第1話 予約された断罪
【明日の王都瓦版】
悪役令嬢アリアドネ・エルディアン、明日正午、王立学術院大講堂にて王太子殿下より婚約破棄。
哀れな男爵令嬢を虐げた冷酷非情の公爵令嬢に、ついに断罪の鉄槌――
「……半年、早いわね」
アリアドネ・エルディアンは、そう呟いて紙面から目を上げた。
まだ朝の六時だった。
白みきらない空を通して射し込む光は弱く、寝台の天蓋も、壁際に置かれた長椅子も、部屋のあらゆる輪郭を曖昧にしていた。そんな中で、彼女の手にある新聞だけが妙にくっきりして見える。刷りたての黒が新しすぎて、まるで今しがた誰かの悪意が乾いたばかりみたいだった。
王都の人間は、朝になるとまず瓦版を読む。
貴族も、商人も、仕立て屋も、パン売りの娘もだ。
そこに書かれたことは、よく当たる。
当たるから信じられる。
信じられるから人はその通りに動く。
その通りに動くから、結局、書かれたことが現実になる。
それは予言というより、もっと質の悪いものだった。
人の思考を先回りし、都合のいい筋道を先に敷いておく暴力。
この国では、真実は出来事のあとに来るのではない。見出しのあとから、息を切らして追いかけてくる。
「お嬢様……?」
背後から、クララがおずおずと声をかけてきた。
アリアドネ付きの侍女である彼女は、朝の支度のために入室した時からずっと落ち着きがない。もっとも無理もなかった。目の前の主人は、たった今、自分の破滅が一面トップに載った新聞を読んだばかりなのだ。
「お顔色が……」
「悪いかしら」
「いえ、普段通りお綺麗ではありますが……その、普段通り、とても怖いです」
「褒め方が下手ね」
クララは青ざめたまま口をつぐんだ。
アリアドネは紙面を閉じかけ、ふと指先を止めた。
一面の見出しではない。二面下段、社交欄の端。よほど注意していなければ見落とすような、小さな記事だった。
王太子、通学路にて落馬寸前の馬車から令嬢を救出か
「……こっちだわ」
「え?」
「明日の本命は婚約破棄じゃない」
アリアドネは紙面のその一角を白い指で押さえた。
「こっちが先。これがあるから、断罪が劇になる」
クララは意味が呑み込めない顔で瞬きをした。
「劇、ですか?」
「ええ。正義には演出が要るもの」
王太子ギルベルト・フォン・アルツベルクは、生まれながらにして舞台の中央へ立たされる人間だった。
金の髪、青い瞳、曇りのない正義感。誰もが好みそうな王子の条件を、嫌味なく備えている。問題は、その彼が自分の正しさを疑わないことだった。
もし明日、通学路で男爵令嬢を身を挺して救うようなことがあれば。
その余熱のまま、同日の正午に“冷酷な悪役令嬢”を断罪することになれば。
拍手は自然に起きる。歓声も起きる。誰も疑わない。英雄が悪女を裁くのだから。
一面は、たいてい結果を書く。
だが本当に人を動かすのは、その少し前に置かれた、小さな「前振り」だ。
「クララ、支度を」
「が、学術院へですか?」
「いいえ。北門坂へ」
「北門坂?」
「通学路よ」
アリアドネは椅子から立ち上がった。黒髪がさらりと背を流れる。鏡台の前に立てば、そこには社交界で“悪女”とささやかれる令嬢がいた。
整いすぎた顔立ち。
笑わない唇。
人を赦すより先に、人の言葉の綻びを見つけてしまいそうな目。
美しいのに愛されにくい顔だ、とアリアドネ自身も知っていた。もっとも、その評判のかなりの部分が新聞の見出しから逆算されたものであることも、同時に知っていたが。
「お嬢様自ら、そんな場所に……?」
「王太子殿下の英雄譚に、今日は少し休暇を差し上げるの」
クララが絶望したような顔になったので、アリアドネは薄く息を吐いた。
「心配しなくていいわ。起きることは分かっているもの」
そう言いかけて、喉の奥がひりついた。
言えない。
《明日の瓦版》の内容を、そのまま口にしようとすると、喉が焼ける。
最初にそれを知った日のことを、アリアドネは忘れていない。幼い頃、半信半疑のまま父に「このあと庭師が脚立から落ちる」と伝えようとして、声にならない悲鳴と一緒に床へ崩れ落ちた。あの熱は、火傷というより罰に近かった。
だから彼女は予言者ではない。
読者だ。
それも、ずいぶんたちの悪い、沈黙を強いられた読者。
「とにかく急いで。馬車はいらないわ」
☆
北門坂は、王立学術院へ向かう通学馬車が朝ごと混み合う場所だった。緩やかな上りに見えて、途中で石畳の継ぎ目がわずかに沈んでいる。速度を誤れば、車輪が取られる。貴族の御者はたいてい、その程度の癖を経験で知っているが、今日は運が悪い。いや、運ではないのかもしれない。
アリアドネは坂の途中で足を止め、道の表面を一瞥した。
あった。
石畳の継ぎ目に、薄い鉄片が噛んでいる。
意図して置かれたにせよ、偶然落ちたにせよ、これだけで十分だ。車輪の進路がわずかにずれ、馬が一瞬ひるみ、その一瞬に誰かが手柄を立てる。
遠くから蹄の音が近づいてきた。
先頭は王家の紋章をつけた馬車。続いて何台かの学生用馬車。問題は三台目だった。男爵家の、飾り気のない小ぶりの馬車。御者の手綱が浅い。
来る。
アリアドネは裾をつまみもせず、道の中央へ進み出た。護衛の制止は遅れた。彼女はそのまま片膝をつき、石畳の隙間へ指を差し込む。手袋越しでも鉄が冷たい。
次の瞬間、馬がいなないた。
鉄片は弾いた。だが完全には間に合わない。男爵家の馬車が大きく傾ぎ、悲鳴が上がる。
王家の馬車の扉が開き、金色の影が飛び出しかけた。
ギルベルト。
新聞の通りなら、ここで彼は駆け、少女を庇い、わずかに傷を負う。
その痛みが正義の証明になる。
正義は、見える傷が好きだ。
「お下がりください、殿下」
アリアドネは身を翻した。荷台から外れかけた縄を掴み、傾ぐ馬車の重みをほんの一瞬だけ殺す。右手首に鋭い痛みが走った。だがそのひと呼吸の間に、追いついた護衛が馬の頭を押さえる。前輪が石畳を削る音を立て、馬車は横転寸前で止まった。
坂の上が、しんと静まった。
男爵令嬢が泣き顔で御者に縋りつく。
野次馬たちが息を呑む。
その真ん中で、ギルベルトだけが動かなかった。
彼は道のこちら側に立ち尽くしたまま、アリアドネを見ていた。
救えなかったのではない。
救う前に終わらせられた人間の目だった。
「……なぜ、君がここにいる」
低い声が落ちる。
アリアドネは縄を放し、ゆっくりと立ち上がった。手首はずきずきと痛むが、顔には出さない。
「通学路ですもの。令嬢がいても不自然ではありませんでしょう」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「では、どういうことを?」
彼の眉間に皺が寄る。正義感の強い人間は、予定が狂うとよくああいう顔をする。世界は自分の納得できる形で整っているべきだと思っているからだ。
アリアドネは手袋の汚れを払った。
「お怪我がなくて何よりですわ、殿下」
「……君は、」
「残念そうなお顔をなさるのね」
その一言で空気が張った。
周囲の貴族子弟たちが、息を詰める。王太子に向かってそんな物言いをする者は少ない。だがアリアドネはまるで気にしなかった。
「助けられた方々がご無事で、殿下も飛び出さずに済んだ。喜ばしい朝ではありませんか」
「言葉に気をつけろ」
「気をつけていますわ。だから、これで済んでいるのです」
男爵令嬢が震える声で「ありがとうございます」と頭を下げた。アリアドネは彼女に目をやり、ただ一言だけ返す。
「礼は御者へ。次からは坂で速度を落とすことね」
それだけ告げて踵を返した。
背中に何本もの視線が刺さる。
その中でもいちばん熱いのは、間違いなくギルベルトのものだった。
彼はもう気づき始めている。
自分が立つはずだった場面の中央に、別の誰かが先に立っていたことに。
それが彼の気に入らないのではない。
気味が悪いのだ。どうしてこの女は、舞台の転び方を知っているのか。
☆
そして、その日の正午。
王立学術院大講堂には、妙に乾いた緊張が満ちていた。
学生たちはざわめきを隠せず、教師たちはそれを咎めるふりをしながら目だけを前へ向けている。噂はすでに王都じゅうを巡っていた。今日は婚約破棄の断罪劇がある、と。
壇上にはギルベルト。
その正面に、アリアドネ。
王太子は一歩前へ出た。
表情は整っている。だが整えすぎて、かえって硬い。
「アリアドネ・エルディアン。君に――」
扉が開いた。
大講堂の静寂を引き裂くように、瓦版配達夫が駆け込んでくる。
「号外! 号外です!」
ざわめきが一気に膨れ上がった。
差し出された刷りたての紙を受け取ったのはギルベルトだった。
彼の顔色が変わる。
怒りとも、困惑とも、羞恥ともつかない色で、みるみる白くなる。
アリアドネは動かなかった。
ただ、その紙面を読む彼の目の動きだけを見ていた。
やがてギルベルトが顔を上げる。
そこに刷られていたのは、一面の差し替えだった。
【号外】
王太子、婚約破棄を全面延期。
公爵令嬢アリアドネ、通学路の惨事を未然に防ぐ。
その聡明と献身を讃える声、王都に満つ――
会場がどよめく。
つい先ほどまで「悪役令嬢」として断罪されるはずだった女が、今や同じ新聞で「聡明」と持ち上げられている。その節操のなさに誰も文句を言わないのは、新聞が正義の形を決めるものであって、一貫性を守るものではないからだ。
ギルベルトは紙を握り締めたまま、アリアドネを見る。
彼の目には、はじめて明確な戸惑いがあった。
自分が裁くつもりだった相手に、先に舞台を奪われた人間の顔だった。
アリアドネはゆるやかに一礼する。
「本日は、何のお話でしたかしら。殿下」
答えはなかった。
あるはずがない。
見出しが変わった瞬間、正義の台本もまた書き換わる。
そして、王太子はまだ、その理不尽に慣れていない。
アリアドネは伏せた睫毛の奥で、静かに思った。
――一つ目。
破滅の予定は、ずらせる。
ならば次も。




