第3話 白紙の恐怖
【明日の王都瓦版】
冷血なる魔女アリアドネ、ついに処刑決定。
王太子殿下、もはや慈悲なし。王宮は近く正式な審問へ――
「処刑、ね」
アリアドネは紙面の中央を指先でなぞり、それから新聞を机の上へ置いた。
昨日の茶会を境に、王都の空気はさらに粘ついていた。
毒殺未遂は未遂のまま終わった。にもかかわらず、広がっているのは事実ではなく、気配だけだ。
アリアドネが王太子のカップを奪った。
王太子が彼女を制した。
誰かが毒を盛ろうとした。
誰かが誰かを庇った。
どれも半分ずつしか合っていない。
だが半分だけ合っている話ほど、人は好む。残りの半分を、自分の都合で補えるからだ。
「お嬢様、本日は絶対にお屋敷から出てはいけません」
クララが真顔で言った。ついに口調から余計な飾りが消えている。
「処刑決定なんて、縁起でもないにもほどがあります!」
「決定じゃないわ。決定したいだけ」
「その違いで安心できるほど、わたしは図太くないです……!」
アリアドネは少しだけ笑いそうになり、それを飲み込んだ。
たしかに今日は危うい。
処刑そのものが起こるわけではないだろう。だが“処刑へ向かう空気”は本物だ。見出しはしばしば、出来事の核心ではなく、その出来事へ人を押し流す勾配を書く。
そして今、もっと厄介なのは別にあった。
昨日、紙面は目の前で書き換わった。
リーゼロッテはそれを知っている顔をしていた。
ならば、記事はどこかで作られている。神託でも、天啓でもなく、人の手で。
そこまで分かったのなら、次にやることは一つしかない。
「王宮へ行くわ」
「はい?」
「殿下とお話しする必要があるもの」
「よりによって!?」
クララの悲鳴を背に、アリアドネは外套を手に取った。
☆
王宮南翼の小応接間は、妙に静かだった。
厚い絨毯が足音を吸い、窓から差す光も薄い。整然としすぎていて、ここでは感情まで礼儀作法に従って列を作るのではないかと思える。
ギルベルトはその中央に立っていた。
机の上には新聞。
彼はそれを押さえるように片手を置いている。まるで紙そのものが暴れ出すのを抑えているようだった。
「……何をしに来た」
低い声音だった。
怒っている、というより、疲れている。
「ご挨拶に」
「ふざけているのか」
「少しだけ」
その返答に、ギルベルトのこめかみに青筋が浮いた。
「今朝の紙面を読んだな」
「ええ」
「そこには君の処刑が載っている」
「読解力はおありのようで安心しました」
「アリアドネ」
名前を呼ぶ声に、苛立ちが混ざる。
彼女はようやく少しだけ真面目な顔をした。
「ではお聞きします、殿下。あの紙面をご覧になって、ほんとうに『そうなる』とお思いに?」
「今までそうだったからだ」
「今までは、でしょう」
「君は何を知っている」
それは、とうとう来た質問だった。
ギルベルトは一歩前へ出た。金の髪の隙間からのぞく目に、昨日までより濃い影がある。正義を信じる人間が、その正義の足場を疑い始めるときの顔だ。
「馬車の件も、茶会の件も、君は先回りしていた。偶然だとは思わない」
「そう」
「君を見ると、不愉快なんだ」
アリアドネは瞬いた。正直すぎる言い方に、逆に少しだけ感心する。
「それはまた、率直ですこと」
「率直にもなる。君はいつも、私が何をするか知っているような目でこちらを見る」
彼の喉が一度鳴る。
「気味が悪いんだ。まるで私は、自分の意思で動いているのではなく……」
「書かれているみたい?」
ギルベルトが黙った。
図星だった。
部屋の空気が、急に重くなる。
この国の王太子が、その一線を自分から踏み越えかけた。
新聞は真実なのではないか、ではなく。
自分たちは、誰かの都合のいい真実へ並べられているだけではないか、と。
アリアドネは静かに彼へ歩み寄った。
床を踏む靴音まで、ここではよく聞こえる。
「試してみます?」
「何をだ」
「殿下がいかに“ご自分らしく”振る舞っておられるか」
「……意味が分からない」
「分からなくて結構」
彼のすぐ目の前まで来て、アリアドネは足を止めた。
近い。香水ではない、乾いた紙の匂いがする。たぶん彼も今朝の新聞を何度も開いては閉じたのだろう。
アリアドネは声を出さず、唇だけを動かした。
――明日の午後三時。
――西回廊で、青い花瓶を割る。
――そのあと、あなたは笑うわ。
ギルベルトの瞳孔が、はっきり開いた。
「……今、何と言った」
アリアドネは肩をすくめる。
「何も?」
「嘘をつくな」
「わたくし、嘘は嫌いですの」
「なら答えろ!」
彼が思わず手を伸ばし、彼女の腕を掴みかけて止まる。
その逡巡が、もう彼らしい。怒りに任せて掴めるほど単純ではなく、礼節と恐怖がいつも半歩だけ行動を遅らせる。
アリアドネはその手を見下ろし、言った。
「殿下が怖がっておられるのは、わたくしではありません」
「……」
「殿下は今、はじめて疑っているだけです。ご自分の正義が、ご自分のものではないのではないかと」
その言葉は、深く刺さったらしい。
ギルベルトの顔から、怒りが引いた。代わりに浮かんだのは、理解したくないのに理解しかけている人間の顔だった。
王太子として与えられた正しさ。新聞が保証してきた正しさ。群衆が拍手してくれた正しさ。
それらが全部、もしも“先に印刷されていたから”従っていただけのものなら。
「そんな、馬鹿な……」
ふ、と。
その時、彼の喉から妙な音が漏れた。
笑いだった。
乾いた、ひび割れたみたいな笑い。
本人が最も驚いている。おそらく彼は今まで一度も、こういう壊れ方をしたことがない。礼儀にも、威厳にも、王族らしさにも回収されない笑いだった。
「……は、」
自分の口元を押さえるギルベルトを、アリアドネは見逃さなかった。
予定外。
筋書きの外。
彼が初めて、王太子として最適な反応をし損ねた瞬間。
そのとたん、アリアドネの袖の中で紙が震えた。
「……!」
引き抜いた新聞に、ギルベルトも目を向ける。
そこには確かに、さっきまで「公爵令嬢、処刑確定」と刷られていたはずだった。
だが文字は、まるで見えない指で撫で消されるみたいに、一文字ずつ薄れていく。
見出し。本文。広告欄。果ては日付の数字まで。
「何だ、それは」
ギルベルトの声が、かすれた。
アリアドネは答えられない。
答える前に、紙面はすべて消えた。
真っ白だった。
何も書かれていない紙。
朝刊であることだけが異様な、空の第一面。
未来が、消えた。
部屋の静けさが、さっきまでとは別のものになる。
今までは整えられた沈黙だった。
今は、何か得体の知れないものが口を開けたあとの沈黙だ。
「君は、今……何を見ている」
ギルベルトの問いに、アリアドネは白紙から目を離さないまま答える。
「殿下」
「何だ」
「今夜、王立瓦版局へ行きます」
「は?」
「未来が消えたなら、書いている場所を見に行くしかないでしょう」
彼は眉を寄せた。反対したいのか、止める理屈を探しているのか、自分でも決めかねている顔だった。
そのとき。
白紙の中央に、じわり、と黒い点が滲んだ。
二人とも息を止める。
点はゆっくり広がり、震え、やがてたった一行だけを結んだ。
――読者のくせに、生意気。
アリアドネの背筋を冷たいものが走る。
文体で分かる。
あの声音だ。
甘く、幼く、無邪気なふりをして、その実いちばん残酷な位置から人を見ている声。
リーゼロッテ。
白紙だったはずの未来が、
こちらを見て、笑っている。




