伊都とカテリーナ
第33章
墨の香に混じって潮の香が届く部屋に、子どもたちの元気な声が響いていました。
「今日のお稽古は、これでおしまい。また来週ね。」
週に一回、地元の子どもたちに字を教えることを始めてから、不思議と伊都はつわりの症状が和らぎ、食欲も出てくるようになりました。
子どもたちが帰った後、部屋を片付けようとしたところに、とよが入ってきて、一緒に文机を片付けながら、しみじみ語りました。
「本当にようございました、伊都さま。このところすっかり体調も落ち着いて。信徒の方々に無理矢理頼まれて始めたことですけれど、やはり伊都さまは、文字を書いているときが、一番生き生きとされているのですね。」
「そうね、少しは左手で書く練習をしていたけれど、教えるのならば右手と同じくらいに書けなければと修練したことが、生きがいになったのかもしれないわ。それにね、子どもたちに教えるって、本当に楽しいの。どんどん上手くなっていく姿は、自分のことにように嬉しいわ。」
「とよも嬉しゅうございます。昔の明るい伊都さまが戻ってくださって。」
「とよ、あなたには本当に迷惑をかけてしまっているわね。」
「何をおっしゃいますか。左手でこれだけ書けるということは、もういつでも国に戻ってお仕事も再開できますね。」
「そうね、雇ってくださる方がいらっしゃるのなら…。」
「伊都さま、先日おいでになった高盛殿からは、そのお話はなかったのですか?」
「まずはこのお腹の子を無事産むことが最優先だし、それに…いま国に戻っても、私は余計な存在でしょう。現ご当主の昌義殿にはすでに専任の右筆がいらっしゃいますし、ましてや、子を成さなかった昌義殿の正妻那珂殿にとっては、私は目障りでやっかいな女でしょう。実際、その手下に襲われて、こうして右手を失ってしまったわけですから…。」
「それは…」
「それに、もし私が産んだ子が女児であった場合は、なおさら不安定な立場になってしまうわ。高盛殿は、その場合のことも考えているとおっしゃってくださったけれど、難しい状況に陥ってしまうことも覚悟しています。だから…とよ、私は…。」
「だから? 伊都さま、どうなされるおつもりでしょうか?」
「別の生き方も考えなければならないのです。例えば、ほかに土地で暮らすとか…。」
「伊都さま、も、もしや、パオロ様と…。彼がアユタヤから戻ってくるのを待っていらっしゃるのですか。だからまだしばらくの間はここで静養したいと高盛殿に強く懇願されていたのですか!」
「とよ、落ち着いて。こちらに来るときの船旅は耐えがたいものだったし、安定期に入って体調が万全でないと、あんなことは二度と無理だわ。それに、もう少し冷静に考えたいの。アユタヤに日本人村があるとは聞いているけれど、とういうところがもっと知りたいし、昌義殿と上様の関係がどういうものなのか、見極めなければ。さらに景永殿からのお申し出も、まだ有効ならば、その道も可能性の一つとして考えなければなりません。」
「伊都さま、さすがでございます。」
「パオロ殿がアユタヤから戻ってくるまでに、どの道を進むべきが、決めなければなりませんね。」
*****
リュートの音色に、時折混じる子どもの楽しそうな笑い声を聞きながら中庭を進むと、四阿で調弦をしているカテリーナの姿を見つけたセルジュは、明るい声で挨拶をしました。
「カテリーナさま、お久しぶりです。お約束通り、またリュートを習いに伺いましたよ!」
「あら、セルジュ殿。ごきげんよう。ご商売のほうは大丈夫なのですか?」
セルジュの声を聞きつけて、駆け寄ってきたアダムの頭を撫でながら、陽気な声で続けました。
「ええ、おかげさまでマルセイユとヴェネツィア間での定期便は順調ですよ。ナポリの姉のところも上手くいっているようで。だからこうして私が三ヶ月に一度、カテリーナ様のところに顔を出すのは、商売繁盛の証と思っていただいて大丈夫ですよ。アダムさまはちょっと見ないうちに大きくなりましたね。あと数年で私の背丈を追い越しそうだ。」
「相変わらずね、セルジュ殿。どうぞお座りくださいな。今日は少し暑いでしょう? 今何か飲み物を持ってこさせますわ。」
パオロが東方に旅立ってしまってから、数ヶ月に一度の割合で、セルジュはカテリーナを訪問することがすっかり当たり前の習慣になっていました。パオロの不在で気分が落ち込みがちなカテリーナを元気づけようと、セルジュがリュートを習うという名目でフォスカリ家にやってきていたのです。
セルジュはカテリーナからリュートを習うだけではなく、ときには知り合いの集まりの場などでのカテリーナの演奏会を企画して、彼女が生きがいを感じられるようにといろいろと元気づけていたのでした。
そんなセルジュの気遣いと優しさに、カテリーナも救われていたので、気軽な会話を楽しみながらも、彼に心から感謝していました。
「今日は朗報がありまして。姉夫婦がナポリからジュリオ殿のシチリアの本宅にしばらく滞在することになったんだそうです。ジュリオ殿お父上のお祝いごととかで。そこでジュリオ殿や仲間の方々が集まるそうだんですが、そこでカテリーナさま、よろしかったらそこで演奏会をなさいませんか? 王侯貴族の方々も出席されるかもしれないとか。アダムさまももう旅行ができるお年頃ですし、よい機会ではありませんか。」
「まあ、そんなお話があるのですね。」
「近いうちに、お父上のファビオ殿あてに、正式な招待状がフォスカリ家にも届くと思いますよ。きっとジュリオ殿も大きくなったアダムに会いたいのではないかな。」
「そうね…、本当はパオロも一緒に行けたらどんなにか…」
パチン! と鋭い音がして、調弦していたカテリーナのリュートの弦が切れました。
「大丈夫ですか? ああ、血が出ているではありませんか!」
「このくらい大丈夫よ、大丈夫。一番細い第1コースが切れてしまっただけだから、よくあることよ、よくあること、大丈夫…」
その言葉とは裏腹に、カテリーナは心の中で、ひどく重苦しく不安な気持ちに襲われていたのでした。




