第5話 神託と、書けないお返事
神託の話は、雑巾がけの廊下で聞いた。
下働きというのは、便利なもので、廊下を磨いていると、誰もわたしを気にしない。柱や燭台と同じ扱いである。その日、貴賓の間には王宮からのお使者がいらしていて、扉が細く開いていた。
「――星読みの塔が、かねての神託を、改めて宣しました」
お使者の声は、よく通った。
「『次代の王、聖女と結ばれるとき、国はいよいよ安んじる』。ついては、エルネスト殿下と聖女セラフィナ様の縁組について、正式の運びを――」
「神殿にとりまして、この上なき誉れにございます」
神殿長様の声が、聞いたことがないくらい上ずっていた。
わたしの雑巾は、廊下の同じところを、さっきからずっと磨いている。
殿下と、聖女様の、縁組。
めでたい。とても、めでたい。殿下は聖女様をお慕いしていて、聖女様はあんなにお優しくて、神託まで、おふたりですって言っている。国じゅうが喜ぶ。干し場のみんなも喜ぶ。わたしも、喜ぶ。喜ぶところだ、ここは。
雑巾を絞る手に、変な力が入った。廊下は、そこだけ他の倍、つやつやになった。
* * *
離れに行くと、素の聖女様が、長椅子で頭を抱えていた。
「縁組……冗談じゃないわ……」
「聖女様、あの、おめでとうございます」
「めでたくないのよ!」
聖女様はがばりと起きて、それからわたしの顔を見て、少し声を落とした。
「……ミーナ。落ち着いて聞いて。この縁組は、受けられないの」
「お体の、ことですか」
「そう……そうね、それも、あるわ」
「でも、あの、お妃様になれば、お城のお医者様が」
「お医者様の問題じゃないの」聖女様は、両手で顔を覆った。「お妃になるのよ。ヴェールの下も、素のわたしも、朝も夜も、ぜんぶ見られるの。……隠しきれるわけが、ないでしょう」
ご病気を隠したまま嫁ぐのは無理だ、という意味だと思った。それはそうだ。わたしは大きくうなずいた。聖女様はわたしを見て、なぜだか、もっと苦しそうな顔をした。
「とにかく、お返事は引き延ばすわ。ご病気の療養を理由に。……それしか、ないもの」
ロッテさんが、黙ってお茶を淹れた。その日のお茶は、いつもより濃くて、苦かった。
* * *
七日目に、殿下からのお手紙が来た。
いつもの問いのお手紙ではなかった。祈りのことも、ごはんのことも、書いていなかった。
〈神託が、わたしの言葉より先を歩いてゆきます。生まれてから今日まで、わたしの一日は、いつも、先に決められた言葉でできていました。起きる刻限も、着るものも、述べるべき口上も。あなたの文だけが、その外から届きます。わたしはまだ、あなたに問いたいことの半分も、問えていないのに。――聖女様は、この神託を、どのように聞かれましたか〉
わたしは、その一枚を、文机の上で三回読んだ。
先に決められた言葉でできた一日。それは、祈祷文とお作法でできた、わたしの一日と、すこし似ていた。王宮のいちばん高いところにも、覚えた言葉で生きている方が、いらっしゃるのだ。
殿下は、聖女様のお心を聞いている。縁組をどう思うか、聞いている。わたしが書くお返事は、聖女様のお返事ということになる。殿下のお手元にある「聖女様の文」は、最初の一通から、ぜんぶわたしの字なのだ。いまさら別の字のお返事が届いたら、それこそ怪しまれる。だから、これも、わたしが書く。
書くべきことは、決まっている。聖女様はお受けできない。だから、はっきりお断りしては角が立つ、やわらかい、引き延ばしのお返事。療養のこと。時を待つこと。それを、聖女様の文として、わたしが書く。
ペンを取った。
〈神託は――〉
そこで、止まった。
神託は、恵みにございます。次の言葉は、それのはずだった。聖女構文だ。目を伏せて、三つ数えて、天はすべてをご覧です。祈りましょう。それもまた、恵みの形です。困ったときの言葉は、ぜんぶ教わっている。
でも、書けなかった。
殿下のお手紙は、いつも、ほんとうのことを聞いてくる。祈りの手応えのこと。ごはんのこと。あの方は、覚えた言葉の向こう側を、聞いてくる方なのだ。それに向かって、覚えた言葉でお返事を書くのは、なんだか、初めて、嘘をつくみたいだった。
わたしは、ペンを置いて、絞ってもいない手のひらを、じっと見た。
聖女様のお名前を守ること。お手紙をちゃんと届けること。わたしのお役目は、最初から決まっている。お役目のためのお返事なら、覚えた言葉で書くのが正しい。ほんとうのことを書く場所は、このお手紙のどこにも、ない。
ペンを取り直して、わたしは書いた。
〈神託は、恵みにございます。ただし、恵みの結実には、天の定めし時がございます。祈りの庭が静謐を取り戻しますまで、ご猶予を賜りますよう、伏してお願い申し上げます〉
生まれて初めて、覚えた言葉だけで、お手紙を書いた。
書き上がったお手紙は、どこからどう読んでも、立派な聖女様の文だった。あの方が読みたいと言ってくださった、暮らしの言葉は、ひとつも入っていなかった。
* * *
七日たっても、お手紙は来なかった。
八日目も、九日目も来なかった。十日目に、王宮の使いが持ってきたのは、手のひらほどの短い一枚だった。
〈ご療養の由、承りました。お大事に。祈りの問答は、いずれまた〉
いずれまた。わたしは、その一言を、何度も読んだ。
殿下のお手紙は、いつも問いで終わっていた。問いで終わるから、お返事が書けた。お返事を書けば、また問いが来た。いずれまた、は、問いではない。いずれまた、には、お返事が書けない。
その週、わたしは干し場で、シーツの数を二回も数え間違えた。奉公に上がってから、数え間違えたのは初めてだった。
「ミーナ、あなた、顔色が悪いわよ」と、干し場のおばさんに言われた。
「シーツが、二十枚あるのに十九枚だったんです」
「数え直したら二十枚だったんでしょう」
「でも、一回は、十九枚でした」
我ながら、何を言っているのか分からなかった。
* * *
それから、お手紙の来ない週が、五つ重なった。おけいこは続いていたけれど、文机に向かうお役目は、なくなったままだった。
その晩も、おけいこだった。離れに行くと、聖女様は文机の前にいた。膝の上に、殿下の短いお手紙が乗っていた。
「……ミーナ。あなた、殿下のこと」
「はい。お手紙が来なくなって、その、お加減でも悪いのではと」
「そうじゃなくて」
聖女様はわたしの顔をじっと見た。長い間、見た。それから、ふっと目を伏せて、首を振った。
「……いいえ。なんでもないわ」
ロッテさんと聖女様が、また、あの目配せをした。最近、ふたりはよくあの目配せをする。シーツの値上がりの話なら、わたしも入れてほしい。
その晩のおけいこが終わるころ、神殿長様からの通達が届いた。ロッテさんが封を切って、読み上げて、途中から声が細くなった。
星の大祭。神託の宣布を祝して、王都の大聖堂で、聖女の祈祷が執り行われる。王家の方々がご臨席。国じゅうから人が集まる。御代替わりの年以来、二十年ぶりの大祭。
「二十年ぶり……」聖女様が、長椅子に沈んだ。「大聖堂……王家臨席……」
「断れる、わけがないわよね。神託のお祝いだもの」ロッテさんの声も沈んだ。
離れの中が、洗い場の排水口みたいに、ごぼごぼと暗くなっていく。だからわたしは、いつもの通りに言った。
「わたしが祈ります」
ふたりが、同時にこちらを見た。
「大祈祷も、月の祝福も、侯爵家も、務めました。作法が増えるなら、覚えます。大聖堂の歩数は、下見をすれば数えられます」
聖女様は、何かを言いかけて、やめて、それから、静かに聞いた。
「……どうして、そんなに迷いなく言えるの」
「聖女様のお名前を守るのが、わたしのお役目ですから」
お役目、と聖女様は小さく繰り返した。それから、なぜだか、膝の上の短いお手紙を、そっと裏返した。
「ミーナ。ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「あなた――五年前の、流行り病のとき。もう、この神殿にいた?」
思いがけない質問だった。
「いました。奉公に上がって、すぐのころです。広場で、聖女様が祈ってくださった日も、末席におりました。あのころから、聖女様はわたしの憧れで」
「……そう」
聖女様は、それだけ言って、その晩はもう、何も聞かなかった。
* * *
寝床の藁の中で、夜の分の祈祷文を唱えた。今度は、最後まで唱えられた。唱え終わっても、胸のまんなかは、まだ、ぎゅうっとしたままだった。
シーツを広げたときの気持ちには、こんなに長持ちする種類は、ない。理屈は、とっくに合わなくなっている。
それと、もうひとつ、分からないことがある。聖女様は、どうして、五年前の流行り病のことなんて、お聞きになったのだろう。
ばちなら、もう当たっているのかもしれない。
胸の、このへんに。




