最終回 第30話 わたくしの見出しは、わたくしが刷ります
〖訂正〗
アリアドネ・エルディアン死亡の記事は誤り。
本人の生存を確認。
文責・校正 アリアドネ・エルディアン
根拠 本人確認、証人四名、死亡記事原稿および遺体未確認記録――
訂正は、過去を消すためにあるのではない。
過去に、これ以上未来を従わせないためにある。
訂正版が配られるより先に、アリアドネは王都中央広場へ出た。
黒い外套は着ていない。
死者の顔を隠すフードもない。
濃紺のドレス。まっすぐ伸びた背。黒髪は朝の風に揺れ、まだ薄い陽光を受けている。
広場にいた人々は、最初、誰も声を出さなかった。
亡霊の記事を読んだ朝なら、悲鳴が上がったかもしれない。
生存の訂正を読んだあとなら、拍手の準備をしたかもしれない。
けれど今日は、紙より先に本人がいる。
どう反応すればよいか、誰も教えられていない。
「……生きてる」
パン売りの娘が、ようやく呟いた。
「本当に?」
「本人だ」
「でも、記事は」
「記事が間違ってたんだろ」
ひどく当たり前の会話だった。
王都では長く、その当たり前がいちばん難しかった。
クララが半歩後ろを歩きながら、鼻をすすった。
「お嬢さま、本当に生きてますね」
「何を今さら」
「だって、紙の上だとずっと死んでましたし」
「紙に書かれなくても、最初から生きておりましたわ」
「はい」
クララは笑った。
泣いているのに、笑った。
鐘が一つ鳴る。
瓦版売りの少年たちが、訂正版を抱えて広場へ駆け込んできた。
「訂正! アリアドネ・エルディアン嬢、生存!」
「死亡記事は誤報! 根拠と証人名つき!」
紙が配られる。
人々はまずアリアドネを見る。
次に紙を見る。
紙を見てから彼女を決めるのではない。
目の前の人間を確かめるために、紙を使う。
順番が変わっただけで、朝の空気まで違っていた。
誰かが謝ろうと近づき、途中で足を止めた。
誰かが「悪役令嬢」と呼びかけ、気まずそうに口を閉じた。
拍手は一斉には起きなかった。
それでよかった。
皆が同じ瞬間に同じ感情を持つ必要はない。
アリアドネは広場を横切り、新しく設けられた訂正受付台へ、自分の死亡記事の原本を提出した。
法務官が確認し、職工代表が版の保管番号を記し、市民立会人が証人欄へ署名する。
面倒な手続きだった。
一枚の誤報を直すために、何人もの目と、いくつもの名前が必要になる。
以前なら、大司教の印一つで済んだ。
だから今のほうが、ずっといい。
☆
数日後、アリアドネはエルディアン邸の書斎を訪れた。
王宮兵はすでに引き上げている。
父は公職から退く意向を記した書状と、母の隔離に関する自分の証言書を机へ置いていた。
どちらにも、自筆の署名がある。
「すべて公にする」
父は言った。
「妻の使いが来たこと。わたしが記事を信じ、会いに行かなかったこと。棺の中を確かめなかったことも」
「そうなさいませ」
「家名は傷つく」
「もう傷ついておりますわ」
父は苦く笑った。
「お前は、昔から容赦がない」
「昔から、ではありません。父上が昔のわたくしをどれほど見ていたか、疑問ですもの」
笑みが消える。
「……すまなかった」
謝罪は短かった。
短いから足りないのではない。
この先、何をするかがまだ書かれていないから足りないのだ。
父はしばらく黙り、それから問った。
「お前は、これからどうしたい」
家をどうする。
王太子との婚約をどうする。
国へ何を求める。
そういう問いではなかった。
初めて、娘自身の希望を聞く声だった。
アリアドネは母の二冊の手帳を見た。
「書く前に、確かめる仕事を」
「校正官に?」
「同じ名前の職でも、お母さまと同じ終わり方をする気はありません」
彼女は父を見る。
「それから、今度は聞いてください」
「何を」
「わたくしが何を考えているか。紙に載るまで待たずに」
父は目を伏せた。
「ああ」
許したとは言わなかった。
それでも、次に話すための余白は残った。
☆
リーゼロッテは、教会の白い衣を二度と着なかった。
公開審理は続いている。
彼女が書いた記事によって傷ついた者たちの証言が、一人ずつ読まれている。被害者だった事情と、加害者として行ったことの両方が記録され、どちらか一方へ綺麗にまとめられることはない。
審理の合間、彼女は監督官の立会いのもとで、自分の証言を書いていた。
簡素な机。
灰色の服。
目の前には白紙。
アリアドネが記録室へ入ると、リーゼロッテは最初の一行だけを書き終えたところだった。
――わたしは、何を書けばよいか分からない。
「ずいぶん弱い見出しですこと」
リーゼロッテの肩が跳ねる。
「……来ていたのですか」
「ええ」
「笑いに?」
「校正に」
アリアドネは紙を読み、椅子の背へ片手を置いた。
「結構な初稿ですわ」
「分からないのに?」
「分からない、とご自分で書けたでしょう」
リーゼロッテは、その一文を見下ろす。
「空白は、命令を待つ場所ではないのですね」
「ようやくお気づき?」
「遅すぎました」
「ええ」
慰めなかった。
遅かったために失われたものは、優しい言葉で戻らない。
それでもリーゼロッテは、次の一行を自分で考え始めた。
アリアドネはそれを見届けず、記録室を出た。
書くのは彼女だ。
待つ時間まで奪う必要はない。
☆
ギルベルトと会ったのは、夕方の旧組版室だった。
暫定執政となった彼は、以前より忙しく、以前より肩書きを信用しない顔になっている。
王位の正式継承は、父王の公開審理と制度改定が終わるまで保留されたままだ。
「こんな場所へ一人で来てよろしいのです?」
「護衛は外にいる」
「では一人ではありませんわね」
「君は本当に、再会の一言目から面倒だな」
「いまさら訂正なさる?」
ギルベルトは笑った。
王子として人へ見せる笑みではない。
苦い時も、困った時も、自分で選んで浮かべるようになった顔だ。
「婚約の件だが」
「王命で復活させるおつもりなら、お帰りください」
「最後まで聞け」
「書き出しが悪いのです」
彼は額を押さえた。
少し前なら、王太子の言葉を遮ること自体が記事になった。
いまはただ、二人の会話になる。
「王太子としてではない」
ギルベルトは言い直した。
「ギルベルトとして、君の隣に立ちたい」
アリアドネは答えず、机から白紙を一枚取った。
彼へ差し出す。
「では、申し込みからご自分でお書きになって」
「ここで?」
「口頭では、あとから都合よく校正なさるかもしれませんもの」
「信用がないな」
「これから作るのでしょう」
ギルベルトはペンを取った。
長く考えたわりに、書いたのは一行だけだった。
――あなたと、まだ書かれていない明日を生きたい。
アリアドネは読み、しばらく黙る。
「どうだ」
「少々、抽象的すぎますわね」
「君に渡す文章としては、最大限に考えた」
「“明日”の範囲も曖昧です」
「アリアドネ」
困り果てた声がおかしくて、彼女はようやく笑った。
「校正したい箇所は山ほどありますけれど」
白紙を折り、自分の胸元へしまう。
「初稿としては、悪くありませんわ」
差し出された彼の手を取った。
約束を完成稿にはしない。
これから何度でも、二人で直せばいい。
☆
数か月後。
王都の朝は、以前よりずっと騒がしくなった。
北区紙は暫定執政の税制案を批判し、南区紙は商人組合の数字が誤っていると訂正を出し、教会改革紙は昨日の見出しを今朝には撤回している。
同じ出来事を、違う紙が違う順番で書く。
読みにくい。
面倒だ。
ときどき、ひどく腹が立つ。
だが、どの記事にも原稿者と校正者と承認者の名がある。
異稿は公開保管庫へ送られ、反論欄には毎日のように長い列ができた。
クララは区をまたぐ配布網の責任者になった。
「隣の紙も読んでください!」が口癖になり、いまでは市場の商人にまで真似されている。
ヨハンは若い職人へ、版木の彫り方より先に欄外の意味を教えた。
「一面は燃えてもいい。誰が刷ったかは残せ」と。
リーゼロッテは自分の審理記録を書き続けている。
父は公爵家の実務を後任の家令へ渡し、母から届かなかった手紙を探している。
ギルベルトは、署名欄の増えた命令書に毎日うんざりしていた。
そしてアリアドネは、新しい公開校正所の机にいる。
壁には、母の版木の欠片が飾られていた。
聖遺物ではない。
同じ欄を二度と消させないための、見本として。
「お嬢さま、明日の一面、まだ空いてます」
クララが組版台から声を上げる。
「知っているわ」
「何を入れます?」
アリアドネは窓の外を見た。
朝日が昇りかけている。
まだ誰にも要約されていない色だった。
「未定、と」
「え?」
「未定です。明日はまだ、校了しておりませんもの」
ヨハンが笑い、活字を拾う。
圧胴機が回り始めた。
刷り上がった紙の一面には、大きな予言も、華やかな断罪もない。
〖明日の王都瓦版〗
明日の見出しは、未定。
その下には、複数の記事と、複数の署名。
アリアドネはインクのついた指で一枚を持ち上げた。
「明日の見出しに、わたくしの破滅は載せさせません」
第一話の朝と同じ言葉は、もう少しだけ広い意味を持っていた。
「いいえ」
彼女は自分で訂正する。
「わたくしの人生を、誰か一人の見出しにはさせませんわ」
窓の外では、紙より先に朝日が王都へ届いていた。
その朝、王都では初めて、見出しより先に明日が来た。
『悪役令嬢は、断罪記事を差し替える。 ――明日の見出しに、わたくしの破滅は載せさせません――』を最終回までお読みいただき、誠にありがとうございます!
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