近代的科学実験によって理性を評価する難しさ、直観によって人をコントロールする難しさ、確証バイアス
(近代的科学実験によって理性を評価する難しさ)
ハイトの実験は、人びとの理性が真理に近づくこと、つまり蓋然性を高めることに役立っていないことの証拠にはならない。
そもそも理性とは整合性を取る能力のことなので、その力は整合性を取る要素が多様になればなるほど、強力になっていく。だが科学的な実験は基本的に、再現性を高めるため、なるべく環境を安定させ、不確定要因の少ない状況をつくり出しておこなわれることが多い。
科学史家の山本義隆は、近代的科学実験の特徴が示されているとして、カントの『純粋理性批判』から「理性が恒常的な法則にしたがうじぶんの判断原理を手に先に立って、みずからの問いに答えるよう自然を強制しなければならない」(*1)とした箇所を引用している(*2)。
この文は「一方で所望の効果を人為的に拡大し、他方で予測される副次的攪乱要因を抑制して理想化された状態に近づける、そのガリレイの目的意識的に計画された実験処方を指している」(*3)。
近代的な科学的方法には、複雑な現実世界をなるべく単純化することを、その手段として要されるのだ。
*1 カント『純粋理性批判』(熊野訳)13頁(BXIII)。
*2 山本義隆『磁力と重力の発見1 古代・中世』みすず書房、2003年、285頁。
*3 同、286頁。
そのため実験環境下では、被験者の利用できる情報が、どうしても制限されることになる。直観の多様さは損なわれ、快不快の感情など、その場で取得した直観が判断に与える影響が、相対的に大きくなる。そうなれば当然、理性の働きは過小評価されやすくなるだろう。
多様な直観を総合することで、蓋然性の高い判断を下すことができる能力が理性なのだから、環境が単純化されれば当然、その真価が発揮されづらくなる。そのような状況で得られたデータを用いて理性の役割を否定しようとするのは、理性に対して、少々公平さに欠けるのではないだろうか。近代的な科学実験の方法では、理性の能力を正当に評価するのは難しい。
意図的にコントロールされた環境ではなく、日常的な活動をする上での人間は通常、みずから情報を探索しに行くことができる。だから決していつも、自分の感情だけを頼りに判断しているわけではない。
自分のもっている情報を、他者に開示することもできる。社会では人びとが、繰り返し相互に作用しあっており、生きている間は誰でも、新しい直観をつねに取り入れ続けている。
そうした直観のすべてが、その人の考え方に影響する可能性がある。
(直観によって人をコントロールする難しさ)
ハイトは「経費報告書は、最後ではなく先頭に署名欄を設け、誠実さの証としてサインさせると、経費の過剰請求が大幅に減るというダン・アリエリーの発見」(*4)を一例に挙げて、「私たちは、倫理的な態度の大きな改善につながるような環境の微調整ができる」(*5)という。
たしかに環境から人に影響を与えることはできるだろうが、どのような問題に対してもそのような単純な方法が都合よく存在するわけではないだろうし、現実の人間や状況はもっと複雑なので、人の理性の働きを無視するのにも限界がある。
*4 ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』580~581頁。
*5 同、157頁。
直観によって人をコントロールするというのは、言葉でいうほど簡単ではない。
直観は考え方や価値観の原因にはなるが、因果関係というものが結果を必ず引き起こすとは限らないということは、今までに何度も、しつこいくらいに述べてきたことだ。
しかし結果を引き起こす確率は、高めることができる。だがどんな直観でもいいというわけではない。もし誰かに、自身の考え方に同意してもらおうとするなら、素直に自分の考え方がどのような前提によっており、そこからどのような思考の道筋を通って導かれた結論なのかを説明することが、遠回りのようでいて、結局は一番の近道になるだろう。
称賛や罰で快不快の感情を生じさせることで、他者をコントロールしようとするというやり方だけでは、その場しのぎのものにしかならない。称賛や罰を与えたのなら、なぜそのような称賛や罰を与えられることになったのかも、合わせて説明しなければならない。というのは快不快によるオペラント条件づけとは、その原因を特定することで効果を発揮するものだからだ。
快不快の感情を適切な原因に条件づけられることではじめて、望まれるようにその人の今後のふるまいに影響を与えられる。そうすることで一時的なものではなく、その人のその後の行為全般に影響する、長期的効果が期待できるようになる。
みずからの理性がどのような思考の道筋をたどらせたのかを、他者に開示(説明)すること。これこそが理性によって他者を説得する唯一の方法なのだ。
(確証バイアス)
理性を働かせることによって人は、ほかの人とも同意できる考え方をみつけることができ、実際に同意することで、協力の利益を得ることができる。その一方で人には、その過程を阻害するような傾向も備わっている。
一度反省的判断によって取得された法則は、規定的判断の前提として、何度でも再利用可能だ。そうなるとどちらかといえば反省的判断よりも、規定的判断の方がおこなわれる頻度が高いだろうことが予想される。
なんらかの行為に快不快の印がつくには、その行為を実際におこない、その結果をフィードバックとして受け取る必要がある。そうなれば当然、反省的判断よりも規定的判断の方が、快の印がつけられる機会が多くなるだろう。
したがってわれわれは、オペラント条件づけによって、反省的判断よりも規定的判断を、より多くおこないやすい傾向にあると考えられる。
そこで問題になるのが、反省的判断をおこなった際に、直観が不足していたために蓋然性の低い法則を取得することになったが、そのまま誤った法則を規定的判断の前提にしたことで、その法則に矛盾する結果が生じたという場合だ。
規定的判断によって予測した結果と、実際の結果が異なることにすぐに気づけたなら、新たに反省的判断をし直すことによって、法則を修正することも可能だろう。ところがわれわれの行動傾向が、反省的判断よりも規定的判断に偏るように習慣づけられているとするなら、反省的判断をするべき場面でも、規定的判断ばかりをおこなってしまい、誤った個別判断を繰り返すということがしばしば起こりうる。
この状態は、いわゆる確証バイアスと呼ばれる現象の説明になるだろう。
第七章では確証バイアスの原因を、結果を必然と捉えるか偶然と捉えるかという認識の問題としたが、これは規定的判断の結論(もしくはその前提とした法則)と実際の結果の不整合に気づきにくいことの理由であって、ここで説明しているのは、反省的判断よりも規定的判断を優先してしまう理由だ。
この二つの要因が組み合わさることで、確証バイアスが引き起こされると考えられる。
第六章で紹介したネガティビティ・バイアスは生存の必要のために備わっている傾向だと考えられるが、同じバイアスという名前がついていても、確証バイアスはほかの仕組みによる副作用と考えた方がよさそうだ。
これを防ぐには、心に浮かんだ手段候補をただ追認するのではなく、得られた直観に少しでも違和感を覚えたら、なるべく理性を働かせるように意識していくしかない。
多種多様な直観を集めるということは、それまで取得したことのないような種類の直観を拾い上げていくということにほかならない。新たに取得された直観がすでにもっている法則に整合しているということの確認ならば、規定的判断で足りる(このとき、快が生じる)。だがすでにもっている法則に整合的ではない直観を拾い上げ、そうした直観にも整合するような法則を新しくつくりだすアブダクションは、反省的判断でしかおこなえない。
よりよい思考には、よりよい法則が欠かせない。そしてよりよい法則は、よりよい反省的判断によってつくりだされる。
したがってよりよい思考には、よりよい反省的判断が必要なのだということを、なるべく忘れないでおく必要がある。




