第4話 無人編集室のポルターガイスト
【白版】
未来未詳。
本日、王都において記事化不能の空白が発生。読者各位は各自の判断にて行動されたし――
白い紙ほど、不気味なものはない。
文字がある紙には、まだ誰かの意図が宿っている。
悪意でも善意でも、筋書きでも誤報でもいい。書かれている限り、それは“何か”だ。
だが白紙は違う。そこにはまだ何も決まっていない。あるいは、決めるべき何かが壊れている。
アリアドネは机上の瓦版を見下ろしていた。
表も裏もない。
一面も社交欄も広告欄もない。
日付だけが、右上の隅に申し訳程度に刷られている。その下には、昨夜、応接間で浮かび上がったたった一行の悪意だけが残っていた。
――読者のくせに、生意気。
あれから一睡もしていない。
眠れなかった、ではない。
眠るだけの理由を失った、と言うほうが近い。
《明日の瓦版》は、どれだけ不愉快でも、どれだけ自分に不利でも、少なくとも盤面を見せてはくれた。そこに書かれた破滅を、どうずらすか。どう壊すか。それが彼女の戦い方だった。
だが今日は違う。
盤面そのものが消えている。
「お嬢様……本当に、行かれるんですか」
クララが、声を潜めて訊ねた。
いつもよりさらに一段小さな声だった。屋敷の壁に耳があるわけでもないのに、今は大きな音を立てることそれ自体が悪手に思える。そんな朝だった。
「ええ」
「王立瓦版局に?」
「ええ」
「……不敬とか、不法侵入とか、そのあたりは」
「全部あとで考えるわ」
「考えてから行きましょうよ……!」
半泣きの訴えはもっともだった。
王立瓦版局は、王都の誰もが知っていて、その中身だけは誰も知らない場所だ。毎朝新聞を配っているくせに、どこで、誰が、どうやって刷っているのかを、正確に語れる者がほとんどいない。
人は案外、自分の生活に不可欠なものほど、仕組みを知ろうとしない。
蛇口をひねれば水が出るように、朝になれば見出しが届く。
それで足りてしまう。
「クララ」
「はい……」
「誰かがこの国の朝を作っているなら、その顔を見ておきたいの」
アリアドネは白紙の瓦版を畳んで袖に忍ばせた。
「見たうえで、それでもまだ従う価値があるものか決める」
クララはもう何も言えなかった。
言っても止まらない顔だと分かっているからだ。
☆
王立瓦版局は、王宮と大聖堂のちょうど中ほど、王都の中心をわずかに外したあたりに建っている。妙な位置だ、とアリアドネは以前から思っていた。
権力と信仰のちょうどあいだ。
王権にも教会にも属しきらず、そのどちらにも毎朝言葉を供給する場所。
昼間に見れば、ただの古い石造りの庁舎だ。
しかし夜になると、その建物はまるで別物に見える。
人気の失せた通り。
閉じられた鎧戸。
上層階の窓は真っ暗なのに、地階に近い細長い採光窓だけが、かすかに濁った灯りを吐いている。
「……ほんとうに、ここから入るんですか」
裏手の荷運び口で、クララが震える声を漏らした。
アリアドネは答えず、錆びた取っ手を押した。
鍵は掛かっていなかった。
ぎい、と軋んだ音が、夜気の中にやけに大きく響く。
「不用心ね」
「罠ってことはありません?」
「あるでしょうね」
「あるの!?」
「でも、たいていの制度は、見られないことに甘えて不用心になるものよ」
中は、紙とインクと、冷えた石の匂いがした。
印刷所にしては静かすぎる。
人の気配がない。
廊下は暗く、壁に沿って古い額絵のような掲示板が並んでいる。そこには過去の号外が几帳面に留められていた。王族の婚礼。隣国との講和。大聖堂の火災。凶作。豊穣祭。どれも、人々がかつて真実として飲み込んだ見出しばかりだ。
だが近づいて見ると、違和感がある。
紙の端に、薄く別の文字が透けているのだ。
刷られた記事の下に、消された何かがある。
アリアドネは一枚の端をそっと持ち上げた。
下から現れたのは、採用された見出しとはまるで逆の文面だった。
国境紛争、和平成立
王太子の仲裁、実らず
貼られている表の記事はその逆だ。
《王太子の仲裁、実る。国境紛争、武威により収束》
結果は同じでも、誰を立てるかが違う。
「……原稿の層があるのね」
アリアドネは呟いた。
記事は湧いてくるのではない。
選ばれている。
それも、いくつもの書き方の中から。
胸の奥が妙に冷えた。
もしそうなら、《明日の瓦版》とは未来そのものではない。
未来を、誰かにとって都合のよい物語へ整えたものだ。
その時、廊下の奥から、ごとりと重たい音がした。
クララが小さく悲鳴を呑み込む。
アリアドネは灯りを掲げ、音のしたほうへ進んだ。
石段が下へ続いている。
地下だ。
降りるほどに、匂いが濃くなる。
油。鉄。湿った紙。焼けたような墨。
印刷の匂いだ。だが、どこか生き物じみてもいる。
地下編集室は、想像していたより広かった。
天井は高く、石柱が並び、部屋の中央には巨大な魔導輪転機が据えられている。歯車は鈍く光り、銅管が壁を這い、床には紙束がいくつも積み上げられていた。机もある。活字棚もある。校正台もある。
なのに、人がいない。
「……誰も、いません」
クララが囁く。
「ええ」
アリアドネの声も、自然と小さくなった。
人間のための部屋なのに、人間だけが欠けている。
その不在が、かえって部屋じゅうを満たしていた。
ごと、ごと、とまた音がした。
振り向く。
部屋の隅の机。
誰もいないはずのその机の上で、一本の羽ペンが勝手に立ち上がっていた。
インク壺から墨を吸い、紙の上を走る。
さら、さら、さら。
紙が削れる音だけが静かな地下室に響く。
クララがアリアドネの袖を掴んだ。
彼女の指先が冷たい。
「お、お嬢様……見えてます、よね……?」
「ええ」
見えている。
見えていて、なお信じたくない。
羽ペンは驚くほど滑らかに動いていた。躊躇も推敲もない。最初から完成形を知っている手つきだ。人間の書く速度ではない。まるで、誰かが別の場所で決めた文章を、ここでただ転写しているだけみたいに。
アリアドネは一歩、また一歩と近づいた。
机の上には書きかけの原稿が何枚も散っている。
没になったのか、途中で破られたもの。赤線で塗りつぶされたもの。余白に校正記号が踊るもの。
そのどれにも、見覚えのある名前があった。
アリアドネ。
ギルベルト。
リーゼロッテ。
王都。
聖堂。
火災。
暴動。
処刑。
そして壁際には、細い紐に洗濯物みたいに吊るされた紙が何十枚、いや何百枚も並んでいる。どれも過去形で書かれた未来記事だった。
公爵令嬢アリアドネ、階段より転落死。事故として処理
悪役令嬢、修道院へ追放。民衆、安堵
王太子、悲運の婚約者を悼む。支持率回復
魔女アリアドネ、国外逃亡の末に処刑――
没未来の展示室だった。
アリアドネは息を呑んだ。
自分一人の死に方が、こんなにも取り揃えられている光景を、人は生涯で一度も見ずに済ませるべきだ。
「……趣味が悪いどころじゃないわね」
羽ペンは、なおも書き続けている。
その新しい紙を、アリアドネはそっと覗き込んだ。
見出しがちょうど書き上がったところだった。
アリアドネ・エルディアン、背後の闖入者に気づかず圧殺される
心臓がひとつ、遅れた。
背後。
振り向くより先に、クララの悲鳴が上がった。
「お嬢様!!」
巨大な魔導輪転機が、軋むような唸りを立ててこちらへ傾いでいた。
いや、傾いだのではない。
最初から、この一文を書き終える瞬間に倒れるよう“合わせられていた”のだ。
歯車が噛み合う音。
鎖の弾ける音。
何百枚もの紙が舞い上がり、白い鳥の群れみたいに視界を覆う。
アリアドネは咄嗟に身を引いた。だが床に散らばった原稿が靴裏で滑る。体勢が崩れる。逃げ切れない。
――間に合わない。
そう思った、その瞬間。
背中へ、強い衝撃が入った。
誰かに突き飛ばされたのだと理解した時には、アリアドネはすでに石床へ転がっていた。耳元で、轟音とともに輪転機が倒れ込む。紙束と木片が雨みたいに降る。
しばらく、何も聞こえなかった。
やがて、細い咳払いが一つ。
「もう。危ないじゃありませんか、アリアドネ様」
瓦礫の向こう、舞い落ちる紙片のあいだから、少女が顔を覗かせる。
蜂蜜色の髪。
可憐な声音。
そして、助けた人間のものとは思えないほど、落ち着ききった目。
リーゼロッテ・ミュルクが、そこにいた。




