第9話 祈りの宛先
十九句目は、出てこなかった。
二十句目も、結びの祝別も、たぶんもう、出てこない。祈祷文は、頭の中の棚から、一句も下りてこなかった。千の目に見られて、わたしの暗記は、きれいさっぱり、店じまいをしていた。
祭壇の下で、聖女様がひざをついている。床の石は、冷たいのだ。わたしは知っている。毎朝磨いているから。
そう思ったら、体が勝手に動いた。
わたしは、自分の手で、ヴェールを上げた。
大聖堂が、もう一度どよめいた。前の方の席で、殿下が立ち上がるのが見えた。ヴェールのない顔を見られている。もう、聖女のふりは、どこにもない。ただの洗濯係のミーナが、七段の上に立っている。それでよかった。いまから言うことは、洗濯係のミーナが言わないと、嘘になるのだ。
「あの……申し上げます」
声は、思ったよりも、震えなかった。
「わたしは、騙されていません。聖女様のお名前を守るために、自分で、やりますと言いました。百回でも祈りますと、自分の口で言いました。ですから、罪でしたら、わたしの罪です」
「ミーナ」聖女様が、下から小さく、鋭く言った。「やめなさい」
「やめません」
聖女様に口答えをしたのは、これが初めてだった。
「それから、あの、恐れながら、もうひとつ。……聖女様の祈りが通らなかったというのは、嘘です」
聖女様の目が、見開かれた。
「わたし、五年前の広場におりました。奉公に上がってすぐで、こわくて、末席で震えながら祈っていました。あの晩、祭壇の聖女様が、列を作ってくださいました。病人はこちら、水はあちら、看病する人は口を布で覆って。みんな、聖女様の声で落ち着いて、指図のとおりに動いて、朝まで持ちこたえて、峠を越えました」
言葉は、出てきた。祈祷文の棚は空っぽなのに、この言葉は、いくらでも出てきた。覚えた言葉ではないからだ。ずっと、胸にしまってあった言葉だからだ。
「種が芽を出すことだけが、祈りが通るということなら、聖女様の祈りは、通らなかったのかもしれません。でも、祈りというのは、みんなが助かるようにと願って、そのとおりにみんなが助かることなら――聖女様の祈りは、あの晩、通っていました。五年間、ずっと通っていました。わたしは、その祈りに憧れて、祈祷文を覚えたのです」
大聖堂は、静かだった。千の目が、まだわたしを見ていた。でも、もうこわくなかった。
わたしは祭壇に向き直った。十九句目の続きは、もう探さなかった。かわりに、手を組んで、目をつぶって、生まれて初めて、自分の言葉で祈った。
「天の、どなたさまか、存じ上げませんが」
後ろでロッテさんが変な声を出した気がしたけれど、続けた。
「いつも、お祈りの言葉ばかりで、自分の言葉でお話しするのは、初めてです。お願いがございます。わたしのことは、どうでもいいのです。ただ、あの、五年間、畳む場所もないまま働いてきた方が、ここにおります。あの方の祈りは、五年間、ぜんぶ、ほんとうでした。どうか――」
胸のまんなかが、熱くなった。
「どうか、聖女様に、お応えください。五年ぶんを、まとめてぜんぶ、いまここで、お応えください」
音は、しなかった。
ただ、どこかの梁から、白い鳩が三羽、降りてきた。
三羽は祭壇をひとまわりして、一羽が右肩に、一羽が左肩に、最後の一羽が組んだ手にとまった。
「……徴だ」
誰かが言った。「聖典のとおりだ。降りて、とまった――こんどは、とまったぞ」と、別の誰かが言った。その声が波になって、大聖堂じゅうの人が、いっせいにひざまずいた。
すると、三羽のうち二羽が、もう一度羽ばたいた。床にひざをついたままの聖女様のところまで降りて、右と左の肩に、一羽ずつとまった。
「……お応えだ」
後ろで、ロッテさんの声がした。
大聖堂じゅうの飾りが、いっせいに、芽吹いた。
祭壇に供えられた実りの束から、柱に結ばれた飾りの枝から、王家の席の花綱から、緑いろの芽が、ぷつぷつと、ほどけるように顔を出して、そのまま、白い花になった。見えない春が、こんどは末席まで、大聖堂をまるごと、通り抜けていった。
聖女様だけが、鳩を両肩に乗せたまま、ぽかんと口を開けて、わたしを見上げていた。五年間で、いちばん、素の顔だった。
わたしは七段を下りて、聖女様の前に立った。何か言おうとしたけれど、祈りで言葉を使い切っていて、何も出てこなかった。だから、手を差し出した。祭壇の下の床は、冷たいのだ。毎朝磨いているから、知っている。
聖女様は、わたしの手と、ご自分の両肩の鳩を順番に見て、それから、くしゃりと笑った。
「……立てないわ。腰が抜けたの」
「はい。おぶります」
「聖女におぶわれてどうするのよ」
聖女様はそう言って、わたしの手を取って、立った。千の目が見ている前で、わたしたちは、手をつないだままでいた。
「――祈りは、証を立てた」
陛下の静かな声が、大聖堂に落ちた。
「沙汰は、祭礼の後である。両名とも、面を上げよ」
* * *
それからのことは、半分くらいしか覚えていない。
陛下が何かを宣されて、神殿長様が運ばれていって、聖歌隊が結びの聖歌を歌った。わたしはたぶん、作法どおりに退堂した。足だけは、最後まで裏切らなかった。
控えの間に入る手前で、呼び止められた。
「――ミーナ」
殿下だった。お付きも連れず、廊下にひとりで立っていた。
わたしは、深くおじぎをした。頭の中で、言うべきことの列が、できていた。
「殿下。あの、わたしです。お手紙を書いていたのは、ぜんぶ、わたしです。干し場でシーツの通行止めをしたのも、畳み方に駄目を出したのも、面会でお茶を三口で戻したのも、ぜんぶ、わたしでした。……騙して、ごめんなさい」
「君ではないかと、疑っていた」
「えっ」
「最初の面会で、半分。声と、お洗濯の答えと、それから、あの手で」
わたしは、思わず自分の右手を見た。あかぎれは、嘘をつかないらしい。
「文の匂いで、ほとんど」
「で、では、どうして、何も」
「確かめれば、罰を受けるのは、君たちの側になる。確信もないまま騒げば、神託ごと国が揺れる。だから、文で確かめ続けた。……一度だけ、続かなかったが。あの療養の返事には、日なたの匂いがなかった。次の問いを書くのに、二か月かかった。……卑怯な方法だったと、思っている」
「……」
「そのかわり、決めてもいた。いずれ何が明るみに出ても、誰も火にはくべさせない。セラフィナ様の五年の働きを調べるよう、陛下に願い出たのは、私だ。名目は、縁組に先立つ、お相手の来歴の通例の調べとした。あの方が五年間、実際に何をしてきたかが分かれば、収め方は、必ずある」
殿下は、一歩、近づいた。
「布の匂いの正体を、大祭の日に伺いたいと、書いた。……いま、伺っても?」
わたしは、目を伏せた。三つ数えた。聖女構文は、出てこなかった。もう、出てこなくていいのだった。
「……わたしです。お手紙は、洗濯のあいまに書いていたので。それで、その、日なたの匂いが、うつったのだと思います」
「そうか」殿下は、うなずいた。それから、あの面会の日のように、手を差し出された。
わたしは、おそるおそる、右手を出した。あかぎれの手を、殿下は今度は、止まらずに取った。
「私が二か月恋しかったのは、日なたの匂いで、文の主で、雨の日の洗濯係で――つまり、君だ」
頭の中の列が、ぜんぶ、飛んだ。手は、返してもらえなかった。
「わ……わたしは、下働きで」
「聖女だと、さっき国じゅうが見た」
「でも、その、神託は、聖女様と――」
「神託は」殿下は、少しだけ、あの軒下の顔で笑った。「最初から、一度も、間違っていなかったらしい」
わたしは、口を開けて、閉じて、それから、いちばんほんとうのことを言った。
「わたし、殿下のお手紙が来なかったあいだ、シーツの数を、二回も数え間違えました」
殿下は、一瞬きょとんとして、それから、廊下に響く声で笑った。
「……それは、重症だ」
「重症でした」
「では、二度と途絶えさせないと、約束しよう」
「……はい。わたしも、今度は、わたしの名前で、お返事を書きたいです」
「待っている。洗濯のあいまで、かまわない」
* * *
三月がたった。
聖女様は、いまは筆頭補佐として、最終的に罪を問われなかった。祭礼のあと、殿下のお願い出で、五年前の広場から今までの働きが調べられて、助けられた人たちから、あの方を罰しないでほしいという嘆願が集まったのだ。陛下は「五年、空位の座を守り、まことの聖女を見出し、育てた功」と宣された。偽者の五年は、聖女を育てた五年として、国の記録に残ることになった。ご本人は「陛下も殿下も、何もかも丸く収めるのがお上手」と言っていた。神殿長様は、徴の読み違えの責任で、いまは書庫の整理をなさっている。
わたしは、聖女になった。認定の儀は、こんどは三日で済んだそうだ。徴を千の目が見ていたので、揉めようがなかったらしい。
なったけれど、あんまり変わらない。人前でお話しするときは、いまでも目を伏せて三つ数えるし、困った質問には「天は、すべてをご覧です」と言う。隣で聖女様が、残りの九割を段取りしてくださる。ふたりで、やっと一人前の聖女なのだ。それでいいと、陛下も、殿下も、仰った。
行李は、大祭の二日あとに、そっと開けて戻した。乗合馬車は、わたしを乗せないまま、市の日に出ていったはずだ。
神託の縁組は、聖女がわたしになったので、そっくりそのまま、わたしと殿下のお話になった。日取りは、星読みの塔が読んでいる。正直に言うと、まだぜんぜん、実感がない。実感はないのに、お手紙は、いまも七日にいっぺん来る。宛名は「聖女ミーナ様」で、ときどき「洗濯係どの」で、この前は「ミーナ」だけだった。ぜんぶ、取ってある。
その手紙が「ミーナ」だけだった日の夕方、差出人ご本人が干し場にいらした。
「お返事は、七日後だろうか」
「はい。七日にいっぺんのお約束ですので」
「では、今日は手伝おう」
殿下は、いちばん大きなシーツの向こう端を持った。
「角と角、だったな」
今度は、一度で合った。
「お上手になりました」
「先生がよかったからだろう」
畳みながら、殿下は、東の穀倉のお話をなさる。水路が済んだら、次はそれなのだそうだ。わたしはお返事に、糊の効かせ方のお話をする。それでちゃんと会話になっているのだから、ふしぎだ。荷物は、分けて運べば、重くないのだ。
風がシーツをふくらませて、ほんの一瞬、白い布がわたしたちを周りから隠した。殿下が向こう側で笑う気配がした。わたしも笑った。
その日のシーツをぜんぶ畳み終えるまで、殿下はお帰りにならなかった。
祭服は、いまでも、わたしが洗う。
聖女が自分の祭服を洗うのはどうなのか、と誰かが言ったらしいけれど、聖女様が「聖女様のなさることに、口を出さないの」と黙らせてくださった。それから別の日の夕方、干し場でシーツを絞っていたら、通りかかった聖女様が言った。
「……ほんとうに、様になってきたわね、聖女様」
「ぜんぶ、聖女様のおかげです」
「当然でしょ。わたしが育てたんだもの」
聖女様は、ふふんと笑って、行ってしまった。両肩に、いつのまにか、白い鳩が二羽とまっていたのは、教えて差し上げなかった。あの三羽は、あれから、だいたいいつも、わたしたちのまわりにいる。
わたしは、シーツを広げて、日なたに干した。
真っ白なシーツが、風をふくんで、ふわりとふくらむ。憧れていた席は、最初から、わたしのものだったらしい。でも、この席は、聖女様とロッテさんと、それから殿下がいてくださらないと、たぶん半分も回らない。
ばちは、とうとう、当たらなかった。
今日も、洗濯日和だ。
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