03
それからシェリルが、日常生活を送るのに不便しない程度まで回復するには、凡そ十日がかかった。
治癒魔法にも、限界はある。急性の外傷は比較的早く治せるが、長年蓄積した慢性的な傷には、宮廷の医療魔術師でさえ手を焼く。
まともな治療すら与えられず、極度の栄養失調と精神的な疲弊が重なったシェリルの身体には、十年にも及ぶ相当の負荷が蓄積している。故に完治するにはまだ当分時間がかかるだろう――というのが、彼女を診た医師の見立てだった。
そんなシェリルの身の回りの世話をしてくれたのが、"アニエス"という名の妙齢の侍女だった。ベルベットのリボンでひとつに結い上げられた茶色の長い髪の毛。角度によってほんの少し色味が変わるように見えるオリーブ色の丸っこい瞳。
――本日より、シェリル様の身の回りのお世話をさせていただきます。
そう告げながら礼儀正しく頭を下げた彼女に、シェリルはひどく戸惑った。彼女が身に纏っていたのは、王宮に仕える高位の侍女だけに許された、品の良いモノクロのドレスだったからだ。
部屋に置かれた調度品の豪華さや、それらに彫り込まれた王家の紋章からして、ここが王宮内のどこかであることは察していたけれど――。
王族の身辺を預かる上位階級の侍女が自分の世話をするなど、シェリルとしては、"有り得ない"話だった。
「あ、あの……」
今日も今日とて身支度の世話を受けながら、シェリルはおずおずと、磨き込まれたドレッサーの鏡越しにアニエスを見遣る。
その視線を察したのか、彼女は、ふふ、と朗らかに笑った。
「駄目ですよ。何度仰られても、お仕えをやめるわけには参りませんから」
やさしく、けれども厳しさのこもった声でぴしゃりと言い切られ、シェリルはもう何度目になるか分からない苦笑をこぼす。
くもりひとつない鏡の中には、”世話をされている自分"がいる。眼に映るそれが、“現実”のことだと頭では分かっていても、シェリルにはどうしても、まるで他人の姿を見ているような気がしてならなかった。
(あんなに荒れていたのに……)
身体を起こせるようになってから毎日、アニエスの手際の良い、それでいて丁寧な手入れのおかげで、潤いを失っていた髪の毛には、淡く光を返せるくらいの艶が戻りつつある。
――幾分、血色が戻ってきたね。
猪毛のブラシで髪の毛を梳かれながら、ふと、シェリルは昨夜交わした会話を思い出す。
食事をしていた最中に突然現れた彼は、救出当時よりも生白かった肌に血色が戻りつつあることを認め、とても嬉しそうに微笑んだ。安心したよ、と言いながら。
少し様子を見に来ただけ、と言っていた彼は、僅かな遣り取りをしてすぐに部屋を出て行った。あとはよろしく、と、傍に控えていたアニエスに一言残して。
そんな彼の後ろ姿を思い出しながら、シェリルはふと気づく。彼について、自分は殆ど何も知らない、と。
――僕の名前は、アルト。君の名前は?
幼い頃に聴いたその名前しか、シェリルの知るものはない。身なりからして貴族の子息なのだろうとは、当時から思っていたけれど――。
王宮内を自由に歩き回れ、侍女に指示を出せるだけの身分となれば、爵位はかなり高いのだろう。或いは、相当の重職に就いているかのどちらかだ。
「さあ、出来ました、シェリル様」
アニエスの声に、シェリルははっと我に返る。鏡の中では、母譲りのプラチナブロンドの髪が、やわらかなビロードのリボンでひとつに括られていた。考え事をしている間に、いつの間にか仕上がっていたらしい。
「今日はとても天気が良いですし、少し外の新鮮な空気を吸われては如何ですか?」
椅子からゆっくりと立ち上がったシェリルの傍に寄り添い、アニエスは満面の笑みでバルコニーへと促す。
アーチ型をした両開きの硝子扉からは、眩い朝陽が燦々と降り注いでいる。その向こうを覗かずとも、抜けるように高く澄んだ青空が頭上に広がっているのだろうことは、容易に想像がついた。
施錠を解き、アニエスがぱっと硝子扉を開ける。その瞬間、ふわりと流れ込んできた空気に、シェリルは思わず顔を綻ばせた。冷たすぎず、けれどまだ朝の冴えを残した、春らしいやわらかで清潔な風。
半円を描くように張り出した石造りのバルコニーは、奥行きこそそう広くない。数歩進むとすぐに欄干に行き当たり、シェリルはひんやりとしたそれに両手をついて、眼下に広がる中庭へ目を向ける。
芽吹きの季節らしく、庭園はどこもかしこも色彩に富んでいて、美しい。初々しい緑色をした灌木、パーゴラにびっしりと茂った白い蔓薔薇、吹き抜ける風にゆるくそよぐ色とりどりのチューリップやルピナス。
見渡していると、シェリルはふと、ある一点に視線が吸い寄せられた。中庭のちょうど真ん中辺りに咲き乱れる、青色のアネモネ。その傍に静かに佇む、見覚えのある後ろ姿――。
まさか、と、シェリルが目を見開いたのと、彼が振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「やあ、シェリル。おはよう」
そう言って、にこりと穏やかな笑みを浮かべる彼に、思わず心臓がとくりと跳ねた。
朝陽を浴び、まるで光を帯びたように艷やかなアッシュグレーの髪。ガーネットを思わせる真紅の瞳に、左側にだけ添えられた小さな泣きぼくろ。二人の間を吹き抜けた朝の風にのって、両耳につけられた細長いピアスが微かに揺れる。
その品のある麗しいかんばせを、見間違うはずがない。
アルト――。そう名前を口にしかけたシェリルは、しかし、それより先に上がったアニエスの声に、出かけた言葉を呑み込んだ。
「あら、セラフ殿下ではありませんか」
一瞬、彼女がなんと言ったのか、理解できなかった。
セラフ、殿下――。
その言葉を頭の中で繰り返しながら、シェリルはただ、目の前の男を見つめる。やさしく、けれど心なしか苦さの混じったような微笑みを湛えたまま、じっとこちらを見ている赤い瞳。ここ最近ですっかり見慣れてしまった、その顔。
同じ人間を見ているはずなのに、アニエスの口から出た名前は、シェリルの知るそれとは全く違っていた。
その事実に、思考が上手く纏まらない。何から整理すれば良いのかも分からないまま、言葉だけが頭の中を回り続ける。どこにも着地することなく、ぐるぐると。
あの頃、鉄格子の向こうに腰を下ろして、当たり前のように話しかけてきた少年が。青い花を差し出した、あの少年が。
(そんな、まさか……)
いったいどういうことなのか。何が真実で、何が嘘なのか。訳が分からないまま、それでも微かに震える唇を開いて、問いを投げかけようとした――その時。
突然、黒い影が頭上にすうっと差した。降り注ぐ陽光を遮り、バルコニーに立つ二人を闇で覆うように。
反射的に見上げたシェリルの視界に飛び込んできたのは、夜を溶かし込んだような深い紺色をした長い髪と、ふわりと靡く黒いローブ、そして――剣呑な光を帯びた金色の瞳だった。
「テメェ、セラフ! 俺に元老院のジジイども押し付けやがったなっ!」




