02
――必ず君を迎えに来る。
期待していたわけではない。信じていたわけでもない。
それでも、あの時彼がくれた言葉を、どうしても忘れることが出来なかった。
――どんなことがあろうと、絶対に。
真っ直ぐに向けられた赤い瞳も、幼くも力強い声音も、差し出された青い花も、何もかも。一度だって、片時も。
私にとってそれは、暗い部屋に射し込む一筋の光そのものだったから。
――君の笑った顔を、もっと見たいから。
***
何か懐かしい言葉を聴いたような気がする。耳の奥に、或いは胸の奥に突き刺さるような、朧げだけれど、それでもひどく懐かしいことだけは分かる言葉が。
それは、シェリルが輪郭を掴むより先に、さざ波のように意識の奥底へ消えていった。
まどろみの淵で、彼女はゆっくりと息を吸い込む。
埃も、黴も、血の饐えた臭いも――何もない。代わりに鼻腔を満たしているのは、陽だまりを思わせる清潔な薫りと、甘く清らかな花の薫りに似た何かだった。
凪いだぬるま湯の中から、真綿で包み込まれるようにして掬い上げられる。そんな緩やかな浮遊感とともに、ふわりと意識が浮上した。深い深い水底から、光の差す水面へと、ゆっくりと時間をかけて押し上げられていくような感覚。
重力はどこか遠く、己の輪郭さえもが曖昧な、あまりにも心地良いまどろみを揺蕩いながら、シェリルは気怠い瞼を微かに震わせた。
(……ここは、天国なのかしら……)
思えば肩も背中も後頭部も、何も痛くない。いつもなら、目覚めるたびに鈍く軋むのに。意識が晴れれば晴れてゆくほど、吸い込まれるような柔らかさに身体が沈んでいることに気付く。沈みすぎて、どこまでが自分の身体なのか分からない、と思うほど。
自分は今、何処にいるのだろう。
そう疑問に思いながら、シェリルはゆっくりと、恐る恐る瞼を持ち上げる。
最初に見えたのは、見慣れない天井だった。薄闇の中でさえ、黴も煤も、染みひとつないのが見て取れるほどの、白くなめらかな天井。
辺りが気になり、顔を動かそうとしたけれど、ほんの僅か傾けただけで、首筋に鈍い痛みが走った。感覚が戻るにつれ、身体のそここから次々に悲鳴が上がる。
それでもどうにか、ぎこちない動きで、シェリルは微かに顔を横向ける。そこで漸く、自分が上等なベッドの上に横たわっていることに気が付いた。やわらかな枕と、肌触りの良い毛布。どれも清潔な薫りがする。
夜更けであるのか、壁一面に大きなカーテンがしかれていた。夜目でも分かる金の刺繍が裾に施された、深く落ち着いた緑色のカーテン。
所々出来た細い隙間から、青白い月明かりが、室内を横切るように真っ直ぐ伸びている。薄暗い部屋を灯すのは、その細く頼りない月光だけだ。
それでも、此処があの牢獄でないことだけははっきりとしている。だから尚更、シェリルの目覚めたばかりの頭はひどく混乱した。
(ここは……いったい……)
ぼんやりと思った、その時だった。――ベッドの傍らに、人影があることに気づいたのは。
ベッドの縁にぴたりと寄り添うように置かれた椅子に腰掛け、長い脚を組んで座るその人影は、シェリルが目覚めたことに気付いたのか、伏せていた瞼を徐に持ち上げた。
途端に、二人の瞳が重なり合う。濃く長い睫毛に縁取られた赤色は、薄闇の中でも光り輝いているかのように、くっきりと見えた。
その刹那、シェリルの呼吸が、ぴたりととまる。まるで息の仕方を忘れてしまったみたいに。
声が、出なかった。すぐそこに“彼”がいるという驚きと、それから、八年分の言葉が喉の奥に詰まって。どれひとつとして、形にならない。
気付けば毛布の端を、強く握り締めていた。傷跡の残る、微かに震えた白い手で。
「……目が覚めたか」
低く、静かな声だった。あの頃より随分と低くなった、それでも、鼓膜に触れた瞬間に懐かしさが溢れ出す、やさしい声。
シェリルは、まるで今この時が現実であるかを確かめるように、ゆっくりと瞬きをした。一度、また一度。そうして、忘れていた息を、そうっと吐き出す。
「あな、た、は……」
漸くこぼれた声は、ひどく掠れていた。唇も、うまく動かない。
それでも必死に口を開き、シェリルは言葉を紡ぐ。片時も忘れたことのない幼顔の、その面影を確かに残す端正な顔を見つめて。
「あの時、の……」
問いの形にもならないまま、言葉は途切れた。喉の枯れている彼女には、今はそれが精一杯だった。本当はもっときちんと確かめたいのに。それが出来ないことが、ひどくもどかしい。
けれども、やさしい赤色の瞳でシェリルの視線を受け止める彼は、伝えたかったことを十分に理解してくれたのか、静かに、それでもしっかりと、ひとつ頷いた。
ただそれだけで、目の奥がじんわりと熱くなる。それはシェリルにとって、殆ど初めての感覚だった。どんなに甚振られ、乞われるまま涙をこぼし続けていた時でさえ、目に熱を帯びたことなど一度もなかったというのに。
「遅くなってすまなかった」
詫びの言葉に、シェリルは傷の痛みを堪えながら、ゆるりと顔を左右に振った。彼の、僅かに伏せられた双眸に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
どちらの口からも言葉が出ないまま、どれほどの時間が流れただろう。
やがて男はゆっくりと腰を上げた。
「医者を呼んでくる」
そう言って、彼は踵を返す。動きに合わせて微かに揺れた後ろ髪を、その逞しい背中を、シェリルは追い縋るように見上げた。
その後ろ姿を見つめていると、胸の奥で何かが、きゅっと縮んだ。またひとりになる、という、そんな気がして。
今までずっとひとりだったというのに。ひとりでいることになんて、疾うに慣れたはずだったというのに。寧ろ、ひとりでいる方が良い、とさえ思っていたというのに。
行かないでほしい――。
喉元まで出かけた言葉を、シェリルは慌てて呑み下す。言ってはいけない。引き止めてはいけない。自分に関わった者たちは、皆不幸になる。だからひとりでいることを望んでいた。だからあの時――彼の手を、自ら離したのだ。
分かっている。分かっているけれど――気づけば、毛布の端を握っていた指が、そっと伸びていた。
「……っ」
鉛でも詰められているみたいに重たい腕を微かに持ち上げて、離れゆこうとする彼の袖の端を、かろうじて掴んだ。ほんの指先だけで。今のシェリルの体力では、そうするだけで精一杯だった。
ほんの少しでも男が動けば、すぐにでも指先がこぼれてしまいそうな、弱々しい力。掴んだと言うよりも、触れたと言った方が正しいだろうその僅かばかりの感触に、しかし彼は、確かに気付いてくれた。
切れ長の目を見開かせて振り返った男に、シェリルの心が大きく揺れる。迷いを振り切れたわけでは、決してない。今もまだ、その只中で彷徨い続けている。
それでも、唇が震えるように動いた。
「……いか、な、いで……」
殆ど吐息のような、か細い声。こんなことを言う資格が自分にあるのかも分からないまままろび出た言葉に、自分自身でも戸惑う。まるで身体と頭が、別々の存在になってしまったみたいだ、と。
それでも、袖を摘んだ指先は、離せなかった。
そんなシェリルの指先を男は静かに見下ろし、それからゆっくりと顔を上げて、彼女のかんばせに視線を移す。
彼は何も言わなかった。その代わり、ふわりと穏やかに微笑むと、骨の張った大きな掌で、シェリルの手をやさしく包み込んだ。皮膚を通して伝わってくる、人肌の心地良いぬくもり。
その蕩けるようなぬくもりの中で、十年間張り続けていた何かが、音もなく、静かに解けていくような気がした。
「君がそう望むなら」
再び椅子に腰掛けながら、彼はシェリルの手を包む指へ、微かに力を込める。
「いくらでも」
まるで繊細な硝子細工でも扱うようにやわらかく、けれど確かに意志の感じられるその強さに、シェリルの身体からすうっと緊張が抜けてゆく。
そのままシェリルは、そっと瞼を閉じた。
握られた手のぬくもりが、手の皮膚からじんわりと沁み込んで、身体中を満たしてゆく。まるで穏やかな水の中を揺蕩うような、そんな心地がする。
これは夢ではない、と。眠りに落ちる寸前、シェリルはそれだけをもう一度確かめるように、繋がれた手をほんの少しだけ、握り返した。




