第4話 文のとおりの方
お茶の作法は、五日で叩き込まれた。
音を立てない。三口で戻す。器はほめられてから、ひと呼吸おいて「恵みですわ」。聖女様のお手本は完璧で、わたしの暗記も完璧だった。問題は手だった。緊張すると、わたしの手はシーツを絞る形になろうとする。
「茶器を絞らないの」
「絞りません。構えだけです」
「構えもだめ。……まあ、いいわ。あなた、本番の祭壇では震えないんだから、不思議と」
本番の朝、わたしは祭服を着て、ヴェールを下ろして、離れの貴賓の間の奥に座った。斜め後ろにロッテさんが控える。お迎えの立ち姿も、おじぎの角度も、ぜんぶおけいこのとおり。
やがて、扉の向こうで衣擦れの音がして、お客様が入っていらした。
「本日は、お目通りをお許しいただき、恐悦至極に存じます。エルネストです」
その声を聞いた瞬間、わたしの頭の中で、何かがかちりと音を立てた。
聞いたことがある。この声は、雨の日の軒下で、「こうか」と言いながら祭壇掛けを畳んでいた声だ。
ヴェール越しに、おそるおそる見た。上等な服。金糸の刺繍。濡れていないだけで、あの日の貴人だった。
エルンさんだ。
エルンさんが、王太子殿下だった。
わたしは、ヴェールの下で、声にならない悲鳴を上げた。シーツの通行止め。お説教はあとで受けます。角と角。畳み方への駄目出し、二回。あれ、ぜんぶ、王太子殿下に。
「――聖女様?」
「……天は、すべてをご覧です」
三つ数えるのを忘れて、いきなり切り札が出た。殿下は一瞬まばたきをして、それから、深くうなずかれた。
「仰るとおりです。天の御前で、取り繕っても仕方がない。……今日は、文だけでは伺いきれないことを、伺いに参りました」
助かった。いまのは聖女構文が勝手にいい仕事をしただけで、わたしは何も考えていない。ロッテさんが後ろで小さく息を吐くのが聞こえた。
お茶が運ばれて、殿下は三口で戻された。わたしも三口で戻した。手は、絞らなかった。えらい。
「この茶菓は、うまいですね」
「……恵みですわ」
「恵み」殿下は茶菓をもうひとつ取って、少し笑われた。「聖女様の文にも、そういう言葉がありました。今年もみんなのごはんが実りますように、と。あれを読んでから、食事のたびに、恵み、と思うようになりました」
わたしは、ヴェールの下で赤くなった。ごはんのくだりは、いまでも恥ずかしいのだ。でも、殿下は笑い話にしているのではないらしかった。声が、まじめだった。
「祈りが通る、というのは」と、殿下は仰った。「どういう感触なのですか。あなたの祈りには、天が応える。芽吹きも、イルベルクの奥方のことも聞いています。祈りながら、手応えが、あるものなのですか」
殿下は、そこで一度、言葉を切られた。
「不躾のわけを、先に申し上げます。五年前の病のとき、私は十六で、王宮から出ることを許されませんでした。窓から、川向こうの煙を数えるだけだった。それからずっと、祈らずに済むものを増やすのが自分の仕事だと決めて、水路を引き、穀倉を建て、医者を増やしてきました。……ですが、あなたの祈りは、通る。それは、私の仕事の外にある力です。国の行く末を預かる身として、その力の正体を、知りたいのです」
石積みの、お話だ。お手紙のとおりの方だ、と思った。
来た。文でも一度聞かれて、書きあぐねて、結局後回しにしていた問いだ。祈祷文に、答えはない。聖女構文にもない。わたしは目を伏せて、三つ数えて、それでも何も出てこなくて、結局、ほんとうのことを言った。
「……手応えは、ありません」
「ない」
「祈りは、お洗濯と似ています。洗っている間は、落ちたかどうか、分かりません。乾いて、広げてみて、初めて分かります。ですから、その、祈っている間は、ただ、一生懸命に洗うだけです」
言ってしまってから、ロッテさんの胃の音が聞こえた気がした。聖女がお洗濯の話をしてどうする。言い直そうとしたとき、殿下が、ふ、と息だけで笑われた。
「……文のとおりの方だ」
「は」
「あなたの文は、祈りの言葉で始まって、いつも、暮らしの言葉で終わる。それが読みたくて、性懲りもなく問いを重ねました。お目にかかって、得心しました」
殿下は茶器を置いて、まっすぐにヴェールのほうを向いた。
「この国の祈りを、あなたが預かっていてくださって、よかった」
わたしは、おじぎの角度がおけいこより三度ほど深くなるのを、止められなかった。ちがうんです、と言いたかった。わたしは代理で、ほんものの聖女様は、いまごろ隣の部屋で胃を押さえている。でも、言えない。言えないまま、頭のどこかで、小さな声がした。
――文のとおりの方だ、って。
あれは、聖女様の文だ。わたしの字で書いた、聖女様の文。そういうことに、なっている。なっているのに、どうして、胸のこのへんが、こんなに、落ち着かないんだろう。
帰りぎわ、殿下は席をお立ちになって、それから、あらたまって仰った。
「本日の御礼に、御手に拝礼をお許しいただきたい。……作法にないことは、承知の上です」
ロッテさんが、後ろで小さく息を呑んだ。聖女様の御手にお客様が触れる作法は、おけいこになかった。お断りする句も、なかった。わたしは、おそるおそる、右手を差し出した。
殿下は、わたしの手を、そっと取った。取ったところで、ほんの一瞬、止まった。
わたしの手は、洗濯係の手だ。水仕事で荒れて、指のつけ根にあかぎれの痕があって、なめらかとは、口が裂けても言えない。
殿下は、何も仰らなかった。手の甲に、羽根が触れるくらいのくちづけをひとつ落として、顔を上げるとき、たしかめるように、もういちどだけ、わたしの手をご覧になった。
「――祈る手というのは、働く手に、似ているのだな」
それから殿下は、扉の前で一度立ち止まって、思い出したように仰った。
「そういえば。以前こちらに伺った折、干し場で、面白い洗濯係に会いました。ミーナという名の」
わたしの心臓が、洗濯板の上で跳ねた。
「布の畳み方を、二度も叱られました。角と角、と」
「……そ、それは、その者が、大変な無礼を」
「いえ」殿下は、少しだけ、あの軒下の顔で笑われた。「よい神殿は、隅々まで、よいものですね」
扉が閉まって、足音が遠ざかって、完全に聞こえなくなってから、わたしはヴェールごと、机に突っ伏した。
* * *
続きの間から、素の聖女様とロッテさんが出てきた。わたしは突っ伏したまま言った。
「聖女様。エルンさんが、殿下でした」
「知っていたわ」
「!?」
「言ったら卒倒するでしょう、あなた」
「卒倒はしません。突っ伏しているだけです」
わたしは体を起こして、あらためて指を折った。
「わたし、殿下にお洗濯をさせました」
「聞いたわ」
「畳み方に、二回、駄目を出しました」
「聞いたわよ」
「それから、さっき、あかぎれの手に、くちづけをいただいてしまいました」
「見ていたわ。……あれは、あなたが謝ることじゃないでしょう」
「聖女様の御手の、代理ですので。あかぎれは、わたしの落ち度です」
「手にまで代理があるの……」
「さっき、ご本人の前で、その者が大変な無礼を、と申し上げてしまいました」
「自分で自分を売ったのね」
「打ち首でしょうか」
「角と角を『よい神殿』と言い換えてくださる方が、打つわけないでしょう」
聖女様は、わたしの向かいに座って、机の上のお茶の道具を眺めた。
「……上出来だったわ、今日の面会。特に、お洗濯のお答え。あれは」
聖女様は、そこで少し黙った。
「あれは、わたしには、一生かかっても出てこない答えね」
「聖女構文が勝手に出ただけです。あとは、ほんとうのことを言いました」
「そう。……そのほんとうが、いちばん難しいのよ」
聖女様の声が、なんだか遠くから聞こえるみたいだったので、わたしは顔を上げた。聖女様はもういつもの素の顔で、「はい、反省会おわり」と手を叩いた。
* * *
その晩、寝床の藁の中で、わたしは夜の分の祈祷文を唱えそこねた。
三句目あたりで、昼間の声がまざってくるのだ。文のとおりの方だ。あなたの文は、祈りの言葉で始まって、暮らしの言葉で終わる。この国の祈りを、あなたが預かっていてくださって、よかった。
思い出すたび、胸のまんなかが、きゅ、と縮んだ。熱だろうか。でも熱なら、頭がぼんやりするはずで、いまのわたしは逆に、変に冴えている。困った。明日は洗い物が三十枚あるのに。
わたしは、藁の中で理屈を数えた。
あのお言葉は、ぜんぶ「聖女様の文」へのお言葉だ。わたしの字で書いたけれど、あれは聖女様のお手紙ということになっている。殿下がお慕いしているのは、聖女様。わたしは、代筆の係。それから、代理の係。係がお言葉を直接いただいたから、びっくりして、胸がこうなっているだけ。
それから、あのくちづけも、聖女様の御手への礼だ。わたしの手は、ただの入れ物で、あかぎれは、ついでに居合わせただけ。手の甲のそこだけ、いつまでもあたたかい気がするのは、きっと、お湯を使いすぎた日と同じ理屈だ。
そうだ。これはあれだ。真っ白に洗い上がったシーツを、日なたで広げたときの気持ち。あれと同じ種類のはずだ。うれしいには、いろんな種類があるのだ。
理屈が合ったので、わたしは目をつぶった。
目をつぶったら、軒下の雨の音と、「ほう」と言った声を思い出した。
……理屈は、明日もう一度、数え直すことにする。
とにかく、わたしのお役目は決まっている。聖女様のお名前を守ること。それから、聖女様と殿下のお手紙を、ちゃんと届けること。殿下があんなに楽しみにしてくださっているのだから、次のお返事は、もっとがんばって書かないといけない。
次の日の晩、わたしはいつもどおり、文机に向かった。
書き出しの聖典の言い回しは、いつもなら勝手に出てくる。その日は、少しだけ、待った。
ペンが、少し重かった。
ばちは、まだ当たっていない。まだ、何も悪いことは、していないはずなのに。
でも、ばちというのは、悪いことをした人に当たるものだ。……それなら、この、ペンの重さは、いったい、なんなのだろう。




