01
――殺してくれれば良いのに、と思う。
方法は問わない。首を括るのでも、腹を斬るのでも、或いは水に浸けるのでも。このままずるずると生き続けるくらいなら、今すぐ終わらせてしまった方が良い。
ひんやりとした石床に頬をつけたまま、シェリルはゆっくりと瞼を持ち上げる。鈍色の床に散らばっているのは、薄い染みだった。弾けた涙の、かすかな足跡。それ以外には何もない。
古びた埃の臭い。壁に蔓延る黴。見慣れた光景が、今日も変わらずそこにある。
初めの二年は地下牢だった。王宮の端の離宮へ移されてからどれほどの時が過ぎたのかは分からない。疾うに、数えることをやめてしまったから。窓から射し込む光の角度だけが、今日も変わらず時を刻んでいる。
終わりの見えない暗闇を一日また一日と刻んでも、ただ心が擦り切れるだけだ。いつまでも、永遠に。だからいつしか、"明日"を待つことを、忘れてしまった。
「子供を産ませれば良いのよ」
継母――ベアトリスの言葉に、僅かに残っていた呆れを抱きながら、シェリルはそうっと息を吐く。舌の上に生暖かい銅の味がねっとりと絡みついていて気持ち悪い。さっき叩かれた時に口内を切ったのだろう。それを吐き出すだけの気力さえ、もう残っていなかった。
「能力は、子供へ遺伝するのでしょう? “器”は、一人より二人の方が良いわ」
深いビリジアン色のドレスの裾が、目の前で揺れた。次の瞬間、生白い手が乱れた髪を容赦なく鷲掴む。
有無を言わさぬ強引さで上体を引き起こされ、剥き出しになった喉元がヒュッと引き攣った。視界が火花を散らすように明滅し、端の方からすうっと白く塗り潰されてゆく。
その霞む視野の端に、ベアトリスのもう一方の手に握られた透明な石が微かに映った。瑞々しい透明度とは裏腹に、大輪の花のようでありながら、ひどく攻撃的な形をした石。幾重にも重なる花弁は、その一枚一枚が、まるで氷の刃のように鋭く尖っている。触れる者すべてを拒絶し、切り刻もうとするかのような棘々しい輝き。
その輝きをぼんやりと見つめながら、このまま意識を手放してしまえればどんなに良いだろう、とシェリルは思う。このまま一生目覚めない深い眠りにつけたら、どんなに楽だろう、とも。
それほどまでに、シェリルにはもう、何もかもがどうでも良かった。今すぐにでも命を手放してしまっても構わない、と思えるほど。
それなのに――。胸の裡で小さく苦笑をこぼしながら、シェリルはゆっくりと瞬く。
頭の片隅に、あの真摯な赤い瞳が、あのやわらかな青い花がちらついて消えないのは、どうしてだろう。
――と、その時だった。
こつん、と。硬質でありながら澄んだ音が、鼓膜を叩いた。
歪な満足に満ちた静寂を切り裂いたその音は、遠い回廊の先から少しずつ近付いてくる。一歩進むごとに何かを固く決意しているかのような、迷いのない力強さで。
規律正しく、冷徹な重みをもった響き。それは、泥の底へ沈みかけていたシェリルの意識を、波紋のように小さく震えさせた。
ベアトリスの嗤い声が、ぴたりと止まる。
「陛下かしら」
「……いや、違う」
父であるエドワードの押し殺した声に、余裕の欠片は微塵もなかった。
足音は一歩一歩が清冽なほど正確に刻まれ、洗練された気品さえ漂っている。けれどその裏側には、全てを圧し潰してしまいそうな峻烈さが滲んでいた。それは薄暗い室内の空気を、きりきりと締め上げてゆく。
やがて足音が、ぴたりと止まった。
「――随分と愉しそうだな。お前達の下品な嗤い声が、外まで漏れ聞こえていたぞ」
聞こえてきたのは、低く凛として涼やかな、男の声だった。飄々とした響きを含みながら、しかしその実、背筋に震えが走るような嘲笑と剥き出しの刃が透けて見える。
「なっ、何故此処にっ……!」
慌てふためくエドワードの、焦りに急かされて妙に強張った声。それをどこか遠い世界の出来事のように聴きながら、シェリルは形にならない自嘲とともに、緩やかに瞼を閉じる。
期待するだけ無駄だ。どうせこの男もまた、同類なのだろうから。
シェリルが胸の裡で、そう諦念を抱いた――次の瞬間。凄まじい爆音が、部屋ごと空気を揺さぶった。
鼻腔に乾いた石埃が流れ込み、目を開けていられないほどの粉塵が白く舞い上がる。そして、頑強なはずの鉄格子が、まるで砂細工のように粉々に砕け散っていた。
白く漂う粉塵の中を、ひとつ分の足音が、静かに踏み込んでくる。それだけで、室内の空気がひとつ、ひやりと重く沈んだ。
粉塵が薄れゆくにつれ、その中から現れた視線が、エドワードとベアトリスを鋭く射抜いた。
「その女の涙には、もう何の価値もない。銅貨一枚分の価値すらもな」
凛と紡がれたその一言に、シェリルの乾ききった心臓が、とくりと大きく脈打つ。
ぴん、と何かが弾ける音がして、シェリルの髪を掴んでいたベアトリスの手から、唐突に力が抜けた。支えを失った身体は、まるで糸の切れた人形のように、力なく床へと沈んでゆく。
嗚呼、このまま冷たい石床に叩きつけられる――と思うより先に、大きな手がシェリルの身体をやわらかく受け止めた。
驚いて、シェリルはどうにか目を開けようとする。けれど瞼が重くて、うまく開かない。頬に触れる体温が、あまりにも――あまりにも、あたたかくて。
長い年月、冷たい石床と空気の中で過ごしてきた身体に、その熱がじわりじわりと沁み込んでくる。このまま深い眠りに落ちてしまいそうだ、と思った。永遠に覚めることのない、終わりのない眠りに。
ただ、出来ることなら最期にひと目だけ――彼に逢いたかった。あの赤い瞳の少年に。
そう願いながら、ぼんやりと霞む視界の中で、シェリルはかろうじて目を細める。見えたのは、さらりとしたアッシュグレーの髪だった。それから左目の下の、小さな泣きぼくろ。そして――ルビーを思わせる、赤い瞳。
その鮮やかな赤色に、シェリルは思わず息を呑んだ。――知っている。この顔を、知っている。忘れたことなんて、一度たりともない。
「――シェリル」
名前を呼ぶ声が、鼓膜の奥までやさしく流れ込んでくる。あの頃より低くはなったけれど、それでもそこに滲むあたたかさは少しも変わらない。
幻なんかでは、なかった――。その事実が胸の奥にじわりと広がるのと同時に、シェリルの視界は白く滲んで、そのままゆっくりと暗く落ちていった。




