道徳の意味
目的が定まったなら、次に考えなくてはならないのは、そのための手段だ。
本稿では道徳や理性が、目的との間にどのような関係があるのかを考察することで、道徳の有効性を論じてきた。
道徳を端的に表現すると、社会上の悪い原因可能性を減らし、善い原因可能性を増やすことによって、社会の人びとが幸福になれる蓋然性を高めていこうとするものだといえる。
蓋然性の問題だから、不道徳であるにもかかわらず幸福そうに見える人の存在をもって、道徳の有効性を否定することはできない。これはたとえば空中で離した石に、たまたま友人が投げてきた別の石がぶつかって軌道が変わったという事実があったからといって、空中で石を離すと真下に落下するだろうと考えさせる因果法則を、完全に否定する気にはだれもならないのと同じことだ。
たしかに周囲に優しい人が多い中で、あえて自分だけ人に優しくしないことで、ほかの人たちの優しさを利用し、一時的に得をするということはありうる。だがその場合、優しさを利用された人からすると、自分が人に優しくしていたために損をしたということになり、オペラント条件づけによって、その人は人に優しくすることをやめてしまうかもしれない。
なぜならヒュームがいうように「あなたも私と同じく、遠いもの[長期的な利益]よりも隣接したもの[目先の利益]を好む傾向を持つ。あなたはそれゆえ私同様に、不正義の行ないに及ぶように自然に動かされる。あなたが見本を示すことで、私もまねをして同じ方向に突き動かされる。同時に、私が衡平を破るあらゆる行為には新しい理由ができる。他の人たちが放縦に振る舞う中で、私がひとり厳しい抑制を自らに課すとすれば、真正直のおかげで馬鹿を見るであろうことを、あなたの見本が示してくれるからである」(*1)
そうなれば社会にいる優しい人の数は、減少していくことになるだろう。すると他者の優しさを利用して利益を得ようとする人も、そうでない人も、他者の優しさの恩恵を受けられる確率が減少することになる。
人は一般的に、他者に優しくない人に優しくしたいとは思わない。なぜなら他者に優しくない人に優しくするのは、公平ではないからだ。そのため自分が他者に優しくないことに気づかれれば、やはり他者の優しさの恩恵を享受できる確率は減少することになるだろう。
*1 ヒューム『人間本性論 第3巻』94頁。[]内は引用者による言い換え。
このように不道徳な人は、長期的な観点では不利益を被る蓋然性が高くなる。
だが共感の範囲が狭いために、その範囲の外にあるリスクの存在には無頓着になりがちだ。そのせいで範囲外の人たちの行動を予測することが困難となり、自身の不利益の可能性さえ認識できないというリスクを負う。
他者の経路を推論して共感しなければ、他者にリスクが発生していることを認識できず、あるいはそのリスクを過小評価して、それに対してその他者がどう判断し、どう行動する可能性があるかの予測が甘くなる。だから知らず知らずのうちに、誰かの恨みを買っていたりして、想定外のリスクが増えているということもあるだろう。それが現実のものとなってからでは、遅いのだ。
なんにせよ人間には、道徳的になることを目的とした機能が、さまざまに備わっている。
たとえば誰かのふるまいに道徳性を感じたときに、人は「感動」するし、高い道徳性を備えている人は、しばしば「尊敬」される。反対に不道徳な行為を平然とおこなっている人がいれば、自分が直接の被害者でなくとも、人は「怒り」を感じたり、そのような人を「軽蔑」する。
自身の目的を尊重してくれていそうな人のことは「好き」になりやすいし、自身の目的を蔑ろにするような人のことは「嫌い」になる。
こういったことからわかるのは、少なくとも人は、他者に対して道徳的であってほしいと願うようにできているということだ。自分自身のおこないに関しても、歩道橋から見知らぬ人を蹴り落とすことを、躊躇するような機構がある。
とはいえこうした感情に頼った道徳には、限界がある。
まず感情はその場での一時的な判断には強く影響するものの、長続きしない。恵まれない子どもがメディアで大きく報道された場合、人びとの同情を誘い、多額の寄付が集まるということもあるだろう。だがその後何年何十年と社会からの支援が続くということは、あまりない。
だがたとえきっかけは感情だったとしても、そこからさらに思考を進め、援助することがこの世界をより善いものにして、自身の利益にもつながると、理性で納得することができれば、その動機は持続しやすくなる。
また感情に頼った道徳は、その蓋然性も思うほど高くない。なぜなら感情は、その目的を教えてくれないからだ。
たしかに怒りの感情は、そのときに怒ることが正しい可能性は教えてくれるかもしれない。だがそうした情動がわき起こってきたからといって、つねに怒ることが正しいという保証はない。
応報感情は、不道徳な人が不利益を被る確率を高め、道徳的な人が相対的に得をする状況をつくり出すのに、一定程度の貢献はするだろう。だが報復の連鎖は、壊滅的な被害を双方に与えるだけになりがちだし、非難されたり罰せられた人が道徳的になるとは限らないので、つねに報復が正しいとは限らない。
道徳範囲を拡げるために必要なのは、他者の目的を尊重することであって、非難や罰への恐れからでは、形式主義しかもたらされない。本当の意味で共感の範囲を拡げるには、感情だけでは力不足だ。
人間の認知機構によって条件づけられた感情は、その目的や原因といったものとの関係を切り離し、考えを形式化する。手段の目的化も、同様の効果を生み出す。
これらは同時に考えなくてはならないことを減らすことによって、認知資源を節約し、素早い判断を可能にする。しかしその効率性は、蓋然性を犠牲にすることによって成り立っているのだということを、忘れてはいけない。
認知的効率性のために失われた<関係>を復活させるために、本稿ではここまで多くの言葉を費やしてこなければならなかった。ここまで書いてきたことの多くは、読者にとって当たり前のことばかりだと感じられたかもしれない。だがその当たり前のことがしばしば忘れられるように、人間はできているのだ。
だから今一度、確認する必要があった。当たり前のことをしっかりと明確にしておかないと、わかっていたはずのことでも曖昧なまま思考を進めるうちに、概念の混同や必要な前提の排除がそこここで生じ、次第に大きなずれとなる。現実は共有しているはずなのに、情報の処理過程の蓋然性の低さのために、最終的にはまったく異なる結論が出てくる。
この現象をさしずめ、思考のバタフライ効果とでも呼んでおこう。
そのために当たり前のことをわかっているはずの人どうしでも、大きな意見の食い違いが生じ、不毛な対立を生み、非常に非効率な社会の要因になっている。
科学技術が急速に進歩して物質的には豊かになっているはずなのに、人びとが必ずしも幸せになっているとは思えない理由は、なんのためにそのような技術があるのかという観点を、多くの人が忘れてしまっていることにあるのではないか。
グローバル化が進んでも疎外される人を極限まで減らすためには、当たり前のことを一つひとつ、確実にみなで共有しながら思考を進めていくことによって、人びとの精神を着実に進歩させていく以外に方法はない。
推論は、理性能力と判断力が組み合わさることによって、おこなわれる。人は理性能力と記憶能力が発達したことで、さまざまな事情を同時に考慮に入れることが可能となった。そのおかげでわれわれは、状況に応じて柔軟に手段を選択できるようになった。このことが人類の高い環境適応能力につながり、地球上の広範囲にわたって繁栄する要因となったに違いない。
にもかかわらず、時と場合によって異なる手段を用いることを、一貫性がない、矛盾しているといって非難するというのは、人間を単純な機械のように扱うことで理性を無力化し、能力によるせっかくの恩恵を放棄させようとすることにほかならない。形式的な道徳原則に固執する人はおそらく、こうした非難を恐れているのだろう。
環境が変われば、最適な手段も変わる。人の行動の一貫性を評価するには、形式的な手段だけで考えるのではなく、その都度の目的を考慮した実質的な評価で考えなくてはならない。
ただし目的を考慮した上で、その目的に一貫性がないという非難ならば、つまり狭い道徳範囲のために、広い道徳範囲のみかけを利用したのではないかという疑惑を含意し、その道徳範囲の狭さを非難の対象にするということならば、合理的な非難になりうるだろう。
たしかに多くの人びとの目的に整合するような法則を見つけるのは、容易なことではない。二つの事情に整合的になるような考え方を見つけるよりも、5つの事情に整合的な考え方を見つける方が難しい。整合性を考える要素が10や20にも増加したなら、難易度はさらに高くなる。
道徳範囲を拡大するということは、気にかけないといけないこと、つまり整合性を取らないといけない要素が、それだけ増えるということだ。だから道徳性を高めるためにはそれだけ、理性をよく働かせる必要が出てくる。人間が不道徳なことをしてしまいがちなのは、その方が頭を使わずに済んで楽だからというのも、一因としてあるのかもしれない。
だがいかなる法則も、少数の事情に整合的な法則よりも、多数の事情に整合的な法則の方が、より大きな価値をもっていることは疑いようがない。
道徳的な社会は必ず、人びとを自由にし、すべての人に最大の利益をもたらす。自由なこと、利益を得ることを望まない人間などいない。
道徳的でない社会とは、道徳的でない人が存在する社会のことをいうから、自分が道徳的でない限り、自分の住む社会は決して道徳的にはならない。
加えて自分が道徳的でない限りは、ほかの人に対して道徳的になるよう、正当に要求することさえできない。
ならば人は例外なく、みずからが道徳的になることを望み、道徳的になろうと意志しなければならない。
――ゆえに、道徳には意味がある。




