第28話 悪役令嬢は最終版の欄外を奪う
〖最終統一版・早刷り〗
反逆者アリアドネ、王太子と聖女を扇動。
異版所持者は国家反逆の協力者とみなす――
一面を奪えない時、人は二つに分かれる。
諦める者と、欄外を探す者だ。
教会の鐘が三度鳴った時、旧組版室ではすでに机が足りなくなっていた。
整合表。配達路図。赤版名簿。母の病没記事。リーゼロッテが壇上から落とした赤字校正。王都の各区から持ち込まれた早刷り。
紙が床まで広がり、まるで部屋そのものが巨大な原稿になったようだった。
「中央印刷所の初便が出るまで、一刻もありません」
古参書記が言う。
「外郭の三印刷所も、教会兵が接収しました」
「全部止めるのは無理ですね」
クララが青い顔で呟く。
「ええ」
アリアドネは即答した。
「ですから、止めません」
「はい?」
「統一版は刷らせます」
ヨハンが版木を削る手を止めた。
「正気か、お嬢さん」
「いつも通りですわ」
「それを正気と呼ぶかは、あとで揉めよう」
アリアドネは整合表へ三本の線を引いた。
「向こうは一面を押さえています。紙も、インクも、配達兵も多い。いまから同じ数の反対記事を刷って競えば、負けます」
「じゃあ、どうするんです」
「同じ記事を、誰の記事なのか分かる状態で配ります」
机の中央に置かれているのは、母の版木をもとにヨハンが復元した細い欄外版だった。
原稿者。
校正者。
最終承認者。
根拠文書。
保存異稿番号。
訂正請求先。
一面見出しの何十分の一しかない。
だが、名前を隠してきた紙にとっては、どんな大見出しより邪魔な一列だ。
「すべての印刷所へ、この欄外だけを運びます」
「教会兵に見つかりますよ」
「一枚の大きな版木ならね」
ヨハンが口の端を上げた。
作業台には、細い木片が何十本も並んでいる。
責任表示欄を、一項目ずつ分けた版木だった。
原稿者だけ。
承認者だけ。
異稿番号だけ。
一本を奪われても、別の刷り場で組み直せる。
「中心を一つにしねえほうが、火には強い」
「お母さまの思想は、ずいぶん燃えにくかったようですわね」
役割は、すぐに決まった。
北区版には赤版名簿と拘束予定者。
南区版には王都大火の複数初稿と、恐怖を増幅する配布指示。
中央区版には母の病没記事、承認日、隔離命令書。
見出しは違う。
けれど、欄外は同じにする。
何を読むかは選べる。
誰が書いたかは、選んだ側も隠せない。
「クララ」
「はい」
「瓦版売りと市場の人たちへ。自分の紙だけを正しいと言わせないで」
「何て言えば?」
「隣の人の紙と見比べて、と」
クララは一瞬きょとんとして、それから強く頷いた。
「それなら、わたしにも言えます」
「あなたにしか言えないのよ」
貴族の演説では、人は構える。
毎朝紙を受け取り、値段を知り、配達の遅れに腹を立てる者の声だから届くこともある。
「殿下には?」
古参書記が問う。
アリアドネは王太子の印章付き指輪を外し、机へ置いた。
「ご自分の主語を使っていただきます」
間もなく、裏口からギルベルトが入ってきた。
儀礼服ではない。簡素な軍装。剣は帯びているが、手には紙がある。
「近衛の半数は父上の命令を待っている。残り半数は、どちらの命令が本物か分からず動けない」
「好都合ですわ」
「君は混乱を何でも好都合と言うな」
「使えるものを嫌うほど、裕福ではありませんの」
アリアドネは印章を返した。
「署名のない拘束命令へ従うな、と命じてください」
「異版所持者の拘束を止めるのか」
「いいえ。紙だけで人を捕らえることを止めるのです」
ギルベルトは用意された命令書を見た。
本文は短い。
拘束には、命令者の自筆署名、根拠、執行責任者を必要とする。
いずれかを欠く命令には従うな。
「王太子の権威を使って、王太子の権威だけでは捕らえられないようにする、か」
「ようやく扱い方がお分かりになりました?」
「君に褒められると腹が立つ」
「順調ですわね」
ギルベルトは自分で署名し、自分で印を押した。
代筆者はいない。
その紙を持って、近衛詰所へ向かった。
同じ頃、教会地下から一枚の祈祷文が届いた。
リーゼロッテが拘束前に、祈祷係の少女へ渡したものだった。
表向きは夜の祈り。
だが各節の最初の文字を拾うと、教会側の配布時刻と集積所が読める。
最後に、自筆の注記がある。
――わたしが知っている経路です。正しいとは書きません。
アリアドネはそれを整合表へ重ねた。
「十分ですわ」
王都じゅうで、細い版木が動き始めた。
パン籠の底。
洗濯物の間。
棺運びの荷車。
教会の施し袋にまで紛れ、欄外の主語が各地へ運ばれていく。
北区の小印刷所では、教会兵が踏み込む直前に《原稿者》の版木が窓から隣家へ投げ渡された。
東区では老印刷工が《最終承認者》を靴底へ隠した。
南区では、火が上がった。
閉鎖されたはずの染料庫から黒煙が噴き、紙の束が燃える。
「刷り場が!」
伝令の少年が旧組版室へ駆け込む。
クララの顔が青ざめた。
だがヨハンは、版木を削る手を止めなかった。
「燃えたのは機械一台と紙だ。欄外はもう六か所へ出した」
「でも、南区版は」
「隣の靴屋が刷る」
「靴屋!?」
「革へ刻印する圧し台がある。字が少し潰れるが、読めりゃいい」
完璧な紙でなくていい。
読める責任が、残ればいい。
クララは紙束を抱え、走り出した。
「一枚を全部信じなくていい! 隣の人の紙と見比べて!」
その声が市場へ広がる。
北区版と南区版が並ぶ。
母の病没記事と赤版名簿が、同じ屋台の上で比べられる。
人々は揉めた。
怒鳴った。
どちらが本物かと掴み合いになりかけた。
けれど、同じ欄外へ気づく。
原稿者。
承認者。
異稿あり。
反対証拠、未掲載。
読む速度が落ちる。
それだけで、拘束兵の足も少し遅くなった。
残るのは中央印刷所だった。
最終統一版の原版があり、王都全域へ最も多く配られる場所。
アリアドネとヨハンは、旧瓦版局の搬入路から地下へ入った。
十八年前、母も使った道だった。
壁には古いインクが染み、足元には使われなかった活字が落ちている。
「正面の版は差し替えられねえぞ」
ヨハンが低く言う。
「分かっています」
「なら何をする」
「一面を奪われても」
アリアドネは細い版木を握り直した。
「欄外まで明け渡す義理はありませんわ」
中央印刷所では、巨大な圧胴機が唸っていた。
何十人もの職工が、教会兵に見張られながら働いている。版面には《反逆者アリアドネ》《偽聖女リーゼロッテ》《王家秩序回復》の文字。
完成している。
いまさら一面を組み直す時間はない。
だが版面の最下段だけ、細い空きがあった。
かつて母の責任表示欄が入っていた場所。
アリアドネが近づくと、職工たちが息を呑んだ。
死者が、自分の最終版を校正しに来たのだ。
「待っていました」
圧胴機の向こうから、大司教が現れる。
白い祭服ではない。
袖をまくり、赤い校正筆を持っている。その姿は聖職者より、長く机へ向かってきた編集者に見えた。
「お母上も、そこから入りました」
「では、道案内には困りませんわね」
「彼女は一面を壊そうとした」
「違います。誰の一面かを書こうとしたのです」
大司教は小さく笑った。
「同じことです。権威の名を見せれば、人は内容ではなく名を争う。昔、穀物不足の記事が二つに割れた朝があった。東区では備蓄十分、西区では枯渇寸前。人々は倉庫へ殺到し、踏み合い、死者が出た」
「だから、一つの版へ?」
「一つの嘘でも、百の不安よりましだ」
圧胴機が回る。
床が震える。
「民は真実を欲しているのではない。安心して従える文章を欲しているのです。あなたも知っているでしょう」
「ええ」
アリアドネは否定しなかった。
「人は読みやすい嘘を欲しがります」
大司教の目が、勝利を確信したように細くなる。
「ならば」
「だから、書いた者が名を隠してよい理由にはなりませんわ」
ヨハンが職工の一人へ目配せする。
その職工は、母の時代から残る活字棚の鍵を開けた。
アリアドネは版面の最下段へ、細い欄外版を滑り込ませる。
原稿――教会情報局。
最終校閲・承認――大司教。
王権承認――国王。
保存異稿――有。
反対証拠――未掲載。
大司教は止めなかった。
一面の大見出しが、そんな小さな文字に負けるはずがないと思っている。
「刷りなさい」
彼が命じる。
圧胴機が、最後まで回った。
一枚目の最終統一版が吐き出される。
反逆者アリアドネ。
偽聖女リーゼロッテ。
王家秩序回復。
そして最下段に、いままで存在しなかった主語が並んでいる。
大司教の顔から、初めて余裕が消えた。
アリアドネは刷り上がった紙を持ち上げる。
「さあ」
まだ濡れたインクの向こうで、彼女は微笑んだ。
「ようやく、あなたの記事になりましたわね」




