第2話 秘密のお役目と、聖女のおけいこ
芽吹きの騒ぎは、三日たっても収まらなかった。
「わたしはこの目で見たのよ。手をかざしたとたん、ぱあっと芽が出て」
「ぱあっとどころじゃないでしょ。わたしが聞いた話じゃ、花まで咲いたって」
「小鳥が舞い降りて祭壇で歌った、っていうのも聞いたけど」
干し場は朝からこの調子だ。わたしはシーツを絞りながら、うずうずしていた。花は咲いていません。芽です。小鳥もいません。あれは梁にいつもいる鳩です。その場にいた者にしか言えない正確さで訂正したくなるたび、わたしはシーツを固く絞って堪えた。今日のシーツはいつもより乾きがいいと思う。
「御代替わりの祝別でしか出ないんですってね、あのお応え」
「いまの聖女様のときには、出なかったんでしょう」
「五年お勤めして、天がやっとお認めになったのよ。遅れて出ることだって、あるんじゃないの」
「とにかく、聖女様は本物も本物、大本物だったってことよ」
「この国は安泰だわ」
うんうん、とわたしは心の中でうなずいた。そうです。聖女様は大本物なんです。なにせあのお力ときたら、祭服を洗ったくらいでは落ちないのだ。洗った本人が言うのだから間違いない。あの日、たまたまこぼれたお力の残りに、わたしはいまでも少しどきどきしている。
「ミーナ。ちょっといい」
振り向くと、干し場の入り口にロッテさんが立っていた。十日もたたずに、二度目である。干し場のみんなが、いっせいに手を止めた。
「側仕え様が、また洗濯場に……」
「なんの用かしら」
ロッテさんは注目を浴びて、少し泳いだ目をしてから、きりっとして言った。
「……シーツの、苦情よ」
「シーツに何か!?」
わたしは絞りかけのシーツを取り落としそうになった。数えて、畳んで、糊まで利かせて納めたはずだ。どの一枚だろう。番号を言ってほしい。
「いいから、来なさい」
干し場を出るとき、後ろで誰かが「かわいそうに」とささやくのが聞こえた。かわいそうなのはシーツのほうである。どこがまずかったのだろう。糊だろうか、干し向きだろうか。頭の中で納めたシーツを一枚ずつめくりながら、わたしはロッテさんに連れられていった。
* * *
離れの奥の部屋で、聖女様は窓辺に立っていらした。ヴェールのない、白いお顔。二度目でも、やっぱり息が半分止まる。
「ミーナ。よく来てくれたわね」
「はい。あの、シーツはどれでしょうか」
「シーツ?」
「苦情の」
聖女様がロッテさんを見た。ロッテさんはそっぽを向いた。
「……シーツはいいの。あなたに、改めて頼みたいことがあって」
聖女様は祈るときみたいに手を重ねて、静かに仰った。月の祝福のこと。その次の祈願のこと。わたくしの体が戻るまで、お務めを代わってほしいこと。誰にも言えないお願いであること。
「引き受けてくれるかしら」
「はい。聖女様のお体が良くなるまで、何度でも祈ります」
わたしがお返事をすると、聖女様は「ありがとう」と微笑まれて――それから、ふう、と長い息を吐いて、長椅子にへたりこんだ。
へたりこんだ、としか言いようがなかった。祭壇では洗い立てのシーツみたいにふわりと立っていた方が、使用済みのシーツみたいにくしゃっとなった。
「〜〜〜よかったぁ……。断られたらどうしようかと思ったわ……」
「せ……聖女様!?」
「素よ」ロッテさんが横から言った。「慣れなさい。あなたはもう身内だから」
「あのね、ミーナ」長椅子の聖女様が、片目だけこちらに向けた。「祭壇の上のわたしと、ここのわたしは、別なの。あっちは五年間、ろくに休んでいないのよ。ここでくらい、気を抜かせてちょうだい」
五年間、ろくに休まず。わたしは思わず自分の手を見た。シーツだって、洗って干して乾かして、畳むまでが仕事だ。畳む場所のない仕事を五年間って、それは。
「お疲れが、たまるはずです……」
「そうなのよ。疲れがたまって、その」聖女様は、ちょっとだけ目を逸らした。「……祈りに、障るの」
「存じています。ご無理はいけません」
わたしが大きくうなずくと、聖女様はなぜか、もう一度ロッテさんと目を見合わせた。
「……ほんとうに、いい子が来たわね」
「書物の中の話だと思っていました、こういう子」
なんの話かは分からなかったが、ほめられている気はしたので、おじぎをしておいた。
「それで、ミーナ。お礼のことだけれど。お給金を」
「いりません!」
「もらいなさいよ」
「では、あの」わたしは、前から言いたかったことを言った。「祭服のお洗濯を、これからもずっと、わたしにさせてください。ほかの人に回さないで」
聖女様は目を丸くして、それから、祭壇では見たことのない顔で笑いだした。
「……本気で言っているのよね、それ」
「本気です。襟のお香のしみは、扱いが難しいので」
「わかったわ。祭服はぜんぶ、あなたのもの」
こうしてわたしは、聖女様の代理と、祭服の洗濯権を手に入れた。どちらかというと、後のほうがうれしかった。
* * *
その晩から、週に一度、離れで夜のおけいこが始まった。
歩き方と作法は、初日で「文句なし」をいただいた。祈祷文は「わたしより正確」だそうだ。問題はひとつだけだった。
「祈祷文にないことを聞かれたとき、あなた、聖女様としてちゃんと答えられる?」
「答えられます。たぶん」
「じゃあ、やってみるわよ。――ああ、聖女様」
聖女様が、肩掛けを頭からかぶって、腰の曲がったおばあさんの声を出した。素の聖女様は、人まねがとても上手い。
「聖女様、聞いてくださいまし。うちの牛が、三日も餌を食べないんでございます」
「え……ええと、その」
祈祷文が、頭の中でぱらぱらとめくれる。牛の句はない。家畜の句もない。百八もあるのに、どうして牛の一句がないのか。
「その、牛は……あの、藁が湿っていると、お腹をこわします。敷き藁を替えて、日なたに」
「待ちなさい」
聖女様が肩掛けを下ろした。
「……それ、合っているの?」
「実家が牛を飼っていました。三日食べないのは、だいたい藁か、歯です」
「即興で言えているじゃないの、いま」
「牛のことなら、祈祷文より知っていますので」
聖女様は額を押さえて、それから、おけいこの結論を仰った。
「いいこと、ミーナ。困ったら、まず目を伏せる。ゆっくり三つ数える。それから、こう言うの。『天は、すべてをご覧です』」
「天は、すべてをご覧です」
「そう。これはどんな問いにも効くわ。あとは『祈りましょう』と『それもまた、恵みの形です』。この三つを回しておけば、聖女はだいたい務まるの。堂々としていれば八割は聖女に見えるし、祭壇の上なら、残りの二割は蝋燭の明かりがやってくれる」
「はい。天はすべてをご覧です。祈りましょう。それもまた、恵みの形です」
「一度で入ったわね……。じゃあ、さっきの牛でやってみなさい」
わたしは目を伏せ、ゆっくり三つ数えて、顔を上げた。
「天は、牛をも、ご覧です。……敷き藁は、替えましょう」
「包めてないのよ、牛が」
おけいこは、夜遅くまで続いた。
* * *
月の祝福をふたつ、無事に務めたころ、大きなご指名が来た。
イルベルク侯爵家の奥方様が、長のお患いだという。芽吹きの噂を聞いた侯爵様が、ぜひ聖女様の祈りを、と神殿長様に願い出た。お布施の額を聞いたロッテさんが、変な咳をしていた。
「断れる相手ではないの」と、聖女様は素の顔で言った。「……ごめんなさいね、ミーナ。頼まれてくれる?」
「はい。治しの七句ですね。まかせてください」
出がけに口上をおさらいしたら、声が少しうわずった。聖女様は笑わずに、小さな聖章を、わたしの首にかけてくださった。
「お守り。……ただの気休めよ。でもね、握るものがひとつあると、声が据わるの」
侯爵家の奥方様は、白い寝台の上で、紙みたいに薄くなっていらした。斜め後ろにロッテさんが控えて、わたしはヴェールの下で治しの七句を唱え、作法どおり、奥方様の手を両手で包んだ。おけいこの成果で、声はもう震えなかった。
七句を三度繰り返したあたりで、奥方様の呼吸が、ふ、と深くなった。頬に色が戻ってくる。枕元の侍医の先生が、脈を取ったまま、口をぱくぱくさせていた。
帰りの馬車の中で、わたしは首の聖章をぎゅっと握った。
やっぱり。祭服だけじゃなく、聖女様の身の回りの物には、ぜんぶお力が染みているのだ。今度、お洗濯の順番を考え直さないといけない。
「聖女様! あのお守り、ものすごく効きました!」
離れに帰ってそう報告すると、聖女様はわたしの首の聖章を見て、ロッテさんと顔を見合わせて、それからとても複雑な顔で「……そう」と仰った。あの聖章は、参道の市で売っている、銀めっきのお土産だそうだ。聖女様のお手が一度触れただけで、あれだけ染みる。ご本体のお力は、やっぱり計り知れない。
* * *
奥方様は、五日で庭を歩けるようになったらしい。
芽吹きの聖女様は、治しの奇跡まで起こす――噂は神殿の塀を越え、街を越え、わたしの知らない高いところまで、届いてしまったらしかった。
ある朝、離れに呼ばれると、聖女様が一通のお手紙を手に、素の顔のまま固まっていた。ロッテさんが、震える指で封蝋を指した。見たことのない、立派な御印だった。
「王宮から……王太子殿下が、大祈祷の御礼に、参拝にいらっしゃるって……」
三人そろって、お手紙をもう一度、最初から読み直した。
何度読み直しても、殿下は、いらっしゃるらしかった。




