第6話 幕間・偽聖女の五年間
「ロッテ。名簿は、あった?」
ミーナの足音が遠ざかって、聞こえなくなったのを確かめてから、わたしは長椅子に沈んで、聞いた。
「ありました」
ロッテが差し出したのは、奉公人名簿の写しだった。指でたどる。洗濯係、ミーナ、十七。入所の日付は、五年前の春。
流行り病が街に入る、三日前だった。
「……そう」
「セラフィナ様。やっぱり、あの日の」
「末席にいたそうよ。本人がそう言ったわ。あの子なら、きっとあのときも祈っていたんでしょうね」
わたしは名簿を閉じて、天井を見た。五年前の広場が、ゆうべのことみたいに浮かんだ。忘れられるわけがない。あの日から、わたしの人生は、ぜんぶあの日の続きなのだ。
* * *
五年前、わたしは側仕えですらなかった。神殿の勝手向きの雑用係。下町の生まれで、口が回って、勘定が早くて、それだけが取り柄の女だった。厨の仲間には、フィナ、と呼ばれていた。
病は、川向こうから来た。高い熱が出て、三日三晩続いて、峠を越えられた者と、越えられなかった者に分かれる――そういう流行り病だった。三日で通りが静かになって、五日目に、神殿の前に人が集まり始めた。薬はない。医者は足りない。そういうとき、人は祈りに来る。祈りに来て、祈る相手がいないことに気づく。
先代の聖女様が亡くなって、二年。聖女の座は空いていた。認定の儀は、候補の家柄の釣り合いがどうとかで、二年も揉めて止まっていた。偉い人たちの都合で空けてある席に向かって、広場の人たちは祈れない。
七日目の夕方、広場は、暴動の寸前だった。
薬売りの荷車がひっくり返されて、誰かが「神殿は薬を隠している」と叫んで、門に人がぶつかり始めた。神殿長様は奥で青くなっているだけ。衛兵を呼べば、血が出る。血が出たら、終わりだ。ああいうときの群衆は、わたしは知っている。下町の炊き出しの列で、育ったから。
だから、わたしは祭壇に上がった。
白い布を頭からかぶって、ありったけの声で、それらしい文句を唱えた。祈祷文なんてろくに知らない。半分は聖歌の切れ端で、半分はその場のでまかせだった。ただ、声だけは張った。堂々としていれば八割は聖女に見える。あとの二割は、夕陽がやってくれた。
「聖女様だ」と、誰かが言った。
言わせたのだ、わたしが。そういうふうに、立ったから。
それから列を作らせた。病人はこっち、水はあっち、看病する者は布で口を覆う。祈りの形をした、ただの炊き出しの仕切りだった。人は、指図されると落ち着く。祈りながらなら、なお落ち着く。
夜通しそれをやって、明け方、病人たちの熱が、峠を越え始めた。
医者は「病の力が尽きる頃合いだった」と言った。わたしもそう思った。そういうことにしておけば、誰も困らない。広場の人たちは「聖女様の祈りが通った」と泣いた。神殿長様は、二年も空けた席の言い訳に、ちょうどいい奇跡が降ってきたと思った。三日後には、星読みの塔から「徴があった」というお墨付きが出た。あの朝、白い鳩が三羽、祭壇の屋根に止まっていたそうだ。聖典の徴は「三羽の白鳩、降りて、聖女にとまる」。あの鳩は、誰にもとまらないまま飛び去った。塔のお墨付きは「徴があった」まで。それが誰を指すかを読むのは神殿の仕事で、神殿長様の読みは早かった。とまらなかったのなら、祭壇にいちばん近い者であろう――祭壇の上には、わたしがいた。徴というのは、読みたいように読めるのだ。鳩なんて、毎朝いる。
断る機会は、たぶん、二回あった。
一回目は、認定の儀の前の晩。二回目は、儀の最中、宣誓の前。どちらのときも、わたしは広場を思い出した。列を作って、朝まで持ちこたえた人たち。聖女様の祈りが通ったと泣いていた、あの顔たち。いまさら「あれは雑用係のでまかせでした」と言ったら、あの夜ごと、嘘になる。せっかく生きて峠を越えた夜が、騙された夜に変わる。
言えるわけが、なかった。
そうして雑用係は聖女になり、五年がたった。
祈りは、一度も通らない。
最初の一年は、毎晩試した。正しい祈祷文を覚えて、正しい作法で、誰も見ていない礼拝堂で祈った。種も蒔いた。枯れ枝にも祈った。病気の猫にも祈った。何も起きなかった。二年目に、試すのをやめて、腕を磨くことにした。祈りが通らないなら、通ったように見せる。治しの祈願が来れば、祈りのあとに「巡礼の医師」が通りかかるように手配する。雨乞いが来れば、山の雲を三日読んでから日取りを決める。嘘の上に嘘を重ねて、その嘘で、実際に人は治ったし、畑は潤った。
聖女の仕事は、九割が客あしらいと段取りだ。それなら、わたしは負けない。残りの一割のために、わたしは五年間、毎朝、誰にも聞こえない声で謝ってきた。祈る相手に、ではない。祈りに来る人たちに、だ。
その帳尻が、去年の暮れから、合わなくなった。
祭壇に上がろうとすると、声が出ないのだ。五年間あれだけ回った口が、祈祷の一句目で、つっかえる。お医者は疲れだと言った。疲れなものか。あれは、嘘の目方だ。積みすぎた荷が、とうとう軋み始めただけ。だから月の祝福を休んだ。だから、大祈祷に、あの子を立てた。
* * *
それで――あの子だ。
あの子が祭壇に立つと、種が芽吹く。あの子が手を握ると、死にかけの奥方が五日で庭を歩く。侯爵家にも、念のため「巡礼の医師」を仕込んであった。出番のないまま、帰ってもらった。あの子は、わたしが五年かけて磨いた小細工を、何ひとつ使わない。使い方も知らない。作法どおりに祈って、通って、それで「祭服にお力が残っていて」と言う。
わたしの祭服に。わたしの、何のお力もない祭服に。
最初は、偶然だと思った。二度目で、偶然という言葉の辞書を引き直した。侯爵家のあとは、考えるのをやめていた。考えたら、答えが出てしまうからだ。
五年前の広場。通ったはずのない、わたしのでまかせの祈り。あのとき末席にいた、奉公上がりたての新入りの洗濯係。
……鳩は、毎朝いる。でも、あの朝の徴は、ほんものだったのだ。三羽は、とまる相手を探して降りてきて、末席の人混みの上でとまり先を見失って、屋根に上がった。そう考えれば、ぜんぶ揃う。徴が指していたのは、祭壇の上のわたしではなく、末席で祈る、石鹸の匂いのする、ちいさな女の子。読み違えたのは塔ではない。とまらなかった徴に、勝手にとまり先を書き足した、わたしたち人間のほうだ。
並べてみれば、もう偶然では片づかない。種麦。死にかけの奥方。五年前の、広場の病人たち。あの子が祈ったところでだけ、わたしには起こせなかったことが起きている。
「セラフィナ様」
ロッテが、お茶を置いた。湯気の向こうから、遠慮がちに言う。
「……どうなさるんですか」
「どうもしないわ、今夜は」
「でも、大祭が。王家がご臨席で、あの子が祭壇に。もし、あそこであの子の力が、隠しようのない形で」
「分かってる」
分かっている。大祭は、ごまかしの利く場所じゃない。それに――縁組。神託。次代の王は、聖女と結ばれる。
もしあの子が本物だと明かせば、神託の縁組は、あの子のものだ。殿下が文を待ちわびていた相手も、ほんとうは、最初からあの子だ。何もかも、あるべき場所に収まる。
そして、わたしは火あぶりか、よくて国外追放。五年間の嘘は、広場の夜ごと、ぜんぶひっくり返る。神殿長様の首も飛ぶ。それは別にいいけど。
「ねえ、ロッテ」
「はい」
「あの子、殿下に恋をしているわね」
「……気づいてらしたんですか」
「見てれば分かるわよ。手紙が来ないだけで、シーツを数え間違える子よ」
そして、気づいていない。自分の恋にも、半分ふたをして。代理のお役目ですから、という顔で、あの縁組の手紙の返事を、自分の手で書いたのだ。あの子はこれからも、ああやって、ぜんぶ自分の外側に積んでいく。聖女様のお名前。お役目。係。自分のぶんだけ、どこにもない。
わたしは、膝の上の名簿を、もう一度ひらいた。洗濯係、ミーナ。入所、五年前の春。
「……おかしな話よね」
「何がですか」
「作法を教えたのも、聖女構文を教えたのも、お茶の飲み方を教えたのも、わたし。ほんものの聖女を、偽者のわたしが、手ずから育てているの。……笑い話にもならないわ」
ロッテは、少し黙ってから、言った。
「五年間で、いちばん聖女らしいお仕事だと、思いますけど」
わたしは、お茶を吹きそうになった。
「……あなた、たまに、いいことを言うわね」
大祭まで、あと二十日。
答えは、まだ出ない。出ないまま、わたしは決めていることが、ひとつだけあった。あの子が祭壇の上でどうなっても、あの子だけは、傷のつかない形で終わらせる。五年間、口八丁で積み上げてきた、この偽者の腕の、最後の使いどころだ。
段取りは、これから考える。
なにせ聖女の仕事は、九割が段取りなのだ。




