第2話 毒殺のインクは乾かない
【明日の王都瓦版】
悪役令嬢アリアドネ、ついに凶行。
王宮春季茶会にて王太子殿下へ毒を盛る――
「今度は、ずいぶん分かりやすいのね」
アリアドネは朝刊を畳み、卓上に置いた。
昨日の号外は、王都の人心を中途半端にかき回した。
アリアドネを見直したという者もいた。いや、見直した“ふり”を始めた者、と言うべきかもしれない。逆に、「悪女の一度の善行に騙されるな」と鼻息を荒くする者も増えた。
どちらも同じだ、とアリアドネは思う。
人は真実を愛しているのではない。
自分が安心して居座れる解釈を愛しているだけだ。
だから昨日のように筋書きが少し狂った程度では足りない。人々はすぐ、新しい見出しの中に前と似た安心を探し始める。
「お嬢様、本日は王宮の春季茶会ですが……欠席は、」
「しないわ」
「やっぱり!?」
クララが半ば悲鳴を上げた。
「毒を盛るって書いてあるんですよ!?」
「ええ、書いてある」
「それなのに行くんですか!?」
「書いてあるから行くの」
クララは両手で顔を覆った。指の隙間から見える目が真剣に涙ぐんでいる。可哀想だとは思うが、今さら「安心して」とは言ってやれない。
アリアドネは鏡の前に立ち、侍女たちに髪を整えさせながら言った。
「狙いは毒そのものではないわ。たぶん“毒殺に見える場面”を作りたいのよ」
「違いがあるんですか……?」
「大違い。毒はなくても、人は毒殺未遂を信じられる」
それが見出しの力だ。
記事は、出来事を報じる以前に、出来事の意味を先回りして配ってしまう。
そうなれば現場の人間は、現場を見る前から“どう受け取るか”だけは決められている。
今日は王宮の大温室で春季茶会が開かれる。
王族、重臣、学術院の有力家門の子女。およそ「見られること」を仕事にしている人間が集まる場だ。
その中心で何かが起きれば、噂の拡散はいつもの三倍速い。
まるで、毒殺劇にはうってつけだった。
☆
温室は花と湿度で満ちていた。
硝子の天井から朝の光が落ち、薔薇の香りに混じって、人いきれと香水が薄く漂う。見た目は華やかだが、ここで交わされる言葉の多くは、花より毒性が強い。
アリアドネが入室した瞬間、さざ波みたいなざわめきが広がった。
その反応を、彼女はもういちいち数えない。
憧れ。軽蔑。恐れ。野次馬根性。
どれも本人ではなく、本人に貼られた見出しを見ているだけだから。
中央の白いテーブルの向こうに、ギルベルトがいた。
金の髪は今日も整っている。だがその美しさに似合わず、彼の表情には不眠の影があった。昨日の号外がよほどこたえたのだろう。正義が自分の手からこぼれ落ちる感覚など、たぶん彼は初めて味わった。
そして今朝、彼はさらに悪い記事を読んでいる。
「ごきげんよう、殿下」
アリアドネが礼を取る。
ギルベルトはほんの一拍遅れて頷いた。
「……来たのか」
「お招きいただきましたもの」
「君は、今日の紙面を読んだはずだ」
「読みました」
「それでも来た」
「ええ」
「怖くないのか」
その問いに、アリアドネは少しだけ目を細めた。
「殿下は怖いのですね」
「馬鹿にしているのか」
「しておりません。むしろ、羨ましいくらい」
「何がだ」
「書かれたことを、まだ外からのものだと思っていらっしゃるところが」
ギルベルトの眉が動く。
意味を掴みそこねた顔。だがそれでいい。彼はまだ、この国で最も新聞に従順な人間の一人だ。いきなり理解されては困る。
そこへ給仕が現れた。
白磁のティーセット。王家の紋章入り。銀のポットから、丁寧な所作で紅茶が注がれていく。
王太子の前に一杯。
アリアドネの前にも一杯。
毒殺未遂。
紙面の通りなら、このどこかで“そう見える瞬間”が起こる。
アリアドネはカップに目を落とした。香り。色合い。湯気の上り方。おそらく高級茶葉そのものだ。少なくとも即効性の毒が混ぜられた様子はない。
ならば、毒は液体にではなく空気にある。
ふと視線を上げると、ギルベルトの手が止まっていた。
飲もうとして、飲めない。
彼の中には、すでに《毒を盛られる王太子》という記事が入り込んでいる。
毒はない。
だが見出しがある。
それだけで人はカップ一つ持てなくなる。
「お飲みにならないの?」
アリアドネが問うた途端、周囲の空気がぴんと張った。
何でもないはずの問いが、ここではもう台詞になる。
ギルベルトは低く言う。
「君こそ、どうして平然としていられる」
「毒を盛っていないからですわ」
その言葉は、最悪だった。
真実であるという一点において、むしろ最悪だった。
無実の宣言ほど、人の想像力を煽るものはない。
もし本当に何もないなら、なぜそんなことを先に言うのか。
彼らはそう考える。言葉の中身ではなく、言葉が発せられた順序を根拠に疑う。
だからこそ、ここで必要なのは説明ではない。
構図の破壊だ。
アリアドネは静かに手を伸ばした。
「――っ」
ギルベルトが反応するより先に、彼女は彼の前のカップを取り上げていた。周囲の令嬢たちが一斉に息を呑む。誰かが「あ」と小さく声を漏らした。
アリアドネはそのまま、迷いなくカップを唇へ運ぶ。
一口。
二口。
三口。
香り高い茶が、何事もなく喉を通る。
熱いだけだ。焼ける痛みはない。やはり毒ではない。
空になったカップをソーサーへ戻し、彼女は言った。
「ご覧の通りです」
その瞬間、わざとだった。
立ち上がりざま、アリアドネはテーブルクロスの裾を靴先で引いた。
白布が揺れ、銀のスプーンが跳ね、ポットが横倒しになって残りの紅茶を床へぶちまける。
甲高い悲鳴。
給仕たちが駆け寄る。
証拠になり得た液体は、絨毯へすばやく染み込んで消えていく。
「申し訳ありません。手元が滑りましたわ」
「君……!」
ギルベルトが立ち上がる。
怒って当然だ。もし彼が本当に疑っていたなら、これは証拠隠滅にも見える。
だが、彼の顔が途中で止まった。
アリアドネも、それに気づく。
袖の中に忍ばせていた今朝の瓦版が、びり、と小さく鳴いた。
「……っ?」
紙面を取り出す。
印刷された文字が、動いていた。
それは活字の修正とは呼べない異様さだった。
黒インクが生き物のように滲み、文の骨格が崩れ、別の文へ組み替わっていく。
まるで今この場の現実に合わせて、記事のほうが遅れて追いつこうとしているみたいに。
こんなことは、初めてだ。
これまでは号外が来た。
あとから差し替えられることはあっても、目の前で紙面そのものが変形するなど――
「お嬢様?」
クララの声が遠い。
アリアドネは紙を凝視した。
そこに浮かび上がってきた新しい見出しは、こうだった。
【瓦版更新】
王太子、悪役令嬢を命懸けで庇う――?
毒殺騒ぎの裏で踊る、謎の「書き換え者」の影
喉の奥が冷えた。
“書き換え者”。
それは見出しではなく、内部用語に近い響きだった。少なくとも、一般読者に向けた記事に載るには不自然すぎる。
誰かがいる。
自分以外に。
この紙面へ、直接手を入れている者が。
「どうした」
ギルベルトが覗き込もうとしたので、アリアドネは反射的に新聞を畳んだ。
まずい。
これはまずい。
毒はなかった。それで終わるはずだった。
なのに記事が更新された。しかも“書き換え者”の存在を、紙面自らが匂わせた。
その時だった。
薔薇のアーチの向こうで、かすかに笑い声がした。
鈴みたいに可憐で、けれどなぜか肌を逆撫でする笑いだった。
振り向く。
そこに、リーゼロッテ・ミュルクがいた。
蜂蜜色の髪。薄い花弁のような唇。守ってやりたくなる弱々しさを、まるごと形にしたような男爵令嬢。
ふだんなら彼女は、背景に溶ける側の少女だ。王太子の庇護欲をくすぐるためだけに、世界が用意したような。
だが今、彼女は背景ではなかった。
目が笑っていない。
あれは登場人物の目ではない。
舞台袖から役者を眺めている、作者の目だ。
視線がぶつかった、その一瞬。
リーゼロッテは唇だけで言った。
――あーあ。失敗。
ぞくり、と背骨に細い氷が差し込まれる。
「アリアドネ!」
ギルベルトの声で我に返る。倒れかけた椅子を押さえた拍子に、彼の腕がアリアドネの肩へ触れていた。周囲では早くも「王太子殿下が庇われた」「いや庇ったのだ」と、筋のいい噂が芽を出し始めている。
違う。
庇わせたのだ。
この場面が必要な誰かに。
アリアドネは畳んだ新聞を強く握りしめる。
インクの匂いが、今日はやけに生々しい。
――私以外の読者がいる。
いいえ。
読者ではない。
書き手だ。
薔薇の影の向こうで、リーゼロッテはにっこりと微笑んだ。
次の頁を知っている人間だけが浮かべられる、あまりにも無邪気な笑みで。




