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第29話 最終統一版は校了しない

〖瓦版更新〗


最終統一版、承認者名を記載した状態で流通。


王都各地で、記事の出所を問う声――


 責任は、名前を書いた瞬間に生まれるのではない。


 ずっとそこにあったものが、逃げられなくなるだけだ。


 最終統一版は、止まらなかった。


 中央印刷所から、教会の集配所から、王宮の伝令路から、予定通り王都じゅうへ運ばれていく。


 大見出しには《反逆者アリアドネ》。本文には《偽聖女リーゼロッテ》。結びには《王家と教会による秩序回復》。向こうが用意した筋は、一文字も消えていない。


 ただし、すべての紙面の下に名がある。


 原稿、教会情報局。


 最終校閲・承認、大司教。


 王権承認、国王。


 保存異稿、有。


 反対証拠、未掲載。


 最初に人々は、一面を読んだ。


 次に、欄外を見た。


 そして隣の紙を奪うようにして比べ始めた。


「こっちには赤版の名簿が載ってるぞ」


「南区版には大火の記事が三つある!」


「異稿があったのに、どうして一つだけ本物だと言ったんだ」


「大司教が選んだのか?」


「王も知っていたのか?」


 王都は賢くなったわけではない。


 罵り合いもある。都合のよい版だけを信じる者もいる。母の病没記事を偽造だと叫ぶ者も、赤版の名簿に嫌いな隣人の名がないことへ腹を立てる者までいた。


 けれど、皆が同じ方向へ石を投げてはいない。


 紙を横へ並べ、欄外を指し、誰が書いたのかを問う。


 それだけで、最終統一版はもう“最終”ではなくなっていた。


 中央印刷所では、大司教が刷り上がった紙を握り潰した。


「回収しなさい」


 教会兵は動かなかった。


 正確には、動けなかった。


 門外から、ギルベルトの命令書が読み上げられている。


 拘束、押収、回収の命令には、自筆署名、根拠、執行責任者を要する。


 大司教の命令は、そのどれも書かれていない。


「私は教会の最高責任者です」


「でしたら、お名前を」


 アリアドネが言う。


「回収理由と、回収した紙の保管先と、誤りだった場合に誰が訂正するかもお願いいたしますわ」


「戯れを」


「責任表示がお嫌い?」


 大司教の目に、初めて露骨な憎悪が浮かんだ。


「こんなものは数日で飽きられる」


 彼は門外の群衆を指す。


「民は明日には忘れます。誰が書いたかなど、腹を満たしもせず、火を消しもせぬ。結局は強い見出しへ従う」


「ええ。忘れるでしょうね」


 アリアドネはあっさり認めた。


 大司教が言葉を失う。


「だから毎号、書くのです」


 彼女は最終統一版を開いた。


「毎号、署名させる。毎号、異稿を残す。毎号、訂正先を示す。人が怠惰だからこそ、権力まで無記名で怠惰になってよいわけではありません」


「真実は一つだ」


「出来事は一つでも、見える角度は一つではありません」


「詭弁です」


「いいえ」


 アリアドネは母の病没記事を、その隣へ置く。


「お母さまが隔離されたこと。記事が死の二十八日前に承認されたこと。父上が面会を拒んだこと。大司教が治療記録を記事へ合わせるよう命じたこと。どれも同じ出来事の一部です」


 一枚だけなら、母は静かに病死した校正官になる。


 父の証言だけなら、弱い夫の後悔になる。


 命令書だけなら、冷たい事務処理になる。


 並べて初めて、殺された一人の本文が戻る。


「だからこそ、誰が、何を根拠に、どう書いたのかを隠してはならないのです」


 門の外で声が上がった。


 ギルベルトが近衛を伴い、印刷所へ入ってくる。


 彼の後ろには、貴族議会の議長と法務官、さらに教会の下位司祭たちがいた。


 国王の姿はない。


 代わりに、王権承認簿の原本が運ばれている。


「父上は、承認印が自らのものだと認めた」


 ギルベルトは言った。


「大司教の最終校閲を経た記事を、国の安定に必要として承認したとも」


 大司教が鼻で笑う。


「ならば王太子殿下。父王を退け、その玉座へ座るのですか。実に読みやすい簒奪の記事になる」


 ギルベルトの頬が硬くなる。


 以前なら、その挑発へ正義で答えただろう。


 だが彼は、用意してきた紙を開いた。


「私は、父上を退けてそのまま王になるために告発したのではない」


 文面には、貴族議会と法務官の連署がある。


 公開審理が終わるまで、国王の統治命令権を停止する。


 王太子は暫定執政を担うが、正式即位と王位継承の確定は行わない。


 王宮と教会の文書庫を封鎖し、第三者の立会いで公開検分する。


「王であっても、自分の署名から逃げられない国にする。その最初の例を、父上にする」


「自分だけは外へ立つつもりですか」


「私の名も、審理記録へ載せる」


 ギルベルトは答えた。


「アリアドネを見出しで裁ち、王太子の立場で筋を補強した者として」


 大司教は何も言わなかった。


 教会兵の何人かが武器を置く。


 法務官が、母の隔離命令書と最終校閲簿を証拠として封緘した。


「大司教猊下。セラフィナ・エルディアンの違法拘禁および治療妨害、未承認異稿の隠匿、虚偽記事による拘束命令について、公開審理へ出頭願います」


「私を悪役にして終わるつもりか」


 大司教はアリアドネを見た。


「いいえ」


 彼女は首を振る。


「あなた一人を燃やして、皆さまの良心を暖める気はありません」


 大司教の目がわずかに揺れた。


「ですから、あなたの書いた本文を、最初から最後まで読ませていただきます。署名つきで」


 拘束される直前、大司教は別の名を叫んだ。


「実際に文章を書いたのはリーゼロッテだ!」


 教会兵に伴われ、リーゼロッテが印刷所へ入ってきた。


 白い布はない。


 簡素な灰色の服。手首には拘束具。それでも彼女は、自分の足で大司教の前へ立った。


「はい」


 否定しなかった。


「わたしが書きました」


「ならばすべてお前の――」


「ですから、わたしの署名も載せてください」


 リーゼロッテは法務官へ、自筆の告白文を渡した。


「操られた被害者としてだけではなく、書いた者として裁かれます」


 その言葉で、彼女が許されたわけではない。


 広場ではいまも罵声が飛んでいる。


 彼女の記事で拘束された者、家を失った者、アリアドネへ石を投げたことを正義だと思わされた者がいる。


 けれど少なくとも、リーゼロッテはもう、聖女にも悪役にも自分を隠さなかった。


 夜明け前、中央印刷所の壁へ新しい紙が貼られた。


 〖暫定校正規則〗


 原稿者、校正者、承認者を記名すること。


 根拠文書と異稿を保存し、公開請求へ応じること。


 記事により処分を受ける者へ、反論と訂正請求の権利を保障すること。


 誤報の訂正は、元記事と同等以上の大きさで掲載すること。


 複数の民間印刷所を認め、王宮または教会の単独発行命令を禁ずること。


 最下段には、王太子、貴族議会、法務官、職工代表、市民代表の署名が並んだ。


 貼り出された途端、今度は別の揉め事が始まった。


 訂正を同じ大きさにするなら紙代を誰が負担するのか。異稿をすべて公開すれば捜査上の秘密まで漏れるのではないか。市民代表を誰が選ぶのか。


 誰も拍手だけでは終わらない。


 アリアドネは、その騒がしさを聞いて少しだけ笑った。規則へ最初から反論がつく。これこそ、以前の王都にはなかった朝だった。


 完全な制度ではない。


 明日には穴が見つかるだろう。


 だから《暫定》と書かれている。


 校了しないことを、最初から認めた規則だった。


 その隣へ、もう一枚の訂正記事が貼られる。


 王立瓦版局校正官セラフィナ・エルディアン。


 未承認異稿の保存および責任表示制度を提言。


 病没記事には重大な虚偽があり、死亡経緯を再審理する。


 母の名が、役職と行為とともに記録へ戻る。


 アリアドネはその紙へ触れなかった。


 触れれば、指の熱でまた消えてしまいそうだった。


「アリアドネ」


 ギルベルトが隣へ来る。


「君の生存も、すぐ布告する」


「なりません」


「なぜだ」


「わたくし一人を王太子命令で生き返らせたら、新しい規則は最初から特例ですわ」


「だが、君はここにいる」


「でしたら、証拠を揃えましょう」


 本人確認。


 審問室から地下水路へ逃れた記録。


 クララ、ヨハン、古参書記、ギルベルトの証言。


 死亡記事の作成経緯。


 遺体未確認の記録。


 必要なものは多い。


 面倒で、遅い。


 だからこそ手続きを作ったのだ。


 机の上に、白紙の訂正請求書が置かれる。


 アリアドネは椅子へ座った。


 死者の外套を脱ぎ、ペンを取る。


「では、わたくしの死亡記事を――」


 紙面上部へ、自分の名を書く。


 アリアドネ・エルディアン。


 インクが、白紙へ確かな線を残す。


「わたくし自身で、校正いたしますわ」

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