第1話 聖女様の代理を拝命しました
聖女様は、この世でいちばん尊いお方である。その聖女様が礼拝堂でお唱えになる祈祷文は、この世のどの歌より、いい歌である。
ぜんぶで百と八つある。わたしは、ぜんぶ言える。
朝の分は井戸の水を汲みながら、昼の分はシーツを絞りながら唱える。聖堂の床磨きの当番が回ってきた日は、雑巾を押しながら唱える。頭がいいからじゃない。洗濯係の仕事は手ばっかり忙しくて頭がお留守だから、口が勝手に覚えてくれるのだ。夜の分は寝床の藁にもぐって、眠るまでの子守歌がわりに唱える。歌をひとつ覚えるのと、祈祷文をひとつ覚えるのは、わたしの中ではだいたい同じことだった。
その日も、昼の分を唱えながらシーツを泡に沈めていた。
「ミーナ。あなたに聞きたいことがあるの」
振り向くと、干し場の入り口に側仕えのロッテさんが立っていた。聖女様のおそばに仕える人が、石鹸くさい洗濯場まで下りてくることなんて、年に一度もない。わたしはあわてて、泡だらけの手をエプロンで拭いた。
「はいっ。あの、シーツでしたら、あと十枚で終わりますので」
「そうじゃなくて。干し場の子たちが噂しているのを聞いたの。あなた、聖女様の祈祷文をぜんぶ暗記してるって本当?」
どきりとした。下働きのくせに聖女様のまねごとを、って怒られるんだと思った。
「……ごめんなさい。歌みたいで、覚えやすかったもので、つい」
「怒ってないの。本当かどうか聞いてるの」
「ほんとうです。あの、清めの九句でしたら、〈まず水は高きより低きへ、心は低きより高きへ、器を清めて後に満たせ〉――」
口が勝手にすらすら喋る。ロッテさんが手のひらをこっちに向けた。
「わかった、わかったから。作法は? 大祈祷の、入堂から退堂まで」
「からだが覚えてます。ええと、こうやって」
わたしはシーツを抱えたまま、しずしずと歩いてみせた。物干し竿のところで立ち止まって、三拍おいて、深くおじぎをする。
「ここが香炉です。それで、ここから左に回って……二十八歩で祭壇です。月の祝福のたびに、後ろから数えて拝んでいたので。あっ、いま数えたんじゃなくて、足が勝手に数えるんです」
ロッテさんは両手で口を覆った。それからその手を、胸の前でぎゅっと組んだ。目がうるんでいる。
「いた……」
「え?」
「いたのよ、こんなところに……。天は、見捨てていらっしゃらなかった……」
ロッテさんは組んだ手をわたしに向けて、拝むように二度三度と揺すった。なぜ拝まれているのかはさっぱり分からなかったけど、わたしはとりあえず、シーツごとおじぎを返しておいた。
我に返ったロッテさんは、干し場をぐるりと見回して、誰もいないのを確かめて、声を落とした。
「ついてきて。誰にも言わずに」
連れて行かれたのは、大聖堂の裏手にある聖女様の離れだった。下働きは廊下の雑巾がけでしか入れない建物の、その一番奥の部屋。扉が開いた瞬間、わたしは息の仕方を忘れた。
窓辺に、白い祭服の方が立っていらした。
結い上げた金の髪に――ヴェールが、ない。
わたしはとっさに目をつぶった。聖女様のお顔は、月に一度の祝福の日だって、ヴェールの向こうにうっすら透けて見えるだけだ。干し場のみんなと、きっとこういうお顔に違いないと言い合うだけの、ほんとうは誰も見たことのないお顔だ。それをわたしなんかが、お許しもなく、いきなり生で見てしまっていいはずがない。
「……何をしているの」
「おそれおおいので、目をつぶっています」
「開けてちょうだい。顔を隠さずにあなたを呼んだのは、こちらなのだから」
おそるおそる、開けた。
きれいな方だった。それはもう、干し場のみんなの言い合いが、ぜんぶまとめて負けるくらい。ただ、思い描いていたよりも――ずっと、お疲れの顔をしていらした。
ちなみにお召しの祭服を洗って、襟のお香のしみを落としたのはわたしだ。誰かに自慢したい。ずっと黙ってきたけど、今日ばかりは誰かに自慢したい。
「あなたがミーナね」
聖女様が。わたしの名前を。
声が出なかった。ひざが勝手に折れそうになるのを堪えて、腰から深々と頭を下げた。
「は、はいっ。ミーナです。洗濯係の。あの、いつも、その、お祈りを、後ろの方から、拝んで……」
だめだ。祈祷文なら百八つ言えるのに、自分の言葉になった途端これだ。
聖女様は気を悪くなさった様子もなく、仰った。
「ロッテから聞いています。あなた、わたくしの祈祷文と、大祈祷の作法を、ぜんぶ覚えているのですって?」
「は、はいっ。あの、覚えるというか、口が勝手に。……その、とても、いい歌なので」
「歌」
「も、申し訳ありません」
「いいえ」聖女様は、ロッテさんと目を見交わされた。「いい覚え方ね。――折り入って、頼みがあるの」
「はいっ。磨きます」
「……まだ何も言っていないわ」
「なんでも磨きます。床でも、窓でも、燭台でも」
聖女様はちょっと笑って、それから窓の外をちらりと見て、祈るときみたいにまっすぐわたしを見た。
「三日後の大祈祷で――わたしの代わりに、祈ってちょうだい」
* * *
聖女様のお言葉は、耳には入ったのに、頭の中で行き場をなくしてぐるぐる回った。祈って。わたしの代わりに。わたしの、代わりに?
「……あの。お祭服を、お洗いすればいいのでしょうか」
「祈って、と申し上げたのよ」
「はい。ですから、お祈りのときにお召しになる祭服を、真っ白に」
「ミーナ」
聖女様は、ゆっくりと区切って繰り返してくださった。三日後の、大祈祷で、聖女の務めを、わたしの代わりに、あなたが。
一語ずつ拾って、やっと意味がつながった。つながった途端、ひざから力が抜けた。今度は堪えられなかった。
「む、無理です! だって、大祈祷って、あの、大祈祷ですよ?」
「存じていますわ」
「祭壇に立つのは聖女様おひとりで、みんなは後ろから聖女様を拝むんです。わたしが立ったら、みんなが、わたしを」
想像したら血の気が引いた。広場いっぱいの人が、シーツを絞るしか能のないわたしを拝んでしまう。ばちが当たる。わたしはともかく、拝まされたみんなに当たったらどうするのだ。
聖女様は、目を伏せられた。さっき初めて見たばかりのお顔は、窓の光の中で、また少し白くなったように見えた。
「今のわたくしでは、祭壇に立てないの」
ご病気なんだ、と思った。言われてみれば、このごろ月に一度の祝福もお休みが続いていた。干し場のみんなも、聖女様はお疲れなのだと噂していた。
「大祈祷は延ばせない。中止にもできない。あれは、みんなの一年の実りを祝福する祈りだから。……本当なら、代わりを立てられるお務めではないの。でもね、ミーナ」
聖女様が、扉のそばのロッテさんへ目をやった。
「祈祷文も、堂の道順も、もう身体に入っているようです」ロッテさんが、干し場のときの顔のまま言った。「あとは祭服の着方と、癖をいくつか。――三日で、わたくしが仕上げてみせます」
「――だそうよ。大祈祷の聖女は、ヴェールを下ろすもの。顔は見えない。あとは」
「あとは?」
「祈祷文を、間違えないこと」
それなら、と思ってしまった自分がこわい。それなら、間違える気がしない。
でも、わたしはまだ震えていた。震えながら、頭の隅っこで別のことも考え始めていた。もし三日後、祭壇に誰も立たなかったら。祈りのない実りの季節が来たら。みんなきっと、聖女様が祈ってくださらなかった、と言う。ご病気なのに。聖女様のせいじゃないのに。
――聖女様のお名前に、傷がつく。
そう思ったら、口が勝手に動いていた。祈祷文のときと、同じ口だ。
「やります」
「……いいの?」
「聖女様のお名前に傷がつくくらいなら、わたし、百回でも代わりに祈ります」
言ってから、自分で自分にびっくりした。でももう言ってしまったので、ついでに深くおじぎもしておいた。横でロッテさんが、また両手を組んでわたしを拝み始めた。
聖女様は、しばらく黙っていらした。それから、少しだけ――祭壇の上では一度も見たことのない、ふつうの人みたいなお顔で、笑われた。
「ありがとう」
その日から三日間のことは、あんまりよく覚えていない。昼はいつもどおりシーツを二十枚絞って、夜は離れに忍んで、ロッテさんに祭服の着方と、ヴェールの下ろし方と、油断すると早足になる癖を直された。声の出し方も直された。祈祷の声は低く、同じ調子で、句末まで伸ばす。ヴェール越しに堂へ響かせれば、普段の声色は石壁の反響に溶けるそうだ。幸い、聖女様とわたしは背丈がほとんど変わらなくて、祭服は裾をほんの少し詰めるだけで済んだ。
前の晩、帰りぎわに、聖女様はひとつだけ付け足された。
「約束してちょうだい。祈りが――もし、通らなくても。天からのお応えが、何もなくても。気に病まないこと。あなたのせいでは、ないのだから」
ふしぎな約束だと思った。祈りというのは、通るとか通らないとか、そういうものなのだろうか。わたしは毎日、干し場で唱えているだけで、何かをお願いしたことは一度もなかったから、よく分からなかった。
分からないまま、「はい」とお約束をした。
* * *
大祈祷の朝、わたしは生まれて初めて、自分の洗った祭服に袖を通した。ロッテさんが夜なべで裾を詰めてくれたそれは、石鹸じゃなくて、お香の匂いがした。
ヴェールを下ろすと、世界は薄布一枚ぶんだけ白くなった。
「いい、ミーナ。あなたは今日、何があっても聖女様よ。転んでも聖女様。祈祷文を噛んでも聖女様」
「転びません。二十八歩ですから」
「その意気よ」
大聖堂の中は、人でいっぱいだった。街の人たちだけじゃない。厨房のおばさんも、庭師のおじいさんも、いつも隣でシーツを絞っている干し場のみんなもいる。その全員が、入堂したわたしに向かって、いっせいに頭を下げた。
ばちが当たる。やっぱり当たる。当たるなら、どうかわたしにだけ当たりますように。
でも、足は勝手に歩いた。祭壇まで二十八歩。香炉の前で三拍。口は勝手に唱え始めた。大祈祷で唱えるのは、百八のうち実りの二十句。干し場で千回も唱えた言葉は、震えよりも強かった。
祭壇には、今年の種麦の束が供えてあった。結びの句で、聖女はそこに手をかざす。
〈実りは天より、恵みは地より、手のひらの上に還れ〉
わたしは作法どおり、種麦の束に手をかざした。
しん、と堂内が静かになった。
それから、誰かが小さく悲鳴を上げた。
かざした手の下で、種麦が――芽吹いていた。乾いた束のあちこちから、緑いろの小さな芽が、ぷつぷつと顔を出していく。まるでそこにだけ、見えない春がひと足先に来たみたいに。
わたしは固まった。
これは、作法にない。それに、お約束にもない。もしかして、これが、祈りが通ったということなんだろうか。通らなくても気に病まない、とはお約束したけれど、通ってしまったときのことは、何も聞いていない。
この日ばかりは自ら香炉を捧げていた神殿長様が、それを取り落としそうになっていた。どよめきが波みたいに堂の後ろまで伝わって、それから、みんないっせいにひざまずいた。
どうしよう。入堂の作法、祈祷の作法、退堂の作法。芽が出たときの作法は、習っていない。
わたしは考えて、考えて――結局、いちばん深いおじぎをひとつ余分に足して、あとは習ったとおり、二十八歩で退堂した。足だけは、最後まで裏切らなかった。
* * *
離れに戻ると、ヴェールを上げる間もなく、ロッテさんに両肩をつかまれた。
「見たわ……芽吹きのお応えよ……! 御代替わりの祝別にしか出ないって、書物の中でしか読んだことがないのよ、わたし……!」
「ロッテ」
窓辺の聖女様が短くたしなめて、ロッテさんは口を閉じた。聖女様はゆっくりこちらへいらして、ご自分の手で、わたしのヴェールを上げてくださった。じっと、顔をのぞきこまれる。
おこられる、と思った。
「……ミーナ。あなた、何をしたの」
「何もしていません!」
声が裏返った。
「お作法どおりにやっただけです。入堂も、お香も、祈祷文も、ぜんぶ習ったとおりで、ひとつも間違えていません。芽が出たのは、その……種ですから、いつかは出るものといいますか」
「祈りの最中に出るものではないわ」
「で、でも、わたしではありません。きっと、あの、祭服に聖女様のお力が残っていたんです。わたしが洗っても落ちなかったくらい強いお力が、たまたま、こぼれて」
聖女様は何かを言いかけて、おやめになって、それからもう一度、わたしをじっとご覧になった。きれいな眉が、ほんの少しだけ寄っていた。おこっている、というのとは違う気がした。強いて言うなら――洗っても洗っても落ちないしみを見つけたときの、わたしみたいな顔だった。
「……ねえ、ミーナ」
「はい」
「次の、月の祝福も――出てくれる?」
こうしてわたしは、二回目を引き受けた。
ばちは、まだ当たっていない。




