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鬼を倒した三匹のその後〜犬は花を咲かせ、猿は討たれ、雉は鳴きました〜  作者: 本咲 サクラ


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2/5

一粒目 犬と、ここ掘れの先で

 犬には、帰る場所があった。


 桃太郎に拾われる前、犬は山裾の小さな家で優しい老夫婦と暮らしていた。

 畑を耕すじいさんの傍らで眠り、撫でられて尾を振り、与えられた飯を残さず食べる。それだけの暮らしだったが、犬にとってはそれで足りていた。

 老夫婦には子供がなく、犬を本当の子供のように可愛がってくれた。

 冬の寒い晩には自分の布団の足元で寝かせ、夏の暑い盛りには裏山の冷たい清水を汲んできて飲ませてくれた。

 その手の優しさを、犬は身体の隅々で覚えていた。


 桃太郎の旅に同行することになったのは、村に立ち寄った桃太郎が村の代表でもあったじいさんに挨拶をしに来た日のことだった。

 鬼退治に向かうという話を聞いたじいさんは、しばらく考えてから犬の頭を撫で、「行ってこい」と短く言った。

 犬は尾を振り、桃太郎の後を追った。

 命じられたから行ったのではなく、じいさんが望むのなら鬼ヶ島であろうとどこへでも行く気でいた。

 犬にとって老夫婦の願いは、自分の願いと寸分違わなかった。


 鬼ヶ島で犬は、想像していた以上に多くのものを噛み、噛み返された。

 鬼の腕に牙を立てたとき、口の中に広がった生臭い熱を、犬は今でも舌の奥で覚えている。

 傷を負っても怯まなかったのは、痛みに強かったからではない。

 早く鬼退治を済ませて、老夫婦のもとへ帰りたかったからだ。

 桃太郎は「よくやった」と頭を撫でてくれたが、その手の感触は、どうしても老夫婦の手とは違って感じられた。


 凱旋の祝いが終わった夜、犬は迷わず山裾の家へ駆け戻った。


 戸口で吠えると、ばあさんは驚いた顔で出てきて、それから皺だらけの手で犬を抱き上げ、しばらくの間その背中を撫で続けた。

 じいさんの「無事に帰ってきたか」という声が、犬の耳の奥でしみるように響いた。

 久しぶりに感じる掌の感触が、鬼ヶ島で受けたどの傷よりも深く犬の内側に染みた。

 自分が今、何のために戻ってきたのか、犬は言葉では理解していなかったが、ただ老夫婦の傍にいる以外の生き方が、自分にはないと感じていた。


 季節がいくつか巡ったある日、犬は畑の隅で立ち止まった。


 地面の下から、何かが匂った。腐葉土とも、湿った石とも違う、もっと古い、人の手が触れた金属の匂い。

 犬は鼻先を地面に押し付け、ひと声、はっきりと吠えた。

 ここを掘れ、と告げる吠え方で。

 鬼ヶ島で敵の所在を知らせるために覚えた声の使い方を、犬は今、自分の判断でじいさんに向けて使っていた。

 畑の向こうにいたじいさんは、犬の吠え方の変化に気づいて鋤を肩に駆け寄ってきた。


 「どうしたんだ」という問いに、犬はもう一度地面を掘ってみせ、振り返って吠えた。ここだ、と伝えた。

 じいさんは半信半疑のまま鋤を入れた。しばらく掘り進めたところで、土の中から錆の浮いた小判が一枚、二枚と現れた。

 じいさんは腰を抜かしそうになり、それから涙を流して犬を抱きしめた。


 犬は嬉しかった。

 鬼ヶ島で鬼の腕に噛みついたときよりも、桃太郎に頭を撫でられたときよりも、はるかに深いところが満たされる感覚だった。これがしたかったのだ、と犬は理解した。

 鬼退治の旅で身につけた力を、自分はずっと、この人のために使いたかったのだ。自分を育ててくれた老夫婦に、何か返したかった。その願いだけが、犬を山裾の家へ駆け戻らせ、畑の隅で吠えさせた。


 その夜、ばあさんは普段より多めの飯を犬の前に置いた。

 犬はそれを残さず食べ、じいさんの膝に頭を乗せて眠った。

 鬼ヶ島の遠さも、桃太郎の屋敷の華やかさも、もうどこか別の世界の出来事のように感じられた。


 しかし、噂が広がるのは早かった。


 隣に住む欲張りじいさんは、垣根の向こうから正直じいさんの様子を窺っていた。

 隣家から漏れてくる笑い声と、土間に積まれていく小判の重さに対する想像だけで、欲張りじいさんの腹の底は十分に煮え立っていた。


 ある朝、老夫婦が薪を取りに山へ入った隙を見計らって、欲張りじいさんは犬を強引に連れ出した。

 首縄が喉に食い込み、引きずられるようにして畑へ運ばれた。

 犬は抗った。地面に爪を立て、首を振り、低く唸って首縄を振りほどこうとした。

 鬼ヶ島で鬼に噛みついた犬は、本気で抗えば年寄り一人くらい振り切れる力を持っていた。

 しかし、振り切ったところでどうなるかも、犬には分かっていた。

 逃げ帰っても、欲張りじいさんはまた連れに来る。そしたら、じいさん達に迷惑がかかる。

 それなら、ひとまず畑まで行って、何も出ないことを示せばよい——犬は、そう冷静に判断した。


 欲張りじいさんの畑は、隣の畑と地続きでありながら、土の質がまるで違った。

 痩せた赤土の下に、犬の鼻はどんな匂いも感じ取れなかった。

 促されるまま地面に鼻を寄せ、適当な場所で吠えてみせたが、出てきたのは石ころと錆びた農具の欠片ばかりだった。

 欲張りじいさんの顔は、時を追うごとに歪んでいった。最初は期待で、次に苛立ちで、最後には憎しみで。


 犬は、もう吠えなかった。

 吠いて知らせる相手を間違えれば、こういうことになるのだと、犬は今になって理解していた。

 老夫婦の畑で吠えたあの声は、二人を喜ばせるための声だった。

 欲張りじいさんの畑で同じ声を出しても、出るものは出ないし、欲張りじいさんは満たされない。

 声というものは、相手と場所が揃って初めて意味を持つ——鬼ヶ島で斥候の雉が果たしていた役割の、本当の意味を、犬はこの瞬間に初めて知った気がした。


 欲張りじいさんが鍬を振り上げたとき、犬は逃げなかった。

 逃げれば、欲張りじいさんは怒りの矛先を老夫婦に向けるだろう。それは犬にとって、自分が死ぬよりも避けたいことだった。

 鬼ヶ島で二人のために戦った犬は、最期の場面でも、結局は同じ相手のために身体を使うことを選んだ。

 鍬が振り下ろされる寸前、犬はもう一度だけ、家のある方角を見た。

 じいさん達が薪を背負って戻ってくる頃合いだ、と犬は感じていた。間に合わなくてよかった、とも思った。


 日が暮れる頃、薪を背負って戻ってきたばあさんは、隣の畑の盛り土の前で長いこと動かなかった。

 じいさんは何も言わずに膝をつき、土を素手で撫で、それから家へ戻って小さな鋤を持ってきた。

 その夜のうちに、家の裏に小さな塚が築かれた。

 灰を撒き、線香の代わりに犬が好きだった干し魚を一切れ供え、夫婦二人でそのまま朝まで塚の前に座り続けた。


 後の話になるが、その塚に植えた木がやがて大きく育ち、夢の中に現れた犬の声に従って臼を作ったところ、臼から金銀があふれ出たという。

 欲張りじいさんに奪われ焼かれた灰を撒けば枯れ木に花が咲き、殿様に褒められて老夫婦の暮らしは豊かになった。

 物語としては、それで「めでたしめでたし」となる。


 しかし、犬自身はそれを見届けていない。


 犬の最後の願いは、優しい老夫婦の傍にいることだった。

 木になっても、臼になっても、灰になっても、犬は二人の傍を離れなかった。それが犬にとっての「めでたし」だったのかどうかは、もう誰にも確かめようがない。

 鬼退治の旅で覚えた力を、最後まで老夫婦のために使い切った——その事実だけが、犬が自分の生に与えた、たったひとつの意味だった。

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