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冷酷非情な反逆王太子に溺愛されています〜残念ですが、私の涙にはもう何の価値もありません〜  作者: 榛乃


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06

 国王、セオドア――。


 その名を聴いた瞬間、シェリルの背中に、無意識に冷たい震えが走る。まるで氷が滑り落ちてゆくような感覚。それはまだ幼かった頃の、遠い記憶を否が応でも呼び覚ます。深い絶望と、息を奪われるような苦しさや痛みとともに。


 頭の全てを埋め尽くそうとする記憶から逃げるように、シェリルはセラフの顔から思わず視線を背け、顔を伏せた。


 それが失敗だったと、すぐに気付きはしたけれど。彼を傷付けてしまう行為だと、胸を刺すような後悔が込み上げてくるけれど。それでもシェリルは、腿の上で握り合わせた両手の微かな震えから、目を逸らすことが出来なかった。


 "王太子"であるのだから、セラフが"国王の息子"であるのは当然の話だ。彼の淡い灰色をした髪の毛は、恐らく同じ髪色をしたセオドア譲りのものだろう。それ以外は、決して似ていない。


 けれど、ほんの一瞬だけ、見えてしまった。苦々しそうな微笑みの上に重なるようにして、自身を甚振ることに加担した男の面影が。


 ――お前が、魔法石を生むという“器”か。


 国王セオドアと初めて相まみえたのは、王城の端にある離宮――とは名ばかりの牢獄――に閉じ込められてから、幾度かの夜を過ごした後のことだったと、今でもはっきりと憶えている。


 彼は何の前触れもなく、突然シェリルの前に姿を現した。警備兵と思われる屈強な男をふたりも引き連れて。


「……申し訳、ございま、せん」


 過去の記憶に呑まれ、乱れそうになる呼吸をどうにか整えながら、シェリルはゆっくりと顔を上げる。それでも唇の間からこぼれた声は、微かに震えていた。あの時の絶望が、今も喉を締め上げてくるような気がする。


「謝る必要はない。あの男の血を引く俺を、君が嫌悪するのは仕方のないことだ」


 そんなシェリルに対し、セラフはやさしい声で、それでもきっぱりと言葉を紡いだ。無意識だったとはいえ、顔を背けてしまったことに対し、嫌な顔ひとつすることなく。それどころか彼の方が、押し殺しきれない暗い何かを赤い瞳に滲ませているように見え、シェリルは握り合わせた両手にそっと力をこめた。


「殿下を、嫌悪など……そんなこと、するはずがありません」


 次から次へと絶え間なく蘇ってくる記憶に必死に蓋をしながら、シェリルはセラフの双眸をしっかりと見据える。


 確かに彼は、国王セオドアの血を引く男であることに違いはない。エテルノス王国に王子はたったひとりしかいない、と、昔誰かが言っていたのを憶えている。つまり彼は、この国の明るい未来を一身に背負う若き太陽であり、そして――私をあの薄暗い牢獄から救い出してくれた、正に太陽のように眩い人。


 そんな彼を、どうして嫌悪など出来ようか。


「前から思ってはいたが……君はどうもやさしすぎる」


 クロスのかかったテーブルに腕をつき、セラフは困ったように苦笑を浮かべた。


 眉目秀麗な、いっそ神々しくさえあるほど整ったかんばせは、どんな表情を湛えても人の目を惹く不思議な力がある、とシェリルは密かに思う。この人の隣には、相応の美貌をもった人でなければ立つことは許されないだろう、とも。


 そう思うと、胸の奥が何故かちくりと痛んだ。


 あの“赤い瞳の少年”は、長い間シェリルにとって唯一の心の拠り所だった。それは、これから先もきっと変わらないだろう。何にも代え難い、特別な存在。


 けれどもその相手が一国の王太子であったと知ってしまった以上、今までのように想い続けることは、きっと出来ないだろう。どこかで必ず線引をしなければならず、もしかすれば"なかったこと"にする必要性も出てくるかもしれない。


 頑丈な鉄格子越しに会っていた“少年”はもう、懐かしい思い出の中にだけ留めておく方が良いのかもしれない、とシェリルはティーカップのハンドルにそっと指を絡ませながら思う。


 あの“少年”と、目の前にいる“彼”を、別の存在だと思い込まなければならなくなる時が、そう遠くない未来に訪れるだろうから。


「当時は色々と事情があって、偽名を名乗らざるを得なかったんだが……」


 セラフが素性を明かせなかったのも無理からぬことだと、シェリルはカップの縁にゆっくりと唇を添えながら思う。


 何しろ彼との出会いは、離宮の鉄格子越しだ。


 あの頃のシェリルは既に身体中がボロボロで、着せられている服も麻製の、継ぎ接ぎだらけの質素なもの。無論、髪も肌も手入れはされておらず、ひどく見窄らしい格好をしていた。


 そんな身なりをし、更に離宮とはいえ殆ど牢屋でしかない場所に閉じ込められた少女に、まだ幼かったとはいえ、それでも一国の王太子が素直に身分を明かすのには、抵抗があっても仕方がない。寧ろ警戒されて当然だ。


 爽やかな薫りの立つハーブティーを飲み下しながら、そんなふうにひとり思いを巡らせるシェリルをよそに、セラフは手元のカップを見下ろし、色白の指先でほっそりとした縁をなぞりながら、喉の奥でくつりと笑った。


「君が初めて目を覚ました夜、“傍にいてほしい”と縋ってくれた時に、改めて痛感した。……あの時素性を明かさなくて良かった、と。俺が国王の息子だと知っていれば、君は俺を遠ざけていただろうから」


 ティーカップをソーサーへ戻そうとしていた手をぴたりととめ、シェリルは僅かに見開かせた目でセラフを見遣る。彼はいつの間にかシェリルから目を逸し、庭に咲き誇る美しい薔薇を眺めていた。


「けれど、この国にいる以上、素性が知られるのは時間の問題だった」


 それはそうだろう、とシェリルは胸の裡で静かに相槌をうつ。


 そもそも、アニエスの発言で初めて、“アルト”が偽名であることも、彼が“王太子”であることも知った。


 彼の素性を知る者しかいない王城の中で、“セラフ・ヴァン・アスタリア”という名も、その“本当の身分”も知らぬまま過ごし通すのは、箝口令でも敷かれていない限り、ひどく難しいことだろう。


「事情はどうあれ、君に嘘をついていたことに違いはない」


 ティーカップがソーサーに触れる微かな音と同時に、セラフの視線がシェリルの双眸を捉える。あの頃――鉄格子越しに会っていた頃と少しも変わらない、真摯な真紅の瞳で。


「騙していて、すまなかった」

「そんなっ! ……そんな、殿下が謝られることでは、ありませんっ」


 咄嗟に否定を返したシェリルに、しかしセラフは、自嘲を含んだどこか寂しげな笑みを湛えたまま、ゆるりと首を左右に振った。


 そんな彼を見つめながら、この人はとても生真面目な人なのだろう、とシェリルは思う。


 彼が素性を明かせなかったのは、仕方のないことだ。ましてや牢獄に閉じ込められた身元も定かでない少女に、易易と告げて良いものでもない。彼の高貴な身分と安全への配慮を思えば、尚の事。彼もそれは十分に理解しているだろうに。


 けれど、それでも彼は、謝罪を口にした。その目に、押し殺しきれない痛みを滲ませながら。


 暫しの沈黙が、ふたりの間に静かに落ちた。どこか遠くから、小鳥の愛らしい囀りが聞こえる。近くに噴水でもあるのか、水が飛沫を上げるさあさあとした音も。


 侍女の用意してくれたケーキスタンドには、美味しそうな菓子がたくさん並んでいたけれど、どれにも手を付ける気にはなれなかった。今はただ、舌の上でほどけるような柑橘の爽やかさと、あとからやわらかく追いかけてくるミントの清涼感だけが、心を落ち着けてくれる。


 どれくらいの時間が流れただろう。かさかさと鳴る葉擦れの音に紛れ、セラフが小さく息を吐く気配がした。


「……覚えているか。あの時、君と交わした約束を」


 問いかけというより、確かめるような声だった。シェリルは小さく頷く。忘れたことなど、一度たりともない。あるはずがない。あの約束こそが、長く暗い日々に差す唯一の光だったのだから。


 死にたいと思うことは、何度もあった。けれどそう願う度、彼の言葉が、眼差しが、青い花が、シェリルの魂をかろうじて"生"に繋ぎとめていた。無慈悲なほどにやさしく。溺れそうになる度に掬い上げてくれた、唯一のもの。だから――


「忘れたことなど、片時もありません」


 微笑みとともにそう告げると、セラフはほんの一瞬目を瞠り、それからゆっくりと、何かを噛み締めるように瞬いた。


「あの約束は、“王太子”としてしたものではない」


 真紅の瞳が、真っ直ぐにシェリルを捉える。その瞳に滲んだ強い光と熱に、シェリルは思わず息を呑んだ。


「――ただの、ひとりの男としての、決意だった」

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