかった。
*
「次、真尋」
葵が言う。
「はい」
「私も途中で答えない」
「わかりました」
真尋は一度、窓の外を見た。山の輪郭が暗くなっている。
自分が葵へ何を感じているか。長い間、言葉を避けてきた。
友人と呼べば楽だった。それ以上を認めれば、期待へ応えなければならないと思った。
今は、期待と関係を分けて考えられる。
「私は」
真尋は話し始めた。
「以前、誰かへ必要とされると安心しました。でも、必要とされ続けると、逃げたくなりました。相手が何を求めているかを先に考え、自分の希望を後にしたからです」
「はい」
「葵に対しても、そうでした。葵が不安なら、すぐ連絡する。葵が寂しいなら、会う。そのこと自体が嫌だったのではありません。でも、自分で選んだのか、葵を不安にさせないためだけなのか、わからなくなる時がありました。だから、距離を取りたくなった」
「うん」
「それでも、葵を失いたいとは思いませんでした。矛盾していました」
「うん」
「今は、少し違います」
真尋は葵を見る。
「私は、葵が一人で暮らせることを知っています。直哉がいなくても。私が大阪にいても。仕事で失敗しても。寂しくても。葵は、自分の生活へ戻れる」
葵の涙がまた落ちる。
「だから私は、葵を支え続けなければならない人だとは思っていません。支えたい時には支えます。できない時には、できないと言います」
「はい」
「葵も、私を救う人ではありません。俊介と喧嘩した時も。仕事で間違えた時も。葵へ答えを求めるのではなく、聞いてほしいと思いました」
「はい」
「葵は、私がどのような選択をしても賛成する人ではありません。東京へ戻ってほしいと言う。俊介を大切にしろと言う。私へ腹を立てる。それでも、私の選択を奪わない」
真尋は一度、息を整える。
「葵がいることで、私は自分の人生を変える必要はありません。葵の人生も、私のために変えてほしくありません。それでも、大きな選択をする時には、葵の顔が浮かびます」
「はい」
「葵なら何と言うかではなく、葵へ何を話したいか。葵へ隠したくないか。それを考えます」
真尋の声も震える。
「私は、葵がいなくても生活できます」
葵の顔が一瞬、痛そうに歪む。
「葵も、私がいなくても生活できます。でも」
真尋は続ける。
「いない人生を、選びたいとは思いません」
葵は唇を結ぶ。
「私は、葵と、戻ってこられる関係でいたいです。戻ることを義務にせず。戻る時期を相手へ決めさせず。変わったことを責めず。それでも、会いたいと言える関係」
「はい」
「私は、葵を、人生の帰る場所の一つだと思っています」
言葉にした瞬間、真尋の頬へ涙が伝った。葵が息を呑む。
「建物ではなく。私を待ったまま止まる人でもなく。葵自身が生活しながら、会う時に戻れる場所。私は、そういう人でいたいです」
真尋は話し終えた。
*
二人とも、すぐには何も言わなかった。
部屋の中に、遠くの風の音が聞こえる。廊下を歩く人の足音。食事の準備を知らせる小さな物音。日常は続いている。
葵がティッシュを取り、真尋へ渡した。
「真尋も泣いてる」
「はい」
「私だけだと思った」
「はい」
二人は涙を拭った。
「帰る場所の一つ」
葵が言う。
「はい」
「一つでいいの?」
「一つがよいですか」
葵は考え、首を振る。
「違う。俊介さんも?」
「はい」
「お母さんも?」
「はい」
「大阪の部屋も? 東京も?」
「はい」
「多いね。でも、私もその中にいる」
「はい」
葵は思わず笑った。
「最優先じゃなくても?」
「はい」
「必要とされてない日も?」
「はい」
「帰る場所」
「はい」
「嬉しい」
*
「名前は?」
葵が尋ねる。
「今の言葉で足りませんか」
「長い。紹介する時、何て言う?」
「友人」
「やっぱり?」
「社会的には」
「うん」
「親友でも」
「うん。でも、二人の間では」
真尋は考える。
「帰る人」
「帰る人?」
「不自然ですね」
「少し」
「戻れる人」
「うん」
「帰路?」
「仕事みたい」
葵は声を立てて笑った。
「居場所」
「人に使いますか」
「私の居場所」
「所有のように聞こえます」
「真尋は私のものじゃない」
「はい」
二人は、いくつかの言葉を口にした。
親友。伴走者。同行者。人生の証人。選んだ家族。心の家族。
どれも一部は合う。どれも少し違う。
「選んだ家族は?」
葵が尋ねる。
「家族ではないと話しました。家族だから許されることも、私たちにはありません」
「たとえば?」
「生活への介入。金銭。介護。責任を当然のように求めること」
「うん」
「家族のように感じる日はあります。でも、家族と呼ぶことで、持っていない責任まで含めたくありません」
「うん。伴走者は?」
「同じ道を進む感じがします」
「私たちは違う道?」
「はい。時々、並ぶ」
「人生の証人」
「少し重いです。全部見ていません」
「確かに」
葵は笑う。
*
言葉を探しているうちに、二人の緊張は少しずつ柔らかくなった。
「名前、なくてもいいのかな」
葵が言う。
「はい」
「でも、何者か決めるって言った」
「決めました」
「何て?」
「友人という言葉に収まらない、帰る場所の一つ」
「長い。紹介できない」
「紹介する必要はありません」
「俊介さんには?」
「そのまま話します」
「うん」
「母にも聞かれれば。ほかの人へは、友人で」
「うん」
葵は考え、頷いた。
「二人だけの名前は、なし?」
「名前がないことを、名前にしますか」
「名前のない関係」
「よくある表現です」
「真尋」
「はい」
「今日は仕事の人やめて」
「はい」
「名前のない場所」
葵が言う。
「場所?」
「うん。私たちの間にある場所。友達とか家族とか恋人とか、どこにも入らない。でも、帰れる」
「はい」
「名前のない場所へ帰る」
真尋は、その言葉を心の中で繰り返した。
名前のない関係ではなく。名前のない場所。
人を固定しない。役割を決めすぎない。二人の間にある場所。必要な時、戻る。離れても消えない。
ただし、いつでも開いているとは限らない。互いが生活し、変わる。
「私は好きです」
真尋が言った。
「本当?」
「はい」
「名前のない場所」
「はい」
「私たちは、その場所へ帰れる人」
「はい」
葵の顔に、静かな笑みが広がる。
「じゃあ、一つ目はそれ。私たちは、何者か」
「名前のない場所へ帰れる人」
「うん」
*
「次」
葵が言う。
「大きな選択をする時。どこまで話す?」
真尋はノートを出そうとした。
「書く?」
「忘れないように」
「会議みたいだけど、今日はいい」
真尋は旅行用の小さなノートを開いた。一行目へ書く。
『名前のない場所へ帰れる人』
葵が覗き込む。
「きれいに書いたね」
「はい」
「次」
真尋は二行目を空ける。
「大きな選択の定義は?」
葵が尋ねる。
「生活へ影響すること」
「広い。たとえば」
葵は指を折る。
「遠くへ引っ越す。仕事を辞める。結婚。同居。大きな病気。家族のこと。直哉と復縁」
葵は言ってから、自分で首を振った。
「しないけど」
「今後、別の恋人との大きな変化」
「うん。商品で転勤」
「はい」
「東京の部屋を手放す」
「はい」
真尋は項目を書く。
「決める前に話す」
葵が言う。
「はい」
「許可は求めない。反対してもいい。相手の反対を理由に、選択を変えなくてもいい。でも、影響がある部分は一緒に考える」
「たとえば東京の部屋なら」
「私の歯ブラシの場所」
「それだけ?」
「冗談」
「会う場所が変わる。秋田の日程も」
「はい」
「関係へ影響することは、決める前に話す。話したからといって、同意したことにはしない」
「はい」
「相手が傷ついた時は?」
「傷ついたと言う」
「はい」
「決めた側は、正当化だけで返さない」
「はい」
「でも、選択を謝る必要は?」
真尋は考える。
「相手を傷つけたことへは謝る。自分の人生を選んだことそのものへは、謝らなくていい」
葵は頷いた。
「それ、書いて」
真尋は書く。
『大きな選択は、決める前に話す。許可は求めない。反対しても、決定を奪わない。傷つけたことには向き合うが、自分の人生を選ぶことを謝らない』
「長い」
「必要です」
「うん」
*
「三つ目」
葵の声が小さくなる。
「離れたくなった時、どう戻るか。離れたいと思う前提なんだね」
「あります」
「うん」
「今までも」
「はい」
葵は窓の外を見る。
「私が真尋を求めすぎた時、真尋が急に遠くなった。私は、捨てられると思って追いかけた。真尋は、さらに逃げたくなった。また起きる?」
「可能性はあります」
真尋は正直に答える。
「俊介との関係で忙しい時。大阪の仕事。葵の仕事や恋愛。互いに余裕がない時。価値観が大きく違う時。腹が立つ時。連絡を取りたくない時もある」
「うん」
葵の目に少し不安が浮かぶ。
「その時、何日なら?」
「日数を決めますか」
「無期限は怖い。でも、三日で戻れない時も」
「はい。まず、離れたいと伝える。理由を全部説明できなくても、関係を終わらせたいわけではないと伝える」
「本当に終わらせたい時は?」
葵が尋ねる。
「その時は、曖昧にしません」
「うん」
「距離を置きたい場合は、次に連絡する日を決める」
「俊介さんとの約束みたい。一週間後」
「必要なら」
「一か月?」
「長くても」
「一か月連絡なかったら、私無理かも」
「では、二週間以内」
「決める?」
「原則として」
「うん」
「二週間でも話せない場合は、短い連絡を」
「まだ戻れないって」
「はい。相手を待たせ続けない。待つ側も、自分の生活を止めない。確認の連絡を何度も送らない」
葵は少し顔をしかめる。
「努力する。緊急の時は?」
「連絡します」
「どこまで緊急?」
「命や健康。家族の大きな問題。一人で抱えられない時。相手が受け取れる状態でなくても、まず連絡はする」
「はい」
*
真尋はノートへ書く。
『離れたい時は、関係を終えるためか、休むためかを伝える。休む時は、次に連絡する日を決める。原則二週間以内。待つ側も生活を止めない。戻った時、前と同じであることを求めない』
葵が最後の一文を指さす。
「これ、大事」
「はい」
「戻ってきた時、前より距離があるかもしれない。別の人が大切になってるかもしれない。仕事が変わってる。それでも、また知り直す。前の場所を返してって言わない」
「はい」
葵は小さく息を吐く。
「怖い。戻ったのに、前と同じじゃない。でも、同じを求めたら、戻れなくなるね」
「はい」
「変わった人同士で会う」
「はい」
「東京へ戻った真尋みたいに」
「はい」
二人は頷いた。
*
「三つ、決まった。これで終わり?」
「何かありますか」
「一つ聞きたい」
「はい」
葵は真尋をまっすぐ見る。
「私たちの関係は、俊介さんとの関係より弱い?」
真尋はすぐには答えなかった。
強い。弱い。比較するものではないと、何度も言ってきた。だが葵は、抽象的な答えでは安心できないのかもしれない。
「同じ責任はありません。俊介とは、恋人として将来の生活を一緒に考えています。同居。結婚。住む場所。身体的な親密さもあります。葵とは、その責任も関係もありません。だから、俊介との関係でしか持たない優先があります」
葵の顔が痛そうになる。真尋は続ける。
「たとえば、一緒に暮らす場所を決める時。俊介の希望は、葵より直接影響します。恋人として約束した時間も、葵より優先することがあります」
「うん」
葵は視線を落とす。
「でも」
真尋は言う。
「葵との関係が弱いという意味ではありません」
「どう違う?」
「支える場所が違います。俊介としか話せないことがあります。葵としか話せないこともあります。俊介との関係が終われば、同じ形では残らない可能性があります。葵との関係も、絶対ではありません。でも、恋人という形を持たないからこそ、恋愛の変化とは別に続けられる部分があります。強さではなく、違う関係です」
葵はしばらく黙る。
「私、俊介さんに勝ちたいと思ってた。今も少し。でも、勝ったら何が欲しいのかわからない。真尋と一緒に住みたいわけじゃない。毎日連絡したいわけでもない。恋人の時間を奪いたいわけでもない。ただ、負けたくなかった。場所がなくなると思ったから」
葵は顔を上げる。
「今日、少しわかった。場所が違うなら、勝たなくていい。でも、寂しい時は寂しいって言う。真尋が俊介さんを優先した時、言ってください。責めることもある。その時、私を面倒だと思う?」
「思う時はあると思います」
葵が驚き、笑う。
「正直」
「はい。でも、面倒だと思うことと、大切ではないことは同じではありません。葵も、私を面倒だと思う時があるでしょう」
「ある」
「はい」
「すぐ仕事の話にする時。正しいことを言って、気持ちを後にする時。でも大切」
「はい」
二人の間に短い笑いが起きた。
*
「真尋も、私に聞きたいことある?」
葵が尋ねる。
「はい。葵に恋人ができた時、私との関係を、相手へどのように話しますか」
葵は考える。
「友人。でも、大切な友人と。旅行へ二人で行くことも話す」
「相手が嫌だと言ったら?」
「今日みたいな旅行は、話し合う。相手を不安にさせても、絶対行くとは言わない。でも、私たちの関係を隠すことはしない。真尋と会うのを全部やめろと言われたら」
葵は顔を上げる。
「その人との関係を考える」
「私を選ぶ?」
「そういう意味じゃなく。私の大切な人を否定しない人と付き合いたい。でも、相手の不安も聞く。二人きりで泊まることが嫌なら、日帰りにすることも考える。真尋としかできないことなのか、考える」
「はい」
「私は、直哉との時、友達との予定を減らした。頼まれてないのに。恋人を安心させるために。それをもう一度はしたくない。でも、恋人の気持ちを無視するのも違う。真尋が俊介さんにしてるように、話す」
「わかりました」
*
「俊介さんへ、私たちの三つの約束を話す?」
葵が尋ねる。
「はい」
「嫌だと言われたら?」
「話を聞きます」
「変える?」
「葵との約束なので、二人で再検討します。俊介だけの意見で変えません。でも、俊介との関係へ大きな負担がある場合は、無視しません」
「うん。私も、全部受け入れてほしいとは言わない」
「はい」
葵は安心したように頷いた。
話し始めてから、一時間以上が過ぎていた。夕食の時間が近づいている。部屋の外から、宿の人が廊下を歩く音がする。
葵はノートを見る。
「これ、写真撮っていい?」
「はい」
「二人で持つ?」
「はい」
葵はページを撮影し、自分のスマートフォンへ保存した。
「誰にも送らない。俊介さんへは、真尋の言葉で」
「はい」
「美月には?」
「葵が話したい範囲で」
「うん。母には、名前のない場所だけ話すかも」
「はい」
*
「最後に、確認したい」
「何ですか」
「私たちは、友達?」
「はい」
「親友?」
「そう呼んでもよいです」
「それ以上?」
真尋は考える。
「それ以上というより、それだけでは説明しきれない。名前のない場所へ帰れる人。それが、二人の答えです」
葵の目に再び涙が浮かぶ。
「真尋。抱きしめてもいい?」
「はい」
二人は立ち上がった。
恋人の抱擁ではない。家族の抱擁でもない。
長い間、互いを失うことを恐れ、近づきすぎて苦しくなり、離れれば不安になった二人が、今の距離を確かめるための抱擁。
葵の腕が真尋の背中へ回る。真尋も抱きしめる。
「ありがとう」
葵が言う。
「こちらこそ」
「いなくても生きられるって言われた時、少し痛かった。でも、その後が嬉しかった。いない人生を選びたくない」
「はい」
「私も」
葵は泣きながら言う。
「真尋がいなくても、生きる。でも、いない人生を、自分から選びたくない」
「はい」
「約束です」
「はい」
二人は少しずつ腕を緩め、離れた。
*
夕食は、個室に用意されていた。山菜。魚。きりたんぽ鍋。地元の野菜。
酒蔵で買った小瓶は、食事の後に部屋で飲むことにした。
「さっきの話の後だと、何でも特別に見える」
葵が言う。
「食事は食事です」
「わかってる」
「冷めます」
「はい」
二人は箸を持った。
「いただきます」
きりたんぽ鍋の湯気が上がる。葵が一口食べる。
「おいしい。真尋。戻ってきた感じする。でも、前の旅とは違う。よかった」
「私もです」
食事中、二人は関係の話を続けなかった。
料理。明日の天気。海までの移動。宿の建物。
真尋は俊介が見たら喜びそうな柱を写真に撮った。
「送る?」
葵が尋ねる。
「後で」
「今でもいいよ」
「食事中なので」
葵は美月へ、料理の写真を一枚送った。母へも。関係の話は送らない。
今はまだ、二人の間へ置いておく。
*
部屋へ戻り、酒蔵で買った小瓶を開けた。小さな器を二つ。真尋は少量。葵も飲みすぎない。
「乾杯する?」
葵が尋ねる。
「何に?」
「商品定番化」
「はい」
「二拠点案」
「まだ承認前です」
「出したことに。名前のない場所」
「はい」
二人は器を軽く合わせた。
「乾杯」
「乾杯」
酒は、試飲の時より少し甘く感じた。
「酔ってない時に決めてよかった」
葵が言う。
「はい」
「酔ってたら、もっと大きな約束してたかも」
「永遠など」
「うん」
「しなくてよかったです。今日決めたことも、変わる可能性があります」
「はい」
「変える時は、二人で」
「うん」
*
午後九時。真尋は俊介へ短いメッセージを送った。
『宿へ着き、夕食を終えました。葵と大切な話をしました。帰ってから話します』
俊介から。
『はい。楽しめていますか』
『はい』
『よかったです』
『俊介は?』
『母と食事をしました。明日は展示会です』
『はい』
『今夜は、葵さんとの時間を』
『ありがとうございます』
『おやすみなさい』
『おやすみなさい』
好きです、とは送らなかった。
言わなくてもよいからではない。今夜は、葵との旅の時間。俊介も、それを理解している。
葵も、美月へ電話をした。真尋は離れ、窓辺で外を見る。
葵の声が聞こえる。
『決まった』
『名前はない』
『でも、戻れる場所』
詳しい説明は聞こえない。真尋は耳を傾けすぎない。葵と美月の関係も、真尋がすべて知る必要はない。
電話を終えた葵が戻る。
「美月、泣いた」
「なぜ?」
「よかったねって。それから、面倒な二人だって」
「はい」
「否定できない」
「はい」
二人は同時に吹き出した。
「真尋。今日、同じ布団で寝る?」
「布団は二つです」
「近くへ寄せる?」
「今のままで」
「はい」
葵は寂しそうにしながらも、すぐに頷いた。
抱きしめた。言葉も決めた。それ以上、距離を縮めて証明する必要はない。
*
風呂は別々に入った。葵が先。真尋はノートを読み返す。
『名前のない場所へ帰れる人』
『大きな選択は、決める前に話す』
『離れたい時は、戻る日を決める』
契約書ではない。守れない日もある。それでも、二人が何を大切にしたいかを言葉にした。
真尋はページの下へ、小さく書き足す。
『互いがいなくても生きる。いない人生を、自分から選ばない』
葵へ見せるか迷う。今は自分の言葉として残す。
葵が風呂から戻る。
「何書いてる?」
「少し」
「見せて」
真尋はノートを渡した。葵が最後の一行を読む。目が潤む。
「これも、二人の約束にしていい?」
「はい」
「写真、もう一回」
「どうぞ」
葵は撮影した。
「明日、海で読み返す?」
「はい」
「変わってないか」
「一晩で?」
「変わるかも」
「その時は話します」
*
真尋が風呂から戻ると、葵は布団へ入り、本を読んでいた。
「寝ませんか」
「まだ十時半」
「明日は早いです」
「少しだけ」
真尋も自分の布団へ入る。二人の間には、手を伸ばしても届かない程度の距離。照明を少し暗くする。
「真尋。今日、抱きしめた時、前より近い感じがした。でも、布団は離れてる。不思議」
「関係は、物理的な距離だけではありません。逆に、近く寝ても、遠い時があります」
「直哉と?」
「葵がそう感じたなら」
「最後の頃は。同じベッドでも、遠かった。今日は、離れてても近い。こういうの、覚えていたい」
「はい」
*
照明を消す。暗い部屋。窓の外には、町の小さな灯り。葵の呼吸。
真尋は目を閉じる。
大切なことを話した後の安心と、少しの怖さがある。
名前のない場所。言葉にしたことで、失う時の形も見えた。絶対ではない。だから大切にする。
真尋は眠りへ入りかけた時、葵の声を聞いた。
「真尋。起きてる?」
「はい」
「一つだけ。私たち、今日から変わる?」
真尋は考える。
「明日から、連絡回数が増えるわけではありません。急に何でも話すわけでも。でも、大きな選択を一人で決める前に、思い出します。離れたくなった時、終わりだと思わず話します。それが変化です」
「うん」
「葵は?」
「私は、真尋の一番になろうとする回数が減ると思う」
「なくなりませんか」
「たぶん、なくならない。でも、勝たなくても場所があるって思い出す。それが変わること」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
*
翌朝、真尋は鳥の声で目を覚ました。午前六時前。葵はまだ眠っている。布団の間の距離は、昨夜と同じ。
真尋は起き上がり、窓のカーテンを少し開けた。山の向こうから朝の光が差している。町が静かに明るくなる。
葵が寝返りを打つ。
「朝?」
「はい」
「何時?」
「六時前」
「早い」
「もう少し眠りますか」
「真尋は?」
「外を見ます」
「一人で行く?」
「宿の庭だけ」
葵が目を開ける。
「私も」
「眠いでしょう」
「置いていかれる気がした」
葵は言った後、自分で笑う。
「今の、前の私みたい。行ってきていいよ」
「はい」
「七時に朝食で会う」
「はい」
「戻る時間、決めた」
「はい」
真尋は部屋を出た。
*
宿の庭へ降りる。朝の空気。濡れた石。小さな花。木々の間から光が落ちる。
一人。だが、置いてきた感覚はない。七時に戻る。葵もそれを知っている。
真尋は庭の端にある椅子へ座った。昨日の言葉を思い返す。
自分たちは、変わったのか。すぐにわかる変化ではない。
今日、海へ行く。写真を撮る。食事をする。東京へ戻る。真尋は俊介へ旅の話をする。葵は仕事へ戻る。生活は続く。
その中で、少しずつ現れるのだろう。決める前に話せた時。離れたいと伝えられた時。一番でなくても、不安へ飲み込まれなかった時。
約束は、今日を特別にするためだけではない。何でもない日へ持ち帰るもの。
*
午前七時前、真尋が部屋へ戻ると、葵はすでに着替えていた。
「お帰り」
「ただいま」
自然に言葉が交わされる。
「一人で大丈夫だった?」
「はい」
「私も」
「何をしていました?」
「ノートを読んだ。変えたいところ、一つある」
真尋は緊張する。
「何ですか」
「離れる時、二週間以内って。二週間より長く必要な時もある。一か月でもいい。でも、二週間ごとに連絡する」
「なるほど」
「まだ戻れない。でも終わらせたいわけじゃないって。それなら、待つ側も期限が見える」
「はい」
「変えていい?」
「もちろんです」
真尋はノートを開き、修正した。
『原則として二週間以内に連絡する。まだ距離が必要な場合も、二週間ごとに意思を伝える』
「これで」
「うん」
「一晩で変わりましたね」
「約束は、変えていいんでしょう」
「はい」
二人は声を立てて笑った。
*
朝食後、宿を出る。海へ向かう列車。昨日より雲が少ない。
葵は真尋の隣で、昨日のノートの写真を見ている。
「何度も見ますね」
「嬉しいから。俊介さんへ話す時、どこまで言う?」
「全部」
「私が一番になろうとする話も?」
「それは、葵自身の気持ちなので、必要な範囲で」
「うん」
「約束の三つは話します。名前のない場所も」
「嫌だと言われるかな」
「可能性はあります」
「関係をやめてと言われたら?」
「すぐには答えません。俊介が何を怖がっているか聞きます。葵にも話します。二人だけで決めたから絶対に変えない、とはしません。でも、俊介の不安をなくすためだけに、葵との関係を小さくもしません」
葵は頷いた。
「ありがとう」
*
海へ着いた。駅から歩く。風が強い。波の音。潮の匂い。
前回とは別の海岸。同じ秋田でも、知らない場所。
二人は言葉を少なくし、海へ向かった。砂浜。遠くまで続く水面。白い波。
葵は立ち止まる。
「大きい」
「はい」
「当たり前だけど。私たちの話、昨日は世界で一番大きいことみたいだった。今見ると、小さい。でも、大事」
「はい」
海の大きさに比べれば、二人の関係は小さい。
それでも、二人の人生の中では大切。大切だからと、世界のすべてにする必要はない。
二人は海沿いを歩いた。三十分後、それぞれ一人になる約束。戻る場所は、砂浜の端にある青いベンチ。
「十一時二十分」
真尋が時計を見る。
「はい」
「十二時に、ベンチ」
「四十分?」
「はい」
「昨日より長い」
「海なので」
「迷子にならないで」
「葵も」
二人は別の方向へ歩いた。真尋は右。葵は左。振り返らない。
*
真尋は一人で波打ち際へ近づいた。靴が濡れない距離。
波が寄せ、引く。一定ではない。同じ場所へ戻るように見えて、少しずつ形が違う。
真尋は、自分と葵の関係を海へ重ねるような言葉を考えかけ、やめた。今日は、ただ海を見る。
俊介のことを思う。大阪の仕事。母。葵。すべてが同時に浮かぶ。
どれか一つへ集中しなければならない時間もある。だが人生全体では、複数の大切なものを持っていていい。
真尋はスマートフォンを取り出し、海の写真を一枚撮った。俊介へは、帰ってから。今は送らない。
*
四十分後。青いベンチへ戻る。葵はまだいない。真尋は座って待つ。
時計を見る。十二時一分。十二時三分。
以前なら、不安になった葵から何度も連絡が来ただろう。今は来ない。
十二時五分。少し心配になる。真尋は一度だけメッセージを送る。
『ベンチへ戻りました。大丈夫ですか』
すぐに既読。
『ごめん。写真撮ってた。五分で戻る』
『はい』
十二時九分。葵が小走りで戻ってくる。
「ごめん」
「はい」
「時間見てなかった。怒ってる?」
「少し心配しました」
「連絡ありがとう。待たせた」
「はい」
「次は、時間の五分前に通知を入れる」
「はい」
大きな約束を決めた翌日にも、小さな失敗はある。
謝る。方法を変える。関係全体の問題にしない。
*
二人はベンチへ並んで座った。
「一人で何を考えた?」
葵が尋ねる。
「海を見ました」
「それだけ?」
「俊介と仕事と葵も」
「全部」
「はい」
「私は、直哉のこと考えた。一緒に海へ行ったこと。戻りたいとは思わなかった。でも、楽しかった。昨日の話と同じ。過去を大切にしても、戻る必要はない」
「はい」
葵は海を見る。
「直哉も、私の帰る場所だったのかな」
「当時は」
「うん。今は?」
葵は考える。
「戻らない場所。でも、なくしたい場所ではない。思い出の中にある。名前のない場所とは違う」
「はい」
「真尋は、今も生きて変わる人。直哉との時間は、過去の形で残る。それでいい」
「はい」
*
葵が紙袋を取り出した。昨日、売店で買ったもの。
「内緒って言ってたもの」
「はい」
中には、小さな木製の札が二つ入っていた。同じ形。表面には何も書かれていない。
「何ですか」
「本当は、名前を書いてもらう札。旅館の売店で、鞄につけるものとして売ってた。何も書かないで買った」
「なぜ二つ?」
「一つずつ」
葵は真尋へ一枚渡す。
「名前のない場所だから、何も書かない」
「なくしませんか」
「裏に小さく日付だけ書く」
「今日の日付?」
「昨日。話した日」
「うん」
葵はペンを取り出し、裏側へ日付を書く。真尋も。
名前はない。言葉もない。ただ、同じ日付。
「お守りではありません」
真尋が言う。
「わかってる」
「関係を保証しません」
「はい」
「持っていなくても」
「関係はある」
「はい」
「でも、持ちたい」
「私もです」
真尋は札を旅行用バッグの内ポケットへ入れた。
*
二人は通りかかった旅行者へ頼み、海を背に写真を撮ってもらった。
肩を密着させず、少しだけ間を空けて立つ。それでも二人とも笑っている。
葵は写真を確認する。
「俊介さんへ送る?」
「帰ってから」
「うん。美月には?」
「送る」
「はい」
葵は美月へ写真を送る。
『決まりました』
美月からすぐに返信。
『二人とも、いい顔』
それだけ。関係の説明を求めない。
*
帰りの列車で、葵は眠った。窓へ頭を寄せ、規則的な呼吸をしている。
真尋は隣で紀行本を開く。文字を追いながら、時々葵を見る。
眠っているからと、守らなければならないとは思わない。ただ、降りる駅が近づけば起こす。それでいい。
真尋は自分のバッグの内側へ触れた。木の札。何も書かれていない。
名前がないことを、不足ではなく選択として持つ。
*
秋田駅へ戻り、夕方の新幹線へ乗った。帰りの座席も、行きと同じ並び。
発車してしばらくすると、葵が言った。
「東京へ戻ったら、変わるかな」
「何が?」
「私たち」
「何も変わらない部分もあります。連絡頻度。会う回数。でも、次に大きなことがあった時、話します。離れたくなった時も」
「うん」
「名前がないから不安になる時は?」
「今日の言葉を思い出します」
「木の札は?」
「見てもよいです。でも、証拠にしない」
「はい」
真尋は会社用のスマートフォンを取り出さなかった。山岸から緊急連絡はない。葵も仕事の数字を見ない。
旅の終わりまで、旅を続ける。
盛岡を過ぎた頃、二人は駅弁を開いた。
「今夜、俊介さんへ話す?」
葵が尋ねる。
「東京へ着いて、部屋へ戻ってから」
「疲れてない?」
「短く伝えます」
「全部は?」
「明日以降。俊介も、展示会の話があります」
「北川さん」
「はい」
「嫉妬する?」
「少し」
「私との旅へ嫉妬した俊介さんと同じ」
「はい」
「変な三人」
「はい」
二人は笑った。
*
東京駅へ着いたのは、夜だった。
ホームへ降りる。秋田の冷たい空気から、東京の人混みへ戻る。
葵は少し立ち止まる。
「終わった」
「はい」
「寂しい。でも、帰る」
「はい」
改札を出た後、二人は同じ方向の電車へ乗る。途中で別れる。
以前なら、葵が真尋の部屋へ泊まりたいと言ったかもしれない。今日は言わなかった。
「今夜、一人で大丈夫ですか」
真尋が尋ねる。
「はい」
「本当に?」
「少し寂しいけど、自分の部屋へ帰りたい。商品もある。明日は休み。手紙の返事も、もう出した。一人で眠る」
葵は言った。
「真尋は?」
「東京の部屋へ」
「俊介さんに会わない?」
「今日は。月曜日は一人で休みます。電話はします」
「はい」
*
別れる駅。二人はホームへ降りた。次の電車を待つ人たちの中で向かい合う。
「真尋。ありがとう」
「こちらこそ」
「名前のない場所」
「はい」
「忘れないで」
「忘れません」
「でも、忘れる日があっても」
葵は考え直す。
「思い出せばいい」
「はい」
「次に会う日、決める?」
「今日は決めません」
「不安」
「水曜日に予定を確認しましょう」
「俊介さんと同じ」
「はい」
「わかった」
葵は頷く。
「水曜日。会う日が決まらなくても、次に確認する日を」
「はい」
電車が入ってくる。葵の乗る方向。
「行ってらっしゃい」
真尋が言う。
「ただいま帰るのに?」
「自分の生活へ」
葵は笑った。
「行ってきます」
電車へ乗る。扉の前に立ち、手を振る。真尋も。
扉が閉まる。電車が動く。葵の姿が遠ざかる。
真尋は一人で、次の電車を待った。
*
東京の部屋へ戻る。
「ただいま」
玄関。静かなリビング。大阪の部屋とは違う匂い。洗面所には、葵と俊介の歯ブラシ。壁には二つの影の写真。
真尋は旅行用バッグから木の札を取り出した。
どこへ置くか迷う。写真の横。引き出し。持ち歩く。
真尋は財布の中へ入れず、机の小さな箱へしまった。
日常的に見せるものではない。必要な時に取り出せる場所。
*
午後十時過ぎ。俊介へ電話をかける。
『お帰りなさい』
「ただいま」
『疲れていますか』
「少し」
『楽しかった?』
「はい」
『葵さんとの話は?』
「できました」
『聞いてもいいですか』
「短くなら」
『はい』
真尋は話した。
自分たちは、名前のない場所へ帰れる人だと決めたこと。大きな選択をする前に話すこと。離れたい時には、終わりか休息かを伝え、次の連絡日を決めること。
互いがいなくても生きる。いない人生を、自分からは選ばない。
俊介は、途中で言葉を挟まず聞いた。
『名前のない場所』
俊介が繰り返す。
「はい」
『恋人や家族ではなく、でも、帰る場所』
「はい」
俊介は黙る。
『正直に言ってもいいですか』
「はい」
『怖いです』
「はい」
『僕と別れても、葵さんは残るように聞こえます』
「可能性はあります」
『僕との関係より、失いにくい』
「形が違うので」
『少し、嫉妬します』
「はい」
『でも』
俊介は息を吐く。
『真尋が、大切な人と大切な話をできたことは嬉しいです』
「ありがとうございます」
『僕のことも話しました?』
「はい」
『どのように?』
「俊介との関係には、葵とは違う責任と優先があると。一緒に暮らす場所。将来。恋人としての時間」
『はい』
「葵も理解しました」
『本当に?』
「勝たなくても場所があると」
俊介が笑う。
『葵さんらしいです』
「はい」
*
「俊介の展示会は?」
『楽しかったです』
「北川さんも?」
『はい』
「はい」
『嫉妬しています?』
「少し」
『写真を送ります』
「今?」
『明日でも』
「今、見たいです」
俊介から写真が届く。
四人。男性二人。北川。俊介。展示物の前で笑っている。
真尋は少し胸がざわつく。だが、隠されていない。
「楽しそうです」
『はい』
「北川さん、きれいですね」
『はい』
「そこは否定しないんですね」
『嘘をつく必要はないので』
「はい」
「私たちの海の写真も送ります」
葵と並んだ写真を送る。
『二人とも、良い顔です』
「はい」
『少し寂しいです』
「私も、展示会の写真を見て」
『はい』
「互いに、自分の時間を過ごしました」
『はい』
*
『真尋。僕たちも、何を大切にするか話したいです』
「はい」
『秋田で葵さんと決めたように。同じ内容ではなく、恋人として、続ける時の約束』
「はい。いつ話しますか」
『次に会う時』
「水曜日に予定を確認します」
『はい』
「今夜は?」
『休んでください』
「はい」
『好きです』
「私も好きです」
『おやすみなさい』
「おやすみなさい」
*
電話を切った後、真尋は窓を開けた。東京の夜。車の音。明るい街。秋田の静けさとは違う。
明日は一人で過ごす。火曜日には大阪へ戻る。水曜日には葵と次に会う日を確認し、俊介とも予定を決める。仕事では、山岸が代理で行った判断を受け取る。
名前のない場所を見つけても、生活は複雑なまま。むしろ、大切なものを言葉にしたことで、それぞれの境界をさらに丁寧に扱う必要がある。
真尋は生活ノートを開いた。東京の部屋へ置いている別のノート。新しいページへ書く。
『秋田で、葵と名前のない場所を見つけた』
その下へ。
『必要とされなくても続く』
『いなくても生きる』
『いない人生を、自分から選ばない』
『戻った時、前と同じであることを求めない』
書き終え、ペンを置く。
永遠の約束ではない。関係を守る呪文でもない。迷った時に戻るための言葉。
*
真尋は寝室へ向かった。ベッドには枕が一つ。
秋田では、隣に葵の布団があった。昨夜の呼吸。朝の庭。海。木の札。
今夜は一人。そのことを寂しいと感じる。同時に、安心もする。
自分の部屋。自分の時間。誰かと深く話した後に、一人へ戻れる。それが今の真尋には必要だった。
照明を消す前、真尋は机の箱をもう一度開けた。
何も書かれていない木の札。裏側の日付。手に取る。短い時間、指で形を確かめる。それから箱へ戻した。
見える場所に置かなくてもいい。持ち続けていることを、毎日確認しなくてもいい。忘れた日にも、関係はなくならない。必要な時に開ける。
箱を閉じる。
*
真尋はベッドへ横になった。目を閉じる。
秋田駅のホーム。葵の「ただいま」。二つの影。向かい合って話した和室。海。別々に歩き、青いベンチへ戻ったこと。
すべてが、静かに浮かぶ。
真尋は考える。
帰る場所は、一つではない。同じ人でも、いつでも同じ場所で待っているわけではない。扉が閉じる日もある。戻れない日も。
それでも、終わりだと決める前に言葉を渡す。互いの生活を止めず。必要とされることで、関係を確かめず。相手が変わることを受け入れる。
それが、二人の選んだ場所だった。
名前はない。誰かへ簡単に説明することもできない。
それでも真尋には、はっきりわかっていた。
葵は、人生の途中で出会った、大切な人だった。恋人ではない。家族でもない。友人という言葉だけでは足りない。
互いが一人で立てるからこそ、戻ることを選べる人。
真尋は、暗い部屋の中で小さく息を吐いた。
明日からも、二人は別々の生活をする。
葵は東京で仕事をする。商品を育てる。新しい人へ会う。いつか、別の誰かを好きになるかもしれない。
真尋は大阪へ戻る。仕事をする。俊介との未来を考える。山岸へ役割を渡す。東京と大阪の間で、暮らし方を選ぶ。
その道は、同じではない。それでいい。
同じ道を歩くことではなく。離れた場所からでも、戻る道を失わないこと。
真尋は目を閉じたまま、心の中で言った。
また、帰ります。
返事は聞こえなかった。
それでも、名前のない場所は、静かにそこにあった。




