第8話 王太子は魔女に跪かない
【号外】
王太子、悪役令嬢を保護拘束。
崩落事件の真相究明へ――密室にて“魔女”の尋問始まる。
保護と拘束は、言葉を置く順番でだいぶ印象が変わる。
王宮北棟の離れに移されたアリアドネは、窓辺の椅子に腰掛けたまま、運ばれてきた号外を読み終えた。
なるほど、と思う。
王太子が審問会の混乱の中で悪役令嬢を抱えて退避した。
その事実だけなら、どうとでも書ける。
《王太子、魔女を匿う》では外聞が悪い。
だから《保護拘束》。
責任感と警戒心を同時に満たす、実に筋の良い編集だった。
「感心している場合か」
低い声がして、扉が閉まる。
ギルベルトだった。
今日の彼は正装の上着を脱ぎ、シャツの袖口も乱れている。王太子としての見映えより先に、考えなければならないことが多すぎる顔だった。
「少なくとも、殿下はまだ跪いておられませんわね」
「何にだ」
「今朝の見出しに」
ギルベルトは数歩進み、机を挟んで立ち止まった。
「……あれは、どういうことだ」
「どれを指しておいでです?」
「全部だ」
吐き捨てるみたいな言い方だった。
だがその中には、怒りだけでなく、ほとんど懇願に近い切実さが混じっている。
「馬車の件。茶会の件。今日の崩落。君は、なぜ知っていた。どうして私だけに合図した」
「信じたからですか?」
「分からないからだ!」
珍しく声が荒れた。
ギルベルトはそのことに自分で驚いたように息を止め、それから低く続けた。
「分からないから、聞いている。あれが偶然でないことくらい、もう私にも分かる」
沈黙が落ちる。
アリアドネは窓の外へ一瞬だけ目をやった。
王宮の庭は静かだ。だがその静けさは、今日の出来事を整理できない人間たちの混乱の上に載っている。
「殿下」
彼女はゆっくりと言った。
「わたくしは、未来そのものを支配しているわけではありません」
「では何だ」
「先に配られた物語を、少し早く読んでいるだけです」
ギルベルトの眉間に皺が寄る。
理解できないのではなく、理解したくない時の顔だ。
「……物語?」
「ええ。誰かが、明日の王都を読みやすい形に整えて配っている。皆さまはそれを“真実”だと信じて動く。だから書かれた通りの現実が出来上がる」
「馬鹿げている」
「そう思われるでしょうね」
「だが」
彼はそこで言葉を切った。
「今の私は、その馬鹿げた話を笑えない」
アリアドネはそこで初めて、彼をまともに見た。
この男は正義に酔いやすい。
だが同時に、一度自分の誤りを見つけたら、それを見なかったことにもできない。
そういう厄介で、だからこそ使い道のある性質をしている。
「殿下は、新聞を信じておられた」
「……ああ」
「いえ、もっと正確に言えば、新聞に信じさせてもらっていた」
ギルベルトが黙る。
「何が善で、何が悪で、誰を裁けば拍手が起こるか。新聞はいつも、殿下の立つべき位置を先に用意してくれていたのでしょう」
「君は容赦がないな」
「事実ですもの」
「その事実に、今の私は反論できない」
彼は机へ片手をついた。
視線はアリアドネから外さないまま、しかしどこか自分の足元を確認するような目つきで。
「では聞こう。君は、誰がそれをやっているか知っているのか」
「“誰か”ではなく、“どこ”なら」
「どこだ」
「王立瓦版局」
ギルベルトは即座には返さなかった。
昨夜の無断侵入をめぐって彼女を王宮へ呼びつけたのも、その瓦版局側からの正式告発だ。
彼の中で、王立機関と王都の正義はほとんど同義だったはずだ。
そこへ疑いの刃を向けろと言われて、簡単に頷けるはずもない。
「……証拠は」
「殿下は崩落の瞬間、わたくしの唇を見ましたわね」
「ああ」
「では、そのことを誰にも言っていないのに、どうして今日の号外には《密室にて尋問》などと載っているのでしょう」
ギルベルトの目がわずかに鋭くなる。
たしかにそうだ。
彼がアリアドネをここへ移したのは、表向き保護拘束だが、実質は秘密裏の対話のためだった。
なのに新聞は、まるでそれを最初から知っていたみたいに煽っている。
「……見られている、ということか」
「あるいは、最初からこの流れが必要だったか」
アリアドネは立ち上がった。
「殿下。わたくしに必要なのは、庇護ではありません」
「なら何だ」
「流通です」
「流通?」
「紙、インク、版木、配送路、差し替えの時刻、そして誰の手で号外が走るのか。未来が神託ではなく印刷物なら、必ず途中に人の手がある」
ギルベルトは黙っていた。
王太子として聞くには俗すぎる話だろう。
だが俗であることこそ重要なのだ。神秘を剥ぐには、まずそれが物として動いている場所を掴まなければならない。
「……私の権限を使えと?」
「そうです」
「ずいぶん当然のように命じる」
「殿下ももう、お気づきでしょう」
アリアドネは真っ直ぐに言った。
「これはわたくし一人の断罪劇ではない。殿下ご自身が、見出しに飼われる側へ落ちるかどうかの問題です」
その言葉のあと、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてギルベルトは、苦いものを飲み込むみたいに息を吐いた。
「……いいだろう」
低い、だが明確な声だった。
「ただし条件がある」
「伺いましょう」
「君は私に、必要な時だけは先に知らせろ」
アリアドネは少しだけ目を見開いた。
それは信頼ではない。
依存の入り口だ。
「予言者にでもおなりになるおつもりですか、殿下」
「違う」
ギルベルトは首を振る。
「少なくとも、誰かが先に書いた正義の上で剣を振るう王太子には、もう戻りたくない」
その一言で、アリアドネは彼を少し見直した。
使える。
まだ危ういが、使える。
☆
その夜、王太子権限で引き出されたのは、瓦版局の流通記録だった。
配達時刻。
印房から出る通常便。
王宮直送便。
号外専用便。
そして、通常記録には載っていない、手書きで追記された配送欄がひとつ。
「これです」
アリアドネが指先で示す。
「訂正版……?」
ギルベルトが読み上げる。
「夜明け前、別経路にて配達。配達先一部秘匿」
「ずいぶん露骨ね」
「だが、この欄の責任者印がない」
「裏便だからでしょう」
そのとき、扉の外から声がした。
「し、失礼いたします!」
王宮の下働きに使われている配達見習いの少年が、緊張しきった顔で頭を下げる。
ギルベルトが入室を許すと、少年は怯えながらも言った。
「お、おれ……じゃなくて、私、見たことがあります。その馬車」
「どこで」
「瓦版局の裏路地です。毎朝の配達が出るより前に、黒い幌の小さい荷馬車が先に出るんです。積んでるの、新聞だけじゃなくて……」
「何?」
少年は唇を舐めた。
「インク樽です」
アリアドネとギルベルトの視線がぶつかる。
新聞を運ぶだけの裏便に、なぜインク樽が積まれるのか。
答えはひとつだ。
どこか別の場所で、差し替えをしている。
アリアドネは静かに笑った。
「見つけたわ」
その笑みに、ギルベルトは何か言いかけて、やめた。
たぶん今の彼には、それが救いの顔にも、破滅の顔にも見えただろうから。




