17
視線の先で、赤い宝石が揺らめいた。暗闇の中でもはっきりと見える、ルビーのような鮮やかな赤。
幻覚を見ているのだと思った。死の淵に立ってなお、大切な――心の底から大切な人を連想させるその色を。否、だからこそ、と言うべきなのかもしれない。死の間際にあるからこそ、走馬灯ではなく、かけがえのない宝物を見ているのだろう、と。
ゆらゆら、と、赤色が揺れている。それに合わせて――何故か自分の足も、ゆらゆらと揺れている。いつまで経っても痛みは襲ってこない。硬い石畳に、或いは花畑を囲う煉瓦にぶつかるような衝撃も、ない。ただただ、ゆらゆらとしている。足が、身体全体が。
何故だろう、と不思議に思った瞬間、胸を抉るような悲痛な声が、青白い静寂を切り裂いた。
「――シェリルっ!」
それは、既に靄に包まれていたシェリルの意識さえも、無理矢理現実へと引き戻してしまうほどの声だった。大きく、強く、鼓膜を震わせ、身体の芯をまっすぐに突き抜けてゆくような。その勢いのまま、視界を覆っていた霞が、少しずつ、少しずつ薄れてゆく。やがて――ゆっくりと、世界が輪郭を取り戻す。
そんなシェリルが最初に見たのは、自分の右手首に回された大きな手だった。白く長い指が、より白く変色するほど喰い込み、力強く握り締めている。あまりの強さに、痛い、と思う。けれど不思議と、痛みよりもあたたかさの方が、じんわりと皮膚に沁み込んでくる。凍えていた身体の奥へと、ゆっくり流れ込んでくるような――そんなあたたかさが。
視線の先で、また、赤い宝石が揺らめいた。ルビーのような、鮮やかな赤色。
それが両耳に付けられた赤いピアスと、こちらを見下ろす切迫した瞳だと気付くより先に、シェリルは無意識に、震える唇を動かしていた。
「でん、か……」
「なに馬鹿なことをしているんだっ!」
朧げだったものが、やがてはっきりと鮮明になってゆく。
幻覚を見ているのだと思っていた。幻聴を聞いているのだと思っていた。
けれどその実、どちらも違った。全ては現実だった。現実に――正に今この瞬間、目の前に、頭上に、誰より大切だったと思っていたその人が立っている。欄干から半身を乗り出し、シェリルの右腕を力強く掴んで。
そうと頭が理解した瞬間、シェリルは必死に身を捩った。セラフが静止の声を上げるが、そんなものは耳に届いていないとでもいうように、ただひたすら腕を引き、右手首を掴む手から逃れようとする。
「離して下さい、殿下っ! 私は、私はっ……!」
「離すわけがないだろ!」
「このまま死なせて下さいっ! お願いです、お願いですからっ……!」
必死に懇願するけれど、セラフの食い縛られた唇の間から漏れたのは、苛立たしげな舌打ちだった。右手首を掴む彼の手が、少しずつ、少しずつ、肌の上を滑ってゆく。手首から付け根へ、更にその先へ。
それでも手放すことをやめないセラフの指に、シェリルはもう片方の手を引っ掛けた。皮膚に喰い込みそうなほど巻き付いたその指を、無理矢理剥がし取る為に。
けれどもそれは、すぐに無駄な足掻きとなった。
もう一度舌打ちの音が聞こえたかと思った瞬間、シェリルの身体がふわりと浮いた。腕ごと引っ張り上げられたのではなく、まるでやわらかな風の塊に掬い上げられ包まれたように、身体全体が、ふわりと。
何に引かれているわけでも、押し上げられているわけでもない。それなのに、重力を忘れたように、身体はゆっくりと上昇し、欄干を越えてゆく。夜風が頬を撫で、月明かりが青白く降り注ぐ中、その感覚は、まるで夢の続きにいるようだった。痛くも、苦しくもない。ただただ、やさしくて、心地良い浮遊感。
やがてシェリルの身体は確かな重みを取り戻し、すうっと、セラフの腕の中へ落ちた。
刹那、逞しい二本の腕が、もう二度と離さないとでもいうように、きつくシェリルを抱き締める。ぎゅっ、と、息が止まりそうなほど、強く。押し付けられた広い胸板から、早鐘を打つ鼓動が、どくり、どくりと伝わってくる。布一枚越しの、すぐ傍から。それが、耳の奥にやわらかく響き渡って、つられるように、シェリルの胸までじわりと高鳴り始める。
セラフに抱き竦められたまま、暫くの間、どちらも口を開こうとはしなかった。ただただ、丸い月と幾千もの星々に見守られながら、互いの鼓動を、呼吸を、静かに感じ合っていた。
どれくらいそうしていただろう。やがてセラフが、シェリルを腕に抱いたまま、ゆらりと半歩後退り、閉じられた硝子扉に背を預けてずるずるとその場に座り込んだ。
「……何故」
肩に埋められた顔から、くぐもった声が届く。ひどく掠れているように聞こえるのは、興奮のせいか、それとも何かを必死に押し殺そうとしているせいか。
それ以上言葉を紡ごうとしないセラフに、シェリルは唇をきつく噛み締める。
どうして此処にいるのですか。どうして助けたりしたのですか――。訊きたいことは、たくさんある。たくさんあるはずなのに、言葉はどれも喉の奥に詰まって、出てこようとしない。
胸の中がぐちゃぐちゃで、何をどう整理すれば良いのか、分からなかった。泣きたいのか、叫びたいのか、それとも謝りたいのか。自分自身でさえ、もうなにひとつ分からない。ただ、この腕の中があたたかくて、それがひどく胸を締め付け、苦しくてたまらなかった。
「何故、飛び降りたりしたんだ」
長い、長い沈黙の後、漸くセラフが、声を絞り出すようにして、ぽつりと、一言だけを落とした。責めるでもなく、叱るでもなく。ただ低く抑えられたその声に、しかしシェリルは、すぐに言葉を返せなかった。
死にたかったから、と、そう言えば良いだけなのに。贖罪の為にはこうするしかなかったのだ、と、そう告げれば良いだけなのに。頭の中に浮かんだ言葉は、次から次へと、泡沫となって消えてゆく。本当は叫びたいのに。叫んで、懇願したいのに。頭と、身体と、心が、全部ばらばらで――どれひとつ、思い通りにならない。
そんなシェリルを、セラフは急かすことはしなかった。相変わらず力強く抱き竦めたまま、シェリルが語り出すのを、ただ静かに待っている。それが彼なりのやさしさなのだと分かるからこそ、胸が、じくじくと痛んだ。どうしてあのまま死なせてくれなかったのか――その一言が、あまりにも残酷な気がして、どうしても言葉に出来なかった。本当はそれを、一番訴えたいはずなのに。
「……私は、罪人なのです」
漸く絞り出した声は、か細く、まるで吐息と変わらないほど小さかった。夜風に攫われ、今にも消えてしまいそうなほど。
それでも、セラフの耳はしっかりと、その声を拾ってくれた。と同時に、抱き締める腕に、いっそう力がこもる。逃さない、離さない、と、まるでそう伝えるように。
「全て……全て、私のせいなのです。私がこんな……“魔法石”を生み出す異能さえ持っていなければっ……傷付かずに済んだ人たちが、失われずに済んだ未来が、たくさんあったのですからっ……」
一度口を開いてしまったが最後、箍が外れたかのように、つっかえていた言葉たちが、次から次へと溢れ出してくる。
「魔法石さえなければ、魔道具の開発が活発になることも、なかったでしょう……。均衡は保たれたまま……不要な戦は、起こらなかったかもしれません。私が……私が、魔法石さえ生み出さなければっ……誰も苦しまずに……救えた命だってっ……!」
語れば語るほど、セラフの包容によって鎮まりかけていた激情が、再び身体の中で暴れ出す。
助けなどせず、そのまま死なせてほしかった。許すことなく、責めてほしかった。罵声を浴びせ、詰ってほしかった。お前は幸せになるべき人間ではない、と。お前は多くの人々を苦境に陥れた大罪人だ、と。あの悪夢の中で響き渡った、昏い嗤い声のように。
けれど、少しの間をおいて聞こえてきたのは、深く長い溜息だった。
「――シェリル」
吐息混じりに名前を呼ばれ、びくりと肩が震える。そんな彼女の二の腕にそっと手を添え、セラフはゆっくりとシェリルを身体から離した。それでも、両足の間に座り込んだ彼女の腰に片腕を回したまま。鼻先に吐息が触れてしまいそうなほどの距離で、セラフはじっとシェリルの双眸を見つめる。
夜闇の中でもはっきりとした、鮮やかな真紅の瞳。端正なかんばせには、遣る瀬無さそうな微苦笑が浮かんでいるけれど、その瞳の奥には、悲しみとも怒りともつかない、到底ひと言では言い表せないような、幾重にも重なった感情が、静かに滲んでいた。
「君が、己を“罪人”だと言うのなら」
あまりにもやさしい声に、胸が苦しくなる。そんなシェリルの内側をまるで見透かしたように、セラフは僅かに笑みを深め、そっと彼女の頬に手を添えた。まるで涙の跡でも拭うように、親指の腹で、やさしくシェリルの肌を撫でる。
あたたかな声をかけてもらえる人間ではないのに。そんなふうに丁寧に扱われて良い人間ではないのに。真っ直ぐに向けられる赤い瞳を見つめれば見つめるほど、目の奥がつんと痛んで、じんわりと熱を帯びてゆく。
二人の間を、ひんやりとした夜風が、ふわりと吹き抜ける。その微かな風にのって、美しいアッシュグレーの髪の毛が、両耳につけられた細長いピアスが、さらりと揺れた。
その瞬間が、まるで夜明け前の、一番昏い闇に似ている、と思った。何もかもを呑み込んで、次の瞬間に全てが変わってしまう前の、張り詰めた、濃い静寂。
やがて一拍ほどの間を置いて、シェリルの腰を抱く腕をそっと引き寄せながら、セラフはゆっくりと唇を開いた。
「その“罪”を背負うのは、君ではなく――俺だ」




