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第7話 洗濯日和

 王都の大聖堂は、うちの大聖堂がふたつは入りそうな大きさだった。


 下見に入れてもらったわたしは、入り口から祭壇まで、しずしずと歩いて数えた。五十六歩。香炉は二箇所。段は七段。ヴェール越しだと段の縁が見えにくいから、七段ぜんぶ、足の裏に覚えさせた。


「本当に、いつもどおりなのね、あなた」


 付き添いのロッテさんが、あきれ半分、感心半分の声で言った。


「歩数は、嘘をつきませんので」


 そのロッテさんが、大聖堂の係の方と香炉の置き場所の相談に行ってしまって、わたしはひとりで、七段の下から祭壇を見上げていた。


「――ミーナ?」


 振り向いて、わたしは固まった。上等な服。金糸の刺繍。お付きの方を柱の向こうに待たせて、殿下が立っていらした。お声がかかるまで、ひと呼吸ぶん、間があった気がする。人違いかどうか、迷っていらしたのだろう。洗濯係の顔なんて、覚えているほうがおかしいのだから。


 おじぎ。ちがう、先に口上。ちがう、そもそも、ただの洗濯係が王都の大聖堂の祭壇の前で何をしていたのかと聞かれたら、わたしは――


「大祭の支度を見に来た」と、殿下が先に仰った。「君は?」


「し……敷物の、寸法を」


 とっさに出たにしては、上出来の嘘だった。祭壇に敷物なんて、ない。殿下は白い床を一度ご覧になって、それ以上は、何もお聞きにならなかった。かわりに、となりに並んで、同じように祭壇を見上げた。


「ここは、声がよく返る」


「はい。とても……高いお天井ですので、たぶん」


「五年前の病のあと」と、殿下は祭壇を見たまま仰った。「私は、堤と水路と穀倉ばかり増やしてきた。祈らずに済む国に近づけるのが、自分の仕事だと思っている。……だが神託は、祈りの側と結ばれることで国が安んじると言う。石積みの側の人間には、荷の重い話だと思わないか」


「に、荷物は、その、分けて運べば、重くないです」


「……そうだな」殿下は、すこし笑われた。「分けて運べる相手なら、いいのだが」


 それから殿下は、祭壇を見上げたまま、ひとりごとみたいに仰った。


「祈りと石積みの、どちらが国を支えているのか、私には、まだ分からない。分からないから、文で教わっていた。……この二か月は、お休みだが」


 文、のところだけ、足場を確かめるみたいに、ゆっくり仰った。お疲れなのかもしれない。王宮の方は、お忙しいのだ。


 胸に、ちくりと針が刺さった。お休みにしたのは、療養のお返事を書いた、わたしだ。


「あの、わたし、そろそろ、係の者が待っておりますので」


「ミーナ」


 呼び止められて、足が止まった。


「今日ここで君に会ったことは、誰にも言わない。だから君も、私が務めを抜けて油を売っていたことは、内緒にしてくれ。……エルンとの、約束だ」


 殿下は、あの軒下の顔で笑っていらした。わたしは、深くおじぎをした。


「……はい。エルンさんとの、お約束です」


 殿下は、うなずいて、歩きかけて、それから半歩だけ、止まった。何か仰るのかと思ったら、何も仰らずに、こんどこそ柱の向こうへ歩いていかれた。金糸の背中が見えなくなるまで、わたしはおじぎの姿勢のままでいた。


 帰りの馬車で、ロッテさんに「顔が赤いわよ」と言われた。敷物の寸法のせいにした。敷物なんて、ないのに。


 誰にも言わない約束が、ひとつ、できてしまった。聖女様のためでも、お役目のためでもない、わたしのぶんの、はじめての秘密だった。


 大祭の祈祷は、実りの二十句に、星の九句が加わる。九句は、百八つの外の、大祭だけの句だ。新しく覚えるのに、三日かかった。いつもなら一日で入るのに、このごろ、頭の中に住んでいる人がいて、部屋が狭いのだ。


 準備は、進んでいた。わたしの準備も、進んでいた。


 行李(こうり)の底に、貯めた下働きのお給金を、端切れに包んで入れた。代理のお礼は断ったけれど、洗濯係のお給金は、ちゃんといただいているのだ。故郷までの乗合馬車は、街道の市の日に出る。大祭の、二日あとだ。


 決めたのは、大聖堂の下見の帰り道だった。馬車の窓から、王宮の白い塔が見えた。縁組が成れば、聖女様はあそこにお住まいになる。お城のお医者様がついて、ご病気はきっと良くなって、そうしたら、祭壇にはご本人がお立ちになる。代理は、もう要らない。


 要らないだけなら、いてもいい。でも、代理は、いてはいけないのだ。お妃様になった聖女様のおそばに、聖女様のふりをしたことのある下働きがいたら、それは、いつか聖女様のお名前を傷つける針になる。針は、抜いておくものだ。


 それに。


 それに、の先は、考えないことにした。考えなくても、荷造りの手は動く。


* * *


 大祭の七日前、王宮から「聖女」へ、お手紙が来た。


 途絶えてから、二か月ぶりのお手紙だった。聖女様とロッテさんとわたしと、三人で文机(ふづくえ)を囲んで、封を切った。


〈ご療養の身に、文を重ねる無礼をお許しください。大祭で、あなたの祈りを拝聴できることを、心より楽しみにしております。


 白状いたしますと、この文を書くまでに、幾たびも書き損じました。書き損じは、そのたび灯りにくべましたので、この二か月、わたしの部屋は、すこしだけ暖かかった。


 ひとつだけ、不躾な問いを、お許しいただきたい。


 あなたの文には、いつも、洗いたての布の匂いがしていました。祈りの言葉のあいだから、日なたの匂いがするのです。わたしはそれを、二か月のあいだ、たいへん恋しく思いました。


 この匂いの正体を、大祭の日に、あなたの口から伺いたい〉


 離れが、しんとなった。


「……布の匂い」と、ロッテさんがつぶやいた。


「日なたの匂い」と、聖女様がつぶやいた。


 わたしは、何も言えなかった。胸のまんなかが、熱いのと冷たいのと、両方いっぺんに来ていた。


 恋しく思いました、と書いてあった。あの方は、聖女様の文を、恋しいと書いた。それは、めでたいことのはずで、わたしのお役目は大成功で、なのに、その文の匂いの正体は、たぶん、わたしなのだ。書いたのがわたしだから、匂いもわたしなのだ。


 殿下は、気づきはじめている。文の向こうにいるのが、誰なのか。


「ミーナ」聖女様が、静かに言った。「お返事、どうする」


「……書けません」


 初めて、書けないと言った。


「書いたら、嘘になります。ほんとうのことを書いても、嘘になります。どっちを書いても、嘘になるお手紙は、初めてです」


 聖女様は、わたしの顔をじっと見て、それから、お手紙をそっと封筒に戻した。


「そうね。……お返事は、なし。答えは大祭で、ということにしましょう」


 答えなんて、ない。大祭でわたしがするのは、祈祷だけだ。祈祷が終わったら、ヴェールのまま下がって、それでおしまい。匂いの正体は、二日後の乗合馬車で、街道を東に行く。


 それでいい。それがいい。


 その晩、寝床の藁の中で、わたしは祈祷文を唱えなかった。かわりに、あのお手紙を、頭の中で何度も読んだ。恋しく思いました。恋しく。


 それから、灯りにくべられた書き損じのことを、考えた。あの方にも、書けない夜があったのだ。わたしの書けない夜と、同じ形の。


 一回だけ、と思って、わたしはその言葉を、自分にあてて読んでみた。


 一回だけだ。誰にも言わないし、明日には忘れる。文の匂いはわたしだから、恋しいの宛先も、ほんの少しだけ、わたしだ。


 ……よし。


 忘れる作業は、朝までかかった。


* * *


 大祭の三日前、わたしは聖女様に、暇乞い(いとまごい)を申し出た。


「大祭が終わりましたら、お暇を、いただきたいのです」


 離れの夕方だった。聖女様は、お茶の器を持ったまま、動かなくなった。ロッテさんが、棚の埃を払う手を止めた。


「……理由を、聞いてもいい?」


「縁組が成りましたら、聖女様は王宮にお住まいになります。お城のお医者様がついて、お体もきっと良くなります。そうしたら、代理は要らなくなります。要らないだけなら、いいのですが、代理は、いてはいけないのです。わたしがおそばにいたら、いつか、聖女様のお名前を傷つけます」


 お医者様の問題じゃないの、と、いつかの聖女様は仰っていた。あれはきっと、言葉の綾だ。そういうことに、わたしの中では、なっている。


「……それだけ?」


「祭服のお洗濯だけは、心残りですが。次の係に、襟のしみの落とし方を、書き置きします」


「そうじゃなくて」聖女様の声が、少しだけ揺れた。「理由は、それだけ?」


 わたしは、目を伏せた。三つ数えた。それでも、言葉は出てこなかった。聖女構文にも、祈祷文にも、この先を言う句はない。


「……それだけです」


 長い沈黙のあと、聖女様は、器を置いた。


「分かったわ」


 それだけだった。引き止められなかったことに、ほっとして、それから、胸のどこかが、すうすうした。ロッテさんが何か言いかけて、聖女様が目で止めたのが、見えないところで見えた気がした。


 その晩、聖女様の離れは、夜遅くまで灯りがついていた。


* * *


 大祭の前の日、わたしは最後のお勤めに、祭服を洗った。


 井戸の水で、三度すすいで、日なたに広げた。襟のお香のしみは、今日がいちばんきれいに落ちた。五年分の腕前を、ぜんぶ使った。


 夕方、取り込んだ祭服は、日なたの匂いがした。


 明日、わたしはこれを着て、五十六歩を歩く。星の九句を唱えて、実りの二十句を唱えて、七段を下りて、帰ってくる。それでおしまい。それだけ。


 空は、憎らしいくらい晴れていた。


 明日も晴れるだろう。……洗濯日和だ。


 離れの窓には、その夜も、遅くまで灯りがともっていた。


 わたしは寝床にもどる前に、行李の紐を、もういちど結び直した。乗合馬車は、大祭の二日あとに出る。


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