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第6話 盲目の二十四時間

【黒版】

――配達不能。

紙面は黒く塗り潰され、いかなる予見も記されず。


 翌朝、届いたのは新聞ではなかった。


 黒い紙の塊だった。


 折り畳まれた形だけが瓦版に似ている。

 だが開いても、そこには一文字もない。表も裏も、ただ塗り潰したような黒。インクの照りすらなく、光を吸う煤の板みたいだった。


 アリアドネはしばらく無言でそれを見ていた。


 昨日の号外どおりだ。

 視界は遮断された。


 これまで、どれほど不愉快でも、紙面は少なくとも敵の手を見せてくれていた。だが今日は違う。敵がいることだけを教えて、盤面を隠している。


「……どうなさいますか」


 クララがこわごわと訊く。


「どうもしないわけにはいかないわね」


 アリアドネは黒い紙を閉じ、机に置いた。


「見えないなら、見えないなりの守り方をするしかないもの」


 その日、エルディアン家の屋敷は要塞じみた有様になった。


 正門と裏門に護衛を増やし、出入りする馬車をすべて記録させ、使用人の動線まで整理する。厨房へ入る食材の搬入経路を分け、井戸水に異常がないか確認し、届いた手紙は開封前にすべて別室へ回す。


 過剰防衛だった。

 だが《明日》を失った以上、愚直な物理しか頼れない。


 廊下では使用人たちが緊張した顔で行き交い、窓辺には近侍ではなく護衛騎士が立つ。公爵家の屋敷でありながら、どこか小さな籠城戦の気配があった。


 アリアドネは書斎で帳面を広げ、起こり得る攻撃を列挙していた。


 毒。放火。暗殺。誘拐。

 あるいは、もっと単純に――


「名誉毀損、ね」


 呟いて、自分で眉を寄せる。


 いや。

 “毀損”というのは、まだ名誉がある者の言葉だ。

 悪役令嬢の見出しが刷られ続けてきた以上、アリアドネの評判はもともと高い場所にいない。

 ならば相手が狙うのは、名誉ではなく、社会的な機能のほうだ。


 信じてもらえなくする。

 庇ってもらえなくする。

 正しいことをしても、「でもあの女ですし」で終わる位置へ押し戻す。


 真実の前に、足場を壊す。


「お嬢様」


 クララが扉の外から声をかけた。


「来客です」


「断って」


「それが……王宮の使者です」


 アリアドネは顔を上げた。


 嫌な予感は、見えなくても来る時は来る。



 王宮から来たのは、使者と言うより監視人に近い男だった。

 礼儀はある。だが視線に露骨な警戒が滲んでいる。


「アリアドネ・エルディアン様。本日、午後のうちに王宮へご同行願います」


「理由を伺っても?」


「昨夜の王立瓦版局への不法侵入について、お話を」


 クララが息を呑んだ。


 アリアドネは一瞬、何も言わなかった。

 黒い紙面を失ってなお、敵の手がどこから来たのか理解したからだ。


 なるほど。

 こう来たか。


 リーゼロッテは嘘を流したのではない。

 真実を流したのだ。


 昨夜、アリアドネが瓦版局へ侵入したのは事実。

 王立機関への無断侵入も事実。

 それを市井へ流せば、新聞を信じる信じない以前の問題として、彼女は咎められる。


 しかもそれは、彼女が今さら否定できない真実だ。


「……誰が告発を?」


「瓦版局側より正式に」


 正式に。

 あまりにも綺麗な言い方だった。


 正論は、時に最も残酷な凶器になる。

 噓なら崩せる。

 だが真実は、それだけで厄介だ。とくに自分に不利な真実ならなおさら。


 使者が帰ったあと、クララが青い顔で言った。


「お嬢様、これ……まずい、ですよね」


「ええ」


「ど、どうするんですか」


「どうもしない」


「え?」


「事実だから」


 言ってしまうと、妙にあっさりしている。

 だがそれがいちばん腹立たしかった。


 昨夜の自分は、たしかに侵入した。

 侵入して、倒れかけた輪転機に潰されかけて、リーゼロッテに“助けられた”。

 その一連を、都合の悪い部分だけ切り取れば、国家機関を荒らした危険人物の出来上がりだ。


 しかも《明日の瓦版》は今日はない。

 つまり彼女は、いつものように先手で構図を壊せない。


 正しい一枚で、足元を刈られる。

 これがリーゼロッテのやり口なのだと、アリアドネはようやく腹の底から理解した。


「黒い紙って、未来が見えないだけじゃなかったのね」


「お嬢様……?」


「相手の見出しだけ先に通す、ってことよ」


 午後。

 王宮へ向かう馬車の窓の外では、いつもより人々の視線が露骨だった。


 囁き声。

 眉をひそめる貴婦人。

 路地で噂話に興じる商人。

 誰も彼も、すでに“王立機関へ忍び込んだ悪役令嬢”という筋立てを口の中で転がしている。


 新聞より先に、噂が刷られている。



 王宮の一室で待っていたのは、ギルベルトではなかった。


 法務局の官吏が二人。

 記録官が一人。

 そして壁際には、王宮付きの聖職者まで立っている。


 あからさまな布陣だった。

 これは聴取ではない。

 “魔女らしさ”を確認するための前段だ。


「アリアドネ・エルディアン殿」


 官吏の男が、決まりきった声音で読み上げる。


「貴殿は昨夜、王立瓦版局へ無断侵入した疑いがある」


「疑いではありません」


 室内の空気がわずかに揺れる。


 男は目を瞬いた。


「……認めるのか」


「ええ」


「目的は」


「知りたいことがあったので」


「国家機密を?」


「王都の朝を決める仕組みが国家機密なら、そうなりますわね」


 官吏が眉をひそめる。

 記録官の羽根ペンが、紙の上で小さく止まった。


 この受け答えは、彼らにとって最悪だろう。

 否認してくれれば罪人にしやすい。取り乱してくれれば危険人物にしやすい。

 だがアリアドネは事実だけを認め、理由も曖昧にせず、しかも恥じても怯えてもいない。


 だからこそ、余計に不気味に見える。


「……では、昨夜何を見た」


 今度は壁際の聖職者が問うた。


 その瞬間、喉の奥がひりつく。

 リーゼロッテ。羽ペン。没未来。自動筆記。

 すべて説明したい。

 だが喉が灼ける。言葉にしようとするだけで、熱い針を押し込まれるみたいに痛む。


 アリアドネはほんのわずかに息を整え、答えた。


「印刷室を」


 嘘ではない。

 だが真実でも足りない。


 聖職者の目が細くなる。

 彼は満足していない。いや、満足する必要もないのだ。ここで必要なのは真相ではなく、“審問に値する女”という印象なのだから。


「なるほど」


 官吏が文書を閉じた。


「本件については王太子殿下にも報告済みだ。近日中に、正式な審問の場が設けられる可能性が高い」


 可能性。

 つまり、もう決まっている。


 アリアドネは表情を変えなかった。

 だが腹の奥で、静かに敗北を認める。


 今日は負けだ。


 敵の土俵に立たされ、敵の言葉で裁かれ、しかもその土台には“本当のこと”が使われている。

 これほど厄介な負け方はない。



 屋敷へ戻る頃には、日が落ちていた。


 クララは食事を勧めたが、アリアドネは首を振った。食欲より先に、思考を整理しなければならない。


 書斎へ戻り、机の上の黒い紙に指を置く。


 見えない。

 今日は最後まで、何も。


 だがそれで終わりではなかった。


 深夜近く。

 窓の外がすっかり闇に沈んだころ、机上の黒版に、かすかな亀裂のような筋が入った。


 ぺり、と。


 表面の黒が、古い漆みたいに端から剥がれ始める。


 アリアドネは息を呑み、紙を引き寄せた。

 クララも眠気を忘れて駆け寄る。


 黒の下から、赤黒い文字がじわじわと浮かび上がってきた。

 まるで紙の裏側で血を使って書いたものが、表へ滲み出てくるみたいだった。


 明日、ギルベルト王太子、アリアドネの“魔女裁判”を宣告する


 クララが口元を押さえる。


「ま、魔女裁判……?」


 アリアドネはしばらく、その文字を見つめていた。


 今日一日、見えなかった未来が、最後にこれだけを寄越した。


 審問ではない。

 裁判でもない。

 “魔女裁判”。


 つまり次は、事実の是非ではなく、存在そのものを異端として処理する場になる。


「お嬢様……どうしましょう」


 クララの声は震えていた。

 当然だ。これはもう社交界の醜聞や婚約問題ではない。人ひとりを公的に“人間ではない何か”として扱う儀式の入口だ。


 だがアリアドネは、ゆっくりと紙面から目を上げた。


 敗北はした。

 だが、盤面が戻った。


 しかも今度は、相手がどこへ自分を押し込みたいのかが、はっきり見える。


「いいえ」


 彼女は静かに言った。


「どうにかするのよ」


 赤い文字が、机の上で乾いていく。

 その色は、まるで明日がすでに誰かの流した血の上に用意されているみたいだった。


 アリアドネは指先でその見出しに触れ、目を細める。


 ――魔女裁判、ね。


 ならば次は、舞台を壊すだけでは足りない。

 魔女として差し出されたその瞬間に、

 “誰がこの芝居を書いたのか”を、観客全員の前で暴く。


 そう決めた時、彼女の口元にようやく、かすかな笑みが浮かんだ。


 それは祝福の笑みではなかった。

 ようやく喉元まで来た刃の角度を見定めた者の、冷たい笑みだった。

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