08
今でもはっきりと憶えている。鉄格子の隙間から差し出された白く小さな手を。そこに握られていた青い花を。そのあまりの清らかさに、思わず見惚れてしまったことも、何もかも。
――庭にたくさん咲いてたから。
はにかみながら渡されたその花は、誕生日の時でさえ何も贈られたことのないシェリルにとって、産まれて初めて貰う“プレゼント”だった。
だから、何が何でも守りたかった――と、シェリルはテーブルで神々しく輝く魔法石を見つめながら思う。初めての“プレゼント”。その存在がどれほど心を明るくし、黴臭く薄暗い牢屋に色彩を灯したことか。
けれどその花は、すぐに両親に見つかり、見るも無惨な姿へと変わってしまった。茎を折られ、鮮やかな青色をした萼は乱雑に引き千切られ。それでもふたりは飽き足らずに、石床に散らばった青色を、執拗に踏み躙った。美しかった青色が、もとの色を失い黒ずんでしまうまで、何度も、何度も。
――お願いっ! やめてっ!
冷たい石床に散った花の上に覆い被さるようにして、どうにか守ろうとしたシェリルの行為が気に喰わなかったのか、彼等の足は、今度はシェリルの背中を襲った。蹴られ、踏みつけられ、ヒールの先が喰い込むまで押し付けられ。それでも、ふたりが飽きるまで、シェリルは必死に堪えた。何が何でも守り通す為に、必死に耐え抜いた。
どれくらいの間、石床に蹲っていただろう。朦朧としていた意識が少しずつ輪郭をもちはじめた頃には、明り取りの窓から青白い月の光が差し込んでいた。
――庭にたくさん咲いてたから。
渡された時の華やかさも美しさも消え、惨たらしい姿に変わってしまった青い花。残骸を、少年の照れ臭そうな笑みを思い出しながら、シェリルは力の入らない両手を動かして、一枚一枚丁寧に拾い集めた。
もう二度と、あの姿には戻らない――。黒ずんだ萼やひしゃげた茎を見れば見るほど、まるで胸を鷲掴みにされたみたいに息苦しく、視界が歪んだ。初めてのプレゼントだった。初めての宝物だった。だから、絶対に守りたかったのに。
気付いた時には涙が頬を滑り落ち、顎先から滴った一滴が、どうにか難を逃れ、鮮やかな青色を残したままの一枚に、ぽたりと落ちた。涙が弾けたその瞬間、それは忽ち花を模した透明な石に変じ、幾重にも巻いた花弁が花開く。
それはシェリルにとって、もう幾度となく目にしたものだった。見飽きたどころか、忌々しくさえあるもの。
けれども、彼女の小さな掌の中で花開いた透明な石――魔法石は、いつものそれとは少し違っていた。いつもは棘棘しく鋭利な花弁は丸みを帯び、まるで薔薇が静かに花開く瞬間を切り取ったような、華やかでやさしい形をしていた。
その中央には、涙の触れたあの僅かな青い欠片が、眠るように閉じ込められている。他の誰が見ても、ただの破れた布切れにしか見えないだろう。これが元々美しいアネモネの花の一部だったとは、想像だにしないはずだ。
魔法石はひとつ残らず回収する両親に見つかれば、必ず奪い取られるだろう。今まで見たことのない、珍しい形をしたものであれば、尚の事。
花そのものを守り抜けなかった分、この神秘的な魔法石だけは絶対に隠し通そうと、あの時心にかたく誓った。刺々しさのない、つるりと滑らかな手触りを確かめるように、両手できつく握り締めながら。どんなことがあっても、絶対にこれだけは、と――。
「……花は、いつか必ず枯れる」
鼓膜にやさしく触れる、低く、静かな声。それがセラフの声だと気付くのに、一拍ほどの間が要った。
「けれど、あの時の花は今も、この石の中に眠っている。当時と変わらぬ鮮やかさのままで」
いつの間にか伏せていた目を開け、はっと顔を上げる。正面に座る彼へ視線を向けると、真紅の瞳がやわらかくシェリルを見つめていた。あの時の悲痛を、まるで自分のこととして分かち合ってくれているような眼差しで。そのやさしさに、目の奥が熱くなる。
「まるで魔法石に守られているようだな」
そう言って、ふっと顔を綻ばせた彼に、シェリルは微かに震える拳をぎゅっと握り締めた。気を緩めると、身体の内側から何か熱いものが溢れ出してきてしまいそうで。
「殿下からいただいたアネモネも、そしてこの魔法石も……私にとって、宝物なのです。あの頃から、ずっと」
どうにか声を振り絞り、シェリルはそっと微笑む。けれど、うまく笑顔を作れている自信はなかった。
セラフの傍にいると、疾うに失ったとばかり思っていた感情が、次から次へと蘇ってくるような気がする。その渦に呑まれてしまわないよう堪えるだけで、今のシェリルには精一杯だった。
「あの牢獄では、隠すことすら大変だっただろう」
確かにあそこには、誰の目にも触れさせることなく隠し続けられるような場所は、殆どなかった。家具といえば、硬いベッドと簡素なテーブル、いつ足が外れてもおかしくないような古い椅子だけ。
それらは定期的に両親によってくまなく検められ、“隠しもの”は一切許されなかった。アネモネが見つかって以降は、更に目敏くなったようにも思う。時には、継母によって無理矢理身包みを剥がされることさえあった。だから――
「部屋の隅に、ひとつだけ外れる床石があったのです。それを外し、少しばかり土を掘って……。父や継母が来る時はいつも、その中に隠していました」
部屋には釘などの鋭利な金属は一切なく、床石を外す時はいつも、僅かに欠けた部分に爪先を引っ掛けて力ずくで外していた。
そのせいで爪がぼろぼろになったり、指先に血が滲むこともあったけれど。それでも、そうすることで唯一無二の宝物を守れるのなら、どんなに指先が傷もうが、シェリルには少しも苦ではなかった。
そう言い添えると、セラフは切れ長の目を大きく見開かせ、テーブルの上で握り締められたシェリルの手へ、静かに視線を落とす。
医師やアニエスの手厚い治療のおかげで、今でこそ目立つ傷はない。けれど手の甲にはまだ薄っすらと傷跡が残っており、床石に引っ掛けていた指は、爪が肉際まで削れたように短く、ひどくかさついている。
お世辞にも綺麗とは言えない手を見られているのが恥ずかしく、シェリルはおずおずと両手をテーブルの下へ隠そうとした――その瞬間。不意に、セラフの左手が、シェリルの右手をそっと掴んだ。何度も石床を外した、短すぎる爪のある手を。
突然のことに、シェリルの両肩がびくりと跳ね上がる。手の甲からじんわりと沁み込んでくる人肌のぬくもりが、まるで胸を突き破ってくるのではないかと思うほど鼓動を早め、言葉も呼吸も奪ってしまう。
あの夜――救出された後の夜――は、まだ彼の素性を知らず、“アルト”だと思い込んでいた上に、意識もぼんやりとしていたので、彼の両手に包まれることに抵抗はなかったけれど――。
彼がこの国の王太子であると知ってしまった以上、本来はすぐにでも手を引かなければならないのだろう。それくらい、分かっている。王族の肌に、ただの伯爵家の娘――しかも、いつ爵位を剥奪されてもおかしくない家の娘――如きが、易易と触れて良いはずがないのだから。
「あ、あのっ……」
反射的に手を引っ込めようとするシェリルを、しかしセラフは逃さない。彼女の手を握り締める指に僅かばかり力をこめ、ゆっくりとひとつ瞬いてから、悲しさと嬉しさの混ざり合ったような、やさしい微笑みを浮かべた。
「守りぬいてくれて、ありがとう」
どこまでも澄んだ、純粋なお礼の言葉に、シェリルは思わず唇を引き結ぶ。今口を開くと、叫びたい衝動のままに、言葉がどんどんと溢れ出してしまいそうだった。胸の裡に秘め続けた想いまでも、全て。
本当は今すぐにでも、彼のあたたかな手を握り返したかった。あの夜と同じように。けれど、もうそれは出来ない。
「……お礼を言わなければならないのは、寧ろ私の方です」
セラフが何かを言いかけたが、それを制するように、シェリルはゆるりと顔を左右に振った。
「殿下が助け出してくださらなければ、私は今もあの離宮にいたでしょう。……どんな言葉を並べようと、感謝してもしきれません」
そう言って、シェリルは深々と頭を下げた。整えられた前髪が、テーブルにかけられた純白のクロスに触れるくらいまで、深く。
「あの日の言葉を忘れずにいてくださり、誠にありがとうございました」
ゆっくり頭を上げると、静かにこちらを見つめる、真紅の瞳と視線が交わった。
初めて出会った時と少しも変わらない、ルビーのように美しい輝きを湛えた瞳。その光は、彼自身の強い意志からくるものなのだろう、と、懐かしい面影と重ねながらシェリルは思う。あの頃の彼の瞳もまた、今と同じように力強く輝いていた。
目を逸らすのがあまりにも惜しく、そのまま何も言わずに見つめ合う。
暫しの静寂が流れ、どれくらいの時が過ぎたか曖昧になった頃、ガゼボへと近付いてくる足音に気付いて、重ね合った手を、どちらからともなくそっと離した。テーブルの下に隠した手の甲に、彼のぬくもりがまだ仄かに残っている。
「殿下、そろそろお時間です」
ガゼボの入口に設けられた蔓薔薇のパーゴラの下に姿を現したのは、侍女を連れたアレンだった。
セラフは彼を一瞥すると、飲みかけだったハーブティーを飲み干し、悠然とした動作で席を立つ。そんな彼の両耳につけられた細長いピアスが、二人の間を吹き抜けた春風にのって、微かに揺れた。彼の瞳と同じ色をした宝石が、陽光を浴びてきらりと輝く。
「君はゆっくり楽しんでいくといい。アレンは話し相手として申し分ない男だ。……少なくとも、イヴリスよりかはな」
どこからともなく舌打ちが聞こえたような気がして、シェリルは思わず周囲を見回す。けれども、あの黒髪の魔術師の姿は、ついぞどこにも見当たらなかった。




