交渉前のこと
第16章
右手の傷の痛みがほとんど引くと伊都は、今度は自分から蔵奉行あてに『拙宅までおいでいただけないか』と文を出しました。
伊都は立ち止まっても、またすぐ動き出すことのできる女でした。
「奉行殿、ご足労いただき、恐縮至極に存じます。』
「伊都殿、もうご体調は良いのですか?」
「お気遣いいただきまして、嬉しゅうございます。おかげさまで手の痛みはほとんどひきました。そこで、そろそろ、我々は義彰様のご遺言を実行しなければならないのではないかと思いまして、奉行殿、そして家臣団の皆様のお考えをお伺いしたく。」
前回訪問した際は、傷も癒えておらず、何より後盾の義彰を失い、目を伏せ、失意の底にいたように弱っていた伊都が、今日は一転してまっすぐに自分を見て話す姿に、伊都の父親ほどの歳の蔵奉行の高盛は安心して、思わず、ふふと微笑みを浮かべてしまったのでした。
「義彰殿のおっしゃる通りですな。伊都は普通の女子ではない。すぐ立ち直って、子を産む前にも一仕事やり遂げるだろう、と。では早速対策いたしましょう。ポルトガルとの商談のことですな。確かにあの商人は当然のこととして、今度は上様と交渉を開始するでしょうな。その前に我々は動かねば。」
「先日、懇意にしている修道会の見習いの少年が、私のところにお見舞いに来てくれました。私が右手を失ってしまったことを知り、慰めてくれました。」
「件のポルトガル商人との稽古に同行してくれる少年ですね。」
「はい、今はまだお会いしたくないと伝えましたが、おそらく商人のパオロ殿は私のことを心配してくださっているはずです。義彰様の訃報もすでにご存じでしょう。私がお会いしたいとお願いすれば、必ずすぐ来てくださるはずです。上様には内密に。そこで取引の交渉を再開する前に、奉行様とご相談しなければと思い、本日は不躾ながら、お呼び立てしてしまいました。」
「義彰様からの文には、職人に作らせた鉄砲をマラッカ総督が購入するという内々の約束ができているとのことでしたが。」
「はい。ただ、支払いの方法や輸送に関することの詳細は、まだ決まっておりません。そこを私が交渉するようにと、仰せつかっております。義彰様はおっしゃられました。“高盛のような地位のある者では人目につくだろうし、万が一、上様に事情を知られたら、申し開きに苦労するが、伊都なら表向き今までと同じ稽古だというていで会うことができるだろう、と。“」
そのあとずっと伊都と交渉条件の細かい打ち合わせをしたあと、蔵奉行の高盛は
「あまり好ましい話ではないが」という前置きの言葉とともに、次のような話をしたのでした。
「以前話したように義彰殿の後継は、そなたの産む子までの中継ぎとして家臣団の側近の一人、妹婿の昌義殿ということで上様に領土を安堵されたのだが、このことに義彰殿正妻である那珂殿が、ご不満とだというお気持ちを表明してな。少しばかりやっかいなことになっておる。」
「那珂殿は、上様の妹御でいらっしゃいますでしょう? それに何より私の産む子を引き取ってくださる予定でございますから、その地位も安泰でいらっしゃいますのに?」
「それがな、軍奉行として家臣団で発言権のある安宅氏の血縁の冬彦殿が、那珂殿を擁護する発言をされたのだよ。昌義殿としては、いまお家騒動を起こして上様に目をつけられて、取り潰しなどになってしまっては元の子もない、と必死におさめようとしているが、昌義殿のところに先日、男子が生まれてな。那珂殿が、その昌義殿の子に家督が継がれるのではないかと、疑心暗鬼になっているようなのだ。」
「さようでしたか…。」
「まさか、側近や近習の誰かが、そなたの命を狙うようなことはないかとは思うが、そなたの妊娠を知った者が何をするかわからない。警護の者に警戒は強めておくよう指示を出しておいた。まあ、大事ないと思うが、念のためにな。」
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まだ上手く字をかけないことに苦労しながらも何とか面会を求めるパオロ宛ての手紙を書いて下女に渡し、礼拝堂にいるジョルジョという少年が言葉が通じるから、その少年に文を渡すよう言いつけたあと、伊都はこころを落ち着けるために茶室に向かい、小間使いのとよに命じて茶を点てさせ、ひとり思考を整えようとしました。
翌日のパオロとの交渉を控えて小一時間、茶室で一人思考をめぐらせていると、給仕口のほうから話し声がして、水屋に控えていたとよが少し動揺した様子で伊都に声をかけてきました。
「お館さま、あの、今お屋敷に、お館さまと出来ればお話したいという方がいらしているのですが、いかがいたしましょうか?」
「どのようなご身分の方かしら?」
「ある程度の地位のお武家様のようなのですが。左近景永と名乗っておられます。」
その名前に聞き覚えがあった伊都ははっとして
「わかりました。待合までご案内してください」
と答えました。
左近景永殿。ネーデルランドと取引をしているというあの武将。義彰様と対抗する存在であり、私の帰国に対し物言いをつけた人物。今さら私に何の用があるのだろう?
不思議なことに、このとき伊都は何故か、不安より、好奇心を強く感じていたのでした。




