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第5話 ペンを持つ少女

【号外】

明日、王都の全瓦版が不発。

預言者の視界は完全に遮断される――


 地下編集室に、紙が降っていた。


 倒れた輪転機の上から、破れた原稿がひらひらと舞う。

 刷られなかった未来。採用されなかった誰かの破滅。選ばれなかった正義。

 それらが雨のように降る光景の真ん中で、リーゼロッテはまるで温室から抜け出してきたような顔をしていた。


「……あなた」


 アリアドネは肘をつき、身を起こした。

 肩と背が痛む。だが骨は折れていない。咄嗟に突き飛ばされていなければ、今ごろ自分は原稿の見出しどおり、輪転機の下敷きだっただろう。


「ごきげんよう、アリアドネ様」


 リーゼロッテは丁寧にスカートを摘まんで一礼した。

 その足元には、潰れた活字箱と黒いインク溜まり。場違いなほど可憐な所作だった。


「ご無事でよかったです」


「……助けたつもり?」


「助けましたよ? だって、そこでぺしゃんこになられたら困りますもの」


 困る。


 その物言いに、クララがびくりと肩を震わせた。

 礼ではない。安堵でもない。進行中の予定が狂うと困る、と言う時の響きだった。


 アリアドネはゆっくり立ち上がる。


「昨日、温室で笑っていたのもあなたね」


「笑いましたっけ?」


「ええ。人が脚本通りに転ばなかったので」


 リーゼロッテは小首を傾げた。

 蜂蜜色の髪が肩の上でさらりと揺れる。その仕草だけ見れば、どこからどう見ても守られる側の少女だ。

 なのに、彼女の目だけが違う。

 こちらを人としてではなく、“役柄”として見ている。


「脚本、だなんて」


「違うの?」


「少なくとも、今のところは配役ですね」


 あまりにもあっさり返されて、クララが今度こそ小さく声を漏らした。

 アリアドネは目を細める。


「あなたは何者なの」


「男爵令嬢のリーゼロッテ・ミュルクです」


「そういうのは質問の答えにならないわ」


「なら、アリアドネ様は何者なんです?」


 リーゼロッテの声音が、ほんの少しだけ変わった。

 甘さはそのままに、芯のところだけが研がれる。


「未来を読む人?」


「……」


「悪役令嬢?」


「……」


「それとも」


 少女は瓦礫の上の紙片を一枚拾い上げ、くすりと笑った。


「ただの“読者”ですか?」


 ぞくり、と肌が粟立つ。


 地下編集室の空気が、一段深く冷えた気がした。


 クララはもう声も出ないらしい。アリアドネのすぐ後ろで固まっている。

 それでもアリアドネは視線を逸らさなかった。


「読者、ね」


「ええ。記事を受け取って、先回りして、ちょっとだけ筋をずらす。とっても行儀の悪い読者です」


「あなたは?」


「わたくし?」


 リーゼロッテはくるりとその場で回ってみせた。

 靴先が原稿の端を踏み、黒いインクが白い裾へ小さく跳ねる。


「そうですねえ……まだ見習いですけど」


 彼女は机へ歩み寄り、さっきまで勝手に動いていた羽ペンをひょいと摘み上げた。


「ペンを持つ者、って呼ばれてます」


 その瞬間だった。


 羽ペンが、彼女の指の中でぴたりと大人しくなる。

 さっきまで勝手に動いていた気配が嘘みたいに消える。

 命を抜かれたというより、飼い主の手に戻ったみたいだった。


 アリアドネは無意識に一歩踏み込んでいた。


「それを、あなたが動かしていたの」


「わたくし“も”、です」


「も?」


「だって、わたくし一人で全部書いていたら、王都じゅう毎朝寝不足ですもの」


 冗談めかした口調。

 だがそこに混じる情報は重い。


 全部ではない。

 しかし一部には関与している。

 少なくとも、自分に関わる記事には。


「なぜ、わたくしを悪役にするの」


「だって必要でしょう?」


 リーゼロッテは不思議そうに言った。

 本気で、問いの意味が分からない顔だった。


「悪役令嬢って、すごく便利なんです。みんなが安心できますから」


「安心?」


「はい。誰が悪いか、一目で分かるから」


 彼女は羽ペンの先で、足元に散らばる原稿の一枚をつついた。


「世の中って本当は、もっと曖昧で、もっと不細工で、もっと説明しにくいじゃないですか。でも誰もそんなの好きじゃない。だから、物語にするんです」


 かち、という小さな音がした。

 羽ペンの金属軸が、彼女の爪に当たった音だった。


「誰か一人が悪ければ、みんな自分のことを考えなくて済むでしょう?」


 その言葉を聞いた瞬間、アリアドネは理解した。


 この少女は、人を陥れることに快楽を覚える類の悪女ではない。

 もっと質が悪い。

 彼女は“世界のために必要な編集”だと信じている。


 だから迷いがない。


「わたくしが悪役でなければならない理由にはなっていないわ」


「ありますよ」


 リーゼロッテはにっこり笑った。


「だってアリアドネ様、悪役がお似合いですもの」


 クララが「ひどい」と小さく吐き出した。

 リーゼロッテはそちらをちらりと見る。


「でも褒めてるんです。綺麗で、冷たくて、賢くて、誰にも媚びない。ほんの少し新聞が煽れば、みんな勝手に怖がってくれる。こんなに使いやすい役、なかなかありません」


「……あなた、自分が何を言っているか分かっているの」


「ええ、もちろん」


 少女は心底楽しそうだった。


「アリアドネ様の人生って、とっても筋がいいんです。ちょっと不幸にして、ちょっと高慢に見せて、最後に断罪すれば、みんな満足する。王太子様だって正義になれるし、救われる女の子も用意しやすいし、王都全体が丸く収まる」


「丸く収めるために、わたくしを潰すの?」


「潰す、だなんて。役目を果たしていただくだけです」


 言い切った。


 その瞬間、アリアドネの中で、何かが妙に静かになった。


 怒りはある。

 嫌悪もある。

 だがそれ以上に、輪郭のはっきりした敵をやっと見つけた安堵があった。


「そう」


 アリアドネは短く言った。


「なら訂正するわ。あなた、書き手ではない」


 リーゼロッテが初めて、ほんの少しだけ眉を動かす。


「何ですって?」


「編集者よ。書くのではなく、誰かの人生を読みやすい形に並べ替えているだけ」


 地下室の空気が止まった。


 リーゼロッテの笑みが、紙一枚ぶんだけ薄くなる。

 当たったのだ、とアリアドネは思った。


「そんな言い方、失礼ですね」


「ええ。わざとよ」


 リーゼロッテは一歩、また一歩と近づいてきた。

 可憐な靴音が、石床を軽く叩く。


「でも、編集って大事なんですよ。現実をそのまま出したって、誰も読んでくれませんもの」


「だから誰かを悪役にして、分かりやすくしてあげる?」


「優しいでしょう?」


「吐き気がするくらいに」


 一瞬、二人のあいだから音が消えた。


 先に動いたのはリーゼロッテだった。


 彼女は床に落ちていた《明日の瓦版》――アリアドネが袖から落とした白紙の新聞を拾い上げる。

 あの、彼女にしか読めないはずの紙を。


 クララが息を呑む。

 アリアドネも、さすがに瞳を細めた。


「それに、読者のくせに生意気なんですもの」


 リーゼロッテは懐から小さなマッチ箱を取り出した。

 カチ、と軽い音。

 小さな火が生まれる。


「ちょ、ちょっと待ちなさい」


「嫌です」


 そして彼女は、白紙の瓦版の端へ火を移した。


 紙は驚くほどあっけなく燃えた。

 アリアドネの手の中でだけ重みを持っていたはずのそれが、普通の新聞みたいに黒く縮れ、灰になっていく。


「……そんな、」


 喉の奥で、アリアドネともクララともつかない声が漏れた。


 燃やせるのか。

 触れられるのか。

 処分できるのか。


 つまり自分が受け取っていた《明日の瓦版》は、神秘そのものですらない。

 誰かが扱える媒体なのだ。


「あーあ」


 リーゼロッテは火の粉を見下ろしながら言った。


「失敗しちゃった」


 その口調が、まるで本当に残念そうで、ぞっとする。


「本当なら、もう少し綺麗に追い込むつもりだったんですけど。でもまあ、いいや」


 燃えさしの灰が、ふわりと舞い上がる。


 その灰の中から、白い紙片が一枚だけひらりと浮かんだ。

 まるで火で焼かれることを前提に、内側へ隠されていたみたいに。


 アリアドネは反射的にそれを掴む。


 そこに浮かび上がっていたのは、新しい号外だった。


【号外】

明日、王都のすべての新聞が“不発”となる。

預言者の視界は、完全に遮断された――


「……」


 アリアドネが紙片を見上げると、リーゼロッテはくすっと笑った。


「明日、お楽しみに」


 そして次の瞬間には、地下編集室の灯りがふっと落ちた。


 暗闇。


 クララの悲鳴。

 どこかで歯車の回る音。

 紙が舞う気配。


 再び灯りが戻った時、そこにリーゼロッテの姿はもうなかった。


 残っているのは、倒れた輪転機と、焼け焦げた白紙の匂いだけだった。


 アリアドネは灰のついた指先を見つめたまま、静かに思う。


 ――明日は、見えない。


 初めて、完全に。

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