09
あの離宮を見つけたのは、偶然だった。
宮殿の敷地は、小規模な街をひとつやふたつ呑み込んでしまえるほど広大だ。メインとなる宮殿以外にも、大小様々な幾つもの庭園があちこちに配され、今では肖像画の中でしか見ることの出来ない歴代の王たちが――正しく言うならば、王妃たちが――建てた離宮も複数存在している。
あの離宮も、その幾つもある内のひとつに過ぎない。当時まだ幼かったセラフにはその程度の知識しかなく、いつ頃、誰の指示によって建てられたのかなど、まるで興味も湧かなかった。
そんなふうであったから、無論――その中で凄惨な行為が繰り返されていたことなど、セラフには知る由もなかった。
離宮にはそもそも興味など全くなかったのだが、何故あの日、あの離宮に――広大な敷地の北の外れにあるそれに――興味を惹かれたのかは、大人になった今でも分からない。ただ自然と視線が吸い寄せられ、何かに囚われたかのように目が離せなくなり、気付けば足が勝手に動いていた。
野草や野花が好き放題に生えた――つまりは殆ど手入れの施されていない――庭園。その先に、背後を木々に抱かれるようにして建つその離宮は、外見こそ荘厳で立派であるものの、真昼の長閑な青空の下でさえ、どことなく陰気な気配を纏っていた。
鬱蒼とした木々の落とす翳りのせいで仄暗く見えたせいかもしれないし、王城の一部とは思えないほど荒んだ庭園に面していたせいかもしれない。
まるで幽霊屋敷のようだ、と――それが、セラフの抱いた第一印象だった。
何十年、何百年と存在する宮殿及びその広大な敷地には、至る所に“曰く付きの場所”が存在する。たとえば、夜になると勝手にピアノが鳴り出す音楽室や、数百年前の装いをした貴婦人が彷徨っているという庭園や。途方もない年月が蓄積された場所であるからこそ、此処はそういった“噂話”には事欠かない。
だから、あの離宮もそういった場所のひとつなのだろう、と思った。侍女や執事どころか、下級使用人の口からでさえ、北の外れに建つ離宮の話など一度も聞いたことはなかったけれど。
兎も角、興味を惹かれたセラフは、足の赴くままに離宮へと近付いた。勉強が嫌になって自室を抜け出しはしたものの、幼馴染のアレンは剣の稽古の真っ最中で、ちょうど暇を持て余していた時に見つけた“陰気な離宮”。幼いセラフの好奇心が擽られたのは、言うまでもない。
主不在の離宮は、基本的に警備が手薄だ。とはいえ、玄関はもちろんのこと、どの戸口や窓もしっかりと施錠されている。
北の離宮――と、当時勝手に命名した――も例に漏れず、王家の紋章がしっかりと刻まれた白亜の扉の両脇には、剣を脇に携えた屈強な男がふたり、扉を挟むようにして立っていた。
セラフは小さな体を活かし、灌木やオブジェの影に身を潜め、扉番の目を盗んで建物の裏手へと回る。間近で見る離宮は、遠目で眺めた時以上に薄汚れていて、土埃で薄っすらと黄ばんだ壁には枯れかけの蔦が好き放題に蔓延っていた。嘗ては宮殿や他の離宮と負けず劣らずの美しさを誇っていただろうに、その面影はまるでない。
外観がこんなに荒んでいるのなら、邸の中はいったいどうなっているのだろう。
興味を唆られ、セラフは試しに裏口のドアや廊下の窓などを開けようとしてみたけれど、案の定、どれもびくともしなかった。
仕方なく、背伸びをして細長い窓から中の様子を盗み見る。埃を被って薄っすらと白くなった臙脂の絨毯、枯れて萎れた花が活けられたままの花瓶、元の鮮やかさを失いすっかり色の濁ってしまった絵画。どうやら長らく誰も使っていないらしい。
真昼にもかかわらず、背後に鬱蒼と広がる木々のせいで、邸の裏手は薄暗い。伸び放題の下草や芝生にささやかな木漏れ日を落とすだけで、表の明るさとはまるで程遠い。
本当に“幽霊屋敷”のようだ、と思いながらぶらぶらと歩いていると、不意に、建物の下部に取り付けられた四角い穴を見つけた。
まるで闇を刳り貫いたようなそこには鉄格子の蓋が嵌められていたものの、所々錆びついており、侵食された部分には虫食いのような小さな穴が開いている。どこからどう見ても真新しいものには見えないその鉄格子の向こう側からは、ほんの微かに、ひんやりとした風が流れ出てきていた。
微風があるということは、この暗闇の奥は邸の中の何処かに繋がっているのだろう。躊躇ったのはほんの一瞬だった。すぐにセラフは古びた鉄格子に手をかけ、なるべく音を立てないよう注意を払いながら、そっと蓋を開ける。
鉄格子の奥には四角く小さな通路が伸びており、子どもの身体なら少し屈めば十分に進めるほどの大きさだった。ぐっと屈んで中を窺うが、闇は随分と奥まで覆い尽くしており、通路が何処まで続いているのか、その先に何があるのかは全く分からない。
それでもセラフは一歩を踏み出し、ゆっくりと通路を進んだ。歩けば歩くほど、僅かばかり差していた陽光はどんどんと薄れてゆき、暫くすると何も見えなくなった。漸く暗闇に慣れた目と、壁についた両手の感覚だけを頼りに、セラフは慎重に歩みを進める。
どれくらい進んだ頃だっただろうか。唐突に、進行方向の先に、ぼんやりとした淡い光に縁取られた出口が見えた。
そこにも外と同じように鉄格子の蓋が嵌め込んであったが、近付いてよく見てみると、錆び具合は殆ど同じだった。子どもの力でも容易に取り外せそうだ、と思い、セラフは躊躇なく手をかけて鉄格子の蓋を外す。
外した蓋を脇に避け、セラフはこくりと唾を飲んだ後、通路の外へとそっと顔をのぞかせた。
まず彼を襲ったのは、鼻につく異様な臭いだった。埃と黴、それから鉄錆のようなものが混じり合った、饐えた臭い。通路の外には四方が石で作られた小さな空間があるだけで、明り取りは僅かしかないのか、随分と薄暗い。
思い切って通路を飛び降り、セラフは周囲を見回す。石壁に沿って置かれた木製の椅子、乱雑に床に放られたままの鉛や木枷。それから――。
殺風景なその部屋を順々に見ていたセラフの視線が、ふと、ある一点に吸い寄せられた。あの錆びついた蓋とはまるで違う、しっかりとした造りの頑強な鉄格子。それは部屋の半分を区切るように天井から床下までしっかりと嵌め込まれ――その奥には、驚いた表情でこちらを見つめる青い瞳があった。
潤いを失くしてかさついたプラチナブロンドの髪の毛、長く濃い睫毛に囲まれた丸っこい目、掠り傷の残る生白い痩けた顔。
少女だ、と思った時には既に、彼女の青い瞳から驚きが消え、華奢な――というより、ひどく痩せ過ぎな――身体は恐怖で小刻みに震えていた。
身につけた衣服は麻製の質素なもので、随分長く着ているのか、丈は膝上まで上がり、袖口からは細い手首が覗いている。ほつれや継ぎ接ぎが目立ち、元の色が何色だったのか分からないほど黄ばんだ生地には、所々に黒い染みがついている。
鉄格子で区切られたそこは、まるで“牢獄”だった。簡易なベッドと古いテーブル、それから足の高さの合っていない椅子が置かれているだけで、他には何もない。壁の高い位置には細長い明り取り用の窓がひとつあるけれど、そこも他と同様に錬鉄の柵が嵌っていた。
もう一度室内を――今度は鉄格子の向こう側を――じっくりと見回し、そしてセラフは部屋の隅で身体を縮こませている少女へと目を向けた。外見からして、歳の頃はそう変わらないだろう。九か、或いは十あたりか。
けれど、ろくに食事を与えられていないせいか、身体はひどく痩せ細り、とても年齢の近しい子どもとは思えなかった。もとはとても美しかったのだろう青い瞳も、薄い膜のような翳りのせいで、随分と濁っている。
こんな痩せっぽちな子どもが、何故こんなところに閉じ込められているのだろう。手入れのされていない荒んだ離宮の、しかもまるで“牢獄”のような場所に。
――君、もしかして、犯罪者?
***
「――おい、なに呑気に昼寝なんかしてんだよ」
強い力で肩を揺さぶられ、セラフは鬱陶しく思いながらも、徐に瞼を持ち上げた。起き抜けのせいで僅かばかり霞んだ視界に映るのは、あの荒んだ北の離宮でもなければ石造りの牢獄でもなく、見慣れた執務室の白い壁と、背凭れ越しに見下ろしてくるイヴリスの端正な顔だった。
どうやら小休憩のつもりが、深く寝入ってしまっていたらしい。緞子張りのシェーズロングからゆっくりと身体を起こし、セラフはぐっと伸びをする。バルコニーに面した硝子扉からは、真昼のあたたかな陽光が燦々と降り注ぎ、室内を眩いほど明るく照らしていた。
「ここ数日籠りっぱなしなのは知ってるだろ。少しは休ませてくれ」
そう言いながら、艷やかな飴色に光る重厚な執務机へと歩み寄り、革張りの椅子に腰掛ける。深く沈むように背もたれに背中を預けながら、セラフは思う。――ひどく懐かしい夢を見てしまった、と。
シェリルとは、あの茶会以来会っていない。彼女の情報は、侍女からもたらされる話をアレン伝いに“報告”として受けてはいるものの、ただそれだけだ。言葉を交わすどころか、顔すら合わせてもいない。
あれからもう、三日は経つのだろうか。たった三日、されども三日。随分長く会っていないような気がしてしまう。元老院や評議院の連中には、五日ぶりに会った時でさえ“ついこの間会ったばかり”と思ってしまうというのに。
会いたくないわけでは、決してない。ただ、自身を取り巻く環境と、デスクの上に山積みになった書類がそれを許してくれないのだ。ここ最近は殆ど自室にさえ戻れず、執務室の長椅子がベッド代わりになるくらいには。
視界が一瞬歪み、セラフは眉間に指先を当てて軽く揉む。そんな彼の耳に、菓子を齧るような音が聞こえた。数度瞬きをして、デスク越しに応接セットを見遣れば、ソファに腰掛けたイヴリスが、食べかけのクッキーを口の中へ放り込もうとしているのが目についた。
「ってか、お前さ。そろそろ決めねえといけないんじゃねえのか」
テーブルの上には、クッキーやマカロンが所狭しと盛られた小皿が置かれている。恐らくは、イヴリス自身が持ってきたものだろう。セラフがあまり甘いものを好まないことを知っている侍女は、滅多に菓子を運んでは来ない。
「何のことだ」
「しらばっくれんなよ」
喉仏を動かしながらクッキーを嚥下し、イヴリスは組んだ足に頬杖をつきながら、にやりと口角を持ち上げた。けれど、黄金の瞳が輝く切れ長の目元に、戯けた笑みはない。
「あの女の両親のことに決まってんだろ。罪状はまだ出してねえんだろ」
イヴリスの問いに、セラフは敢えて無言を返す。彼がそれを“肯定”と受け取ると分かっていて。
「まあ、爵位剥奪と処刑台は免れられねえだろうなあ」
物騒なことを淡々と口にしながら、イヴリスは茶色いクッキーへと手を伸ばす。
「確か、義妹がひとりいるんだっけか。今まで贅沢三昧してきた若い娘に、いきなり庶民の、しかも貧しい生活は発狂もんだろうな」
自業自得だけど、と付け加え、イヴリスは指先に摘んだクッキーを一枚丸ごと口の中へと入れる。そんな彼の横顔をじっと見つめながら、セラフは書類で散らかったデスクに腕をついた。頭が鈍く痛む気がするのは、ろくに睡眠もとらず働き詰めのせいだろうか。
シェリルを十年――初めの二年は伯爵家の地下牢、その後の八年は北の離宮――に閉じ込め、彼女の生み出す魔法石を搾取し続けたヘイスティングス夫妻には、相応の罰を与えるつもりでいる。彼女の長年に亘る苦しみに見合うだけの――否、それ以上の苦痛を伴う重い刑罰を。
その書類に判を捺すのは容易いことだ。シェリルのことは最高顧問機関である元老院にすら伏せているので、如何様にも出来る。大罪を犯した伯爵家をひとつ潰すくらい、そう難しいことではない。
しかし、セラフを最も悩ませているのは、そんな些細な問題ではなかった。
「さっさとそっち片付けねえと――そろそろジジイ共が喚き出すんじゃねえの?」
まるでセラフの頭の中を見透かしたかのように、イヴリスがにたりと笑う。そんなことは分かっている、と反射的に言い返そうとした言葉を、しかしセラフは辛くも呑み下し、代わりに深々と、まるで鉛でも詰め込んだような重たい溜息を吐き出した。
ヘイスティングス家の断罪など、簡単なことだ。時間をかける必要も、取り潰しに関しての障壁も、何もない。
しかし今、最もセラフの両肩に伸し掛かっているのは、それとは比にならないほどの大問題だった。
あまりに難しすぎて、元老院でも評議院でも紛糾を極める状態が続いている。己が仕掛けたことなのだから仕方ない、と頭では分かりつつも、時に罵声すら飛び交う場には、そろそろ辟易としてきていた。
「危険分子は根こそぎ始末しとくべきだと、俺は思うけどな」
その“危険分子”に含まれるひとりの男の顔を脳裏に思い浮かべながら、セラフはゆっくりと椅子を回し、背後に広がる窓の外へと目を向けた。あたたかな陽光、小さな光の粒を含んだように煌めく澄んだ蒼穹。
そんな大空を、茶色い翼を広げた鳥が、気持ちよさそうに飛んでゆく。何にも囚われることなく、どこまでもどこまでも、自由に――。




