第27話 聖女は「わたし」を書く
〖明日の王都瓦版〗
聖女リーゼロッテ、亡霊令嬢の陰謀を告発。
王都を惑わせた偽版事件、ついに全容判明へ――
自分を無罪にする文章ほど、読むのが苦しいものはない。
少なくとも、罪を知っている人間にとっては。
教会地下の祈祷準備室で、リーゼロッテは一枚の演説稿を見つめていた。
窓はない。
白い壁。白い机。白い衣。
余計な色を置かない部屋は、人の考えまで清潔に見せる。
紙面の最初には、こうある。
――わたし、リーゼロッテ・ミュルクは、亡きアリアドネ・エルディアンの脅迫を受け、やむなく複数の誤報へ加担いたしました。
わたし。
自分を指す言葉なのに、自分のものではない。
続く本文では、彼女は可憐な被害者だった。
王都を救おうとした。
悪役令嬢に利用された。
恐怖の中でも祈りを捨てなかった。
真実を告白し、再び人々の良心へ戻る。
どこにも、自分がアリアドネを悪役へ押し込んだことは書かれていない。
どこにも、彼女が死ぬ筋を選び、その後へ自分を聖女として置いたことは書かれていない。
あまりに優しい。
だから吐き気がした。
「覚えましたか」
扉の前で、大司教が問う。
「はい」
答えは、長い習慣で口から出た。
リーゼロッテは、正しい返事をするのが得意だった。
幼い頃、初めて教会の壇へ立たされた日もそうだった。泣く子へ何を言えばよいか、飢えた者へどんな顔を向ければよいか、祈りの前にどれだけ沈黙すれば人が安心するか。すべて教えられた。
教えられた通りにすれば、皆が笑った。
聖女様、と呼ばれた。
自分で考えた言葉を口にして人を困らせるより、必要な文言を正しく読むほうが、ずっと善いことだと思った。
「前半はアリアドネの脅迫。中盤で偽版への関与を認める。ただし、自発的な編集だったとは決して言わないこと」
大司教は赤い筆で、演説稿の一行へ印をつける。
「終盤で王宮と教会への忠誠を誓いなさい。民は、罪の所在より、秩序へ戻る姿を見たがっています」
「わたしが書いた記事は?」
リーゼロッテの問いに、赤い筆が止まった。
「何です」
「アリアドネ様が急死する記事。王太子殿下が父王を殺す記事。王都大火の記事。あれは、どうなりますか」
「あなたは指示に従っただけです」
「従ったのは、わたしです」
声が震えた。
大司教の目が細くなる。
「言葉遊びをしている場合ではありません」
「ずっと、言葉で人を動かしてきたではありませんか」
自分の口から出た反論に、リーゼロッテ自身がいちばん驚いた。
大司教は怒鳴らない。
怒鳴る必要のない人間の顔で、彼女を見下ろす。
「あなたは王都の不安を受け止める器です。器が中身を選び始めれば、人は何を信じればよいのです」
器。
それはたぶん、聖女より正確な呼び名だった。
注がれた祈りを、注がれた順に差し出すだけ。
空でいるほど褒められる。
「今夜の壇で、本文を外せば」
大司教は淡々と続けた。
「あなたもアリアドネと同じになります」
「悪役に?」
「存在してはならない誤植に」
扉が閉まる。
鍵の音がした。
リーゼロッテは一人になった。
机上には、自分を救うための台本。
その下に、昨夜、祈祷係の少女が置いていった白紙版の切れ端がある。
アリアドネが王都へ撒いた白紙と同じ手触りだった。
最初の一文は、もう書いた。
――わたしは、アリアドネ・エルディアンを殺す記事を書いた。
震えながら書き、少女へ託した。
あれだけで指が痛くなった。
誰かの命を紙で削る時は、あんなに簡単に赤字を入れられたのに、自分を主語にした途端、一本の線さえ重かった。
リーゼロッテは新しい紙を引き寄せる。
何度も、書き出そうとした。
王都のために。
皆さまのために。
混乱を防ぐために。
どれも消した。
それは理由であって、自分ではない。
最後に、もう一度書く。
わたしは、アリアドネ・エルディアンを殺す記事を書いた。
その下へ、一つずつ続けた。
王太子殿下の救出劇を成立させるため、事故の前振りを整えた。
王都大火の記事を流す順番を作った。
アリアドネの急死草稿を書いた。
彼女の死後、王太子殿下の隣へ自分が立つ記事を受け取った。
どれも指示された。
けれど、従ったのはわたしです。
操られていたから無罪だとは申しません。
最後の一文を書き終えた時、リーゼロッテは泣いていなかった。
泣けば少しは美しく見えると知っている。
だから泣きたくなかった。
今だけは、誰かが安心する顔を選びたくなかった。
夕刻、中央広場には人が集められていた。
教会は《聖女の真実の告白》と告知した。
王宮は、混乱を終わらせるための重要声明だと触れ回った。
群衆は疲れている。
疲れた人間ほど、終わりを約束する壇へ集まる。
リーゼロッテが白い衣で現れると、安堵の声が広がった。
まだ聖女がいる。
まだ正しい側がある。
まだ誰かが、自分たちの代わりに結論を読んでくれる。
壇の脇に大司教。
後方には教会兵。
群衆の端、黒い外套の影が見えた。
顔は見えない。
けれど、誰かは分かった。
死んだはずの悪役令嬢は、今日も自分の死後を読みに来ている。
「親愛なる王都の皆さま」
リーゼロッテは用意された演説稿を開いた。
「わたしは長く、皆さまの不安へ祈りを捧げてまいりました」
ここまでは台本通り。
「しかしこのたび、亡きアリアドネ・エルディアンの――」
大司教が見ている。
群衆が待っている。
紙面は、次の言葉まで知っている。
脅迫を受け。
利用され。
やむなく。
リーゼロッテは台本を裏返した。
「わたしは、アリアドネ・エルディアンを殺す記事を書きました」
広場から音が消えた。
大司教が一歩踏み出す。
「リーゼロッテ」
「王太子殿下を英雄へ置くための前振りを作りました。王都大火の記事を流す経路を整えました。アリアドネ様の急死草稿を書きました」
「やめなさい」
「彼女が死んだあと、自分が慰める側へ立つ記事も読みました」
声は震えている。
それでも止まらない。
震える声も、自分の声だった。
「わたしは指示を受けていました。けれど、指示されたから無罪だとは申しません。従ったのは、わたしです」
群衆の中から、罵声が飛ぶ。
「偽聖女!」
「人殺し!」
「全部お前が!」
リーゼロッテは目を閉じなかった。
石を投げる先が自分へ変わっただけなら、王都は何も変わらない。
だから次の紙を出す。
祈祷書の綴じ目に隠してきた、赤字校正の指示書。
アリアドネを悪役へ寄せる形容。
王太子を英雄に見せる配布順。
火災の恐怖を増幅させる時刻。
聖女の涙を入れる位置。
すべてに、同じ最終校閲印がある。
「これは、わたしを無罪にする証拠ではありません」
リーゼロッテは一枚ずつ掲げた。
「わたし一人を新しい悪役にして、皆さまが安心するための証拠でもありません」
大司教の顔から、初めて静けさが剥がれた。
「わたしが書きました」
一枚目へ、自分の名を書く。
「大司教が直しました」
二枚目の校閲印を見せる。
「王宮と教会が採用しました」
三枚目を、壇から群衆へ落とす。
紙は一人の手へ渡り、隣へ渡り、また別の手へ渡った。
人々の視線が、リーゼロッテの顔だけでなく、紙面の下へ落ち始める。
誰が書いた。
誰が直した。
誰が選んだ。
「錯乱しています」
大司教が告げた。
「聖女リーゼロッテは反逆者の偽版に惑わされ、正常な判断を失った。拘束しなさい」
教会兵が壇へ上がる。
リーゼロッテは逃げなかった。
代わりに、頭を覆っていた白布を自分で外した。
群衆が息を呑む。
聖女の印を外した下には、ただの若い女の顔があった。
「わたしを聖女に戻す記事も、もう要りません」
兵に腕を取られ、壇を下ろされる。
教会脇の通路へ入ったところで、黒い外套の女が立っていた。
兵たちは先の混乱へ気を取られ、一瞬だけ足を止める。
リーゼロッテはアリアドネを見た。
「許していただこうとは思いません」
「結構」
アリアドネは冷たく答える。
「許しまで他人に書かせないことね」
胸の奥が痛んだ。
けれど、その痛みは台本にない。
だからリーゼロッテは、ほんの少しだけ頷いた。
その時だった。
教会の鐘が鳴る。
一度。
二度。
三度。
予定より早い。
大司教が広場の向こうで、印刷局の伝令へ手を上げている。
リーゼロッテの顔から血の気が引いた。
「違う……」
「何が?」
アリアドネが問う。
「最終統一版は、明朝ではありません」
兵に引かれながら、リーゼロッテは叫んだ。
「今夜の鐘です! もう中央印刷所が動きます!」
遠くから、地鳴りのような音が届く。
一台ではない。
王都のあちこちで、同じ版を刷る圧胴機が一斉に回り始めた音だった。




