05
セラフから茶会の誘いが届いたのは、偶然彼の正体を知ってしまったあの日から、五日後のことだった。
茶会といっても、客人を招くような仰々しいものではない。あの時彼が口にした通り、“ふたりでゆっくり話をする”為だけに設けられた、ささやかなもの。
シェリルの体調次第では別日でも構わない、と、報せを運んできた王太子付きの騎士は言っていたが、シェリルは迷わず二つ返事で誘いを受け入れた。
毎日往診に来る宮廷医師から与えられた薬と、滋養がつくようにと栄養面を考慮された食事、そしてアニエスの献身的な世話のおかげで、シェリルの体調はゆっくりと、しかし確かに回復へと向かっている。だから日をずらす理由も必要も、どこにもなかった。
それに――。いつも以上に丁寧に髪を梳かれながら、シェリルは背後に立つアニエスには気付かれぬよう、そうっと小さく微笑む。
中庭での一件の後、彼とはまだ一度も言葉を交わすどころか、顔を合わせることもなかった。アニエス曰く、どうやらひどく多忙であるらしい。そんな彼が、どうにか時間を割いてくれたのだ。その心遣いを、無下には出来ない。
それに何より――五日ぶりに、漸く彼に会える。
そう思うだけで、シェリルの胸にじわりとあたたかいものが広がった。彼が王太子殿下であり、"アルト"が偽名であったことへの戸惑いは、未だ胸にこびりついたままではあるけれど。それでも、心がひそかに浮き立っていることを、否定出来なかった。
王太子からの誘いとあって、今朝のアニエスの張り切りぶりは凄まじい。圧倒されるどころか、一周回って苦笑をこぼしてしまうほど。
それでもシェリルは、そんな彼女の手際に身を委ねるしかなかった。
何しろ、十年も幽閉され、ろくに"人"としての扱いを受けてこなかったのだ。年頃になっても"伯爵家の娘"として華々しいパーティーに顔を出すこともなければ、茶会に出席することもなかった彼女に、"お洒落をする"という知識など、殆どあるはずがなかった。
――今日は特別な日でございますから。
そう言ってアニエスが用意したのは、淡いベビーブルー色をしたドレスだった。シェリルの身体を気遣い、敢えて締め付けの少ない造りの、それでいてやわらかな生地を使用したそのドレスは、裾に向かうにつれ白へと移ろう、見事なグラデーションを描いている。
しかし、そのドレスはもちろん、耳や胸元を飾る装飾品が、いったいどこから調達されているのかを、シェリルは知らない。
身支度を整え、アニエスに促され部屋を出ると、廊下にひとりの男が立っていた。短く整えられた赤茶色の髪の毛、深い森を思わせるようなビリジアン色の瞳。
凛と背筋を伸ばして佇む彼は、シェリルの姿を認めるや否や、端正な顔に柔和な笑みを浮かべた。誰にでもすぐに好かれそうな、愛嬌のある笑顔。
「お初にお目にかかります、シェリル様。近衛騎士団副団長を務めております、アレン・ギルフォードでございます。ここから先は、私がご案内致します」
茶会の開かれる庭園は、殿下が特別に許可した者だけしか立ち入ることの出来ないプライベートな場所であるらしい。上級侍女であるアニエスでさえ、近寄ることは叶わないのだという。
そう説明したアレンは、体調を心配するアニエスへ申し訳なさそうに軽く頭を下げると、「必ずお守り致します」という断言とともに、誓いの証として、近衛騎士団の紋章の縫い付けられた左胸に手を当てた。
アニエスに笑顔で見送られながら、先をゆくアレンの後ろをついて廊下を進む。窓から差し込む朝の陽光を艷やかに跳ね返す、白と黒の大理石が交互に敷き詰められた床。等間隔に並ぶ太い柱には王家を象徴する模様が精緻に彫り込まれ、壁や天井には建国叙事詩の有名なシーンを切り抜いた美しいフレスコ画が描かれている。
それらを見るともなく見ながら、シェリルは胸の裡でそっと息を吐く。
彼に会うのを、あんなに楽しみにしていたはずなのに。嬉しい、と思っていたはずなのに。一歩進めば進むほど、緊張がじわりじわりと足元から這い上ってくる気がする。あの日の――五日前の、乱雑に散らばったままの感情を引き連れて。
「今日はとても天気が良いですから、庭園の花々も、とても活き活きしておりますよ」
その些細な機微を空気から敏感に感じ取ったのか、先をゆくアレンが朗らかな口調で話しかけてくる。
少しでも緊張をほぐそうとしてくれている、その気遣いに申し訳なさを抱きつつ、小さな笑みを静かにこぼす。目が覚めてからというもの、色んな人達に――イヴリスは兎も角――気を遣わせてしまっている、と思いながら。
茶会に指定された場所は、王城の裏側に広がる薔薇園の端にある、小ぢんまりとした白いガゼボだった。大理石の立派な六本の柱が円を描くように配され、ドーム型の屋根には今が盛りのウィステリアがたっぷりと茂っている。
ゆるく吹き抜ける風にのって、薔薇の大輪がゆったりと揺れる。ガゼボの周りを囲うようにして植えられた花々は、アレンが言っていた通り、どれもこれも活き活きとしているように見えた。水を張ったバードバスに、青い羽の小さな鳥が三羽、愛らしい囀りを口ずさみながら楽しげにとまっている。
そんな眩いほどの色彩に囲まれたガゼボの中央に置かれた二人分の椅子の一方に、セラフは既に座っていた。清潔な純白のクロスがかけられたテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと庭を眺めている。
どこか遠いところに想いを馳せているような、心なしか憂いを孕んだようなその横顔に、シェリルは思わず息を呑む。その顔を見つめれば見つめるほど、彼は此処に居ながら、何故か此処には居ないような気がしてしまうのは、どうしてだろう。
「殿下、シェリル様をお連れ致しました」
凛々しく告げるアレンの声で、漸くセラフはその傍らに立つシェリルへと顔を向けた。そこにはもう、あの翳りのようなものはどこにもない。五日前と変わらない、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「お待たせしてしまい、申し訳ございません」
謝罪を口にしながら、ドレスの両端をそっと摘み、シェリルは丁寧に膝を折って頭を垂れる。
カーテシーをするのは、果たしていつぶりだろう。念の為にとアニエスに確認をしてはもらったけれど、十年もすることのなかったそれが、きちんと様になっているかどうか自信がない。現に折った膝は、今にもふらついてしまいそうだ。
案の定、身体を起こした拍子に少しよろめいてしまったシェリルに、セラフがすっと手を差し伸べる。その手を借りながらどうにか体勢を整え、案内された席にゆっくりと腰を下ろした。
まるでそれを合図にしたかのように、何処かに控えていたらしい侍女が近付いてくる。カップやケーキスタンドをのせたティーワゴンを、からからと音を立てて押しながら。
二人の前に配されたピオニーシェイプ型のティーカップに、澄んだ若草色の液体が手際よく注がれてゆく。ポットの中でゆらゆらと揺蕩うハーブと、レモンのような爽やかな香りからして、恐らくはレモングラスとミントをブレンドしたハーブティーなのだろう。疲労感を鎮め、リラックス効果があるからと、時折アニエスが就寝前に淹れてくれることがあった。
昨夜はカモミールだったな、とぼんやりと思い出しながら、クロスのかけられた円卓の真ん中に、硝子の花瓶に活けて飾られた小さな花を見下ろす。まるで空の色を映したような青い花弁をふっくらと開かせた、清廉無垢そのもののようなネモフィラ。
侍女は支度を終えると、セラフの指示を受けるまでもなく、丁寧にお辞儀をして静かにガゼボを出て行った。彼女の押すティーワゴンの車輪が、石畳の上を転がる微かな音だけが、遠くから聞こえてくる。
やがてそれさえも聞こえなくなったところで、それまで庭園を眺めていたセラフが、不意にシェリルの双眸を捉えた。両耳につけられた細長い華奢なピアスが小さく揺れ、先端に取り付けられた赤い石が、陽光を反射してきらりと輝く。
「さて、何から話そうか。……いや、何から謝るべきか、と言った方が正しいな」
苦笑をこぼしながら、セラフはゆっくりとティーカップを持ち上げる。そんな彼の、薄い若草色をした水面を見つめるその瞳が、ほんの僅かに揺れていた。
品のある仕草でカップの縁に唇をつけ、柑橘を思わせる涼やかな香りを放つハーブティーを静かに呑み下す。バードバスで羽休めをしていた小鳥たちが、ささやかな水飛沫の音を立てて空へ羽ばたいてゆく。雲ひとつない、自由な青空へと。
その羽音を聴きながら、セラフはソーサーの上にそっとカップを戻す。それから一拍の間を置いて、彼はシェリルの瞳を真っ直ぐに見据え、徐に口を開いた。
「先ずは、自己紹介をしよう。俺の本当の名は、"アルト"ではなく――」
ほんの一瞬、真摯に向けられていた赤い瞳に、深い翳りが差したような気がしたのは、果たして気の所為だろうか。
「セラフ・ヴァン・アスタリア。既に君も知っての通り、エテルノス王国の王太子……つまり、国王セオドアの、息子だ」




