04
呆然と見上げることしか出来ないシェリルの耳に、怒気を孕んだ男の声が飛び込んでくる。
「こんっのクソ忙しい時に! 呑気に花見なんかしてんじゃねえよ! ジジイどもギャーギャー喚いてんぞっ!」
男はシェリルの横に荒々しく降り立つと、欄干に手をつき、勢いよく半身を乗り出した。どうやらシェリルとアニエスの存在など、眼中にないらしい。射抜くような眼でアルト――セラフだけを、真っ直ぐ睨めつけている。
「その“元老院のジジイども”はどうしたんだ?」
「アレンに押し付けてきたに決まってんだろ!」
「なるほど。アレンが気の毒だな」
「俺のことも気の毒に思えよっ!」
男の憤怒は、いっこうに収まる気配を見せない。それどころか、セラフが口の端を僅かに持ち上げ、飄々と言葉を返す度に、火に油を注がれるように激しさを増してゆく。
「あんまカッカさせてっと、あいつらそのうち死ぬぞ!?」
「手間が省けて楽になるな」
「んなこと言ってっから、冷徹だの無慈悲だの言われんだよ、テメェは」
目まぐるしいやり取りを、シェリルはただ半ば呆けたまま、交互に眺めることしか出来なかった。隣に立つローブ姿の男が誰であるのかは、まるで見当がつかない。格好からして魔術師なのだろうことだけは分かるけれども。
それよりも――。そっと盗み見るようにセラフへ視線を移し、シェリルは僅かに目を見張る。
いつも自分に対して、紳士然とやさしく接してくれる彼。今も穏やかな表情で、やさしい声をしているというのに――口から出てくる言葉にはどれも、丁寧な皮の下に棘が潜んでいる。
アルト、セラフ、王太子殿下、赤い瞳の少年――。ただでさえ、未だに何も呑み込めていないというのに。彼の飄々とした言葉のひとつひとつが、その混乱に輪をかけてゆく。
もうあのあどけなさこそないけれど、大人びた今の彼の顔にも、当時の面影はちゃんと残っている。それに、見紛うはずのない、あの真紅の瞳――。
今目の前にいるのは、あの頃の少年その人のはずなのに。「アルト」と呼んでいた頃の顔と、今目の前にある顔が、どこか別々のものに見えてならない。
果たして本当の彼は、どんな人なのだろう――。
そんな疑問が過った時、ふと、横顔に視線を感じた。じっと、こちらを品定めするかのような、研ぎ澄まされた視線。
恐る恐る振り仰ぐと、シトリンを思わせる瞳とかち合った。そこには、先程までセラフに向けられていた怒りの色はまるでない。代わりに、感情のまるでうかがえない、冷えて透明な眼があった。
思っていたよりもまじまじと凝視され、シェリルはたじろぐ。穴が開いてしまうのではと思うほど、じっと。セラフとあんなにも親しく言い合っていたのなら、危険な人物ではないのだろうけれど――。
それでも、見知らぬ人物から――ましてや異性から――こうも真っ直ぐに見つめられると、シェリルはどうにも落ち着かなかった。
「イヴリス。あまり彼女を困らせてやるな」
セラフが助け舟を出してくれるけれど、“イヴリス”と呼ばれた男の眼差しは、一向にシェリルのかんばせから離れない。
どうしたら良いのだろう、何か声をかけるべきだろうか――。おろおろと視線を彷徨わせていたシェリルだったが、しかし不意に、男は何の前触れもなく、すっと目を背けた。まるで一瞬にして興が削がれたかのように。
「べつに、邪魔するつもりはねえよ。ただ、こいつの瞳が気になっただけだ」
瞳――。イヴリスの言葉を頭の中で反芻しながら、シェリルはそっと瞼を伏せる。
魔術師である彼が、この"瞳"を気にするのも、無理からぬことかもしれない。この瞳からは、純度の高い"魔法石"が生まれ落ちるのだから。魔法石は、自然界では奇跡的な偶然でしか生まれ得ない、極めて稀なものだ。
だから――。ゆっくりと瞼を持ち上げ、春風にそよぐ青いアネモネへ視線を向けながら、シェリルは静かに息を吐く。
だから十年も、牢獄に閉じ込められ、搾取され続けてきたのだ。彼女が“涙”をこぼすだけで、高価な“魔法石”が易易と手に入るのならば、それを利用しない手は――特に私腹を肥やしたい人間たちにとっては――ない。
「へんな真似はするなよ、イヴリス」
「しねえよ。そもそも"魔法石"になんか興味ねえし」
やれやれ、と呆れを含んだように肩を竦めながら、イヴリスは深々と溜息を吐く。どんだけ過保護だよ、と、独り言のようなものがぽつりと聞こえた気がしたけれど、それが気の所為か否か確かめるより先に
「シェリル」
唐突にセラフから名前を呼ばれ、シェリルは驚きでびくりと肩を震わせた。慌てて視線を向けると、彼は向けられた眼差しをやさしく受け止めながら、穏やかに微笑んだ。
「今度、ふたりでゆっくり話をしよう」
どこか寂しげな声でそう告げられ、シェリルはただこくりと頷く。真っ直ぐに見上げてくる真紅の瞳に僅かな翳りを見て取ってしまうと、かける言葉が、どうしても見つけられなかった。
「そうしてくれ。今は元老院のジジイどもが優先だからなあ。早く行かねえと、アレンがぶっ倒れるぞ」
「お前が先に戻れば良いだけだろう」
「俺が戻ったって何の意味もねえんだよ! テメェが来ない限り、会議は始まんねえんだからなあ!」
どうやらイヴリスは、相当に元老院が苦手――或いは嫌い――らしい。苛立たしげにふんと鼻を鳴らした彼は、隣に立つシェリルを一瞥することなく、まるで朝陽の中に溶けるように、音もなく、ほんの一瞬で姿を消してしまった。
あまりに鮮やかな消え方に、シェリルは暫しイヴリスが立っていた場所を見つめながらぼうっと立ち尽くす。彼の登場の仕方も、憤怒の激しさも、シトリンを思わせる瞳も、何もかもが印象に残りすぎて、静かさが却って不自然に感じてしまう、と思いながら。
やがて我に返り、シェリルは反対側に立つアニエスへ目を向けた。
しかし、そこに確かにいたはずの彼女の姿は、何故かどこにもなかった。バルコニーどころか、硝子扉越しに見た室内のどこにも。彼女は忽然と、シェリルの傍から姿を消してしまっていた。




