第26話 母の死は先に刷られた
〖十八年前の王都瓦版〗
王立瓦版局校正官セラフィナ・エルディアン、病没。
長い療養の末、家族に見守られ静かに息を引き取る――
死者についての記事は、たいてい綺麗だ。
本人がもう、校正できないからである。
「見守ってなど、いない」
父は、古い病没記事を前にそう言った。
夜のエルディアン邸は、王宮兵に囲まれていた。
家宅改めののち、父は書斎から出ることを禁じられている。表門も裏門も見張られ、使用人の出入りまで記録されていたが、離れの温室の床下だけは調べられていなかった。
母がものを隠した場所を、王宮は知らない。
娘がそこから戻ってくることも。
アリアドネは黒い外套を脱がず、父の机の前に立っていた。クララは扉のそばで見張り、古参書記は廊下へ人が来ないか耳を澄ませている。
机上には二枚の紙。
母の病没記事。
教会西棟の死亡台帳。
二十八日のずれ。
「お母さまが病に伏せた時、父上はどこに?」
「王都にいた」
「では、なぜ会わなかったのです」
父の顔が歪む。
責められることを待っていた人間の顔だった。
「教会から通達が来た。感染性の熱病だと。家族の面会は禁ずる。王都へ広がれば公爵家の責任になる、と」
「信じたのですね」
「ああ」
言い訳をしなかったことだけは、少し意外だった。
「毎日、短い病状報告が届いた。高熱。咳。衰弱。面会は危険。手紙も感染を媒介する恐れがあるから渡せないと」
「お母さまからの手紙は?」
「一通も」
「本当に?」
父は目を閉じた。
「一度だけ、隔離棟の下働きだという女が来た。妻がわたしに会いたがっている、と。だがその翌朝、その女は窃盗の嫌疑で捕らえられたという記事が出た」
アリアドネの指先が、机の縁へ食い込む。
「それで、父上は」
「会わなかった」
乾いた声だった。
「記事を疑えば、わたしも家も王への忠誠を疑われると思った。妻は校正官だった。わたしより紙の危うさを知っていた。それなのに、わたしは妻より先に瓦版を信じた」
窓の外で兵の靴音がする。
近づき、遠ざかる。
「二十八日後、遺体だけが戻った。顔を見るなと言われた。感染の恐れがあるから、すぐ棺を閉じろと」
「それにも従った」
「ああ」
父の答えは小さい。
小さいが、消えない。
アリアドネはしばらく彼を見た。
父が母を殺したわけではない。
けれど、殺すために用意された静けさへ従った。
自分の判断を王と教会へ預け、返されなかった。
「あなたは、お母さまを殺してはいない」
父が顔を上げる。
「でも、殺す記事に従ったのですね」
「……そうだ」
許しを乞う声ではなかった。
許される資格がないと、ようやく自分で書いた声だった。
アリアドネは病没記事を折り畳んだ。
「では、その証言を紙にしてください」
「わたしの罪をか」
「あなたの行為を。罪名は、読む者が決めます」
父は震える手でペンを取った。
娘はそれを見届けず、書斎を出た。
許すかどうかは、まだ決めない。
だが少なくとも、父の沈黙を父の文章へ戻す必要はあった。
旧組版室へ戻ると、ヨハンが母の版木の欠片を机上で睨んでいた。
「こいつぁ、一面の版木じゃねえ」
「分かるの?」
クララが身を乗り出す。
「幅が細すぎる。見出しならもっと太い。活字の向きも違う。こいつは紙面の下、ぎりぎり端へ差す欄外だ」
ヨハンは煤けた布で版木を拭った。
乾いた黒の下から、細い罫線と欠けた文字が現れる。
原。
校。
承。
異。
「これだけじゃ読めませんね」
「だから、足す」
彼は同じ時代の活字見本を並べ、欠けた文字幅を測り始めた。
アリアドネは母の二冊目の手帳を開く。
終盤には、やはり切り取られた頁がある。だが昨夜、諮問会から運び出された古文書の中に、切断面の似た細長い紙片が混じっていた。
古参書記がそれを持ってくる。
「王立瓦版局の旧規則案に、栞のように挟まっていました」
アリアドネは紙片を手帳へ当てた。
繊維が合う。
裂け目が重なる。
母から奪われた結論が、十八年ぶりに頁へ戻った。
ヨハンが復元した欄外版を、横へ置く。
四つの項目が読めた。
原稿者。
校正者。
最終承認者。
保存異稿番号。
クララが、ゆっくり息を吐く。
「名前を載せるだけ……?」
「“だけ”ではありませんわ」
アリアドネは母の最終提言を読み進めた。
異稿を焼却せず、公的に保存すること。
一面記事へ原稿者と承認者を記すこと。
記事により処分を受ける者へ、同じ紙面上の反論を保障すること。
誤報の訂正は、元記事と同等の大きさで掲載すること。
王宮と教会、いずれか一方の承認だけで発行してはならないこと。
「お母さまは、瓦版を壊そうとしたのではありません」
アリアドネは呟いた。
「無記名の命令を、責任のある記録へ戻そうとした」
だから消された。
未来を複数にしたからではない。
誰が一つを選んだのか、隠させなかったから。
古参書記が、さらに一枚の内部命令書を差し出した。
教会西棟隔離室、セラフィナ・エルディアンに関する措置。
面会停止。
往復書簡の破棄。
病状の好転を示す記録は、最終校閲まで保留。
治療方針は、承認済み病没記事との整合を損なわぬこと。
最下段に、大司教の古い校閲印がある。
命令書には、もう一枚、小さな経過票が留められていた。
《熱、下がる。自力歩行可能。本人、家族との面会を希望》。
その三行には赤い線が引かれ、横へ別の文が書き足されている。
《一時的な興奮。衰弱は進行。面会不可》。
経過票の端には、細い筆跡が残っていた。
――わたしは歩けます。この記事の病人は、わたしではありません。
署名はない。だがアリアドネには分かった。必要な言葉だけを、必要な位置へ置く母の字だった。
幼い頃、アリアドネが日記へ《今日は一日じゅう晴れていた》と書いたことがある。楽しい一日だったから、雨の記憶など入れたくなかったのだ。母は窓辺の濡れた傘を指し、穏やかに言った。
「綺麗な一日だったと書くのは自由よ。でも、降った雨まで消してはいけないわ」
あの時は、ずいぶん細かい人だと思った。
いま、その母自身が、病没という綺麗な一日の中へ閉じ込められている。歩いたことも、会いたいと願ったことも、降った雨のように消されて。
生きている本人が校正を求めたのに、その訴えまで病状の一部へ直された。
アリアドネは紙を握り潰しかけ、指を止めた。
証拠は怒りのために破るものではない。怒りを、逃げられない記録へ変えるために残すものだ。
紙面の配布日は、母の実際の死亡日に直されていた。
だが承認日は二十八日前のまま残っている。
記事は公に配られる前から、隔離棟の中で命令として働いていたのだ。
母は死ぬと予言されたのではない。
死んだことにして差し支えない人間へ、先に校正された。
「お嬢さま」
クララの声が震える。
「これを一面にしましょう。大司教が奥様を殺したって、王都じゅうに――」
「いいえ」
アリアドネは即座に言った。
「でも!」
「報じますわ。命令書も、日付も、承認印も。父上の証言も」
彼女は内部命令書をまっすぐ机へ戻す。
「けれど《母を殺した悪人》の一行だけにはしません」
「どうしてです」
「その見出しなら、皆さまは大司教一人へ石を投げて、安心して帰れるでしょう」
クララは言葉を失う。
「お母さまの死を見出しにして、本文を奪う気はありません」
復讐は、分かりやすい。
だから危険だ。
相手がしてきたことと同じ形で勝てば、次の悪役を必要とする朝が残る。
その時、旧組版室の入口が三度叩かれた。
短く、長く、短く。
味方の合図だ。
瓦版売りの少年が、早刷りを抱えて転がり込む。
「教会が、今夜の鐘で出すって!」
「何を?」
「最終統一版。明日の朝じゃない。今夜から全区へ配るって」
紙面には、配布予定の見出しが並んでいた。
アリアドネは死亡前から王太子を扇動していた。
複数版は反逆組織による偽版。
異版所持者は反逆協力者として拘束。
そして最後に。
――リーゼロッテ・ミュルクが、すべての不正編集を単独で行った。
「切り捨てる気ですわね」
アリアドネは目を細めた。
聖女が役に立たなくなれば、今度は罪人に差し替える。
あまりに慣れた手つきだった。
「リーゼロッテ様は?」
「祈祷会のあと、教会の奥へ連れていかれたそうです」
少年が答えた、その時。
早刷りの間から、折り畳まれた小さな紙が落ちた。
白紙版の切れ端。
そこに、震える文字が一行だけある。
――わたしは、アリアドネ・エルディアンを殺す記事を書いた。
リーゼロッテの筆跡だった。
何度も書いては消した跡がある。
その下に、さらに細い文字が続いていた。
――けれど、次の一文だけは、わたし自身に書かせてください。




