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さよなら、私を搾取した伯爵家。価値のなくなった私を救ったのは、反逆の王太子様でした。  作者: 榛乃


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 何を言ったのだろう、この人は。

 どんな言葉を口にしたのだろう、この人は。


 二の句も告げられず、ただ愕然とするしかなかったシェリルが、まず最初に抱いたのは、そんな感想だった。魔術の呪文でも唱えられたみたいに、彼の発した言葉がなにひとつ理解できない。折角落ち着きを取り戻しかけていた頭の中が、また、ぐちゃぐちゃに乱れてゆく。息をするのも、忘れてしまいそうなほど。


「えっ……」


 重苦しい――と、多分イヴリス以外は思っているだろう――沈黙にたっぷりと身を浸らせた後、シェリルの微かに強張った唇の間から、困惑の滲んだ吐息が漏れる。じわりじわりと大きく見開かれてゆく視界の真ん中で、イヴリスは、ころころと口の中で転がしていた飴玉を、どこか愉しげに噛み砕いた。


「信じらんねえ?」


 面白がるような声音に、シェリルは唇をかたく引き結ぶ。彼が何を愉しんでいるのか、甚だ分からない。狼狽える自分の様子か、それとも王太子が国王に反旗を翻したその出来事か、或いはそのどちらともか――。


 目の前にいるのがアレンだったなら、どんなに良かっただろう。胸の裡で溜息をつきながら、シェリルはゆっくりと瞬く。彼ならもっと真剣に、言葉を選んで話してくれたに違いない。混乱の只中に置き去りにされた自分を、気遣ってもくれただろう。この飄々とした魔術師とは、何もかもが違っていたはずだ。


 そう思いつつ、シェリルはイヴリスの喉元を見つめながら、こくりとひとつ頷く。信じられるわけがない、と、ただそれだけ口にすれば良いだけだと分かっているのに。言葉は喉に詰まって、掠れた吐息となってこぼれるだけだった。


「まあ、お前が信じようが信じまいが、事実は事実だからなあ」


 肩にかかった黒髪を片手で払い除けながら、イヴリスは呆れたように溜息をつく。そんな彼の双眸をちらと見上げると、いつの間にか黄金の瞳から戯けたような色はすっかり消え失せ、研ぎ澄まされた刃のような静けさへと変わっていた。


 そのまま誰も言葉を発することなく、冷たい静寂が再び室内を包み込む。シェリルは薄っすらと汗ばんだ手を、まるで祈るかのように握り合わせ、イヴリスが何か語り出すのを待つけれど、彼はどこか遠い――今この瞬間ではない、別の何処か――を、ぼんやりと眺めているだけで、一向に口を開く素振りはない。


「お、お茶を、お持ち致しますね」


 沈黙に耐え兼ねたのか、アニエスが努めて和やかな口調で告げる。そんな彼女に、イヴリスが呑気な調子で「菓子も」と勝手に要望を付け加えた。どうやら甘いものが欠かせないらしい。


 心なしか足早に部屋を出てゆく彼女の背中を、シェリルは心細い思いで見送る。彼女のほっそりとした後ろ姿が扉の奥に消え、完全に見えなくなるまで、じっと。


 なんとなく、親とはぐれた子どもはこんな気持ちになるのかもしれない、と思った。人通りの多い街中で、人の波に呑まれて、ひとり置いてけぼりにされてしまったような。胸の真ん中に、小さな穴がぽっかりと空いてしまったような。


 とはいえ、アニエスが戻ってくるまで沈黙を続けるわけにもいかない。かといって、何と返して良いのか、まるで分からない。これという言葉が、不思議なほど、ひとつも浮かんではこないのだ。


 どうしたものかと考え倦ねながら視線を彷徨わせていると、不意にイヴリスが、どさりと大袈裟な音を立てて背もたれに身を預けた。


 恐る恐る目を向けた瞬間、シトリンのような――角度によってはアンバーにも見える――金色の瞳に、すぐさま視線を絡め取られる。まるで射抜くような、或いは奥深くまで見透かすようなその瞳に、思わず心臓がどきりと跳ねた。


「短絡的な行動に思えるかもしれねえが……あいつには、それしか選択肢がなかったんだよ」


 深々と溜息を吐き出し、イヴリスは僅かに目を伏せる。先程までの飄々とした物言いも、からかうような笑みも、いつの間にかすっかり鳴りを潜めていた。


 くっきりとした柳眉の真ん中には、薄く皺が寄っている。呆れているのでも、怒っているのでもない。恐らくは、憂慮の現れなのだろう。王太子であるセラフにあれほど罵声を浴びせていたのだ、ふたりの仲は相当に良いに違いない。だからこそ、その皺は、彼が何かを危惧しているようにも見える。


 そんなことを考えるシェリルをよそに、イヴリスは低く落ち着いた声で先を続けた。


「お前の両親を裁くのは、そう難しいことじゃねえ。伯爵家をひとつ握り潰すことくらい、王家にとっちゃ造作もねえことだからな」


 爵位の与奪に関する権限を有するのは、王家のみだ。公爵家レベルならまだしも、ヘイスティングス家は元々没落寸前の弱小貴族に過ぎなかった。それを回避し、国王と繋がりを持てるほどまでのし上がれたのは、偏に"魔法石"によるものでしかない。


 ――その女の涙には、もう何の価値もない。銅貨一枚分の価値すらもな。


 仮にあの時の――薄っすらと記憶に残っている――セラフの言葉が正しければ、ヘイスティングス家は家系存続の為の"繋がり"と"金"を失ったことになる。そうなれば没落を免れることなど出来ないし、吹いて消えるような伯爵家をひとつ潰すことなど、王家にとっては容易いに違いない。


 ヘイスティングス家は、あくまで“魔法石という唯一の切り札で成り上がった、歴史も地盤も浅い伯爵家”だ。――そこまで辿り着いて漸く、シェリルは静かに息を呑む。彼の言わんとすることを、理解してしまったから。


 ヘイスティングス家を潰すだけなら、セラフは謀反を起こす必要など、なかった。つまり――。


「お前の件で一番厄介だったのは、搾取する側に国王自ら関わってた、っつーとこだ」


 国王セオドア――。セラフとはまるで似ていない、刃そのもののように冷たく尖った灰色の瞳。その目に見下され、獲物を前にした獣のような嗜虐的な笑みを向けられた瞬間の記憶が、脳裏にまざまざと蘇ってくる。


 ぞくりと、思わず身体が震えそうになるのを、シェリルは両腕で自身を抱き締めることで、どうにか堪えた。


 エドワードやベアトリスの暴力は凄まじかったし、セオドアのそれも――彼の場合は引き連れてきた兵士による拷問だった――苛烈なものだったが、何より一番恐ろしかったのは、それらの暴力ではなく――セオドアが時折見せる、深い闇を湛えた虚ろな目だった。


「あの離宮は、国王――まあもうこの際、クソジジイでいいか。そのジジイの管理下にあった。扉番もあいつの手垢がべっとりついた奴しかいねえし、何よりクソジジイが邸全体に強固な結界を張ってやがったんだよ、面倒くせえことに」


 そう言って、イヴリスは苦虫を噛み潰したようにひどく顔を顰める。もしかしたら、当時のことを思い出しているのかもしれない。今にも舌打ちが聞こえてきそうだ、と思ったら、案の定、彼の口から苛立たしそうな舌打ちが漏れた。


「仮に扉番を殺して、結界を破ってお前を助け出せたとしても、だ」


 ひとつ長く息を吐き出して、イヴリスは雑な手つきで前髪を掻き上げながら、シェリルの双眸を見据える。


「クソジジイが玉座に居座ったままだと、お前をどこへ連れ出したところで意味がねえ。あいつが首を縦に振りさえすりゃ、この国のどこだって奴の手が届く。結局またあの牢獄に無理矢理連れ戻されて、終わりだ」


 そこまで言われればもう、誰にだって察しがつく。どんな鈍感な人間であろうとも。


「だからセラフは、あのクソジジイを玉座から引き摺り下ろすしかなかった」


 その一言が、胸の奥にずしりと重く沈む。


 二度とあの離宮へ閉じ込められないようにする為に。暴力の果てに、涙を搾取され続ける日々へ逆戻りしないようにする為に。――つまり、シェリルの安全を守る為に、セラフが導き出した答えが、それだった。


 血の繋がった実の父親へ、反旗を翻すこと――。その結論に至るまでに、彼はいったい、どれほど悩み、苦しんだことだろう。


「陛下は、今どちらに」

「王族専用の塔に幽閉中だ。ついでに言っとくが、お前の両親は監獄の地下牢に放り込んである」


 そこではたと、シェリルは思う。今この瞬間まで、あの後両親がどうなったのかを、一度も考えなかった、と。


 考えるべきだったのだろうか。ヘイスティングス家の娘として、両親のことを心配するべきだったのだろうか。


 しかし幾ら考えてみても、分からない。罪悪感を抱こうにも、その輪郭がどうしても掴めないのだ。


 地下牢に閉じ込められていると知っても尚、ただ胸の真ん中に凪いだ水面のような静けさがあるだけで、波紋のひとつも立ちはしないことに、シェリルはそっと自嘲をこぼす。なんて酷い娘だろう。継母はともかく、エドワードはこの世で唯一、血を分けた肉親だというのに。


「まあ、あいつらの親子関係は、とっくに冷え切って破綻してたからなあ」


 呆れをたっぷりと含んだ声でそう言いながら肩を竦めるイヴリスに、シェリルはどきりとする。


 彼はセラフとセオドアの関係について口にしただけで、ヘイスティングス家のことには一切触れていない。だというのに、何故だか胸の裡を見透かされたような気がして、凪いでいたはずの水面が、微かに揺れた。


「それに」


 イヴリスの言葉を遮るように、ドアをノックする音が室内に響く。すぐさま扉が開き、支度を終えたらしいアニエスが、ティーセットとケーキスタンドを載せたワゴンをゆっくりと押しながら入ってきた。その姿を認め、シェリルは知らず知らず、ほっと息をつく。


「民の間じゃあ、相当鬱憤が溜まってたしな。度重なる戦、嵩む一方の戦費、それを賄う為の重税。巷じゃあ、とっくにセラフの即位待望論が出来上がってたんだよ」


 いつも通りの手際の良さでお茶を淹れるアニエスの手元を見るともなく見つめ、シェリルは、ああ、と思う。彼はきっと、私に気を遣ってくれているのだろう、と。


 親子関係の話も、重税で鬱憤が溜まっていたという話も、その原因である戦費の話も。"お前の為"と言っておきながら、負い目を感じさせないようにする為に。


「あのクソジジイを玉座から落としたのは、だからお前の為だけじゃねえ」


 はっきり言葉にされて漸く、強張っていた身体からすうっと力が抜けてゆく。


 けれどそれと同時に、身体の内側のどこか深いところから、どろりとした重たい何かが滲み出してくる。戦、戦費――。その言葉が、矢のように耳に刺さって、痛い。


 エドワードやベアトリス、そして国王セオドアが裁かれるのなら――。アニエスがテーブルに置いたばかりのティーカップを見下ろし、シェリルは密かに奥歯を噛み締めながら思う。


 彼等が裁かれるべきというのなら――私もまた、同じく裁かれて然るべきではないだろうか、と。

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