第3話 雨の日の貴人と、はじめてのお手紙
王太子殿下の参拝の日、神殿は朝からひっくり返っていた。
回廊は三度磨かれ、祭壇の布は新しくなり、旗が下がり、下働きは全員、朝ごはんの前から走り回った。式典に出る布物は、旗から祭壇掛けから祭服まで、ぜんぶわたしが洗い上げた。つまり今日の神殿の白いところは、だいたいわたしの仕事である。口には出さないけれど。
「いい、ミーナ。あなたは今日、絶対に表へ出ないこと」
朝いちばんに、ロッテさんから言い渡された。
「はい。殿下のお迎えは、聖女様の領分ですから」
祭壇の上のお務めはわたしの担当になったけれど、お客様のお相手は聖女様の独壇場だ。おけいこのとき、わたしの相手をして見せてくださる聖女様は、侯爵にも老婆にも子どもにもなれる。祭壇の外でなら、聖女様は無敵なのだ。今日はヴェールを下ろした聖女様が、殿下をお迎えして、御礼を受けて、お帰しする。といっても、聖女様がお客様と言葉を交わすことは、ないらしい。御礼は口上で受けて、祝別の所作をひとつお返しするだけ。ロッテさんいわく、聖女様のお声は、安売りしないものなのだそうだ。わたしは干し場で、いつもどおりシーツを絞っていればいい。
いればよかったのだけれど。
昼下がり、空が急に暗くなった。
干し場には、取り込み前の式典の布が、まだずらりと下がっていた。予備の祭壇掛けに、お清めの布に、洗い直した祭服。雨に濡らしたら、今日という日に間に合わせる方法はない。
わたしは走った。走って、絞って干した順に外して、腕に積み上げた。そこへ、通路のほうから人影がひとつ、干し布の列にまっすぐ入り込んでこようとした。
「あっ、そこ、通らないでください! 乾いてるんです!」
人影が止まった。布のすきまから見えたのは、見たことがないくらい上等な服だった。刺繍に金糸が入っている。あれを洗えと言われたら三日は寝られない。
貴人だ。しまった。わたしは腕いっぱいの布を抱えたまま、大急ぎで習ったとおり目を伏せ、三つ数えた。
「て、天は……」
数え終わる前に、ぽつり、と手の甲に冷たいものが落ちた。
「――すみません、お説教はあとで受けますので! 降ってきたので!」
「説教はしないが」と貴人が言った。「……手伝おう。どうすればいい」
「えっ」
「二人のほうが早いだろう。雨なのだろう」
貴人は袖をまくって、いちばん近くの祭壇掛けに手を伸ばした。止める間もなかった。そして、畳み方が壊滅的に下手だった。
「ちがいます、角と角! 角と角です!」
「こうか」
「そうです。中表に。……あっ、それは引っぱらないで、飾り紐が」
「なるほど、難しいな」
「難しくありません、角と角なので」
ふたりで抱えられるだけ抱えて、軒下の納屋に駆け込んだのと、雨がざあっと落ちてきたのは、ほとんど同時だった。取り込んだ布はぜんぶ無事。わたしは布の山の上から数を数えて、それからやっと、隣の貴人を見上げた。
貴人は、濡れた前髪を上げて、干し場の雨を眺めていた。思っていたよりずっと若い人だった。そして、悪い人には見えなかった。畳み方は下手だけど。
「君は、いつもここに?」
「は、はい。あの、その……洗濯係、ですので」
習った口上なら言えるのに、自分の言葉は、出てくる途中でつっかえるのだ。
「さっきの白いのは、祭服に見えたが」
「祭服です。聖女様の。襟にお香のしみがつくのですが、あれを落とせるのは、たぶんこの神殿でわたしだけです」
つい自慢が出た。貴人は笑わずに「ほう」と言った。ほう、と言われたのは初めてなので、わたしは調子に乗って、しみの落とし方を最後まで説明した。水の温度のこと、叩き方のこと、こすってはいけないこと。貴人は最後まで聞いた。最後まで聞かれたのも、初めてだった。
「君は、布の話をするとき、まったくつかえないのだな」
「布のことだけは、その、考えるより先に口が動くんです。手が覚えているので、口もついてくるというか……」
「手が覚えている、か」と、貴人は感心した様子で繰り返した。「いい覚え方だ」
それから、干し場の向こうの大聖堂へ目を移した。
「聖女様というのは、どんな方だろう」
わたしは背筋を伸ばした。この質問には、いくらでも答えられる。
「お優しくて、お強い方です。五年間、ずっとみんなのために祈っていらっしゃいます。あと、祭服のお袖のほつれを、ご自分で繕っていらっしゃいます。針目がとても細かいんです」
「……詳しいのだな」
「聖女様つきの、洗濯係ですので」
そんなお役目は、ほんとうはない。でも、祭服のお洗濯はわたしだけがお任せいただいているのだから、嘘ではないはずだ。ちょっとだけ、胸を張った。
貴人はまた「ほう」と言って、それから、あらたまってこちらを向いた。
「名を聞いてもいいだろうか。……聖女様つきの洗濯係どの、では、君を呼ぶのに少し長すぎる」
「ミーナです」
「ミーナ」貴人は一度うなずいて、少しだけ間を置いた。「――エルンだ」
雨の向こうから、誰かが駆けてくるのが見えた。立派なお仕着せの、お付きの人らしかった。エルンさんは小さく息をついて、布の山のいちばん上に、畳みかけの一枚をそっと戻した。
「では、また。角と角は、覚えておく」
お付きの人に連れられて、エルンさんは雨の中を帰っていった。入れ違いに、傘もささずにロッテさんが飛んできた。
「ミーナ! こんなところにいた……って、あなたいま、誰と話していたの」
「エルンさんという方です。畳むのが下手でした」
ロッテさんは、口を開けて、閉じて、もう一度開けて、白目をむいた。
* * *
離れに連行されたわたしは、洗いざらい白状した。シーツの通行止めのこと。お説教はあとで受けますと言ったこと。角と角のこと。ぜんぶ聞き終えたロッテさんが、口を開いた。
「ミーナ。あなたが話していた方はね――」
「――お忍びの、お客様よ」
素の聖女様が、ロッテさんの言葉に、ぴしゃりとかぶせた。
「身分の高い方だから、お名前を聞いてはだめ。詮索してもだめ。……大丈夫よ、ああいう方が干し場に迷い込むなんて、二度はないわ。洗濯係のあなたが顔を合わせることは、もうないでしょう」
「はい。怒られていないなら、よかったです」
わたしがほっとすると、聖女様はロッテさんのほうを向いて、小さな声で何か言った。「言ったら卒倒するわよ、この子」と聞こえた気がするけれど、なんの話かは分からなかった。卒倒しそうな知らせがあるなら、シーツの値上がりだろうか。
とにかくお咎めはなし。わたしはいつもどおりシーツを絞って、三日が過ぎた。
三日目に、王宮からお手紙が来た。
宛名は、聖女セラフィナ様。
「御礼と……祈りについて、教えを請いたい、ですって」
お手紙を持つ聖女様の眉間に、しわが寄っていく。読み進むほど深くなる。
「『種麦が芽吹いたと聞いたとき、正直に申して、信じられなかった。奇跡は天のなさることで、人が問うてよいものではないのかもしれない。それでも、あの朝、祭壇に立たれたのは聖女様おひとりである。芽吹きを前に、何を思うて祈られたのか。国の行く末を祈る身として、一度、うかがってみたかった』……」
聖女様はお手紙を膝に置いて、天井を仰いだ。
「書けないわ」
「聖女様のお加減が」
「加減の問題じゃないの。あの朝、祭壇にいたのは、あなたなのよ、ミーナ。あの日何を思って祈ったかなんて、わたしが書いたら、作り話になる。……これ以上、殿下に嘘の上塗りはできないわ」
聖女様は、しばらくお手紙を見つめて、それから、覚悟を決めた顔でわたしに向き直った。
「ミーナ。お返事、あなたが書きなさい」
「わたしが!?」
「あの朝のことを書けるのは、あなただけ。宛名と結びの礼式はわたしが見るわ。でも、中身はあなたの言葉で書くの。一言も直さない。それなら……嘘には、ならないでしょう」
最後のほうは、自分に言い聞かせるみたいな声だった。
* * *
その晩、わたしは生まれて初めて、お手紙というものを書いた。
書き出しでいきなり詰まった。話すときは「あの、その」になるくせに、ペンを持つと、今度は書写室で写した聖典の言い回しばかりが、勝手に出てくる。読み書きは、祈祷文を覚えたい一心で、お休みの日に書写室の写しのお手伝いに通って覚えた。だから、わたしの字は、聖典の字で育ったのだ。仕方がないので、出てくるままに書いた。
〈実りは天より、恵みは地より。あの朝のことを、お尋ねくださいましたので、覚えているままに申し上げます。結びの句を唱え終わりましたとき、種は、祈りの言葉が終わるのを、待っていてくれたのだと思いました。何を思うて祈ったかと問われますなら、難しいことは何も思いませんでした。今年も、みんなのごはんが、ちゃんと実りますようにと、それだけを思いました〉
読み返すと、前半と後半で、別の人が書いたみたいだった。聖女様に見せるのが恥ずかしくなって、書き直そうとしたら、取り上げられた。
「これでいいの」
「でも、最後のほう、ごはんって書いてしまいました」
「これが、いいのよ」
聖女様は、宛名の書式と結びの敬称だけ直して――その敬称が、三代前のものだったそうだ。書写室の聖典は古いのだ――封をして、王宮へ送らせた。
お返事は、二日で来た。
今度のお手紙は、前より長かった。芽吹きの朝のことへの御礼と、新しい問いがみっつ。祈りのこと、恵みのこと、それから、なぜか、神殿の朝ごはんのこと。
「……気に入られたわね、聖女様が」
素の聖女様が、複雑そうな顔でお手紙をひらひらさせた。わたしは、胸のまんなかが、ぽっとあたたかくなるのを感じた。
殿下は、聖女様をお慕いしているのだ。あんなにお優しくてお強い方だもの、当然だ。それで、そのお手紙をお手伝いできるのが、わたし。
「聖女様。わたし、がんばってお返事を書きます」
「……そうね。がんばってちょうだい」
それからお手紙は、七日にいっぺん、行って帰ってくるようになった。祈りのこと。恵みのこと。芽吹きの種のその後のこと。神殿の朝ごはんのこと。書くときはいつも、聖女様ならどう仰るだろうと考えて、それから結局、覚えているままのことを書いた。
殿下のお手紙には、問いのほかに、いつからか、王宮の外の一日が書かれるようになった。川向こうの村で、水路の普請を見てきたこと。五年前の病で人手が減って、まだ畑に戻れない家があること。穀倉の梁を新しくしたら、去年の麦が雨に勝ったこと。あるお手紙には〈わたしは祈りを知らないので、かわりに石を積んでいます〉と書いてあった。王宮の方というのは、みんな石を積むのだろうか。よく分からないけれど、石積みの話は、お洗濯の話とすこし似ていて、わたしは好きだった。
三通目のお手紙に、こんな問いがあった。
〈聖女様ご自身は、何があれば、心安らかに一日を終えられますか〉
わたしは考えて、こう書いた。
〈祈りが滞りなく結ばれ、人々が恵みのうちに床へ就くことにございます。加えて申し上げますなら、朝いちばんに干したシーツが、夕鐘より前に乾く日は、たいへん心が安らぎます〉
聖女様は結びの敬称だけ直して、シーツには何も仰らなかった。
次のお手紙には、こうあった。
〈今日はよく晴れました。王宮の中庭の白布を見て、神殿のシーツも乾いたであろうかと思いました。どうやら、あなたの暮らしの言葉は、こちらの暮らしにまで入り込むようです〉
殿下は、聖女様のシーツまで気にかけてくださる。なんてお優しい方だろう。洗っているのはわたしだけれど、そのことは、たぶん関係ない。
五通目のお手紙は、いままででいちばん短かった。
聖女様がそれを二度読んで、無言でロッテさんに渡した。ロッテさんが読んで、白目をむいた。これで二度目である。
「なんと書いてあったのですか」
「……『文にては尽くしがたし。今一度お目にかかり、直接教えを請いたい』」
聖女様はお手紙を文机に置いて、深い、深いため息をついて、それから顔を上げた。
「ミーナ。次のおけいこは、お茶の作法よ」
お茶の句は、祈祷文にない。




