13
――お前が殺したんだ。
暗闇の中から、どこからともなく声が聞こえてくる。侮蔑を滲ませた、低い嗤い声。辺りを見回すけれど、何もかもが黒く塗り潰されているせいで、一寸先すらも分からない状況では、声の主など無論見当たらない。
――お前が殺したんだ。
それでも尚、声は続く。時折愉しげに、くつくつと喉を鳴らしながら。無性に怖くなって、その場に蹲り、両手で耳を塞いだ。まるでその声から逃げるように。お願いだから、もう何も言わないで、と、ただそれだけを願いながら。
けれども声は、耳を塞いだ手をするりと擦り抜け、鼓膜の奥へ直接響いてくる。そこで漸く気が付いた。
この声は“耳から聞こえている”のではなく、“頭の中に直接刻み込まれている”のだと。この何も見えない真っ暗闇の中で。誰かが嘲笑いながら、執拗に。だから、どれほど耳を塞ごうとも、どれほど目を閉じようとも、意味などないのだ、とも。
――お前が殺したんだ。
胸の奥からこみ上げてきた恐怖が破裂するように、悲鳴となって飛び出したような気がしたけれど、何も聞こえなかった。それでも喉の奥は、じんじんと焼けるように痛んでいる。激しく声を絞り出した後のそれのように。
逃げられない。そう悟った瞬間、半ば縺れる足を叱咤しながら、シェリルはがむしゃらに駆け出した。どちらへ向かっているのかなど、まるで分からない。前なのか後ろなのか、右なのか左なのか。それでも、ただ走るしかなかった。この声から少しでも遠ざかれるなら、どこへでも。
――お前が殺したんだ。
しかし声は、執拗に纏わりついてくる。お前がどこへ逃げようとも無駄だ、と、くつくつと喉を鳴らしながら。まるで、最初からそう決まっていたとでも言うように。
不意に、何かに足が引っかかった。ぬかるむような、柔らかく重たい何か。それに躓いた拍子に身体が前のめりに傾いて、どさりと膝をついた。
そんなシェリルの耳に、びしゃ、と、厭な音が響く。
恐る恐る視線を落とすと、両の掌が、真っ黒な闇の中でぬらりと光っていた。指の隙間からじわりと滲み出してくる、暗くどろりとした赤色。粘ついたそれが掌に絡みつく感触に、全身の血が凍りつくような悪寒が走った。
――お前が殺したんだ。
見てはいけない、と思った。本能的に。頭の中で、激しく警鐘が鳴り響いている。見てはいけない、と。絶対に、見てはいけない、と。
けれども身体は、まるで意思を持たないもののように勝手に動いた。見ることを強制されているように、ゆっくりと、ゆっくりと、顔が上を向いてゆく。暗闇の中を滴り落ちてくる、ぬらりとした赤色の筋を辿るようにして。
次の瞬間、シェリルは大きく目を見開かせ、息を呑んだ。
折り重なるようにして積み上げられた、夥しい数の屍。肌はどれも青白く、至る所が赤く濡れ、窪んだ目はどれも真っ黒の空洞だった。目玉などそこにはない、と分かっている。分かっているのに――その無数の暗闇が、一斉にこちらを向いているような気がしてならなかった。山に積み上げられた全ての屍が、今この瞬間、確かに自分を見ている、と。
――お前が殺したんだ。
頭の中に響く嘲笑とともに、山の全てが一斉に嗤い出す。身体中の肌がぞわりと粟立ち、悲鳴が喉の奥から再び迫り上がってくる。
お前が殺したんだ。
お前が殺したんだ。
お前が――。
「っ――!」
気がつくと、跳ね起きていた。目が覚めたから跳ね起きたのか、それとも跳ね起きたことで目が覚めたのか。そんなことすら分からないほど、頭の中は真っ白だった。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく脈打ち、全身が冷たい汗でびっしょりと濡れている。肌に貼り付く布の感触が、不快でたまらない。けれど、それ以上に――。
ひどく乱れた呼吸を整えようと、シェリルは両腕で自身をきつく抱き締める。肩も、胸も、それらを抱く腕も、何もかもが小刻みに震えていた。その振動から、或いは汗ばんだ肌の冷たさから、あの凄惨な悪夢の残滓が、まだ身体の隅々に張り付いているのが感じ取れる。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。深く長い呼吸を繰り返し、シェリルは気怠い身体をゆっくりと動かして、ベッドから半ば滑り落ちるようにして抜け出す。そのまま覚束ない足取りでふらふらと窓辺へと歩み寄り、小ぶりなゲリドンの上に置かれた水差しを手に取った。
――お前が殺したんだ。
頭の中に響き渡ろうとする声を掻き消すように、シェリルはコップに注いだ水を一気に飲み干す。夜明けまではまだほど遠いのか、室内は夢の中のそれと同じように昏く沈んでいた。カーテンの細い隙間から漏れ込む青白い月明かりだけが、ここが現実なのだと、かろうじて教えてくれる。
けれど、本当に此処は、夢の外なのだろうか――。そんな考えが一瞬頭を掠め、シェリルは弱々しく苦笑をこぼした。ことりと小さな音を立ててコップを置き、そのままずるずると、その場に力なく崩折れる。
目を閉じると、瞼の裏の暗闇に、あの渦高く積まれた屍の山がありありと蘇ってくる。ぬらりと光る赤い筋。青白い肌。窪んだ――空洞の――目。見られている、というあの纏わりつくような感覚と、無数の――聞こえるはずもない――嗤い声。
夢の中のことでありながら、まるで現実のように。それらは網膜に、鼓膜にくっきりと焼き付いて、離れない。
いつの間にか詰めていた息を細く吐き出し、シェリルは寝間着のポケットへそっと手を差し入れる。指先は、すぐに冷たく硬い“それ”に触れた。その瞬間、目の奥がじんわりと熱くなる。
掌に握り締め、ポケットから取り出したそれを、シェリルは両手で優しく包み込む。幾層にも花弁が重なりながらも、掌の皮膚がしっかりと見えるほど濁りひとつない透明な小石。その中に静かに眠る青色をじっと見つめ、シェリルは震える唇をきつく噛み締める。
会いたい、と思った。無性に。今すぐセラフに会いたい、と――。
けれども、そんな我儘が通用するはずもないことは、分かっている。嘗ては“アルト”と呼んでいたあの少年は、今やこの国の未来を明るく照らす、唯一の太陽だ。そんな彼に、没落を免れない罪人の娘如きが、気安く会えるわけがない。
そんなこと、分かっている。分かっているけれど、今は――。
魔法石を包む手にぎゅっと力を込め、まるで縋るように、シェリルはそれを額にそっと押し当てた。――叶うことなら、もう一度あのあたたかな手に包まれたい、と思いながら。
***
夜明けとともに降り始めた雨が、窓の外をしとどに濡らしている。重く垂れ込めた鈍色の雲が、足早に空を流れてゆく。その様を見るともなく眺めながら、シェリルは胸の裡で小さく溜息をついた。
昨夜はあの後、とうとう眠れなかったせいで、どうにも頭がぼんやりとしている。こめかみの奥が鈍く痛むような気がするのは、頻りに降り続く雨のせいだろうか。
「今日は一日中雨のようですね」
一歩先をゆくアレンが肩越しに振り向くのが視界の端に見え、シェリルは前方に目を戻してにこりと微笑む。「そのようですね」と答えたような気がするけれど、自分の唇がどう動いたのか、よく分からない。
そんなシェリルの横顔を、アニエスがちらりと心配そうに一瞥する。今朝から様子がおかしい、ということに、彼女もまた気付いているのだろう。恐らくは、昨日イヴリスから聞かされた話のせいで、と――。
そのことについて気にかけてくれているのは、どうやらアニエスだけではないようで、肩越しに笑みを向けるアレンの端正な顔は、いつにも増して柔和だ。誰の心もやわらかく解きほぐしてくれそうな、愛嬌のある、やさしい笑み。
何故こんなにも――。再び進行方向へ顔を戻したアレンの、騎士団の制服に包まれた逞しい背中を見つめながら、シェリルは思う。何故こんなにも、みんな自分にやさしくしてくれるのだろう、と。こんなにも細やかに気を遣ってくれるのだろう、と。――自分はそうされるに値するような人間では、ないのに。
「さあ、着きました。こちらが温室です」
どろりとした暗闇に呑まれかけていたシェリルの意識を、アレンの明るい声が現実へと引き戻す。
半歩脇に身体を避けたアレンの、軽く掲げられた左手の先を辿ると、そこには半球体の、全面硝子張りの大きな建物があった。宮殿の西の庭園の端に設けられたそれは、大理石製の回廊で本館と繋がれている。雨の日でも難なく足を運べることから、今朝顔を見せに来たアレンに、雨の日の散歩先として提案されたのだった。
「三代前の王妃様が、とても植物を愛されている方でして。雨の日に庭園を散歩出来ないことを残念がっていた彼女の為に、二十七代目エドガー王が建設をお命じになったものです」
朗々とした声で説明しながら、アレンは両開きの大きな扉の片方を開け、目配せだけでシェリルたちを中へと促す。それに従い、シェリルは相変わらずふわふわとした足取りで、アーチ型の硝子扉を潜った。
生憎の雨とあって、室内を照らす燦々とした陽光はない。それでも十分に明るく感じられるのは、四方を埋め尽くす色鮮やかな草花たちのおかげだろうか。薔薇やチューリップ、ポピーといったよく知る花もあれば、変わった形の葉を持つ木々や、パーゴラにびっしりと絡みつく小さな白い花など、名前を知らないものもまた多い。
温室内の気温は一定に保たれているのか、とても心地よい。華やかで芳しい花の香り、草葉の青い匂い。それらに混じって、けぶるような土の甘い匂いもする。雨の日のせいか、特にそれが今日はより一層強く感じらるような気がする。
「此処に植えられている植物の中には、他国でしか栽培されていない珍しいものもあるのですよ」
恐らく種類ごとに分類された区画の合間に伸びる白い石畳を歩きながら、そういえば今日の護衛はいつもの女騎士ではなく彼なのだ、と、シェリルは今になって思い至る。あまりにも自然に、すんなりと道案内をする形でついてきたものだから、何の違和感も覚えなかった。――半ば心此処にあらずの状態だった、ということもあるけれど。
“近衛騎士団副団長”という立場の彼に、温室の案内をするほどの暇があるとは思えない。セラフの指示によるものなのか、それとも単にアレンの心遣いによるものなのか。どちらにしろ、多忙なはずの彼の、記帳な時間を割いてしまったことを申し訳なく思いながら、シェリルは傍らの花壇へと目を向ける。
鮮やかな紫のラベンダー、小さな星の群れが枝先に宿ったような白いライラック、真っ直ぐに茎を伸ばして咲く薄黄色のアイリス。所々に天使や女神のオブジェが配され、ウィステリアの茂るパーゴラの傍には、澄んだ水を湛えたバードバスがひとつ。どこかに噴水でもあるのか、水の弾けるさわさわとした音が、静かに耳に届く。
その微かな音に紛れ、人の話し声のようなものが耳を掠めた気がして、シェリルはふと足を止め、周囲を見回した。種類も色も様々でありながら、不思議と雑多な印象のない、統一のとれた空間。遠くには、蔓薔薇を這わせて美しく整えられた小ぶりなガゼボが、ひっそりと建っている。
そこへ繋がる路の半ばに、ゆったりと歩むふたつの人影があった。薄ピンクのふんわりとやわらかなドレスを纏う小柄な女性と、その傍らに寄り添うようにして立つ、すらりとした長躯の――。
シェリルが息を呑んだのと、ルビーを思わせる赤い瞳と視線が交錯したのは、殆ど同時だった。その瞬間、心臓がどくりと大きく跳ね上がる。胸を突き破って飛び出してくるのではないかと思うほどに、激しく。
(あれ、は……)
目が、合った。少し距離はあるものの、互いの顔が判別出来ないほど遠くはない。その距離で、確かに、視線が交わった。だから気付いたはずだ。気付いていないはずがない。
にもかかわらず、彼は――セラフは、すぐに視線を逸らした。まるで何も見ていない、何事もなかったと言わんばかりの自然さで。流れるように。




