道徳の必然性
道徳は結果を直接操作するものではないので、確実な幸福を約束することはできない。
それでも道徳的な人が幸福になればその結果は必然的なのに対し、道徳的なのに幸福でないのは、ほかに原因があるという意味で、たんなる偶然にすぎない。同様に道徳的でない人が不幸になるのは必然だが、もし誰かが道徳的でないのにうまくいっているとしても、それはたまたまでしかない。
それならば、幸福になれないからといって道徳的であることをやめることには、なんの意味もないだろう。
法則の取得と適用が蓋然的推論だということからわかるように、誰であってもこの世界では、蓋然的にしか生きていけない。そのため結果的にどうなったかではなく、その時々の蓋然性によって、選択の正しさを考えていくほかないだろう。
少なくとも確率論的には、道徳的な方が幸福になりやすいのは間違いないだろうし、世界はさらにそうなるように変わっていかなくてはならない。
インターネット上でたまに、今の道徳はたまたま道徳的とされているにすぎないというような主張を見かけることがある。
その根拠はたとえば、何百年か前には奴隷制が当たり前のものとしてその道徳性が疑われていなかったことだったり、少女が未成年のうちから嫁に出されていたことだったり(さすがにほかの人たちからは非難のコメントが集まっていたが、わたしが目にしたのは、だから未成年との性行為を禁止するのはおかしいという主張だった)、体罰でしか子どもを教育することはできないということだったり(そうとは限らないということは、本稿第七~九章を読めばわかるはずだ)が挙げられていた。
たしかに道徳は、時代によって変化してきているようにみえる。だがこうした変化はあくまで、かつては他民族や他人種、犯罪者や卑しい庶民を対等な人間とは考えず、女性や子どもや奴隷を、夫や父親、イエや主人の所有物と考えていたからにすぎない。
これらにはどれも、当人の意志や目的や利益を、たんに無視することで許容されていただけという共通点がある。ならばひとたび道徳から除外されていた人びとが道徳の範囲に含まれてしまえば、古い道徳に理由なく後戻りすることはないはずだ。
といっても今はまだ、実際には他者を道徳範囲に含めているからではなく、他律的に(非難されないために)道徳を守っているという人も、相当数いると思われる。そのため状況によっては、後戻りしたように見えることが起こる可能性は十分ある。
それでもミルがいうように「真理に備わる本当の強みは……ある意見が真理であるならば、それは一度、二度、あるいは何度も消滅させられるかもしれないが、いくつかの時代を経るうちに、それを再発見してくれる人間がたいてい現れる。再発見された真理のいくつかは、幸運な事情に恵まれて、迫害をまぬがれ、大きな勢力となる。そして、そうなった後は、いかなる抑圧の企てにも耐えられる」(*1)
それゆえ長期的に見れば必ずや、人びとの道徳性は高まっていかざるをえないだろう。
*1 ミル『自由論』(斉藤訳)73頁(第二章)。
ピーター・シンガーはその著書『拡大する輪』("The Expanding Circle")の中で、道徳の輪(つまり道徳範囲)に含められているのはかつては家族だけだったが、それが次第に階級や国家、国家の連合、そして最終的にはすべての感覚ある生物にまで広がっていくとして、道徳が進歩していることを論じた(この考え方を最初に示したのは、歴史家のウィリアム・レッキー)。
スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』において、古代から人類の暴力が一貫して減少傾向にあることを統計的に示し、シンガーの主張を数字で裏付けた。
特に17~18世紀の理性主義、啓蒙主義の時代に、奴隷制や拷問、魔女狩りや残虐な刑罰が廃止されていったことを指す「人道主義革命」を推進した力の一つとして、「人々は自分以外の人間の多くに同情の念を抱くようになり、他者の苦しみに無関心ではなくなった」(*2)ことを挙げている。彼はその要因を、識字率の向上と出版流通の技術によって、人びとが視点取得の技術を得たためだろうとしている。
これはまさしく、道徳範囲の拡大が、社会変革の原動力になったことを示している。共感が拡がってきたことで、世界はたしかに以前より安全な場所になっているし、さらに共感を拡げていくことで、世界は今よりも安全な場所になっていくことだろう。
*2 スティーブン・ピンカー著、幾島幸子・塩原通緒訳『暴力の人類史(上)』青土社、2015年[2011年]、252頁。
生物の身体を構成するさまざまな器官や能力といったものが、それぞれ生存にかなり都合よく、役立つようにできているという事実は、多くの人に驚きを与えてきた。
このことは現代においては、進化論的な説明を与えることができるだろう。われわれの身体が生存という目的に対してうまくできているというよりは、生存に役立つような仕組みをもたらす遺伝子が高い確率で、あとの世代に受け継がれるということが繰り返されたことによって、結果的に現代を生きているわれわれの身体が、生存に役立つ機能を多く備えているのだと考えられる。
たしかにニーチェが指摘するように、発生原因と目的は区別する必要がある。
「あるものが発生する原因はなにかという問題と、その原因が後の段階でどのような効用があり、実際にどのように利用され、目的の体系にどのように組み込まれるかという問題は、天と地ほどに違う性質の問題だ」(*3)
だから生存に役立ったことを原因としてわれわれの理性が発生したとしても、われわれが理性を生存のために用いているということにはならないだろう。
だがわれわれがなんらかの目的に向かうような傾向もたしかに、この世界に発生しているからには、生存に役立ったから生じたものに違いない。もしその目的が生存に役立たないものなら、そのような目的は生じていなかったはずなのだ。
その目的をもっていたら生存確率が高まるような目的とはなにかを考えたとき、生存するという目的以上によさそうな答えは、なかなか見つかりそうにない。もちろんその目的がつねに意識されているとは限らないというのも、われわれの経験からあきらかなことなのだが。
したがってわれわれは、つねに直接生存を目的に据えているわけではないにしても、無意識的には生存という目的に向かわれるようにできていると考えるのが自然だろう。
たしかにわれわれはその無意識的な思惑をつねに意識できているわけではないため、無意識からのメッセージ(情動)を理性が誤解釈して、自殺のような生存に反する行為をすることも時にはあるだろう。目的は理念であって、われわれの頭の中に、確固たるものとして埋め込まれているわけではない。
現代の神経科学では、われわれの脳は単体の司令塔ではなく、いくつものユニットが協働しているにすぎないと考えられている。その意味では<あたかも生存という目的に向かっているかのように>われわれは全体としてふるまっているのだと考える方が、正確なのかもしれない。
だからわれわれの身体を構成している各ユニットの相互作用の仕方によっては、目的に反するようなふるまいが見受けられることもあるというのは、たしかに否定できない事実だ。
だがわれわれの理性の最大の役割は、あくまでなるべく一貫した仕方で、多くの事象を整合的にするような理解の仕方を考えるというものだ。
少なくとも生存がほかの目的のための手段と考えるよりは、生存を目的にするようにわれわれはできていると考える方が、さまざまな事象を整合的に解釈できる。そのことは、本稿をとおして示すことができたはずだ。
今までだれにもできなかった義務論・功利主義・徳倫理学の統合は、われわれは生存を最大の目的にしているという仮定の下でのみ、可能となった。超越論的観念論を神経科学もろとも倫理学に接続できたのも、この仮定があってこそのものだった。このことは本稿最大の功績として認めてもらいたい。
この無意識的な目的は、社会にも隠れた力として影響している。
社会はますます暴力に厳しくなり、簡単に暴力を振るうような人は、ますます生きづらい世の中になってきている。そのような人でも子どもをつくることは可能だろうが、その子どもも暴力的な傾向を受け継いでいたとすると、そうでない人よりは孫の顔を見られる確率は低くなるに違いない(もちろんその子どもが、親を反面教師にした場合には異なってくるが)。
そのようなことが多数の世代で繰り返されたならば、不道徳な傾向をもたらす遺伝子は、どこかの段階で、自然淘汰のチェックの対象になるだろう。
実際のところ、遺伝がどれだけ人の道徳性に影響を与えているのかはわからない。だがそれでも、この社会では不道徳でいることが自身の不利益になりうると認め、理性を働かせて傾向を改善していくことが最善なのはたしかだろう。
少なくともこの社会は徐々に、道徳的な人の方が、得をしやすい世の中になってきている。人間の暴力性が減少してきていることには、十分な理由があるのだ。
人によって価値観が異なることをもって、道徳をたんなる偶然的なものだとする人もいる。
だがこの考え方は、道徳の一部でしかない不完全義務の偶然性を、それとは異なる性質をもつ完全義務にまで、論理を飛躍させて適用しているにすぎない。
人によって採用する手段は違えど、自然が許す限りの生存という最終的な目的は、誰であっても変わらない。共感の範囲が拡大すれば、一人ひとりの自由が拡大して、社会上のリスクが減少するのだから、それにともなって人びとの生存確率は高まることになる。これは究極的には、人が生物としてもつ、生存本能に由来するものといえるだろう。
道徳は決して、偶然的なものなどではない。道徳の進歩には、その結果を引き起こすのに十分な原因がある。それは人類が自然選択にもとづいて進化してきたのと同じ方向性をもった、われわれの本性にもとづいた必然に違いないのだ。




