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えっ――と声を漏らしたのは、アニエスだったのか、それともアレンだったのか。分厚い膜の向こう側で囁かれたように、輪郭を持たずぼんやりと聞こえたその声を頭が理解するより先に、ぱちん、と何かが弾けるような小さな音が、どこからともなく鳴った。
薄い瞼が閉じ、そして再び開かれるまでの、僅かな一瞬。次にシェリルの目に映り込んだのは、すっかり見慣れた療養用の部屋と――数歩先に佇む、全身黒ずくめの人影だった。その背後では、鈍色に染まった空が、まるで彼の威圧感を増幅させるように、重く広がっている。
いつの間に――と思いながら、シェリルはただ呆然と立ち尽くす。ほんの一瞬前まで――そう、瞬きをひとつするその直前まで、あの色鮮やかな温室にいたはずだ。白い石畳の上に立ち、小ぶりなガゼボの方を眺め、そして、その傍らを寄り添いながら歩むセラフと見知らぬ女性を見ていたはず、なのに。
「テメェ、阿呆か」
呆れと苛立ちの綯い交ぜになったような声でそう吐き捨て、人影――イヴリスは深々と溜息を吐き出しながら、雑な手つきで頭を掻く。どうやら、瞬く間に此処へ戻ってきたのは、彼の仕業であるらしい。魔術師ともなれば、そういった離れ業など難なくこなせてしまうのだろう。
まるで他人事のように感心しながら、シェリルはイヴリスの金色の瞳を見つめる。
そこでふと、彼の左目だけが異なる色をしていることに気が付いた。深い、深い紫色。神秘的でもあり、どこか妖しくもある色が、左の瞳だけに宿っている。けれどそれはすぐに、すうっと溶けるように――或いは呑まれるように――、いつもの金色へと戻っていった。見間違いだったのだろうか、と思えるほど、跡形もなく。
「悪い……助かった」
そんな彼に、ひどく申し訳なさそうな顔をしたアレンが、沈んだ声で詫びる。
「しかし、温室への散歩は予定になかったはずだが……」
「お姫様が突然ご所望なさったんだよ。昨年、和平の証として贈った花がちゃんと元気に咲いているか、自分の目で確かめたいんだとさ」
面倒臭そうな声で投げやりにそう言いながら、イヴリスはどさりとソファに腰を下ろし、ひどく気怠そうに背もたれに深く身を沈めた。
「確かに予定にはなかったけどな、“近衛騎士団副団長”の肩書背負ってんなら、周囲の気配くらいすぐに察しろよ」
「ははっ……ぐうの音も出ないな」
自嘲とも苦笑ともつかない弱々しい笑みをこぼし、アレンは傍らに棒立ちしたままのシェリルを振り返る。エメラルドを思わせるその瞳には、深い憂慮と、隠しきれない自責の色が滲んでいた。
「申し訳ございません、シェリル様。私が至らないせいで、あのような場面を……」
「い、いえ……」
何と返して良いのか分からず、シェリルは当惑しながら首を左右に振る。彼が温室に案内してくれたのは、雨で散歩へ出られないシェリルを気遣っての善意でしかない。その上“予定になかった出来事”なのだから、アレンを責めるのはお門違いというものだろう。突然のことなら、尚の事。
それに――。まだ生々しほど鮮明に思い出すことの出来る二人の姿を、そして、何事もなかったかのように逸らされた赤い瞳を脳裏に浮かべながら、シェリルは思う。何故彼が、私へ謝らなければならないのだろう、と。あの光景を目の当たりにしてどう感じようが、シェリルの感情などまるで関係がないはずなのに。
大丈夫です、と答えれば良いのだろうか。――胸をきつく締め付ける痛みから目を背けて。私は大丈夫です、と。
何をどう伝えれば彼の自責の念を消せるのだろう、と考え倦ねていると、そんな二人の間へ割って入るように、イヴリスの舌打ちが響いた。
「ったく、よりによってこんな時期に来やがって。空気読めねえのかよ」
「……無論、この時期だからこそ、だろう」
“お姫様”ということは、あの薄ピンクのドレスを纏った女性は、どこかの国の王女なのだろう。そんな彼女に対して、随分辛辣なことを言うものだ、とシェリルは思う。彼らしいと言えば、彼らしいけれど。
いったい何処の国の、どういう人なのだろう。そう思いながらアレンの横顔を見上げると、その視線に気付いた彼が、すぐさまにこりとやさしい笑みを浮かべた。
「あの御方は、ミレイユ・ベルナルディ王女殿下です。エテルノス王国の南に隣接する、セルヴァーノ王国の第一王女でいらっしゃいます」
セルヴァーノ王国の、第一王女――。確かに遠目からでも分かるほど、彼女には神々しいまでの気高さと淑やかさがあった。セラフと並んでも決して見劣りすることのない気品溢れる美貌と、やわらかな光を湛えたような、美しく穏やかな笑み。
まるで御伽噺に出てくるような一場面だった、とシェリルは思う。宮廷画家に筆を執らせ、絵画に仕上げてもきっと違和感のない、そんな光景。何もかもが完璧だった。お似合いだ、と言っても良いほどに。
――お前が殺したんだ。
耳の奥で、悪夢の中の声が蘇る。粘りつくような嘲笑。幾重にも折り重なった、昏い嗤い声。
どっと疲れがこみ上げてくるのを感じ、シェリルはソファへ向かおうと一歩足を踏み出す。けれどその足元がふらりと不安定に揺らいでしまい、傍に控えていたアニエスが慌てて身体を支えてくれた。そのまま彼女に付き添われ、昨日と同じようにイヴリスと向かい合う形で、ソファにゆっくりと腰を落ち着ける。
座った瞬間、口を衝いて出たのは、鉛でも詰め込んだような重たい溜息だった。
昨日から、色々なことを耳にし、或いは目にして、頭の中はひどくぐちゃぐちゃになっている。セラフが実の父親である国王へ反旗を翻し、玉座から引き摺り下ろしたこと。その原因のひとつが、自身を救い出す為だったこと。そして――ミレイユ王女と寄り添う姿と、すっと流れるように逸らされた赤い瞳。
「ひどく疲れた顔してんな」
イヴリスの指摘に、シェリルは眉を下げて力なく微笑む。けれど、うまく笑えている自信は、どうにもなかった。口の角が、頬が、強張っているような気がする。
「どう整理してよいのか、分からないのです……」
頭も、心も。胸の裡だけで密かにそう付け加え、シェリルはそっと睫毛を伏せる。そんな彼女を、当のイヴリスはただ無言で見据えていた。感情のうかがえない金色の瞳で、じっと。
「先程のことは、どうかお気になさらないで下さい。殿下にとって、来賓をもてなすことは、お務めのひとつに過ぎませんから」
いつの間にかイヴリスの背後に移動していたアレンが、穏やかな口調でそう告げる。恐らく、温室での出来事を整理出来ていないだけなのだと思ったのだろう。
無論それもあるけれど――。腿の上で絡め合わせた指先を見下ろしながら、シェリルはただでさえ寝不足で鈍い頭をどうにか働かせ、言葉を探る。
「お気を遣わせてしまって、申し訳ございません。私は大丈夫ですから」
けれど結局口に出来たのは、たったそれだけだった。情けない、と思う。もっと最適な言葉が山程あるだろうに、たったそれだけしか言えないことが、どうしても。
そんなシェリルを見兼ねたのか、それとも嫌気が差したのか。それまで黙って見つめていたイヴリスが、突然盛大な溜息をついた。いっそわざとらしいとさえ感じられるほど、大仰に。
「考え込んだって無駄だ。土壺に嵌まるだけなんだから、さっさと諦めちまえ」
長い黒髪を微かに揺らしながら、イヴリスはソファの肘掛けに頬杖をつき、呆れ顔を作る。「無責任なことを言うな」と間髪入れずアレンが言葉を挟んだけれど、イヴリスは全く意に介した様子もなく、シェリルの双眸を真っ直ぐに見据えたまま言葉を続けた。
「過ぎたことを気にしたところで、何にもなんねえだろ」
イヴリスの言葉には、確かに一理ある。ある、けれど――。
飄々とした彼にしては珍しい真摯な眼差しから逃げるように視線を逸らし、シェリルは雨粒の貼り付いたアーチ型の窓へと目を向ける。今にも雷鳴が轟きそうなほど、垂れ込めた雲は一層黒く、重く、広い空を覆っていた。




