第9話 王都大火は刷られる
【明日の王都瓦版】
王都大火。原因はエルディアン家の放火。
反逆貴族討伐のため国境軍進軍開始――
今朝の紙面は、久しぶりに分かりやすかった。
分かりやすいということは、たいていろくでもない。
アリアドネは一面を読み終え、ゆっくりと新聞を閉じた。
火災だけではない。
放火の犯人まで先に決まっている。
しかも《エルディアン家》。個人の醜聞ではなく、家門ごと焼き払うつもりの見出しだ。
「大きく出ましたね」
対面の席でギルベルトが低く言う。
昨夜から二人は、もはや表向きの礼儀だけでは済まない距離にいた。
共犯、と呼ぶにはまだ互いに警戒が残っている。
だが敵同士ではない。それだけは、もう明白だった。
「大火は起こると思う?」
「起こされる可能性は高いですわね」
「君の家を犯人にするために?」
「ええ。大きな災厄ほど、大きな悪役が必要でしょうから」
ギルベルトは短く息を吐く。
「その理屈に、だんだん腹が立ってきた」
「良い傾向です」
アリアドネは紙面を机へ置いた。
「問題は、どこで火をつけるかではありません」
「では?」
「どうしても“エルディアン家が燃やした”と皆に思わせなければ成立しない、という点です」
火災そのものは止められても、見出しが先に通れば、人は見たものより先に読んだものを信じる。
だから必要なのは、火元を追うことではなく、その見出しを王都へ流し込む管を止めること。
「裏便の馬車は?」
「今朝も出ました」
報告したのは、昨夜の配達見習いの少年だった。
彼は王太子の近衛に保護され、今では怯えながらも立派な目撃証言者になっている。
「行き先は分かったか」
「途中までです。南市場の旧染料倉庫のほうへ」
アリアドネは即座に地図を開いた。
旧染料倉庫。
いまは王家御用達のインク商《ベルン印材店》が借りているはずの場所だ。通常の配達路から外れ、しかも水路と荷車道の両方へ抜けやすい。差し替え印刷にはうってつけだった。
「殿下」
「分かっている」
ギルベルトはもう迷わない。
王太子として動くことが、初めて“見出しのため”ではなく“見出しを止めるため”に使われる。
「ベルン印材店と旧染料倉庫を、王太子命令で差し押さえる」
「理由は」
「王都防衛上の緊急検分だ」
「ずいぶん強引ですこと」
「君に言われたくない」
その返しに、アリアドネはかすかに口角を上げた。
☆
南市場はまだ昼前だというのに、すでに焦げ臭かった。
実際に燃えているわけではない。
染料、油、紙、古い木箱。火が回りやすいものが集まる場所には、まだ起きてもいない火事の匂いがある。
だからこそ、ここに記事を流し込めば、人は「やはり」と納得してしまう。
近衛騎士が倉庫の前を固め、ギルベルトの命令で扉が開かれる。
中は予想通りだった。
インク樽。
紙束。
小型の手押し印刷機。
そして、王都全域の区画名を書き込んだ配送札。
「……これで十分でしょう」
アリアドネが呟く。
神託ではない。
未来はここで刷られている。
少なくとも、刷り“直されて”いる。
だが次の瞬間、倉庫の奥で誰かが咳き込んだ。
現れたのはリーゼロッテだった。
白い指先に、黒インクが滲んでいる。
可憐なドレスの裾にも、今日は隠しきれない染みがあった。
「本当に来ちゃいましたね」
彼女は困ったように笑った。
だがその笑みは、以前より少しだけ薄い。
「アリアドネ様って、読者のくせに配本経路まで気にするんですね」
「あなたこそ、編集見習いのくせに現場仕事までなさるの?」
「必要ですもの。今日の見出しは大仕事ですから」
ギルベルトが一歩前に出る。
「リーゼロッテ・ミュルク。これは何だ」
「王都の平穏ですよ、殿下」
彼女はあまりに自然に答えた。
「火は、必ずしも悪いものじゃありません。ときどき街は、分かりやすく焼けたほうが落ち着くんです。誰が悪いか、はっきりしますから」
「馬鹿げている」
「いいえ、皆さまがお望みなんです」
リーゼロッテはアリアドネを見た。
「悪役がいなければ、群衆はもっと大きいものを焼きますよ」
その言葉は不快だった。
だが、不快なだけに真実の匂いがする。
アリアドネは倉庫中央のインク樽へ目をやった。
濃い黒。粘度の高い、号外差し替え用の特製インク。
これを止めれば、今日の《王都大火》は配りにくくなる。
「殿下」
「分かっている」
ギルベルトが近衛へ命じる。
「樽を押収しろ。版もだ。印刷機も止める」
「っ、やめて!」
その瞬間、リーゼロッテの声が初めて強く割れた。
彼女は一歩踏み出し、それから胸元を押さえた。
咳。
次いで、ぽたり、と赤いものが石床へ落ちる。
血だった。
アリアドネの瞳がわずかに揺れる。
リーゼロッテ本人も、しまったという顔をした。
「……あなた」
「平気、です」
平気な顔ではない。
それでも彼女は無理に笑う。
「でも、止めたら駄目です。インクが切れたら、記事が整わない。整わなかったら……」
「だったら?」
アリアドネが問う。
リーゼロッテは、血のにじんだ唇で囁いた。
「歴史が、きれいに続かなくなるでしょう」
近衛が樽を押さえ、版木を運び出す。
印刷機の歯車が止まり、倉庫の中の音が一つずつ死んでいく。
その静けさのなかで、アリアドネの袖の中の瓦版が、びり、と裂けるように震えた。
取り出す。
今朝まで《王都大火》と刷られていた一面が、激しく滲み、行を崩し、意味そのものを失いながら書き換わっていく。
【瓦版更新】
王都大火……は発生せず?
記述エラー。歴史の整合性が失われました。
悪役令嬢の役を喪失したため、物語の進行に重大な齟齬が――
最後の一行は、途中でインクが裂けるみたいに途切れていた。
ギルベルトが息を呑む。
「……記述エラー、だと」
「ええ」
アリアドネは紙面を見つめたまま答える。
「ようやく、向こうが困り始めたのですわ」
だが、その勝利は無傷ではなかった。
倉庫の奥で、リーゼロッテが膝をついている。
白い手の甲に、赤が一筋落ちる。
それでも彼女はまだこちらを見上げ、笑おうとしていた。
「そんな顔、しないでください」
声はかすれていた。
「アリアドネ様。……あなたが役を降りたら、次はもっと大きな舞台が要りますよ」
その言葉の意味を問う前に、彼女の背後で積み上げられていた紙束がばさりと崩れた。
まるで次の幕の準備が、どこかでもう始まっていると知らせるみたいに。




