「なぜ生きるのか」から「生きるためになにをすべきか」へ
岩内章太郎は現代実在論を、神の「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)を回復する運動として位置づけた(*1)。その上で「近代哲学が作り出した『広さ』(間主観的普遍性)の代償として、人間は『高さ』を喪失したという事実に思想は対抗できているのか」と問い、「その課題は現代哲学にまで持ち越されている」という(*2)。
彼は宗教や伝統といった「『大きな物語』が崩壊してしまった後の世界に生まれた者たち」を、ニヒリズムが無化しようとしたような「強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態」にあるとして、「欲望の不活性」(メランコリー)を体験するメランコリストと呼ぶ(*3)。
*1 岩内章太郎『新しい哲学の教科書』17頁。
*2 同、81頁。
*3 同、24頁。
だが本稿で示してきたような考え方をするなら、この問題にも突破口をもたらせられるかもしれない。というのもここには神や実在するなにかを前提せずとも、主観的目的の理念という果てしない高さがあるからだ。
理念はその定義からして、この世界に実現されるものではない。それでも目指し続けなくてはならない目的として、無限の高さをもっているのだ。だがこの理念を忘れて、生きることを手段に貶めるなら、たちまち存在不安が生じて、メランコリーに悩まされることになるだろう。
このことは反対に、本来はなんらかの目的に従属して手段を考え出すためのものでしかなかった理性が、神秘化されることで生じたのだろう。つまり理性という神秘的な能力によって捉えられる特別な目的があって、その手段としてわれわれは生存しているのだと考えられるという、目的と手段の逆転によって生じたものなのだろう。
目的なしに動機は生じないことは、第八章ですでに説明した。ということは最上位の目的を示す理念が失われたなら、当然のように欲望が活性化しない状態(メランコリー)が生じるということだ。
生存は所与の目的で、そのためのよりよい手段を得るためにわれわれに思考能力が備わっているのだと考えることで、「なぜ生きなければならないのか」から「生きるためにはなにができるのか」へと、思考の転換が可能となる。
食べるものを得るのにも苦労しているような人は、なぜ生きるのかなどいちいち考えたりはしないだろう。劣悪な環境で飼育され虐待を受けている子犬だって、みずからの置かれた状況に絶望して、生きることを諦めたりはしない。
存在不安を抱えたメランコリストとは、みずからのもつ思考能力(理性)の本分、ひいては生き物としての本分を忘れて、みずから蟻地獄に入り込んでいる人びとなのだろう。
人間は生きることだけを目的にしているわけではないと考えるのは、人間だけはほかの生物たちとは違う特権的な地位にあるといっているようなもので、たんなる人間の自惚れでしかない。
ダーウィンの『種の起源』が出版されてから、150年以上が経過した。この書籍で主張されたことの一つには、あらゆる生物の種差が連続的だということがある。
アリストテレスによれば、そのものの本質を表す定義は類と種差によってなされるが、種は類の性質をそのまま受け継ぐ。つまり人間も生物の性質をそのまま受け継いでいるはずで、もし生物のある性質が人間にだけ当てはまらないなら、人間は生物ではないということになる。この考え方がいくら古いカテゴリー観にもとづいているといわれようとも、人間が抽象によって概念の取得をおこなっている限り、否定することはできない。
20世紀の哲学は、西洋の価値観はほかの地域よりも優れているのだから、未開の地域を支配して西洋の優れた考え方を広めていかなければならないという、西洋の自惚れを否定しようとするものが多かった。
そうして文化相対的な考え方が生まれ、それが行き過ぎることで、あらゆる道徳を相対化してしまう人が出てくるという問題はあったにせよ、西洋という限られた地域による独断と偏見を打破して、道徳範囲を広げていくという面では、たしかに一定の成果はあったように思われる。
しかし価値を相対化していこうという動きは、なんらかの答えを出していこうとする姿勢にネガティブな印象を抱かせ、結果として岩内のいうメランコリストたちを生み出した。
西洋の自惚れを打破したのが20世紀の哲学だったなら、続く21世紀の哲学は、人間の自惚れを打破するものであるべきだ。
「なんのために生きるべきか」と問うのをやめて、「生きるためにはなにをするべきか(なにができるのか)」へと思考を転換させることが、現代人の心を救う唯一の方法に違いない。




