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さよなら、私を搾取した伯爵家。価値のなくなった私を救ったのは、反逆の王太子様でした。  作者: 榛乃


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 どの廊下を通ってきたのか、分からない。そもそも、きちんと歩けていたのかどうかさえ、定かでない。頭の中に渦巻く、“言葉”にならない“音”たちのせいで。蝕まれた視界は、すっかり真っ暗だった。


 それでも気付けば、目の前に扉が佇んでいる。療養の為に宛がわれた、いつもの部屋の、いつもの扉が。アカンサスやカルトゥーシュの彫り込みや、王家の紋章の象嵌が嵌め込まれた、凛とした美しさのある白い扉。散歩へ出る時に見たはずのそれが、しかし今は、何故だか初めて見るもののように思える。


「すぐにお茶の支度を致しますね」


 努めて穏やかな声音でそう言いながら、アニエスが真鍮製のノブに手をかけてゆっくりと扉を開く。すぐに嗅ぎ慣れた上品な花の薫りが鼻先を漂い、まるでそれに誘われるように、シェリルは複雑な心境と乱雑に散らばった“音”を胸に抱えたまま、そっと扉をくぐった。


 そんな彼女を出迎えたのは、部屋の中央に置かれたソファに、圧倒的な存在感を放ちながら座る黒い人影だった。視線はすぐにその人影へと吸い寄せられ――シェリルは思わず息を呑む。


 すっかり慣れてしまった場所、いつも通り燦々と差し込む朝陽、出て行く前と変わらず整頓されたベッドやデスク、窓際に飾られた赤薔薇の放つ上品で華やかな薫り。


 それらの“いつもの光景”の中で、その人影はあまりにも“異質”だった。全身が黒尽くめだからだろうか。それとも、些か尊大な格好でソファに腰掛けているからか。


 予想外の人物の存在に、シェリルは目を見開かせたまま、扉の前で立ち尽くす。思えば彼と相まみえるのは、まだたったの二度目だ。初めて顔を合わせた時も、彼が一方的に話をしただけで、まともに会話をしたことはない。


 ――そもそも“魔法石”になんか興味ねえし。


 あの時の言葉を思い返していると、黄金色の瞳がこちらを向いた。片手に握った小瓶から、薄桃色の飴玉を一粒取り出しながら。


 それは今朝、アレンから“差し入れ”として貰ったものだった。元はセラフへの贈り物のひとつだったそうだが、甘いものがあまり好きではないからと、セラフの許可のもと届けに来てくれたのだ。


「随分怯えた顔してんな」


 飴玉を口の中へ放り込み、からからと微かな音を立てながら、イヴリスはそう言った。嗤うでもなく、不満そうにするでもなく、ただ興味なさげに、淡々と。


 指摘されて漸く、シェリルは自分の顔がひどく強張っていることに気が付いた。両眉は下がり、唇は噛み締めたままきつく引き結ばれ、頬は妙に引き攣ったまま余計な力が入りすぎて、鈍い痛みを訴えている。どうやら彼の言っていることは正しいらしい。


「申し訳ございません。人の少ない場所を選んでいたのですが……私の想定が甘く、あのような話をシェリル様の耳に入れてしまい……」


 深々と頭を下げて謝罪を口にする女騎士を、イヴリスは感情の読み取れない冷えた瞳で一瞥する。


「べつに。急な調整が入ったせいだからなあ。お前の上司も叱ることはしねえよ」


 そんな二人の会話を聴きながら、アニエスに促され、イヴリスの真向かいに置かれたソファへゆっくりと腰を下ろす。


 イヴリスの発言からして、どうやら彼は、廊下で偶然耳にしてしまったあの“使用人たちの会話”を知っているらしい。けれど、護衛についてくれていた彼女は、何も言わなかった。いつ何処で何が起きたのかを。それどころか、彼女自身初めから"イヴリスは知っている"前提で謝罪をしていた。


 まさかあの時、彼もまたすぐ近くを通りすがっていたのだろうか――。


 そんな疑問を、いつの間にかじっと凝視していた眼差しから感じ取ったのか、イヴリスがにたりと口角を上げる。ごりっ、と飴玉を噛む音がして、すぐに彼の色白の喉仏が僅かに動いた。


「お前って、結構顔に出やすいんだな」


 ソファの肘掛けに頬杖をつき、彼は愉しげにくつくつと笑う。


 長い監禁生活で、“感情”や“表情”というのは余計なものだと思っていた。内心はどうであれ、それを顔に出さない術だって身につけたつもりでいたし、救出された後、安心して笑顔を作れるようになるのにも、少しばかり時間と慣れが必要だった。


 その自覚があるからこそ、彼の意外な発言にシェリルは虚を衝かれ、思わず目を見開く。するとイヴリスはすかさず左手の人差し指をシェリルへ向け、「そういうところ」と言って肩を竦めた。


「アレンから聞いてねえのか? 俺の監視下にある、って」

「確かに、庭はイヴリス様の監視下にあると伺ってはおりましたけれど……」

「庭だけじゃねえよ。どっかの過保護野郎の指示で、ここら一帯は全部俺の監視下だ」


 思いがけない事実に、背後に控えていたアニエスが、驚きと戸惑いの綯い交ぜになったような吐息を微かに漏らす気配がした。


 しかし、この一帯が監視下に置かれるのも仕方のないことだろう、と、シェリルは膝の上で握り合わせた両手を見下ろしながら思う。


 涙を流せば流すほど、希少な魔法石を幾らでも生み出すことの出来る人間。そんな、ある意味“異質”な存在を、全く監視のない状況下に置いておくわけには、さすがにいかないだろう。


 もしかしたらアニエスも――と思いかけ、シェリルはそれを瞬時に頭の中から追い出した。仮にそうだったとしても、アニエスはただ与えられた役目を忠実に遂行しているだけだ。その上彼女は、実に丁寧に、そして献身的に世話をしてくれている。そんなアニエスの抱える事情を詮索するなど、出来るはずがない。


「全て……把握されているのですか」


 上目遣いで恐る恐る問いかけると、イヴリスは小瓶からもう一つ飴玉を取り出しながら、まるで何でもないことのようにさらりと言った。


「大方はな。つっても、普段はぼんやりと“気配”を把握してるだけに過ぎねえから、安心しろ。盗み見や盗み聞きは――まあ、必要な時にしかしねえよ」


 はっきりとその場面を視たり、会話の内容を聞いたりするのには、ある程度の集中と魔力が必要であるらしい。そう補足しながら、イヴリスは指先に摘んだ薄黄色の飴玉を、室内に差し込む朝陽に翳すようにして弄ぶ。


 “必要があればやる”ということは、つまり、あの使用人たちの会話はまさにそれだったのだろう。だから彼はここにいるのだと察して、シェリルはどうして良いのか分からず、きょろきょろと視線を彷徨わせた。


 殿下。お父上。国王陛下。反旗――。


 訊きたいことは、山のようにある。アニエスに問うても、護衛の女騎士に問うても、ふたりは決して口を割らないだろう。部屋に戻るまでの道すがら、誰も口を開こうとしなかったのがその証左だ。アニエスは兎も角、イヴリスの姿を見るなり開口一番に謝罪をした女騎士が、事情を知らぬはずはないのに。


 ならば、訊ける相手は、ごく僅かに限られる。張本人であるセラフか、近衛騎士団副団長を務めるアレンか、或いは――。


「――俺に訊きたいことがあんじゃねえの?」


 指先に摘んだ飴玉を唇にあて、にやりと挑発的な笑みを湛える彼の、すっと細められた目を見つめながら、シェリルはごくりと唾を呑む。


 この男は分かっている。知っている。何もかも。胸の奥に抱えた疑問までも、疾うに見透かしているのだ。そんな彼に隠し通すことなど到底無理だと、シェリルはすぐに悟らざるを得なかった。


 彼の金色の瞳を見つめていると、あんなにも乱雑に、まとまりなく頭の中をぐるぐると廻っていた“音”が、漸く“言葉”として胸へ降りてくる。不思議なほど、すとん、と。お腹の底まで。まるで魔法にでもかけられたように。


 殿下。お父上。国王陛下。反旗――。ぶつ切りにされていた言葉は、糸で紡がれるようにひと繋がりとなり、彼女たちの会話の意味を、否応なしにはっきりと突きつけてくる。


 ――まさか殿下が、お父上である国王陛下に反旗を翻すだなんて。


 思えばあの牢獄を抜け出した日から、一度も国王の姿を見ていない。姿どころか、名を耳にすることすら、一度も。


「……本当、なのですか」

「本当」


 イヴリスは指先の飴玉を見るともなく見ながら、あっけらかんとそう告げた。ひどくあっさりとした口調だからこそ、それが紛うことなき“事実”なのだと思い知らされる。王太子による国王への謀反――その、歴史の一頁に刻まれてもおかしくない、そんな出来事が、本当に起きたのだと。


 けれどシェリルは、すぐに納得することが出来なかった。今まで見てきたセラフのやさしい笑顔や、包み込んでくれた手のぬくもりを知っているからこそ、“謀反”という言葉が、 どうしても受け止めきれない。


「信じられねえなら、アレンに訊いてみろ。それか、当の本人にでもな」


 そう言って飴玉を口の中に放り込むイヴリスに、シェリルはぎょっとする。アレンは兎も角、当の本人――つまり首謀者であるセラフ本人に訊くなど、とてもではないが、そんな勇気はない。


 もし――。シェリルはごくりと唾を呑みながら、微かに震える手に力を込める。もしイヴリスの言葉が嘘であるなら、アニエスや護衛の女騎士がすぐさま否定を口にするだろう。偽りは、一国の王太子を侮辱するものであるのだから。


 しかし彼女たちは口を閉ざしたまま、何も言わない。それが全てだと、シェリルは思う。彼の言葉が正しいという、何よりの証左だ、と。


「で、ですが……」


 それでも、どうしても信じきれずに、か細い声をこぼす。


 国王セオドアを信奉していたわけでは、決してない。彼はあの離宮に閉じ込めるよう指示した張本人であり、エドワードやベアトリスと同様に、魔法石を手に入れる為には手段を選ばない非道な男だった。恨みこそすれ、情を向けるような相手ではない。


 しかし、だからといって、曲がりなりにも国王である彼に歯向かうということは、“大罪”である。それを主導したのが、実の息子である王太子であろうとも。謀反が失敗していれば、恐らくセラフはただでは済まなかっただろう。たったひとりの“跡継ぎ”だったとしても、あのセオドアが、己の命を狙う者を生かしておくとは思えない。宮廷も、大きく揺らいだはずだ。


 そう――セラフはたったひとりの“跡継ぎ”なのだ。時がくれば、王位に就くことが、産まれながらに約束されていた。宮廷に、或いはこの国に、波風を立てずとも良かっただろう。いずれ玉座は彼のものになるのだから。


 それなのに、わざわざ謀反という危険を犯してまで、今、国王に――実の父に刃を向ける必要はあったのだろうか。


 考えれば考えるほど、セラフの真意が分からなくなる。分からなくなるからこそ、“事実”として受け入れ難くなる。周りの反応がどうであろうと、それを見なかったこととして拒んでまで、“嘘”と思い込みたくなる。


「何故……そのようなことを」


 思わず縋るようにイヴリスを見つめたせいか、彼は長い脚を組み換えながら、ふんと鼻を鳴らした。


「んなもん、決まってんだろ」


 そう言って、イヴリスは頬杖をついた顔を戯けたようにこてんと傾けながら、どこか挑発めいた笑みを唇の端に浮かべた。


「――お前の為だ」

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