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さよなら、私を搾取した伯爵家。価値のなくなった私を救ったのは、反逆の王太子様でした。  作者: 榛乃


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 確固たる意志を帯びた、一切の迷いのない声に、シェリルは思わず目を瞠り、息を呑む。違う、と言いたかった。そうではない、と叫びたかった。貴方は何も悪くない、と、首を左右に振りたかった。


 けれど、どれほどそう思っても、言葉はなにひとつ出てこない。間近から向けられる、真摯な――いっそ眩しいほど真っ直ぐな――赤い瞳に、思考も何もかも囚われたまま、ただそこに釘付けになっていた。


 言いたいけれど、言えない。伝えたいけれど、伝えられない。そのもどかしさに、シェリルはくしゃりと顔を歪める。そんな彼女の頬を両手で包み込みながら、セラフはふっと吐息を漏らして笑った。


「君は何も悪くない……と、耳障りの良い綺麗事を言ったところで、君のようなやさしくて真面目な人間は、受け入れられないのだろうな」


 どこか悲しげな響きを帯びた声音で、まるで独り言のようにそう囁き、セラフはゆっくりとひとつ瞬いた。


 刹那、シェリルは否が応でも悟る。嗚呼、この人は自分の望む言葉を口にしてはくれないのだろう、と。どんなに懇願しても、絶対に。そして自分を、エドワードやベアトリスのような“罪ある側”に置くこともしないだろう、と。それは殆ど確信だった。拒みたいのに拒めない、振り払いたいのに振り払えない――そんな確信。


 そう思うと、強張っていた身体から不意に力が抜け、シェリルはゆるゆると顔を伏せて、セラフの逞しい胸板にそっと額を寄せた。そんな彼女の髪に指を通し、一本一本の感触を確かめるように、慈しむように、セラフはやさしくやさしく、何度も梳いてゆく。まるで駄々を捏ねた後にべそをかいた子どもをあやすみたいに。


「例え話をしようか、シェリル」


 小さく縮こまったシェリルの身体を腕に抱いたまま、セラフが少し戯けた口調で突拍子もなく切り出した。この人でもこんなふうな物言いをするのか、と少し面食らいながら、シェリルは額を擦るようにして僅かに首を縦に振る。


「君は、“魔力”を悪だと思うかい?」


 はじめ、彼の意図がうまく察せられず、シェリルは返答を躊躇った。“魔力”とは、生まれながらにして一定の人間が魂に宿す、特別な力のことだ。それを用いて魔術を操る者を“魔術師”と呼び、身近なところで言えば、イヴリスがその最たる存在である。


 魔術の源たる“魔力”――それが悪か否かと問われても、正直なところ、答えはとても難しい。魔力は突き詰めれば、ただの“力”に過ぎない。噴水から吹き出す水のようなもの。そこに“悪”などという概念は、果たしてあるのだろうか。


 答えに窮していると、頭上でセラフが、くつりと喉を鳴らして笑った。


「では君は、“魔力”によって生み出される“魔術”を、それを操る“魔術師”を、どう思う」


 それもまた、悪か否かという問いなのだろう。シェリルはぎゅっと目を瞑り、思考を巡らせる。


 “魔術”と一概に言っても、用いられる用途は千差万別だ。暖炉に火をつけたり、重たい荷物を運んだり、汚れたものを一瞬にして清めてしまうような、人々の生活に溶け込んだ魔術もあれば、戦争の為に用いられることもある。


 魔力を持つ者と持たぬ者との戦力差は著しく、だからこそこの国は、セオドアの仕掛けた戦争で多くの勝利を収めてきた。――フロリスを用いた魔道具のおかげで。


 なおも言葉を紡げずにいても、セラフは無理に答えを促そうとはしなかった。ただ丁寧に髪を撫で、時折指先に一房絡め取って弄ぶ。


「別の物で例えてみた方が、分かりやすいか」


 彼が何を伝えたいのか、その真意をうまく汲み取れない自身の愚鈍さが嫌になる。そう思いながらシェリルは、セラフの纏うシャツの端を、僅かに、弱々しい力で握り締めた。


 こんな自分を、彼は嫌ってしまうだろうか。呆れてしまうだろうか。“飛び降り”という道を選んだくせに、彼との別れを選んだくせに、それでもセラフにどう思われているのかが気になってしまう。


 そのことに、シェリルは顔を伏せたまま、密かに自嘲した。なんて馬鹿なのだろう。疾うに嫌われていても、呆れられていても、仕方がないというのに。


「刃物は、日常生活に不可欠なものだ。食材を切り、木材を加工し、時には身を護る為にも役立つ。――しかし同時に、人を傷つけ、命を奪うものにもなり得る」


 魔力の次は突然の“刃物”の例えに、シェリルは一瞬面食らう。しかし、もう一度少しずつ、頭の中で彼の説明を反芻すればするほど、セラフの言葉にはひとつの間違いもない、と思い至る。


 確かに“刃物”とは、そういうものだ。人の役に立つ便利な道具である一方で、人を傷つける道具でもある。これまでどれほどの人がその恩恵を受け、どれほどの命がその脅威に沈んだことだろう。


「では、刃物によって誰かが傷つけられた時、その責任は誰にある? 刃物そのものか? それとも、刃物を作った鍛冶師か?」


 その問いを聞いて、胸の中で何かがぐらりと揺れた。根本からひっくり返されそうなほどの、大きな揺れ。


 刃物は道具だ。人の手によって作られた“物”。故にそれ自体に、善悪の意思などあるはずもない。鍛冶師もまた、人を傷つける為に作るのではなく、人の役に立てる為に鍛つ。もちろん、一部の例外はあれど。


 それは分かる。理解出来ないわけではない。けれど――どうしてこんなにも苦しいのだろう。彼が何を言わんとしているのか、薄々と分かり始めているからこそ、余計に。じわりじわりと答えに近づくたびに、まるで心臓を鷲掴みにされるような錯覚に陥ってゆく。


 もうそれ以上は何も言わないでほしい、と思った。無性に。お願いだから何も言わないで、と。


 けれど、声にしなかった思いが彼に届くはずなど、無論ない。髪を梳いていた手が止まり、まるで撫でるようにして頬へ滑らせた彼の手が、ゆっくりとシェリルの顔を胸元から離す。


 間近で見る彼の真紅の瞳は、まるで呑まれてしまいそうなほど深く、美しく、そしてどこまでも真摯だった。目を逸らしたいのに、逸らせない。逃げ出したいのに、逃げられない。ただただ、その瞳に縫い留められたまま、シェリルは静かに息を呑んだ。


「善悪を宿すのは、刃物でも鍛冶師でもない。それを手に取り、どう使うかを決めた者だ」


 その言葉が、じんわりと、張り詰めた胸の奥へと沁み込んでくる。拒みたかった。否定したかった。けれど言葉は出てこなくて、シェリルはただ、セラフのシャツを握る指に、ぎゅっと力を込める。


 道具は、所詮“道具”にすぎない。刃物も、魔力も、魔術それ自体も。使うものに悪意があれば人を傷つけ、善意があれば人の役に立ち、救うことになる。


「それは、君もまた同じだ、シェリル」


 あまりにも真っ直ぐな、やさしい眼差しで見つめられ、思わず視界が滲んでゆく。痛みでは疾うに泣けなくなっていたというのに。両親やセオドアにどんなに痛めつけられても、涙がこみ上げてくることなど、もう殆どなくなっていたというのに。


 彼の声を聞くたびに、彼に見つめられるたびに、彼に触れられるたびに、そのあたたかさに包まれるたびに、涙が勝手に溢れ出しそうになってしまう。泣いてはいけないのに。涙をこぼしてはいけないのに。余計なものをまた生み出してはいけないのに――。


「でん、か……」


 漸く絞り出した、情けないほど震えた声に、セラフは苦笑をこぼす。そうして頬に添えていた手を僅かに動かし、親指の腹で、今にもこぼれ落ちてしまいそうだった雫を、そうっと拭い取ってくれた。地面に落ちてしまう前に。そこで弾け、氷華を咲かせてしまう前に。


「君が生み出した魔法石は、所詮“道具”に過ぎない。ただの、魔力の宿った小さな石だ。道具でしかない魔法石に自我などあるはずもないのだから、無論、そこには善も悪もない」

「それでも……私は……私はっ……」

「君は、誰かを傷付けたくて、魔法石を生み出していたわけではないのだろう?」


 力なく僅かに首を縦に振ると、拭い取れなかった涙が頬を伝い、顎先から滴り落ちた。たった一雫が、ぽたり、と。刹那、足元で、花の咲く澄んだ音が響いた。涼し気な、凛とした音。しかしセラフは、それが何であると理解していながら、一瞥すらしようとはしなかった。


「道具に善悪を与えるのは、使用者の意思でしかない。魔法石にそれを付与していたのは――君ではなく、君の両親と国王だ」


 そう言って、セラフはどこか悲しげに、遣る瀬無さそうな苦笑を浮かべた。


 そのかんばせを見つめながら、彼がそんな表情をするのも無理からぬことだ、とシェリルは思う。いくら親子関係が冷め切っていようとも――セラフとセオドアは、れっきとした親子なのだ。血の繋がった、肉親。思うところがないはずがない。


「君の生み出した魔法石が、戦場で使われてきたことは、変えようのない事実だ。魔法石による圧倒的な軍事力の差で、父上は幾度も戦を起こし……多くの者が傷つき、命を落とした」


 言いながら、セラフは足元に転がったままの魔法石を指先で摘み上げ、ふたりの目の前に翳した。曇りひとつない、透徹とした華。反対側まで濁りなく透かすその美しい石は、しかしいつもの刺々しい花弁ではなく、まるで薔薇のぽってりとした花弁のように、やわらかな丸みを帯びていた。


 それに目を瞠るシェリルの眼前で、突然淡い光が魔法石を包み込む。――次の瞬間、やわらかな光が薄らぐと同時に、魔法石だったものが、いつの間にか澄んだ砂と化していた。とても細かな、硝子の石。それは夜風に攫われ、セラフの白い指先からさらさらと、夜闇の中へ溶けるように消えていった。


「だが、誰を傷付け、誰の命を奪おうとも、それは魔法石そのものには関係がない。全ては、それを手に取った者の意思――ひいては、命令を下した者の意思に過ぎないのだから」


 彼の声は、言葉は、どこまでもやさしい。傷付けまいと慮っているのが、ひしひしと伝わってくる。


 だからこそシェリルは、胸を掻き毟りたくなるほど苦しかった。違う、と叫んで、彼の口を塞いでしまいたかった。許されてはいけない。罪を贖わなければならない。たとえ魔法石がただの道具に過ぎないとしても――それでも。


 けれど、顔をくしゃりと歪め、唇を噛み締めるシェリルに、セラフはやわらかく、それでいて強い光の宿った瞳で、静かに微笑んだ。


「幾つもの戦、多くの戦死者、嵩んだ戦費、民への重税……。それらの咎は、強制的にフロリスを搾取し、戦を繰り返してきた父上や、君の両親が背負うべきものだ」


 そこで漸く、シェリルはセラフの背負っているものの重さを、改めて思い知る。父王の起こした戦。流れた血。失われた命。


 もしかしたら、この人は――。ふと胸を掠めた不安に、シェリルは息を呑む。もしかしたらこの人は、父王の犯した罪全てを、ひとりで背負おうとしているのではないだろうか。父王の咎を、王家の咎を、全て自分のものとして。生きて、償っていこうとしているのではないだろうか――。


 そんなシェリルの考えをまるで見透かしたかのように、セラフはくつりと喉を鳴らして笑う。長く濃い睫毛に縁取られた目を僅かに細め、それでも鮮やかな赤い瞳だけは、まっすぐにシェリルを見つめたまま。


「故に、父上が玉座を退いた今、その責を継ぐのは――俺だ」

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