第8話 大祭の告白
大祭の朝は、よく晴れた。
王都までの馬車には、ロッテさんと、もうひとり、頭巾を深くかぶった側仕えが乗った。裾さばきに見覚えがあった。というより、あの裾さばきを、わたしはおけいこで百回も見ている。
「……聖女様」
「しっ。今日のわたしは、側仕えのフィナよ」
「どうして」
「あなたの晴れ舞台だもの。……最後の、なんでしょう」
見送りに来てくださったのだ。わたしは胸がいっぱいになって、それから、いっぱいになった胸のすみっこが、ちくりとした。最後、という言葉は、口に出されると、思ったより重かった。
大聖堂の前は、人で海になっていた。旗と、香の煙と、聖歌。王家の馬車が着くたび、海がどよめいて割れた。わたしは控えの間でヴェールを直して、いつものように、口の中で確かめた。五十六歩。七段。星の九句。実りの二十句。
「ミーナ」
出がけに、頭巾の聖女様が、小さな声で言った。
「あなたは今日、何があっても、祈ることだけ考えなさい。何が起きても、よ。あとのことは、ぜんぶ、フィナに任せなさい」
「フィナさんに」
「そう。客あしらいと段取りなら、フィナは誰にも負けないの」
聖女様は、頭巾の下で、にっと笑った。おけいこのときの、あの顔だった。
* * *
五十六歩は、いつもより長かった。
両脇の席に、色とりどりの礼服が並んでいた。前の方の一段高いところに、王家の方々。国王陛下。王妃陛下。それから――見ないと決めていたのに、目が勝手に見つけた。殿下は、まっすぐに、こちらを見ていた。ヴェール越しでも分かるくらい、まっすぐに。
わたしは目を伏せて、七段を上がった。
星の九句は、うまくいった。声はよく通って、大聖堂の高い天井が、聖歌みたいに返してくれた。九句目の終わりで香を替えて、実りの二十句に入る。あとは二十句と、結びの祝別だけ。それで、おしまい。それでぜんぶ、おしまい。
十四句目に入ったときだった。
「――申し上げます」
凛とした声が、大聖堂に響いた。
祈祷の途中で声を出す者など、いるはずがない。わたしの口は十五句目を唱えながら、目だけが声のほうを探した。側仕えの列から、頭巾の女の人がひとり、進み出ていた。中央の通路を、祭壇に向かって歩いてくる。あの裾さばき。
聖女様だった。
聖女様は祭壇の下まで来ると、王家の方々に向き直って、床にひざをついた。それから、頭巾を、ゆっくりと下ろした。
「陛下に、申し上げます」
ざわめきが、細く走った。神殿長様の席から、椅子の倒れる音がして、うわずった声が飛んだ。
「陛下、その者を存じております。……セラフィナ!? なぜここに――いや、ならば祭壇の上は」
「神殿長様には、のちほど、いくらでも」聖女様は神殿長様を一瞥で黙らせて、また陛下のほうを向いた。「二十年ぶりの大祭の、祈りの途中にございます。ですが、この祈りが結ばれる前に、申し上げねばならないことがございます。――結ばれてしまえば、そのお応えもまた、偽りの名で書き残されてしまいますゆえ」
やめてください、と言いたかった。でも、わたしの口は、十六句目を唱えていた。祈ることだけ考えなさい。何が起きても。あの言葉は、このためだったのだ。
「五年前の流行り病の折、広場で祈りを上げ、聖女に認定されたのは、わたくしにございます。以来五年、聖女セラフィナとして務めてまいりました。……ですが」
聖女様は、一度も、つっかえなかった。
「わたくしの祈りは、五年間、ただの一度も、天に届いておりません。芽吹きのお応えも、イルベルク家の御快癒も、わたくしの業ではございません。すべては、わたくしが代理に立てた娘――何も知らぬまま、わたくしに騙されて祭壇に上がっていた、心のきれいな娘の祈りにございます」
騙されてなんか、いない。わたしは自分で、やりますと言ったのだ。聖女様のお名前を守るために、百回でも祈りますと、自分の口で言ったのだ。
「聖女は、偽者にございます。偽者は、わたくしにございます。……そして、まことの聖女は」
聖女様が、祭壇を見上げた。五年ぶんの何かが乗った目で、わたしを見た。
「いま、祭壇の上で祈っている、その子にございます」
大聖堂が、割れた。
どよめきが波になって、波が渦になって、聖歌隊の誰かが座り込んで、香炉の煙だけが、何も知らずにまっすぐ上っていった。王家の席で、殿下だけが、動かなかった。驚いた顔も、なさらなかった。まっすぐに、祭壇の上のわたしを見ていた。わたしの口は、それでも唱えていた。十八句目。祈ることだけ。祈ることだけ考えなさい。
「戯言じゃ!」
神殿長様が、通路に転がり出た。
「祭りに障りをなす狼藉者じゃ! つまみ出せ! 聖女様は正しく徴によって立てられた御方――」
「その徴は」聖女様の声は、少しも揺れなかった。「誰にもとまらぬまま、屋根から飛び去っております。聖典の徴は、三羽の白鳩、降りて、聖女にとまる――とまり先のなかった徴に、祭壇にいちばん近い者の名を書き足したのは、人にございます。あの朝、白鳩が探していたのは、祭壇の上のわたくしではなく、末席で祈っていた、この子だったのだと、わたくしは考えております」
「黙れ黙れ! 衛兵!」
「お待ちなさい」
低い、静かな声だった。それだけで、大聖堂じゅうの音が、消えた。
国王陛下が、立ち上がっていらした。
陛下は、ひざまずいた聖女様を見て、ひっくり返った神殿長様を見て、それから最後に、祭壇の上のわたしを、長いあいだ、ご覧になった。
「――祈りの途中である」
陛下は、それだけ仰って、お座りになった。
「続けよ。真偽は、祈りが証を立てる」
大聖堂じゅうの目が、いっせいに、わたしに集まった。
千の目だった。王家の目。貴族の目。神殿長様の目。ひざまずいたままの聖女様の目。そして、まっすぐな、あの方の目。
わたしの口の中には、十九句目が、途中まで入っていた。
続きの言葉が、生まれて初めて、出てこなかった。




