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「――嫌われても知らねえよ?」
唐突に声をかけられ、セラフは動かしていたペンを止めて、視線だけを動かす。部屋の中央に置かれた応接セットの左側、ソファに深く腰掛けて横目にこちらを見遣るイヴリスの、意味深な金色の瞳と視線が交錯する。
しかしセラフはすぐに目を背け、止めていた手を再び動した。表情は一切変えず、ただ淡々と紙にペンを走らせ、署名の済んだそれを脇に積み上がった書類の山の上に置く。もう幾度も繰り返した作業は、もはや目を瞑っていてもこなせる気がするが、綴られている内容が内容だけに、どんなに面倒くさくとも疲れていようとも、目を通さないわけにはいかない。
「何のことだ」
未処理の山から新しい紙を一枚手に取り、下手な筆跡で綴られた見出しを読みながら、セラフは意識だけをイヴリスへと向けた。
「あの嬢ちゃんのことに決まってんだろ」
能天気な声で紡がれたその一言に、セラフは殆ど流れ作業となっていた手をはたと止める。
大きく見開かれた目、その真ん中で揺れるコバルトブルーの瞳――。ほんの一瞬しか見ることの出来なかった、不安と驚愕の滲んだ表情は、しかし今もまるでついさっき見たばかりのように、鮮明に脳裏へ浮かんでくる。
セラフはゆっくりと瞬きながら息を細く長く吐き出し、そうして顔を上げ、長年の友人である男の愉しげに細められた双眸をしっかりと見据えた。そんな彼の視線を、イヴリスはテーブルの上の小皿へ手を伸ばしながら、横顔で受け止める。
「あれっきり、会ってないんだって?」
程よく焼き目のついた菓子――セルヴァーノ王国から土産として受け取った焼き菓子のひとつ――をひょいと摘み上げながら、イヴリスは僅かに眉根を寄せた。口調も表情も、あたかも心配しているかのような素振りだが、この男の本音がそうでないことくらい、セラフには手に取るように分かる。ただの茶番だ。
「しっかし、無視するのは酷いよなあ。――流石は、どこぞの派閥で"冷酷非情な男"と言われてるだけあるってか」
指先に菓子を摘んだままくつくつと喉を鳴らし、イヴリスはどさりと背もたれに寄り掛かる。
彼があの日の――温室での予期せぬ邂逅のことを言っているのは明白だった。無論、意図して出くわしたわけではないことくらい、この男なら理解しているはずだ。ミレイユ王女の要望――もとい我儘――のせいで予定が狂ってしまったということも。
しかしそうと分かっていても、セラフには言い訳のしようもなかった。
他に誤魔化す術がなかったとはいえ、酷いことをしてしまったという自覚はある。間違いなく目が合っていながら――恐らく互いにそうと気付いていながら――、まるで何も見ていないかのように視線を逸してしまったことも、それを未だ詫びずにいることも。あの瞬間ほんの僅かだけ見えた彼女の表情から、傷付けてしまったのだろうと分かっていながら。
「早い方が良いと思うぜ? 俺は」
言われるまでもない、と言い返しそうになるのを、セラフは辛うじて呑み込む。あの時イヴリスが機転を利かせてくれなければ、鉢合わせは免れなかっただろう。感謝こそすれ、愚痴を向けるのは筋違いというものだ。
そもそも、シェリルの素性はどうにか誤魔化せたとしても、真の問題はそこではなかった。
セルヴァーノ王国の第一王女、ミレイユ・ベルナルディ――。「たまたま近くに来たものですから」としおらしく言っていたが、あの女がこの時期に敢えて来訪したのだということは自明だった。彼女が――或いは、彼女の父親が――腹に抱えている魂胆もまた、同様に。
彼女たちの企みのひとつは、正直どうでも良かった。もとより、いずれは交渉の相手として選ぶことになる予定ではあったのだから。先手を打ってきたことは、寧ろ都合が良いとさえ言えた。
しかし、もうひとつの方は――。セラフはペンを置き、指先で眉間を軽く揉みながら小さく溜息をつく。何より厄介なのは、そちらの方だった。その企みのせいで、幾度頭を抱えたことか。やんわりと断りを示しても、ミレイユは決して諦めようとしない。それどころか顔を合わせるたびに、その行動はどんどんと大胆になってゆく。恋人でもないというのに、馴れ馴れしく腕を絡ませようとしてくるような――。
どこまでが彼女の真意で、どこまでがセルヴァーノ国王の意図なのかは、分からない。けれど兎も角、彼女との婚姻だけは御免だった。いかに彼の国が商業的に発展を遂げた裕福な大国のひとつであったとしても。
「まあ、仕方ありませんよ。何せミレイユ王女殿下ですから……」
庇っているつもりなのか、イヴリスの向かい側のソファに腰掛けているアレンが、苦笑気味に言葉を挟む。
「あの時も、まあ、何と言いますか……そういう状況でございましたでしょうから」
「モテる男は大変だなあ」
戯けたように肩を竦め、イヴリスは焼き菓子に齧りつく。そんな彼を嗜めるように一瞥したアレンだったが、ふと何かを思い出したように、すぐにセラフへと視線を戻した。
「そういえば、シェリル様付きの侍女から聞いたのですが」
再び書類仕事に戻るべくペンを手に取ろうとしていたセラフは、その一言にはたと動きを止める。視線だけで先を促すと、アレンはひどく真剣な面持ちで言葉を続けた。
「どうやらここ数日、あまり眠られていないのではないか、と」
「……眠れていない?」
「ええ。初めはただ早起きなだけかと思っていたそうなのですが……顔色が優れなかったり、日中にぼんやりしていることが多いそうで。恐らくは眠れていないのではないかと、そう案じていました」
「悪夢にでも魘されてんじゃねえの?」
焼き菓子を呑み込んだイヴリスが、肘掛けにだらしなく頬杖をつきながら言う。
「厳しい状況に置かれていた人間は、よくその時のことを夢で"追体験"するって、どっかの偉いジジイが言ってたのを聞いたことがある」
「……幽閉時のことを、悪夢で視ている、と?」
「有り得なくはねえだろ。特にあいつは、閉じ込められてた期間が長いからなあ」
肩に垂れた黒髪を指先に巻き付けて弄ぶイヴリスの横顔を見つめながら、セラフはデスクの上に両肘をつき、口の前で指を組み合わせる。
確かに彼の見解には、一理ある。シェリルの場合は精神的にはもちろん、苛烈な暴力による身体的な傷も大きい。八年――伯爵邸での幽閉期間も合わせれば、十年。それだけの長い間、心身ともに蹂躙され続けてきたのだ。その時のことを、無意識に悪夢として視てしまうのも、無理からぬことだろう。
「一応、就寝前に安眠効果のあるハーブティーを用意してはいるそうなのですが、なかなか効果が出ないようでして。あまり長く続くようであれば、医師にご相談された方が宜しいかと」
アレンの言葉を聞きながら、セラフは組み合わせていた指をほどき、ゆっくりと背もたれに身を預ける。
最後に言葉を交わしたのは、もう数日も前のことだ。それなのに、目を閉じれば瞼の裏の暗闇に、彼女の顔が今も鮮明に浮かんでくる。あの茶会の日に見た、やさしく朗らかな微笑み。昔から変わらないその笑顔を、愛しい、と思った。今度こそ何としても守り抜きたい、とも。
そうだというのに――。
徐に瞼を持ち上げ、セラフは深々と溜息をつく。そんな彼の目の前で、イヴリスは飄々とした様子で小皿の焼き菓子へ手を伸ばした。――しかし次の瞬間、その指先がぴたりと止まる。焼き菓子に触れるか触れないかのところで、まるでその場に縫い留められたかのように。
「――おいっ」
どうかしたのかと訝しむセラフの耳に、イヴリスにしては珍しい、ひどく切羽詰まった声が届いた。彼の端正な横顔がみるみるうちに引き攣ってゆき、それと同時に、左目がじわりと紫色へ変色してゆく。
「おいおいおいっ! そっちは考慮してねえぞっ!」
刹那、セラフの背筋に冷たいものが走った。電流を流されたようなその衝撃に、弾けたように目を見開く。
ああ――と理解するより先に、身体が勝手に動いていた。焦りを滲ませたイヴリスも、状況が呑み込めず顔を顰めるアレンも、デスクの上に山積みになった書類も、何もかも放り出して。
頭の中にはただ、嘗て見たあどけない笑顔が――大人になってもなお美しく輝かしい彼女の笑顔だけが、浮かんでいた。
***
ひんやりとした夜風に、寝間着の裾がふわりと揺れる。まるで眼下に広がる、無数の草花たちのように。
高く不安定な場所は怖いだろうと身構えていたけれど、案外平気なものだと、シェリルはぼんやりと思いながらゆっくりと瞬く。欄干の幅が、少し広く造られているおかげかもしれないけれど。いざ登ってみれば、なんてことはない。ただ視界が少し高くなっただけで、それ以外は何も。
不思議と、恐怖心はなかった。それよりも、これで漸く解放されるという、喜びに似た感情の方が遥かに大きい。
アニエスは泣くだろうか。イヴリスは呆れるだろうか。アレンは遣る瀬無さそうに眉根を寄せるだろうか。――セラフは、怒るだろうか。
エドワードやベアトリスと同じように罰してほしいと願い出ても、セラフはきっとそれを受け入れてはくれないだろう。そもそも初めからそのつもりでいるのなら、あの離宮から連れ出してすぐ、別の牢獄に閉じ込めていただろうから。手厚く治療を施し、身の丈に合わないほどの厚遇を与えてくれている時点で、セラフに自分を罰するつもりがないことは分かる。
けれど――。すうっと深く息を吸い込み、身体中でその静かな心地よさを味わいながら、シェリルは思う。彼がどう思っていようとも、自分が“罰せられる側の人間”であることに変わりはない、と。
元老院などに直訴する、という手段がないわけではないけれど、それが出来るだけの伝手はひとつもない。アニエスに手紙を託したところで、望む相手にではなく、間違いなくアレンやイヴリスの手を通ってセラフのもとへ届くだろう。
“逃げ”だと言われれば、確かにそうかもしれない。けれども、大罪を犯したのだから、きちんと償わなければならない、とシェリルは思う。元凶を生み出してしまったことへの、せめてもの贖罪として。だから、許してほしいとは、思わない。
もう一度、肺が満たされるほど深く息を吸い込み、シェリルは徐に目を閉じる。瞼の裏には、あの悪夢の中で見た無数の屍が、或いは昏い空洞が浮かび上がるかと思っていたのだけれど。――どうしてこういう時に限って、彼の顔が浮かんでしまうのだろう。鉄格子越しに見たあどけない笑顔が。茶会の時に見たやさしい笑顔が。まるで引き止めるように、心残りだとでも言うように、鮮明に浮かんでくるのだろう。
でもこれはきっと、別れの挨拶だ。自分自身に無理矢理そう言い聞かせ、シェリルはふっと顔を綻ばす。そうしてそのままゆっくりと、身体を前方へ傾けた。床も欄干もない、その先へ。夜の帷に包まれた、青白い庭園へ向かって。
さようなら。ありがとう――。
誰より大切な人へ、心の中で最期の言葉を紡ぎながら、空へ身を投げた――はず、だったのに。
「――シェリルっ!」




